針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

周瑜と魯粛

2020-12-02 07:26:30 | 漢詩・古典・エトセトラ

 赤壁の戦い後、孫権は江陵に目をつけます。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。

江陵県(こうりょう-けん)は荊州に位置する県。県人民政府のある郝穴鎮は長江に面した港であり、荊州市の中心部からは東南(下流)にあたる。
             

そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて傷を負った周瑜は重傷のまま戦に臨み、将兵が周瑜に激励されるのでした。曹仁側には大量の犠牲者が続出し、曹仁を敗退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。その功により、孫権は周瑜を都亭侯に任じた。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。

この時、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を制約させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。また魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言した。

周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の途上に巴丘にて急逝した。36歳であった。

 「姿質風流,儀容秀麗」に美男子として描かれている。孫策の挙兵にかけつけ、江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え、張昭と並ぶ重臣となった。赤壁の戦いでは史実と同様、主戦派の重鎮として登場するが、劉備と孫夫人(呉妹君)の結婚を提案する。劉備の使者として呉に滞在していた孔明にその出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。

孔明にうらをかかれて臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、天を仰いで「既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期となっている。

 曹操だか、曹植だか忘れてしまったが、銅雀台で詠んだ大喬・小喬は正史では「大橋」とされ、橋公の娘で孫策の妻としか記述されていない。三国志周瑜伝によれば、199年12月、大喬は妹の小喬と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた。裴注の『江表伝』には、孫策が小橋を娶った周瑜に「橋公のふたりの娘は故郷を失うことになったわけだが、われわれを婿どのにすることができたのだから満足だろうよ」と言ったという。しかしその後、四カ月足らずで孫策が死亡、所生の子供の記録もない。孫策の妾にされた直後、袁術・劉勲の妻子らと共に呉へ送致された後の消息は一切不明である。ましてや、レッドクリフで曹操の元に行くなんて話は全く以てインチキですね。

野史『庸庵筆記』では、複数の魅力を併せ持つ女性の一人として名が挙がる。なお、夫の死後の数カ月後に殉死したと伝承される。

生まれてすぐ父が死去し、祖母と生活した。裕福な豪族の家に産まれたが、施しを盛んにし、やがて家業を放り出し、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。

 片や魯粛はというと魯粛の体躯は雄々しく立派で、若いころから壮士の節義を持ち、奇計を考えることを好んだ。天下が乱れんとしていたので、乱世が深まると撃剣・騎射などを習った。また私兵を集め狩猟を行ない、兵法の習得や軍事の訓練に力をいれていた。このようなことから、郷里の人々には理解されず、村の長老には「魯家に、気違いの子が生まれた」とまで言われていたそうです。
            

            
 魯粛は名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県長に任命された。しかし魯粛は、袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、一族や若い 遊侠達を多く含んだ郎党を引き連れて、居巣の周瑜を頼った。やがて、周瑜とともに長江を渡り、曲阿に家族を住まわせた。このとき、魯粛は私兵を引き連れて、渡河を阻止しようとする役人達を弁舌と武力で説得し、長江を強引に渡った。孫策に目通りし、孫策からもまた非凡さを認められ尊重されたという
後に「外においては周瑜、うちに向かっては魯粛に問え」と言わしめる程になりました。

周瑜に付いては此処で述べるには書く事が山のようにありますので、色々調べるといいですね。

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