▲弥陀ヶ原の秋の花・ウメバチソウ
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今日は5年目。
新潟県中越地震からの年月だ。
多分、メディアの取り上げ方はだいぶ少なくなってきていくと思うが、関係者にとっては何の変化もない。
十二平の元住人が自費出版(新潟日報)→http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/5517.html(自費出版といいながら、アマゾンでも扱っているらしい)
十二平は「じょんでえら」と読む、小千谷の一集落だった。過去形になってしまったのは、あの地震を機に集団移転をしてしまったため。地震の被害がそれだけ凄かったということである。今、あそこには集落があったという石碑だけが残っている。
地震直後、十二平は周辺の道路が寸断され、孤立してしまった。電気も水もガスも途絶え(小千谷全域がそうだった)、でも何も物資がやってこない…。そこで空を飛ぶヘリ(おそらく下からでは報道なのか救助隊なのかは分からなかっただろうが)にむかって、石灰で「SOS 十二平」と描いた。この文字が何度もテレビに映されたから、覚えている人もいるだろう。
当時は、似たようなことが複数個所で見られた。川口町の和南津(わなづ)では「SOS オムツ くすり」、私の母校である東小千谷中学校では「SOS 水 たべもの」。多分、ほかにも同じ事が行なわれていた所はあったのだと思う。
とにかく、被災地に通ずる道がすべて寸断され、救援の物資どころか人すら入れなかったから。地震が起きたのは6時近く。もう既に真っ暗な時間帯である。そのまま夜通し余震が続く星空の下で過ごした人々は、明るくなっても何も救いの手が来ないことに絶望を覚えただろう。
私は小千谷に戻ることも叶わず、ただ、テレビでそれを見つめることしかできなかった。
それにしても、どこもかしこも自分にゆかりのあるところばかりだ。
川口は亡父の出身地である。しかも、父は震央であった木沢の出身だった。父は3男坊だったので、ウチに婿養子に来たわけだが、長兄は無理やり木沢を出てしまった。これに関して父の母(すなわち私の祖母)が非常に嫌がったらしく(無理やり今の家に連れてこられた)、母の立場に立っていた父と長兄との間には軋轢があったらしい。
その祖母も亡くなって久しいが、結果としてあのときに木沢を捨てたからこそ、川口の家が地震に遭っても残ったとも言える。
父が亡くなって(ちなみにこの地震の前日が命日)17年になる。
何かの拍子に不意に母が父のことを話す。それによると、どうも父は木沢が大好きだったようだ。そりゃ、自分が子供のころに飛び回った土地だから、好きなのは当たり前だよな。春秋は山菜やキノコを取りに、そして冬は鉄砲打ちに出かけていた。あ、鉄砲の免許は義弟のそれを使っていたから、立派に手が後ろに回る違法行為である(まぁ、もう亡くなっているから勘弁しておくれ)。
私の記憶に父があまりいないのは、どうも入院(胃潰瘍→胃全摘→輸血でウイルス感染→肝炎発症)していたからというだけではないらしい(笑)。病気だというのに、アチコチ遊び歩いていたというのが真相だ。
まったくあのオヤジは…。
なんとなく、私の出歩き癖は遺伝であるような気がしてきた。
そんな私はまだ木沢をゆっくり訪れたことがない。車で何度か通りがかったことがあるくらい。
今は震央を巡るハイキングコースが整備されているから、来年、山の花が咲くころに歩きに行きたいと思っている。
震央に立ったとき、私は何を思うのだろうか…。
和南津もまったく無関係な土地ではないんだよね…。