「甲府を日帰りで楽しむ ミレーとバルビゾン、そしてワイナリー」 前編:武田神社・山梨県立美術館

1978年に開館した山梨県立美術館は「ミレーの美術館」として親しまれ、ミレーとバルビゾン派や山梨県に縁のある作品を中心として、約1万点もの絵画と彫刻を所蔵しています。



今秋、ちょうど山梨県立美術館ではフランスの画家、クールベの展覧会が開催されていました。(「クールベと海」展。11月3日に終了。)私自身、クールベは好きな画家であり、山梨県立美術館へも一度も行ったことがなかったため、この機会に甲府へ出かけることにしました。



新宿を8時半に出発する「かいじ7号」に乗車し、いくつもの山を超えて甲府に着くと10時をまわっていました。



甲府駅の北口から一直線に北へと伸びる道を進んだ場所に位置するのが、古くは武田氏が本拠を構え、現在は武田信玄を祭神として祀っている武田神社でした。



武田神社のバス停を降りると、土産物店とともに甲府市武田氏館跡歴史館「信玄ミュージアム」が建っていて、堀の向こうに武田神社の鳥居が見えました。ちょうど七五三の時期と重なったため、着飾った親子連れで賑わっていました。



同神社のある武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)は、周囲の堀や土塁が当時のまま残されていて、1938年には国の史跡として指定されました。戦国時代の躑躅ヶ崎館には武田信虎、信玄、勝頼の3代が60年あまり居住し、その後、大きく時を経て大正時代になると神社が創建されました。やはり信玄の武功にあやかってか、「勝運」のご利益で信仰を集めているそうです。



社殿の周囲は樹木が鬱蒼と生茂っていて、すぐ横には武田氏の遺宝を公開する宝物殿が建っていました。こじんまりとした館内には武田氏の扇や太刀の他、風林火山の旗、それに江戸時代に描かれた武田二十四将の図などが展示されていて、戦国も名を轟かせた武田の歴史の一端を知ることができました。



再び甲府駅へ戻るとお昼前になっていたため、駅北口の老舗「小作」にてほうとうをいただきました。大きなかぼちゃを中心に、里芋、じゃがいも、人参、しいたけとボリュームも満点で、特に野菜と味噌の甘味がとても美味しく感じられました。



ちょうど私はタイミング良く入店できましたが、お昼を回ると満席となり、順番待ちの行列も伸びていました。ほうとうの他にも馬刺しなどの一品料理も名物のようで、夜はお酒を飲みつつ楽しめる店なのかもしれません。



ほうとうでお腹いっぱいになった後は、山梨県立美術館へと向かうべく、駅の反対側の南口ロータリーへと歩きました。



甲府駅南口の駅ビル前のロータリーには武田信玄の像も建っていて、山梨県の玄関口としての風格も感じられました。



山梨県立美術館は甲府市西部にある芸術の森公園内に建っていて、起点である甲府駅から路線バスに揺られること約15分ほどでした。



約6ヘクタールにも及ぶ芸術の森公園には、美術館とともに山梨県立文学館があり、バラ園やボタン園などの四季の草花が楽しめる庭園が整備されていました。



またロダンやブルーデル、ムーアや岡本太郎らの野外彫刻も点在していて、想像以上に広々としていました。あいにくこの日は僅かに雲が出ていたからか、はっきりと見えませんでしたが、晴天時は富士山も美しく眺められるそうです。



前川國男が設計した本館は煉瓦色の外観が特徴的で、重厚な佇まいを含めて、同じく前川の手による東京都美術館を連想させるものがありました。



1階の正面入口を進むとインフォメーションとチケット売り場があり、正面にコレクション展へと至る階段、左手にミュージアムショップとレストラン、そして2階の特別展示室に繋がる階段がありました。



「クールベと海 フランス近代 自然へのまなざし」は、代表的な「波」などの海をモチーフとした絵画を中心に、同時代の画家を含めて70点の作品を紹介するもので、海の風景のみならず、山や狩猟画なども合わせて公開されていました。



ターナーなどピクチャレスクにはじまり、クールベの画業を作品で辿りつつも、レジャーとしての海辺の役割など、当時の人々と海との関わりまでを視野に入れていて、質量ともに充実していました。またクールベの無骨ともいえる自然の風景画に、「地方の独立の意思」(解説より)が見られるとの指摘も興味深く感じられました。



一通りクールベ展を見終えた後は、同じく2階の常設展示室へ行きました。同館のコレクション展はAのミレー館、Bのテーマ展示、Cの萩原英雄記念室に分かれていて、中でもミレーの「種をまく人」や「落ち穂拾い、夏」など名作から、ライスダール、デュプレ、ドービニー、ルソーの絵画が展示されたミレー館が特に見応えがありました。



ミレーの「落ち穂拾い、夏」は同館の代表するコレクションとして知られていて、最近ではアメリカのセントルイス美術館で開催されていた「ミレーとモダンアート:ファン・ゴッホからダリまで」に貸し出しされていました。


そして同作は新型コロナウイルス感染拡大に伴って貸し出し期間が延長され、約8ヶ月ぶりにミレー館に帰還を果たし、9月29日より再び公開されました。



水をテーマとした作品が中心のコレクション展を見終えると14時を過ぎていたので、レストラン「Art Archives(アート・アーカイブス)」にて休むことにしました。



座席数70席ほどの店内はスペースに余裕があり、「アーカイブ」の由来なのか、カタログなどを並べた書棚がディスプレイされていました。既に昼食はほうとうで済ませていたので、カフェメニューを注文しましたが、オムライスなどのランチセットを頼んでいる方も見受けられました。かなり落ち着いた雰囲気ゆえに、レストランだけを利用される方も少なくないかもしれません。



そしてレストランを出て、心地良い風に吹かれながら芸術の森公園を散策した後は、バスにて再び甲府駅と戻りました。



後編:甲府市街・サドヤワイナリーへと続きます。

「クールベと海 フランス近代 自然へのまなざし」 山梨県立美術館@yamanashi_kenbi
会期:2020年9月11日(金)~11月3日(火・祝) *会期終了
休館:9月14日(月)、23日(水)、28日(月)、10月5日(月)、12日(月)、19日(月)、26日(月)
時間:9:00~17:00 *入館は閉館の30分前まで
料金:大人1000(840)円、学生500(420)円。高校生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
住所:山梨県甲府市貢川1-4-27
交通:JR線甲府駅バスターミナル(南口)1番乗り場より御勅使(みだい)・竜王経由敷島営業所・大草経由韮崎駅・貢川(くがわ)団地各行きのバスで約15分、山梨県立美術館下車。
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「秋の青森のアートと史跡・街歩き」 Vol.4:弘前市街(土手町・弘前城周辺・禅林街ほか)

Vol.3:弘前れんが倉庫美術館に続きます。弘前の街を訪ね歩いてきました。



弘前を旅するのは初めてだったので、まずは街の雰囲気を肌で感じるべく、しばらく歩きのみで市内を巡ることにしました。



美術館を出て、中央弘前駅付近から弘前城の方向を目指していくと、古い商店やデパートなどの立ち並ぶ通りが見えてきました。



それが江戸時代から城下町として商工の町屋が並んでいた土手町で、現在も飲食店などが集中する中心街でした。



いわゆる看板建築や蔵を改装したと思われる建物、それに洋館風のビルなどが続いていて、風情ある街並みを形成していました。



そもそも古い歴史を有する弘前には、明治、大正、昭和へと遡る歴史的建築物が多いことでも知られています。



土手町からお城の方へ進めば進むほど、車と人通りが明らかに増えてくることが分かりました。この日はちょうど弘前公園にて「弘前城 秋の大祭典」が開催されていて、スポーツイベントやフード関連のショップ、アートクラフト展などを目当てに、主に地元の方が多く出かけていたようでした。



