針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

孔明亡き後

2020-09-02 20:11:17 | 漢詩・古典・エトセトラ

孔明亡き後、残った者には目ぼしい物はおらず、姜維が孔明から後を託されていました。軍部では、魏延が特出していましたが楊儀との確執があり、「自分が蜀を治めている」等の不遜な発言が目立ち参謀達のいう事を聞かなくなってしまっています。

        
            姜   維

 ただ、 魏延は北伐では蜀軍の主力として活躍し、街亭の戦いでは敗走する馬謖を助け、蜀軍の被害拡大を食い止めるために奮戦する。また魏の王双を討ち取るなど、勇猛な将軍であることは間違いありません。その一方で、諸葛亮の生前、用兵を慎重すぎると批判したり、陳式と共に諸葛亮の命令を無視して危機に陥り、諸葛亮に詰問されると陳式と互いに讒言し合うなど、性格に問題のある人物としても描かれている。

 諸葛亮も魏延に反骨の相があり、(劉備の元に入ってきた時に孔明から、反骨の相があると、処刑されそうになった時に劉備に止められた経緯があります)いずれ禍の種になることを知りながら、魏との戦いでは彼の武勇が必要と見なして、やむなく用いているということにされている。

 葫蘆谷の戦いでは司馬懿を誘き寄せる任務を負う。しかし、これは魏延に危険性を感じた諸葛亮が、司馬懿もろとも魏延を焼き殺そうとする計略であったため、雨のおかげで生還した魏延は諸葛亮を詰問している。しかし、諸葛亮は計略の責任者だった馬岱の手違いであったとして、魏延配下の一兵卒に落とすことで反感を逸らしている。

 五丈原では、病に倒れた諸葛亮が自分の寿命はあと少しで尽きると知ったため、延命の祈祷を始める。それを察した司馬懿は、祈祷を止めさせるために戦いを仕掛ける。魏延は祈祷のことを全く知らなかったため、魏軍が攻め込んできたことを諸葛亮に伝えようとして祈祷の場に踏み込み、うっかり祭壇を荒らしてしまう。このため祈祷は失敗することになる。祈祷に参加していた姜維は魏延を斬ろうとするが、諸葛亮は「これは天命なのだ」と言って彼を許し、魏延に魏軍の撃退を命じている。

          
                 
魏  延

 史書に書かれている魏延の死を予言する夢の話は、『演義』では諸葛亮が死去した日に見た夢とし、さらに趙直が真意を打ち明けた相手を費禕に設定している。諸葛亮の死を聞くと、楊儀の指揮下に入ることを拒否する。そして楊儀や諸将が自分を無視して撤退を開始したことを知ると、怒った魏延は手勢を率いて楊儀の後を追い南下する。

 魏延は楊儀の先回りをして桟道を焼き払い、退路を遮断してしまう。しかし楊儀は、姜維の進言に従って裏道から漢中に向かっている。一方の魏延は、背後に回りこんだ何平(王平)に攻め立てられて、配下の将兵が馬岱の300人を除き離散してしまう。馬岱が魏延に南鄭を攻めることを進言すると、魏延もその策を採用している。

魏延が攻め込んでくると、楊儀は諸葛亮から死の直前に託された錦の嚢を開き、そこに書かれた指示に従い、魏延に向かって「『誰かわしを殺す勇気のある者がおるか』と三度叫ぶことが出来たら漢中を譲ってやる」と告げる。魏延が「誰かわしを殺す勇気のある者がおるか」と一声叫ぶと、その言葉が終わらないうちに、諸葛亮の密命を受けていた馬岱が「私はお前を殺す勇気があるぞ」と叫んで、魏延は彼によって背後から斬殺されてしまう。

            
               司 馬 懿

 その後の蜀は、いい人材に恵まれず、姜維一人の手に委ねられ、武将もいないので結局は司馬懿に平定され劉禅はあっけなく降伏してしまう。諸葛亮がさんざんに頑張って蜀を持ち堪えさせてきたが、結局は全て無に帰してしまった訳ですね。三国志を始めて読んだ人は蜀の存続発展を期待するのだが、読み終わるとその無常を感じる訳であります。その後、司馬昭、司馬懿の孫の司馬炎が西晋を建国する訳ですが、その西晋も隋に平定されてしまいます。文字通り「天に昇らんと欲すれどもその時を得ず」の言葉通りになってしまった訳です。

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