針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

西郷四郎

2008-01-09 18:23:06 | 武道・拳法の話

西郷四郎 講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス      大正十二年一月十四日          講道館師範   嘉納治五郎 

この西郷四郎氏こそ、小説、姿 三四郎のモデルとなった人です。柔道は明治の時代に天神真楊流柔術の福田八之助から学び、起倒流の飯久保恒年に弟子入りした嘉納治五郎師範によって、「柔道」と言う名の下、理論化、合理化統合されたものであります。

全く関係ありませんが、針外しの住む港区の「愛宕山、愛宕神社の中に「起倒流」の石碑が立っています。田崎さんのレストランの脇にポツンと立っています・

              
                嘉納治五郎師範 

       
                 西郷頼母 右
                     

                   
                姿三四郎のモデルとなった、西郷四郎

西郷四郎氏は講道館の四天王の一人で、最も、技にたけた人物でありました。講道館四天王は姿三四郎の著者、富田常雄氏の父、富田常冶郎、鬼横山と言われた横山作次郎、釣り込み腰(ちょっと記憶が定かでない)の山下義韶氏そして、必殺技「山嵐」の西郷四郎氏だ。

 会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれた。16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となる。西郷頼母は、武田惣角に大東流合気柔術と呼ばれる武術(合気道の元となった武術)を教えたとされている。天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に同流出身の嘉納治五郎に見いだされ講道館に入る。

 西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた
関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かった。なお、その技は嘉納治五郎に
「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。

            
            この写真は孫文と一緒に撮ったものである。

             
            晩年の西郷四郎氏

 晩年は合気道柔術も継続せず。神経痛を患い、大正11年(1922)妻の郷里の尾道(広島県)で亡くなりました。57歳でした。広島に行ったら、彼の墓にお参りしたいものである。

たなごっち先生(因島)も、尾道が西郷氏の終焉の地という事をしらないだろう。

            

コメント
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