渋滞する道路を横目に中央広場から旧第五十九銀行本店本館へと歩くと、江戸時代から弘前に山車まつりの文化を伝える山車展示館が建っていました。



ここでは各町会が運行する山車や、ねぷたともに出陳するという大太鼓などが並んでいて、手狭なスペースながらもまつりの活気を感じることができました。



山車展示館より弘前市役所を過ぎて、かつて旧陸軍師団長の官舎だった洋館のスターバックスを過ぎると、左手に見えてきたのが東北地方有数の規模を誇る藤田記念庭園でした。



藤田記念庭園とは大正時代の弘前の実業家、藤田謙一が別邸を構える際、東京から庭師を招いて築いた江戸風の庭園で、1992年に一般向けに開園しました。総面積21800平方メートルある庭園は、岩木山を望む高台部の庭と池泉回遊式の低地部の2つから構成されていて、高低差は実に16メートルにも及んでいました。



ちょうど高台部の東案内所から入場すると右手に和館、左手に洋館があり、それぞれクラフト&和カフェ匠館と大正浪漫喫茶室のカフェが入っていました。しかしお城のイベントゆえか、どちらも混雑していて、特に大正浪漫喫茶室は相当の待ち時間が発生しているようでした。



とはいえ、手入れの行き届いた庭園自体は人もまばらで、和館を含めてゆっくり見学することができました。



さて弘前城や藤田記念庭園の南西方向にあるのが、津軽家の菩提寺である長勝寺をはじめとした33の曹洞宗寺院が並ぶ禅林街でした。



入口の黒門を抜けると、すぐ左に東北で2つしかない栄螺堂(六角堂)が建っていて、真っ直ぐに伸びた一本道には杉の木が整然と立ち並んでいました。



その並木道の左右には大小の寺院が点在していて、杉並木と合間ってか独特の景観を築き上げていました。なお同じ宗派によって造られた寺院街は全国でも珍しいことから、長勝寺構として国の史跡に指定されています。



秋のお彼岸の時期からかお墓参りをしている方々が目立つ中、杉並木を進んでいくと一番奥に位置する長勝寺に辿り着きました。



1528年に津軽家の祖である大浦光信を弔うため、子の盛信が鰺ヶ沢町に創建した長勝寺は、1610年の弘前城の築城とともに現在の地に移され、長らく同家の菩提寺として信仰を集めてきました。



境内には鎌倉時代に遡る梵鐘や、江戸時代の本堂や三門、それに御影堂などが並んでいて、歴代の藩主や正室の霊屋とともに重要文化財に指定されています。



基本的に外観のみの拝観は自由で、杉林に囲まれた霊屋も遠目に見ることができました。私自身、弘前に寺町のイメージがなかったので、まさかこれほど立派な寺院が建っているとは知りませんでした。

そして一度、弘前城付近から駅へ土手町100円バスへ戻り、軽く昼食を済ませた後、再び弘前城へ行きました。



依然としてイベントのために大勢の人で賑わう中、弘前文化センター近くの東門より入城し、東内門を過ぎると内濠の向こうに天守が見えてきました。



1611年、二代藩主の津軽信枚によって完成した弘前城は、6つの郭と3重の濠から築かれていて、門や櫓などの城郭の遺構が、ほぼ当時のままの姿で残されています。



現存する天守は1810年に建てられたもので、他の遺構と同様に重要文化財として指定され、東北地方唯一の江戸時代の天守としての威容を誇っています。



現在、100年ぶりの本丸石垣工事のため、当初の位置より北西約70メートルに移されていて、内部を見学することも可能でした。三層の天守は風格がありながらも小規模ゆえか、どこか可愛らしく見えるかもしれません。



それにしても廃城時の姿をほぼ留めているだけあり、櫓や天守はもちろん、濠や石垣などからも長い歴史の蓄積がひしひしと感じられました。



本丸から鷹丘橋を渡り、北の郭に出て丑寅櫓などを見学した後、三ノ丸から城外へ出ると、北側に位置するのが弘前ねぷた館でした。



弘前ねぷた館は、10メートルにも及ぶ大型のねぷたの展示のほか、三味線の生演奏、工芸体験、また土産店などからなる観光施設で、ちょうど私が出向いた際もねぷたの解説とともに太鼓の演舞が披露されていました。



帰りの電車の都合もあり、あまり時間的に余裕がなく、じっくりと見学は出来ませんでしたが、力強い太鼓の轟きともに、壮麗なねぷたの魅力をしばし味わうことができました。



ねぷたを見学すると16時を過ぎていました。この日の18時過ぎの新青森発の「はやぶさ」で帰る予定をしていたため、そろそろ青森と弘前の旅を終えなくてはなりません。最後に一休みしようと土手町へ向かい、老舗カフェレストラン煉瓦亭にてアップルパイをいただきました。



朝から夕方にかけて弘前れんが倉庫美術館、藤田記念庭園、禅林街、弘前城、弘前ねぷた館など、弘前の街を練り歩きましたが、反省点をあげるとすれば、やはりスケジュールがタイトであったことでした。



また連休中やイベントの開催もあってか、大勢の人が繰り出していて、事前に気になっていたカフェやレストランの殆どは満席などで利用できませんでした。よって昼食のタイミングを逸してしまったのも反省材料でした。



それに弘前には前川建築など想像以上に見どころが多く、1日では十分に廻りきれませんでした。再度行く機会があれば弘前に宿泊し、より広域を巡るのも良いのかもしれません。

青森には十和田市現代美術館など注目すべきアートスポットも他に存在します。またぜひ旅したいと思いました。

「弘前公園」@HIROSAKIPARK_JP
休館:11月24日~3月31日(弘前城)
 *弘前城本丸・北の郭は11月24日~3月31日の期間は入園無料
時間:9:00~17:00(4月1日~11月23日)
料金:大人320(250)円、子供100(80)円。
 *有料区域入場料金(本丸・北の郭)
 *弘前城本丸・北の郭、弘前城植物園、藤田記念庭園の共通券あり。大人520円、子供160円。
 *( )内は10名以上の団体料金。
住所:青森県弘前市下白銀町1
交通:JR弘前駅より弘南バス(土手町循環100円バス)「市役所前」下車徒歩4分。
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「秋の青森のアートと史跡・街歩き」 Vol.3:弘前れんが倉庫美術館

Vol.2:三内丸山遺跡・青森港に続きます。弘前れんが倉庫美術館へ行ってきました。



明治・大正期に酒造工場として建設され、後に近代産業遺産に指定された青森県弘前市の煉瓦造りの倉庫が、2020年7月に弘前れんが倉庫美術館としてグランドオープンしました。



朝早くに宿をチェックアウトし、青森駅から9時過ぎの「つがる2号」に乗ってしばらくすると、車窓に田んぼとりんご畑の広がる風景が見えてきました。そこが津軽平野の南部に位置し、東に八甲田の連峰、そして西に雄大な岩木山を望む弘前の街でした。



弘前駅は市中心部の西側に位置していて、弘前城などの主要な観光スポットへ向かうには、約10分間隔で市内を循環する土手町100円バスが便利でした。



弘前れんが倉庫美術館の最寄りバス停は中土手町で、江南鉄道中央弘前駅近くの住宅街の中に建っていました。芝生の広場を前に赤い煉瓦造りの建物が2棟並んでいて、大きい建物が展示室やスタジオなどの美術館のスペース、もう1棟にカフェとミュージアムショップが入居していました。



この地に煉瓦倉庫を築いたのは、明治から大正にかけて酒造業などを営んでいた福島藤助で、1907年頃には現在のカフェ棟の一部を含む建物を市内の茂森町より移築しました。その後、事業拡大とともに日本酒造工場として倉庫などを増設して、今の美術館棟も1923年頃には建てられました。



