小説『三国志演義』においては、龐統の兄弟が諸葛亮の妹を娶り、義兄弟となっている。赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操を破るための献策を行なう。周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないということが問題となる。そこで龐統は連環の計と呼ばれる策を周瑜に勧める。つまり、船という船を鎖で留めてしまい、これによって曹操の軍船は「大地を進むが如し」。揺れがぴたりと止まり、船酔い等心配が無くなったので曹操、大いに喜んだとあります。
龐統自身が周瑜の陣営に偵察にやって来た蒋幹をうまく欺き、曹操の軍営に潜り込み曹操と面会しこのことにより、火がついても曹操軍の軍船が逃げられないようになり、劉備・孫権の連合軍による火攻めで曹操軍は大敗したということになっている。また、曹操の臣下となっていた親友の徐庶が火計に巻き込まれないように、別方面へ派遣されるようにし向ける策を授けている。
その後、周瑜の葬儀に参列した諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われる。彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と、孫権の問いかけにきちんと答えなかったことから疎まれてしまう。
次に龐統は劉備に面会するが、劉備がその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、閑職の地方県令を宛がってしまう。すると龐統は1か月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられることになる。しかし、劉備が派遣した張飛に詰問されたところ、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。これによって、龐統がその才能を劉備に認められることになり、さらに劉備は自身の行為を戒めることになっている。諸葛亮が正で龐統が副。絶えず孔明が目立っていたのか龐統は日陰の身っぽくなって、いつも『自分の死に場所』を探していたとされています。
また、その死については、劉備の白馬を貸して欲しいとねだり、しぶしぶ劉備が貸し与えた白馬に乗って、劉備の代わりに危険な間道を進んだため、「落鳳坡」という場所で劉備と間違えられて、張任配下の伏兵に射殺されたという描写になっている。
なお落鳳坡という地名は実在し(現在の四川省徳陽市です。)、落鳳坡の石碑付近には龐統墓がある。
龐統が劉備の愛馬の白馬に乗って落鳳派に向かったであろう道と落鳳坡。
周瑜に命によって「矢」を集めた孔明と船を鎖でつないだ龐統は常人では考えられない英知の持ち主ですが、その二人を得た劉備でさえ漢の天下を取り戻す事は出来なかった。司馬徽(水鏡先生)曰く、「伏龍、天に昇らんと欲すると雖もその時を得ず」ですね。
いくら大天才でも、「天の時」「地の利」「人の和」が揃わないと目的を掴み取る事が出来ないんですね。
因みに落鳳坡をグーグルアースで見ると左下の黄色印の処となっていますが、前述した徳陽県は右上の処。成都の西と見るより徳陽県の方が地理的にみても適していますね。