▲冬の小千谷は雪雲どんよりがデフォルトなので、少しでも青空があると何もかも放り出してお散歩に出かけたくなる。青空があるだけでウチの前の国道もほらなんだか素敵に見えるでしょ(笑)
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正月はいつものように小千谷に帰ってゴロゴロしていた。まぁ、駅伝好きなので1~3日はテレビの前を離れないんだよね。
そして3連覇を逃した母校が残念!
世間で早稲田出身者を称する方、または早稲田ファンを宣言される方はあまたいらっしゃるが、なかなか東洋大出身者を宣言する人っていない。一応100年を超す歴史はあるし、いわゆるマンモス校なんだけれど、なんつーか校風が地味なのかなぁ。まぁ、いわゆる六大学から見れば偏差値的に格落ちするから言い出しにくいのかもしれないが…。
だけど、箱根駅伝の話をするのに洋大(東洋大は東大と略すると誤解されるので洋大と略する。もしくは単に東洋とも)出であることを隠しておく必要はない。面倒くさい(こっちが本音か・笑)
そもそも、私の出身地と洋大は意外なつながりがある。
洋大の前身「哲学館」の創設者は井上円了と言い、長岡市(旧小国町・小千谷の隣町)の出身である(これだけ)。
もっとも、私が進学した際はそんなこと知らなかったが…。
私がこの学校を選んだのは東京の私学の中では比較的授業料が安かったから、という点である。何しろ国立狙いだった私(そして落ちた)。田舎で浪人なんて考えられず、とりあえず進学した。幸い、旧日本育英会の奨学金は高3の夏の段階で予約できていたので、月4万円の奨学金は無利子で入る。あとはバイトをして2万円の風呂なしトイレ共同の埼玉のアパートで、それでも毎月2万円の仕送りをもらって生活ができるギリギリのラインだった。
まぁ、その後風呂付の東京のアパートに移って、仕送りのアップもお願いしてしまったが…。
ひょっとしたら苦学生に分類されるのだろうか…。当人はとっても楽しい大学生活だったのだが(バブリーな時代だったし)…。
脱線した。
ということで、うちの田舎では東京の大学に行くのなら、地元高校を出て早稲田に行くのが最上、次いで東洋が押さえということだったらしい(隣の学区では)。
なので、あの有名な元村長さんとか、老舗旅館の若旦那とか、あの頭取とかビミョーに中越出身者の洋大出が結構いたりする。新潟県中越大震災の後、洋大出身者の新潟総会が急きょ開かれることになり、その案内状が届いたときにその錚々たる面々(あくまで地元レベルで)を知った。
そういった縁で、旧山古志村へは洋大生がたくさん震災復興ボランティアに入り、さらにそこから洋大の陸上部の夏合宿はアップダウンの大きな旧山古志村で今も行われている。
そんなゆるい、でも確実に濃いつながりがあるとなれば、腹をくくって応援するしかあるまい(笑)。
だから、来年こそ21秒を取り戻して復活してほしいのだよ。まだ柏原君もいることだし(結局それが無ければだめだと思う)。
▲小千谷駅は今年から除雪方針が変わったようで、階段が雪に覆われていた。雪国度5割増しってところ?(笑)