終戦後、シードル事業を興した吉井勇が朝日シードル株式会社を設立すると、同社の弘前工場として稼動するようになり、最終的にはシードル約1800万リットルを見込むなどして製造されました。そして1960年頃にニッカウヰスキー株式会社に事業が移されると、同社の弘前工場として東北向けにウイスキーが生産されました。



しかし1965年に工場が移転し、1975年には建物の一部も取り壊され、現存する煉瓦倉庫の形となりました。その後は1997年に至るまで、政府備蓄米の保管倉庫として用いられていたそうです。



1980年代後半から煉瓦倉庫の活用法が模索されると、2002年には「市民の手」(リーフレットより)によって奈良美智の展覧会が開かれました。結果的に2015年、弘前市が土地と建物を取得して「弘前市吉野町煉瓦倉庫・緑地検討委員会」が組織され、2017年から「(仮称)弘前市芸術文化施設」として整備が始まり、2018年から本格的な改修工事が行われました。



改修を担ったのは建築家の田根剛で、「記憶の継承」をコンセプトに、耐震補強や煉瓦壁の保存、またチタン材を用いた「シールド・ゴールド」の屋根などが導入されました。屋根は昔の洋館に多い菱葺きの手法が用いられていて、光の角度によって表情が変化していくそうです。


奈良美智「A to Z Memorial Dog」 2007年

エントランスの奈良美智の「A to Z Memorial Dog」やフランスのジャン=ミシェル・ オトニエルのりんごに着想を得た彫刻を過ぎると、展示室へと続いていて、ちょうど開館記念展の「Thank You Memory ― 醸造から創造へ」が行われていました。


ジャン=ミシェル・ オトニエル「Untitled」 2015年 *代替作品。会期中に展示替えを予定。

なお展示は9月22日に終了し、10月10日より「小沢剛展 オールリターン―百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」が開催されています。

これは開館記念に際し、建物の場所と記憶に焦点を当てたもので、広々とした倉庫内のスペースを用い、8名の現代アーティストが絵画、写真、インスタレーションなどの多様な作品を展示していました。



最初の展示室では、煉瓦倉庫に残されていたタンクや看板などが並んでいて、土地の歴史を記した年表とともに、煉瓦倉庫の史的変遷を辿ることができました。



古びたシードル瓶や広告ポスター、またタイルの欠片なども、長い歴史を物語る興味深い資料と言えるかもしれません。


畠山直哉×服部一成「Thank You Memory」 2020年

写真家の畠山直哉は、美術館のロゴやグラフィックを担当した服部一成と協働して、シードル工場当時の写真や資料を引用しつつ、新たな読み物としての印刷物を作り上げました。ここでは工場時代の資料や新聞記事などがいわばコラージュするように展開していて、設計を担った田根剛のドローイングも描きこまれていました。


笹本晃「スピリッツの3乗」 2020年

私が一連の作品で特に魅惑的に感じられたのが、建築倉庫の窓や扉、さらには階段を用いて大規模なインスタレーションを築いた笹本晃の「スピリッツの3乗」でした。


笹本晃「スピリッツの3乗」 2020年

作品には建材だけでなく、ボトル型のガラス彫刻などがダクトで繋ぎ合わさっていて、あたかも研究室や培養室に立ち入ったかのような錯覚に囚われました。


笹本晃「スピリッツの3乗」 2020年

またダクトからは風も送り込まれているからか、装置としても稼働しているように見えて、かつてのシードル工場の醸造工程を擬似的に表現していました。


尹秀珍「ポータブル・シティー」 2001年〜

中国の尹秀珍(イン・シウジェン)は「ポータブル・シティー」において、ブリュッセルや敦煌、台北にメルボルン、そしてニューヨークや弘前の街をスーツケースへ古着のジオラマとして表現しました。


尹秀珍「ポータブル・シティー」 2001年〜

古着を人々の記憶を宿すものと考える尹は、弘前を訪ねては古着を集めて制作していて、岩木山を背に弘前城や古い家々、そしてシールド・ゴールドの屋根が光り輝く倉庫美術館などの弘前をスーツケースの上に展開していました。一際目立っていた高い塔は、古くは東北一の美塔と称された最勝院五重塔のようでした。


奈良美智「SAKHALIN」 2014〜2018年

アイヌの文化に興味を持ち、実際に青森や北海道、それにサハリンへとアイヌ語の残る地域を旅した奈良美智は、写真シリーズ「SAKHALIN」においてサハリンの先住民との出会いを写真に収めました。なんでもサハリンでは、かつて奈良の祖父が炭鉱や漁業を携わっていた地でもあるそうです。


藤井光「建築  2020」 2020年

この他では煉瓦倉庫から美術館へ生まれ変わるプロセスを映像に捉えた、藤井光の「建築 2020」も見応えがありました。どのように工事が進み、建物が再生されたのかを臨場感をもって知ることができるのではないでしょうか。



美術館の内部でともかく印象に残ったのは、鉄骨を剥き出しにした吹き抜けの広いスペースと、暗がりの中で黒光りする壁でした。


左:尹秀珍「ウェポン」 2003〜2007年
右下奥:ナウィン・ラワンチャイクン「いのっちへの手紙」 2020年

この黒い壁はかつてシードルの貯蔵タンクがあった場所で、安全性を確認した上でコールタールの塗られた壁面をそのまま残していました。まさにこの場所だからこそ叶った展示空間と言えるかもしれません。



2階を区切る白い壁も当時のまま使われていて、向かって右側は工場の瓶詰室、そして左側にある現在のオフィスはかつて研究室と事務室として利用されました。



さらに同じく2階には市民ギャラリーとライブラリーがあり、無料施設として自由に立ち入ることも可能でした。



一通り展示を見終えて早めにランチをとろうと、隣のカフェ棟へ向かいましたが、パーティーの貸切予約により立ち入ることが叶いませんでした。私がチェックをし損ねていましたが、一応、事前にWEBサイトで告知があったようです。


よってカフェの利用を諦めて、弘前の街へと繰り出すことにしました。

Vol.4:弘前市街(土手町・弘前城周辺・禅林街ほか)へと続きます。

「Thank You Memoryー醸造から創造へー」 弘前れんが倉庫美術館@hirosaki_moca
会期:2020年6月1日(月)~9月22日(火・祝) *会期終了
休館:火曜日(祝日の場合は、翌日休館)。年末年始。
時間:9:00~17:00 *入館は閉館の30分前まで
料金:大人1300(1200)円、学生1000(900)円。高校生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
住所:青森県弘前市吉野町2-1
交通:JR弘前駅より徒歩20分。弘南バス(土手町循環100円バス)「中土手町」下車徒歩4分。
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「秋の青森のアートと史跡・街歩き」 Vol.2:三内丸山遺跡・青森港

Vol.1:青森県立美術館に続きます。三内丸山遺跡を見学してきました。



三内丸山遺跡は青森県立美術館の北西に隣接していて、入口に当たる縄文時遊館へは道なりで約450メートルほどでした。



遺跡は博物館の縄文時遊館と屋外のピクニック広場、それに復元建物などの集落跡の広がる縄文のムラから構成されていて、全体が1つの三内丸山遺跡センターとした有料施設となっていました。



まず先に遺跡へ向かうべく、ジオラマを見て屋外へ出ると、芝生と木立の連なる広々とした風景が見えてきました。ちょうど案内板の右側がピクニック広場、左側が遺跡の点在する縄文のムラでした。



縄文時代の前期から中期にかけての大規模集落跡である三内丸山遺跡は、1992年から発掘調査が進み、竪穴と掘立柱建物跡や墓、それに盛土や貯蔵穴などが次々と発見されました。



また土器や石器、木製品、土偶や骨格器、ヒスイや黒曜石も数多く出土し、2000年には国の特別史跡に指定されるなど、日本を代表する縄文遺跡として知られてきました。



ちょうど西側に東北新幹線と幹線道路が通っているからか、時折、鉄道や車の通過する音が聞こえるものの、辺りは風が木々を揺らすのみで、自然豊かな環境であることが感じられました。



一際目を引いたのは、大型竪穴建物や掘立柱建物などの復元施設で、一部は実際に立ち入ることも可能でした。



そのうち特に大きいのが大型竪穴建物で、復元されたのは長さ32メートル、幅10メートル近くにも及ぶ日本最大の建物でした。



薄暗い内部には木の炭の匂いが漂っていて、さも縄文時代へとタイムスリップするかのような臨場感も味わえました。なお建物は、住居や集会場、共同作業場として使われていたと考えられているそうです。



さらに木々や草の匂いを感じつつ、掘立柱建物や地面に掘られた土坑墓と呼ばれる墓を見て回った後は、再び縄文時遊館へ戻って、館内の展示を見学することにしました。



遺跡から出土した遺物が約1700点ほど公開されているのが、縄文時遊館の中の常設展示「さんまるミュージアム」でした。ここでは土器、石棒、土偶、加工痕のある哺乳類の骨、石槍、さらにはヒスイのペンダントなどの出土品が所狭しと並んでいて、縄文人の暮らしについて学ぶことができました。



中でも最も目立っていたのは、一面に土器が雛壇へ展示された土器ステージでした。いずれの土器も露出で並んでいて、細かな模様なども見ることができました。



これほどまとまった形で土器や土偶類を目にしたのは、かつて東京国立博物館で開催された縄文展以来のことだったかもしれません。


「大型板状土偶」 縄文時代中期 紀元前3000年 重要文化財

また縄文時代中期の「大型板状土偶」も興味深い資料で、大きく口を開けるような表情に心を奪われました。それこそ狂気的なまでの叫びを感じられないでしょうか。


「漆塗り土器」 縄文時代中期 紀元前2800年前 重要文化財

表面に漆の痕が残る「漆塗り土器」も印象に深かったかもしれません。1700点の所蔵資料のうち500点ほどが重要文化財とありましたが、確かに右も左も目を引かれる資料ばかりでした。



常設に続き企画展「三内丸山と大湯」を見て、整理作業室やミュージアムショップを巡っていると15時半近くになっていました。



この日は青森駅近くに宿をとっていたので、再び周遊バスねぶたん号乗り、荷物を預けていた新青森駅へ向かいました。



新青森駅から青森駅へは奥羽本線で6〜7分ほどで、しばらく電車に揺られていると大きく左へとカーブして、港へホームが突き出るように伸びる青森駅に到着しました。



ここで本来ならば駅近くにあるねぶたの家「ワ・ラッセ」を見学できれば良かったのですが、閉館時間との兼ね合いもあり諦めて、港に面した青い海公園を散歩することにしました。



公園の前にはレストランや土産店などの入居する「青森県観光物産館アスパム」が建っていて、高層階には展望台もありました。但し短縮営業のため17時で既にクローズしていたため、上がって見ることは叶いませんでした。



冷ややかな海風を感じつつ、夕暮れ時の青森港をしばし歩いては、アスパムの中の西むらにて「つがる定食」(特にホタテの貝焼き味噌が美味でした。)を頂いた後、宿へと戻りました。



Vol.3:弘前れんが倉庫美術館へと続きます。

「特別史跡 三内丸山遺跡」
休館:毎月第4月曜日(祝日の場合は、翌日休館)。年末年始(12月30日~1月1日)。
時間:9:00~17:00 *入場は閉館の30分前まで
料金:大人410(330)円、大・高校生200(160)円、中学生以下無料。
 *遺跡を含む常設展観覧料。
住所:青森市大字三内字丸山305
交通:JR新青森駅東口よりルートバスねぶたん号「三内丸山遺跡」下車。青森駅前6番バス停より三内丸山遺跡行きより「三内丸山遺跡前」下車。駐車場あり。
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「秋の青森のアートと史跡・街歩き」 Vol.1:青森県立美術館

2006年に三内丸山遺跡の隣に開館した青森県立美術館は、シャガールの「アレコホール」や多彩なコレクション、はたまた奈良美智の「あおもり犬」などで県内外より広く注目を集めてきました。



東京駅から8時過ぎの「はやぶさ」に乗車し、いくつもの街と森とトンネルを猛スピードで駆け抜け、青森市の玄関口である新青森駅と到着したのは11時20分頃でした。



そして同駅から周遊バスねぶたん号に乗ってしばらくすると、広々とした公園の中に白い建物、つまりは青森県立美術館が姿を見せました。



青森県立美術館を手掛けたのは建築家の青木淳で、設計に際しては三内丸山遺跡の発掘現場に着想を得たとしています。私も雪景色に覆われる建物を写真で目にしたことはありましたが、白い外観は青空にも良く映えていました。



シンボルマークやロゴタイプなどのヴィジュアル・アイデンティティは、グラフィックデザイナーの菊地敦己が担っていて、建物の壁面にもシンボルマークのネオンサインがまるで森を象るように設置されていました。夜になると青い光を放つそうです。



建物内部に入るとまずインフォメーションがあり、図書館やシアターと続いていて、その奥の向かって左側にカフェとショップが連なっていました。通路空間からして広々としていて、想像していた以上よりも大きな建物でした。



インフォメーション横のエレベーターで1階より地下2階へ降り、チケットブースを過ぎると、まず広がるのが縦横21メートル、高さ19メートルに及ぶ吹き抜けの大空間「アレコホール」でした。


マルク・シャガール バレエ「アレコ」の背景画 展示風景

ここではマルク・シャガールのバレエ「アレコ」のために描いた全4点の背景画が露出で展示されていて、いずれの作品も自由に撮影することができました。それぞれが横幅14メートル超、縦幅9メートルほどに及んでいて、まさにこの空間でなくては展示自体も叶わないような超大作でした。


右:マルク・シャガール バレエ「アレコ」の背景画 第1幕「月光のアレコとゼンフィラ」 1942年
左:マルク・シャガール バレエ「アレコ」の背景画 第2幕「カーニヴァル」 1942年

全4点のうち最も目を引くのが、満月の照る夜空の中、寄り添って男女の浮かぶ第1幕の「月光のアレコとゼンフィラ」でした。そして画面の下には満月の光を写す湖とバレエの舞台でもあるロマのテントも描かれていて、青く渦巻く大気とともに幻想的な光景を築き上げていました。


マルク・シャガール バレエ「アレコ」の背景画 第3幕「ある夏の午後の麦畑」 1942年

第3幕の「ある夏の午後の麦畑」はアメリカのフィラデルフィア美術館のコレクションで、長らく同館にて公開されてきましたが、改修工事のために青森県立美術館への長期借用が決まり、現在のように4点揃って展示されました。なお4点がまとまって公開されたのは、2006年の開館記念展「シャガール『アレコ』とアメリカ亡命時代」展以来のことだそうです。(2021年3月頃までを目処に公開予定。)



シャガールの「アレコ」に魅せられながら展示室を先に進むと、同じく通年展示として奈良美智の絵画、彫刻、インスタレーションなどが約30点ほど並んでいました。また展示室の窓からは同館のシンボルと化した「あおもり犬」も望むことができました。


棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子」 1939年/1948年改刻 個人蔵(青森県立美術館寄託)

通年展示に続いて開催されていたのが、「ふるえる絵肌」と題した絵肌に着目したコレクション展でした。いずれも青森県出身の棟方志功や伊藤二子、馬場のぼる、橋本花、佐野ぬいなどの作品がそれぞれ個展の形式で紹介されていて、とりわけ馬場のぼるの動物をモチーフにした作品や、青や赤などの色面が心象風景を描くような佐野ぬいの絵画などに心を惹かれました。


ウルトラマンや怪獣のデザインで知られる成田亨の展示も充実していて、酒呑童子や阿修羅などを象った巨大なFRPの彫刻にも圧倒されました。地元の青森の作家を丹念に紹介した内容で、作品の量も不足なく、大変に充実したコレクション展でした。



一通り館内の作品を見終えた後は、奈良美智の屋外の作品、「あおもり犬」と「Miss Forest / 森の子」を見学することにしました。



まず一度地下の入口を出て、コンクリートに囲まれた「あおもり犬連絡通路」の階段を上り、再び降りて、展示室の裏手に当たる美術館の西側へ進むと、「あおもり犬」が目に飛び込んできました。


奈良美智「あおもり犬」 2005年

高さ8.5メートル、横幅6.7メートルほどある「あおもり犬」は、写真で見るよりも大きく、下から潜り込むようにして見上げると、かなりの迫力がありました。



やや首を垂れつつ、目を伏した「あおもり犬」は静かに笑っているように見えつつ、哀愁を漂わせているようで、思いの他に複雑な表情をしていました。解説に「大仏」とありましたが、それこそ見る角度や立ち位置によって変化して見えるのかもしれません。



雪のかぶった姿も有名ながら、この日の晴天を背にした「あおもり犬」も魅力的ではないでしょうか。来場者も続々やって来ては、思い思いに記念写真を撮っていました。



もう1点の「Miss Forest / 森の子」は、美術館の南側にある「八角堂」と呼ばれる煉瓦造りの建物の中に展示されていて、「あおもり犬」と同様に屋根のないスペースにて、日差しを浴びながら鎮座していました。


奈良美智「Miss Forest / 森の子」 2016年

石畳と苔の合間から頭を突き出す姿は、目を閉じては瞑想しているようで、あたかも古くから堂内に住んでいた精霊のようにも見えました。



その八角堂と公園に面しているのがカフェ「4匹の猫」とミュージアムショップで、カフェでは青森の食材を用いたカレーやピラフ、ベーグルなどが提供されていました。



私は昼食を既に済ませていたので、デザートセットから「タルト・オ・ポム ドリンクセット」(青森県産りんごのタルト)を注文しました。70席以上あるカフェ「4匹の猫」は空間にも余裕があり、タルトをいただきながらゆっくりとした時間を過ごすことができました。



「あおもり犬」は設備改修工事のため、10月5日から来年4月頃まで連絡通路が閉鎖されます。(展示室内からガラス越しで観覧は可。)



公園から吹き抜ける心地良い風を感じながら、美術館の建物を眺めた後は、次の目的地である隣の三内丸山遺跡へと歩いて向かいました。



Vol.2:三内丸山遺跡・青森港へと続きます。

「シャガール「アレコ」全4作品完全展示」 青森県立美術館@aomorikenbi
会期:2017年4月25日~2021年3月頃(予定)
休館:毎月第2、第4月曜日 (祝日の場合は、翌日休館)。年末年始(12月28日~1月1日)。この他、展示替え休館、館内改修工事のための臨時休館日あり。
時間:9:30~17:00 *入館は閉館の30分前まで
料金:大人510(410)円、大・高校生300(240)円、中学生・小学生100(80)円。
 *常設展観覧料。
 *企画展は別料金。
住所:青森市安田字近野185
交通:JR新青森駅東口よりルートバスねぶたん号「県立美術館前」下車。青森駅前6番バス停より三内丸山遺跡行きより「県立美術館前」下車。駐車場あり。
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「夏の奈良大和路の古刹・遺跡を巡る」 後編:甘樫丘・飛鳥寺・石舞台古墳

前編:室生寺に続きます。飛鳥地方の古刹と遺跡を訪ねてきました。



飛鳥時代、日本の政治や文化の中心であった奈良県明日香村一帯は、今も豊かな自然が広がっているとともに、歴史的文化財が数多く残されています。



明日香村への玄関口は近鉄線の橿原神宮前駅、及び飛鳥駅で、両駅より村の広域を周遊するバス「赤かめ」が発着していました。バスは甘樫丘、飛鳥大仏、石舞台古墳の他、高松塚古墳などを経由するルートを走行していて、主要な観光スポットをほぼ網羅していました。



先に訪ねた室生寺から近鉄で橿原神宮前に着くとお昼を回っていました。駅構内で食事を済ませて東口から「赤かめ」バスに乗り、まずは飛鳥の玄関口でもある甘樫丘を目指しました。実のところ飛鳥へは20年前にも一度、レンタサイクルを使って広く巡ったことがありましたが、今回はややタイトなスケジュールだったため、バスを利用してコンパクトに回ることにしました。



橿原の市街を抜けて明日香村へと入ると、人家もまばらとなり、長閑な田畑の広がる光景が見えてきました。しばらくすると正面右手に緑に囲まれた小高い丘、つまり甘樫丘が姿を現しました。



バスを降りて案内図に従いながら甘樫丘を登る遊歩道へと進むと、木々の生い茂る中、低い階段の連なる小径が続いていて、思っていたより勾配がきつく感じられました。20年前に飛鳥を訪ねた際は、丘の手前まで行ったものの、結局登ることがなかったため、今回が初めての甘樫丘散策となりました。



甘樫丘は飛鳥時代に権勢を振るった蘇我蝦夷、入鹿親子が、かつて麓に邸宅を構えたとされていて、今も所在こそ確定されていないものの、丘を開発した遺跡も発掘されています。そもそも甘樫丘は東に飛鳥を従えつつ、西に畝傍山から奈良盆地を俯瞰し得る要所で、実力者蘇我氏が手中に収めていたのも何ら不思議ではありません。



やや霧雨の交じる蒸し暑い気候の中、樹木の匂いを感じつつ、汗を拭きながら階段を上がっていくと、甘樫丘展望台に到着しました。



丘の北側に位置する甘樫丘展望台は大変に見晴らしが良く、大和三山から藤原京、遠くは金剛山系までを望むことができました。また目を転じれば飛鳥寺を含めた明日香の集落も眺められて、入鹿の首塚までも肉眼で見られました。



しばらく奈良の景色を楽しんだ後は、丘の南方に位置するもう1つの展望台、川原展望台へと立ち寄って、丘の上から見下ろせた飛鳥寺へと向かいました。



川原展望台より飛鳥寺へ歩くとまず目にするのが、寺の西側に位置し、田んぼの中に寂しげに立つ蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔でした。645年の乙巳の変に際し、飛鳥板蓋宮で殺害された入鹿の首が飛んできた地点とされていて、塚自体は鎌倉時代か南北朝時代の頃に建てられました。



もちろん板蓋宮と首塚は600メートル以上も離れているため、あくまでも伝承に過ぎませんが、しばし首塚を拝みながら古代史上最大の政変に想像を膨らませました。



飛鳥寺は596年、蘇我馬子の発願によって創建された日本最古の本格的寺院で、当初、塔を中心に東西と北に金堂を配し、外側に回廊を張り巡らせた壮大な伽藍を有していました。しかし平安時代と鎌倉時代の2度にわたる火災によって焼失し、さらに室町時代以降に荒廃しましたが、江戸時代に入って再建されました。現在に創建当初の威容を思わせる伽藍はなく、小さな本堂を中心にひっそりとした佇まいを見せています。



とは言え、本尊の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏は、火災で大きな損傷を受けて後補を受けているものの、609年に造られた往時の姿を一部にとどめていて、アーモンド型の目や面長など、神秘的な飛鳥仏の特徴を目の当たりにできました。



この他、本堂には平安時代中期から後期の阿弥陀如来坐像も安置されていて、あわせて同地で出土した瓦なども見学することができました。



お寺を出た後は、明日香村でも随一の観光スポットでもある石舞台古墳を目指しました。「飛鳥大仏」バス停より「赤かめ」に乗り、岡寺前を抜けて坂道を走ると、休憩施設や茶屋や土産店も並ぶ石舞台地区へと到着しました。



石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室を持つ古墳で、7世紀の初め頃に築かれたものの、早い段階で墳丘が剥がされたと考えられていて、巨大な石室のみが露出した姿で残されました。



石室の長さは19メートル、また玄室は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルあり、調査によって大小30数個、総重量2300トンにも及ぶ花崗岩で築かれたことが明らかになりました。また諸説あるものの、ちょうど天井部分が平らで舞台のようにも見えることから、石舞台と名づけられました。



石舞台は四方から近寄って見学できる上、玄室の中へと立ち入ることも可能でした。ぐるりと回って外観を眺めると確かに舞台のようにも思えましたが、まるで猫か犬のような動物が伏せている姿にも見えなくはありませんでした。



玄室の中に入ると、石の隙間から差し込む光が思いの外に眩しく映ると同時に、巨大な天井石をはじめとした石そのものの重量感がひしひしと感じられました。またひんやりとした空気にも満たされているからか、心なしか涼しくも思えました。



被葬者は明らかではないものの、巨大な石室からしても相当の実力者であることは推測されていて、現在は蘇我馬子であったとする説が有力となっています。とすれば墳丘が失われたのも、乙巳の変による蘇我氏の滅亡と関係があるのかもしれません。



さて今回の飛鳥周遊では、甘樫丘、飛鳥寺、石舞台と蘇我氏に関した史跡を巡りましたが、さらにもう1件、蘇我氏との関係も推察される遺跡を訪ねることにしました。

それが7世紀ごろに築かれ、甘樫丘南西部の橿原市域に位置する菖蒲池古墳でした。石舞台古墳より飛鳥駅方面行きの「赤かめ」バスに乗り、川原寺などを経由して野口バス停で降りると、雲行きが怪しくなって大粒の雨が降ってきました。この日は朝から雨が降ったり止んだりの天候でした。



野口バス停から歩いて古墳の方へ向かうと、小さな「菖蒲池古墳」の案内看板が見えて、石碑の立つ墳丘へとあがってみました。一帯は特に歩道なども整備されることなく、ほぼ住宅街の裏山といった様相を呈していました。



菖蒲池古墳は一辺が30メートルの方墳で、墳丘は2段で構成されていて、玄室には極めて珍しい家形の石棺2基が収められていました。今は建屋で覆われていて、入口の柵の隙間より実際に石棺を見ることもできました。



古墳の被葬者については議論があるものの、当時としては大きな墓域を有することから、隣の小山田古墳を蘇我蝦夷、そして菖蒲池古墳を蘇我入鹿とする説も存在するそうです。

土砂降りの中、何とも裏寂れた古墳を見ていると、不思議と蘇我氏の繁栄と没落の歴史が頭に浮かんでなりませんでした。この後、足元がびっしょり濡れながら岡寺駅まで歩き、京都へ戻るつもりでしたが、最後に入鹿関連で少し気になる場所があったため、大和八木駅で一度降りることにしました。

その気になる場所とは、全国で唯一、蘇我入鹿を神体とする入鹿神社で、駅より歩いて10分強ほどの飛鳥川を渡った住宅地の中にありました。



入鹿神社は廃普賢寺の南東部に建っていて、元々は同寺の鎮守社として伝わってきました。本殿は江戸初期の頃に築かれたとされていて、老朽化が進んだことから、1986年に解体修理が行われました。



神社の伝えでは、この近辺は蘇我氏にゆかりがあり、入鹿が幼少期を過ごしたとも、母が身を寄せたとも言われていて、今も周囲には曽我などの地名が残されています。



明治時代、当時の史観より逆臣の蘇我入鹿を祀る神社は相応しくないとして、祭神や社名を改めるように政府から要請されたものの、地域の人々が拒んだとも言われています。



蘇我入鹿は頭脳明晰だったとされているため、地元では学業成就の神として信仰を集めているそうです。また乙巳の変により首をはねられたことから、首の上の病に霊験があるとも伝えられています。



隣には15世紀に建てられ、国指定重要文化財でもある大日堂が風格のある姿を見せていました。あいにくの天候ゆえに誰もいませんでしたが、境内は手入れも行き届いていて、近隣の人達に大切にされている印象も見受けられました。

入鹿神社で手を合わせ、再び雨の中を橿原神宮前駅へと歩くと、18時をゆうに回っていました。朝から奈良に入り、室生寺を訪ねては飛鳥へと移動して蘇我氏の足跡を辿りつつ、入鹿神社へお参りした旅も終えて、特急に乗っては京都へと戻りました。

「飛鳥寺」
拝観時間:9:00〜17:30 *10月〜3月は17時まで。
拝観料:大人・大学生350(320)円、高校・中学生250(220)円、小学生200(170)円。
 *( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「飛鳥大仏」下車、すぐ。

「石舞台古墳」
休日:年中無休
時間:8:30~17:00
料金:一般300(250)円、高校生以下100(50)円。
 *( )内は30名以上の団体料金。
住所:奈良県高市郡明日香村島庄133
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口より明日香周遊バス「赤かめ」にて「石舞台」下車、徒歩3分。

「入鹿神社」
拝観料:無料
住所:奈良県橿原市小綱町335
交通:近鉄線大和八木駅南出口より徒歩10分。
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「夏の奈良大和路の古刹・遺跡を巡る」 前編:室生寺

奈良時代末期に創建され、真言宗の寺院である奈良・室生寺は、近世以降「女人高野」と称され、人々の信仰を集めてきました。



室生寺は奈良盆地の東方、宇陀市内の山中に位置していて、公共交通機関で行くには、近鉄大阪線の室生口大野駅からバスに乗る必要がありました。



近鉄京都駅から朝早い特急に乗り、大和八木で大阪線の急行に乗り換え、室生口大野駅に着くと10時を回っていました。駅前の小さなロータリーにあるバス停より路線バスに乗って、山道を15分ほど揺られていると、終点の室生寺前バス停に到着しました。



さすがに山岳信仰の霊地でもあり、霧も深い山々に囲まれていて、山の麓から中腹辺りに室生寺の伽藍が点在していました。



バス停より土産店の並んだ道を少し歩き、室生川にかかる太鼓橋を渡ると「女人高野室生寺」と刻んだ石碑と表門が姿を現しました。ただし拝観は表門ではなく、金剛力士像が威容を見せる仁王門から進むようになっていました。



雨混じりの中、仁王門をくぐると横に小さな池が広がっていて、左手奥には鬱蒼とした木々に囲まれた「鎧坂」と呼ばれる石段が続いていました。



かなり急な階段で、ちょうど下から見上げると、てっぺんに金堂の屋根を目にすることができました。



平安時代初期に建てられた金堂には、本尊の釈迦如来立像や薬師如来像、それに十二神将像の一部などが安置されていて、側面の出入り口より張り出した床下を伝って中を拝観することも可能でした。やや薄暗がりの堂内ゆえに、諸像の細かに見ることは難しかったものの、とりわけ釈迦如来立像の威容や十二神将の生き生きとしたユーモラスな表情に心を引かれました。



ちょうど建物が斜面に位置しているからか、手前の床を柱で支える懸造と呼ばれる構造になっていて、舞台のように迫り出していました。当初は入口が南側正面にあったものの、江戸時代の改修の際、今日のように側面に出入り口が築かれました。



金堂のすぐ横には鎌倉時代の弥勒堂が建っていて、内部の須弥壇には小さな弥勒菩薩立像が納められていました。梁間4間の金堂よりも小さな梁間3間のお堂で、室生寺の第二祖とされる平安時代の修円が、興福寺の伝法院を移したと伝えられてきました。



弥勒堂と金堂から石段を上がった場所に位置していたのが、真言密教の法儀の灌頂を行う灌頂堂、すなわち本堂でした。勾配のある屋根を持つ入母屋造の建物で、屋根は樹皮を葺いた檜皮葺でした。そして堂内には本尊の如意観音菩薩像が安置されていて、中に入っては、右膝を立て、右手を頬に添えながら、優しく微笑む仏像の姿を拝むこともできました。



他のお堂と同様、山の緑に包まれては、一体と化したような佇まいを見せていて、屋根には緑色の苔も生えていました。



ともかく室生寺を訪ねて強く感じられるのは樹木の強い存在感で、樹木の葉に絡みつつ、湿り気を帯びては漂う山の森の空気が全身に染み渡るかのようでした。



本堂の左側にはさらに階段が連なり、上には室生寺草創期に建立された五重塔がそびえ立っていました。



一番下の層の一辺の長さが2.5メートル、高さ約16メートルの小さな塔で、朱塗りの柱と白壁、そして檜皮葺が美しいコントラストを描きながら、周囲の樹木ともに溶け込むような姿を見せていました。古建築では最も小さな五重塔とされているものの、軒の深い造りからか、見上げればかなりの迫力を覚えました。なお同塔は1998年の台風で大きく損傷したものの、その後に修復が行われ、2000年に完了しました。



五重塔横からは杉の大木の合間を縫うように小径が伸びていて、その先は弘法大師の像を安置した御影堂のある奥の院へと繋がっていました。



本来ならさらに進んで奥の院も拝観したかったのですが、バスの時間や次の工程の兼ね合いもあって断念し、本堂から金堂へと戻り、太鼓橋を渡ってはお寺の外へと出ました。今回は室生寺での滞在時間が十分でなかったのが反省点でした。おそらく奥の院までの拝観を鑑みると2時間以上はかかります。



室生寺では新型コロナウイルス感染症対策のため、長らく寳物殿を閉館していましたが、9月5日より再開が決まりました。しゃくなげの寺としても知られる同寺は、四季に移ろう自然そのものも大きな魅力でもあります。また出向く機会には、奥の院と寳物殿も拝観したいと思いました。



室生寺前バス停からバスに乗り、大野寺そばの弥勒磨崖仏を車窓に眺めながら、室生口大野駅へ戻るとお昼の時間を過ぎていました。



近鉄線に乗って大和八木へと出た後は、京都方面ではなく、明日香村を巡るために橿原神宮前駅へと向かいました。

後編:甘樫丘・飛鳥寺・石舞台古墳へと続きます。

「室生寺」
拝観時間:8:30~17:00(4月1日~11月30日)、9:00~16:00(12月1日~3月31日)
入山料:大人600(500)円、子供500(400)円。
 *( )内は団体料金。
住所:宇陀市室生78
交通:近鉄線室生口大野駅より奈良交通バス「室生寺前」にて室生寺前バス停下車、徒歩約5分。
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「瀬戸内アートの楽園 直島を1日で巡る旅」 後編:本村地区・家プロジェクト

前編:ベネッセハウスミュージアム・李禹煥美術館・地中美術館から続きます。ベネッセアートサイト直島へ行ってきました。



つつじ荘を経由し、町営バスで家プロジェクトのある本村地区へ着くと、既にランチタイムは過ぎ、14時近くになっていました。実のところ、美術館エリア内で食事をとるつもりでしたが、昼時の地中美術館が想像以上に混雑していたため、少し時間をずらし、本村地区にあたることにしました。



同島東部の本村は、直島町役場もある町の拠点で、直島への観光客を受け入れるべく、宿泊施設やカフェなどが多く点在しています。



本村で食事をしたのは、一軒の古民家を用いたCafe Gardenでした。カレーとピザのメニューが豊富なカフェで、もちもちのピザも美味しくいただけました。店内も時間帯が外れていたからか空いていて、快適に過ごせました。



腹ごしらえをした後は、本村に展開する家プロジェクトを巡ることにしました。同プロジェクトは、使われていない古民家を保存しつつ、現代美術の展示場として利用したもので、1998年に築200年の家屋を改修し、宮島達男の作品を展示した「角屋」からスタートしました。現在は予約制の「きんざ」を含めると7軒の展示施設が開設されています。



本村のラウンジで共通チケットを購入し、細い路地の続く集落を歩くと、まず目についたのが宮島達男の「角屋」でした。暗がりの母屋内部では、プールの中に沈められたLEDのデジタルカウンターが1から9の数字を刻んでいて、あたかも宇宙にまたたく星のような光を放っていました。なおカウンターの変化するスピードは、最初のセッティングの際によって島の人が決めたそうです。



高台に位置する護国神社は、江戸時代から続く古い神社だったものの、著しく老朽化したことから、杉本博司が家プロジェクトの一環として再建しました。



社殿は伊勢神宮を思わせる古い建築様式に基づき、神社の下には古墳のような石室が築かれていて、上下をガラスの階段で結んでいました。



直接、社殿から石室に降りることは叶いませんが、横からのアプローチにて石室に入ることが出来ました。ちょうど石室の通路から背後を見やると海が広がっていて、まさに杉本の海景シリーズを連想させるものがありました。以前、江之浦測候所の隧道から眺めた海がフラッシュバックするかのようでした。



「碁会所」にて作品を展開したのが須田悦弘で、建物の外の椿の樹木を参照しつつ、椿の花を象った彫刻を見せていました。そしてここで面白いのは左右に対となる部屋に本物と写しを並べていることで、初めは竹までが彫刻であるとは気がつかないほどでした。なお「碁会所」とは、かつてこの場所で町の人々が囲碁を打っていたことに因んでいるそうです。



大きな古民家の「石橋」を舞台に、襖絵を描いたのが、日本画家の千住博でした。瀬戸内の風景に触発された襖絵は、幽玄な趣きをたたえていて、暗い蔵にある滝のシリーズ、「ザ・フォールズ」も迫力がありました。これまでも何度か千住の絵画を見てきたつもりですが、場所の風情もあるのか、今までで最も美しく思えたかもしれません。しばし庭の石に座りつつ、ぼんやりと襖絵を眺めては見入りました。



直島町役場近くにある現代美術家の大竹伸朗の「はいしゃ」も目立っていました。かつて歯医者であった廃屋を再生させた施設で、無数のペインティングやコラージュが施され、まさに大竹の世界観が建物全体を支配していました。



その他、古い看板やネオンサイン、さらには船をめり込ませたような壁も個性的ではないでしょうか。もはや建物そのものが作品と化していました。



家プロジェクトを観覧しながら本村を歩いていると、気が付けば夕方に差し掛かっていました。本村にはANDO MUSEUMもありますが、時間の都合により見学を諦め、町営バスで宮浦港へと戻りました。



そして写真を撮り損ねてしまいましたが、大竹伸朗の直島銭湯を見学し、予定していた16時半のフェリーで宮浦港を出発し、宇野港へと出て、その日のうちに岡山から新幹線で東京へと戻りました。



直島を周遊して感じたことは、まずバスの時間など、事前に一定のプランニングしておく必要があることでした。無料バスの運行する美術館エリア内も歩けなくはありませんが、昇り降りも少なくなく、夏の暑い時期などは大変なことも予想されます。また町営バスは現金のみの対応していたため、小銭が意外と重要でした。



また芸術祭期間中でないにも関わらず、多くの人々がやって来ていて、既に直島が瀬戸内の代表的な観光地であることも感じられました。さらに外国人向けの英語の対応も重要で、バスの方が積極的に英語でアナウンスしていたのも印象的でした。



美術館では李禹煥美術館に一番心惹かれましたが、家プロジェクトが想像以上に充実していたのが嬉しい誤算でした。また集落の中に点在するため、美術館エリアとは異なり、直島の人々の生活の息吹を感じることも出来ました。門などを美しくディスプレイしている家も目立っていました。



今回は先に触れたANDO MUSEUMの他、全ての展示を回りきることは叶いませんでしたが、朝から夕方まで同島のみに滞在したため、主だった施設は観覧出来ました。宿泊客のみしか観覧できないベネッセハウスミュージアムの一部の展示や、屋外作品などを網羅しようとすると難しいかもしれませんが、基本的に直島だけであれば1日で見て回ることは可能です。



とは言え、直島を取り巻く瀬戸内には、豊島美術館などのある豊島、そして精錬所で知られる犬島など、他のアートスポットも数多く存在します。次回、直島を訪ねる機会があれば、他の島へも是非行ってみたいと思いました。

「ベネッセアートサイト直島」 地中美術館、ベネッセハウスミュージアム、李禹煥美術館、家プロジェクトほか
休館:月曜日。但し祝日の場合開館し、翌日休館(地中美術館、李禹煥美術館、家プロジェクト)。無休(ベネッセハウスミュージアム)。
 *メンテナンスのための臨時休館あり。
時間:3月1日~9月30日 10:00~18:00、10月1日~2月末日 10:00~17:00(地中美術館、李禹煥美術館)。8:00~21:00(ベネッセハウスミュージアム)。10:00~16:30(家プロジェクト)
 *各館毎に最終入館時間の設定あり。
料金:2100円(地中美術館)。1050円(ベネッセハウスミュージアム、李禹煥美術館、家プロジェクト)。
 *各施設ともに15歳以下は無料。
 *ベネッセハウスミュージアムは宿泊客無料。
 *地中美術館はオンラインチケット予約制。
 *家プロジェクトは共通券。ワンサイトチケット(420円)あり。「きんざ」は完全予約制。
住所:香川県香川郡直島町3449-1(地中美術館)。香川県香川郡直島町琴弾地(ベネッセハウスミュージアム)。香川県香川郡直島町字倉浦1390(李禹煥美術館)。香川県香川郡直島町本村地区(家プロジェクト)。
交通:宇野港、または高松港より四国汽船フェリーにて宮浦港。(本村港へのルートあり)直島島内は路線バス、及びつつじ荘乗り換えの場内無料シャトルバスを利用
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「瀬戸内アートの楽園 直島を1日で巡る旅」 前編:ベネッセハウスミュージアム・李禹煥美術館・地中美術館

1992年にベネッセハウスミュージアムが開館し、後に地中美術館、李禹煥美術館などがオープンした香川県の直島は、いわば現代アートの聖地として多くの人々を集めてきました。



宿泊先の岡山を8時半前に出て、高松行きの快速マリンライナーに乗車し、茶屋町で宇野線に乗り換えて約30分ほど経つと、終点の宇野駅に到着しました。宇野は岡山県側の直島への起点で、島へは駅の目の前にある宇野港からフェリーに乗船する必要がありました。



9時20分過ぎのフェリーに乗ると、船内はツアー客などで賑わっていて、特に外国の方々の姿が多く見受けられました。



直島の玄関口の1つである宮浦港への所要時間は約20分ほどで、瀬戸内海の景色を眺めながら、のんびりと船に揺られると、すぐに草間彌生のかぼちゃのオブジェがある宮浦港に着きました。



現代美術の展示施設は概ね島の中南部に点在していて、観覧に際しては、基本的にはバスで周遊する形となっていました。各施設の行き来に定まったルートはありませんが、私はまず、バスルートで最も港から遠い地中美術館などのある島南部の美術館エリアを目指すことにしました。



港から満員の町営バスに乗車し、終点のつつじ荘で下車して、ベネッセアートサイトの無料場内バスに乗り換えると、高低差のある狭い一本道を進み、海を望む高台へと上がりました。そこに位置するのがベネッセハウスミュージアムでした。



ベネッセハウスミュージアムは1992年、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトに、安藤忠雄の設計によってオープンした美術館で、ホテルの機能も兼ね備えています。

山の斜面に沿って建てられていて、ギャラリー部はほぼ地下に埋めこまれ、地下と1階、2階部分に、約20名の現代美術家の作品が公開されていました。なお昨今、撮影の可能な美術館も増えてきましたが、直島では原則、各施設の展示室内の写真を撮ることは出来ません。



建物は円筒形の部分と、窓から光の差し込む縦に長いスペースに分かれていて、思いの外に広く、リチャード・ロングやブルース・ナウマンなどの大作のインスタレーションも展示されていました。またコレクションの一部は作家が同地で制作していて、リチャード・ロングの「瀬戸内海の流木の円」も直島の素材も使用していました。



2階にはカフェとショップがあり、そこから外の景色については撮影も可能でした。ともかく海を望む抜群のロケーションで、この日は快晴だったこともあり、瀬戸内海に浮かぶ島や行き交う船などが眺められました。



ベネッセハウスミュージアムを後にして、再び無料バスに乗ると、すぐに李禹煥美術館に辿り着きました。美術館エリアとしては最も新しい2010年に建てられた施設で、もの派の作家として知られるとして李禹煥のコレクションが収められています。



李禹煥美術館で特徴的なのは、建物の外のスペースも効果的に用い、作品と景観を融合させていたことでした。



ちょうど美術館はベネッセハウスミュージアムと地中美術館の間の谷間に建てられていて、バス停から階段を降りると正面に柱の広場があり、左手には海に面したスペースに「無限門」などの大規模な作品が設置されていました。



大きな半円を描く「無限門」は海を借景として取り込んでいて、実にダイナミックな景観を築き上げていました。



一方の柱の広場では、高さ18メートルを超える柱、「関係項ー点線面」が設置されていて、建物の壁の水平面とは対比的な垂直軸を生み出していました。



「沈黙の間」や「影の間」、それに「瞑想の間」などから構成された美術館内部も、李の新旧の作品が空間と巧みに調和していて、あたかも洞窟を辿りつつ、修道院の中へと迷い込むかのような神秘的な体験を得ることも出来ました。



李は美術館の建設に際し、「静かに瞑想する空間を作りたい」と考えていたそうですが、設計の安藤忠雄の力も借りて、自らの世界観を見事に体現していたのではないでしょうか。私としては美術館エリアの安藤建築の中で、最も心に惹かれたのが李禹煥美術館でした。



李禹煥美術館から地中美術館へは適当な時間のバスがなかったため、徒歩で移動することにしました。場内シャトルバス路線内はバスと徒歩のみ通行可能で、自転車も走行することが出来ません。しばらく歩き、右手に池を見やると、地中美術館のチケットセンターが姿を現しました。



地中美術館は建物の大半が地下に埋設された美術館で、安藤忠雄の設計の元、2004年に建てられました。そして地中へ降り注ぐ自然光を用いた展示室に、クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームス・タレルの3名の作家の作品が恒久設置されました。



チケットセンターで事前に手配したチケットを引き換え、モネの睡蓮の池を模した「地中の庭」の小道を歩くと、美術館の建物のゲートが見えてきました。



原則、入れ替え制になっているため、さほど混んでいないのかと思いきや、ベネッセハウスミュージアムや李禹煥美術館よりも明らかに人が多く、想像以上に賑わっていました。ちょうど昼時だったからかカフェもほぼ満席で、タレルの「オープン・フィールド」の体験型展示には行列も出来ていました。

私として印象に深いのはモネの睡蓮の展示室で、真っ白な壁面に浮かび上がる青みがかかった色彩の渦は殊更に美しく思えました。2センチ角の大理石の床も足に独特な触感をもたらしていて、まさに全てが睡蓮のために作られた空間であることが感じられました。また正面の「睡蓮の池」は2枚合わせて横幅6メートルもあり、これほど大きな睡蓮を見たこと自体も初めてでした。

一方でウォルター・デ・マリアの展示室は、作品が安藤建築に対峙するかのように設置されていて、不思議な緊張感を醸し出していました。その階段状の空間をはじめ、金箔で覆われた柱などからは、祭壇や教会のイメージも浮かび上がるかもしれません。



空を切り取ったタレルの部屋でしばらく休み、列に加わって「オープン・フィールド」で光を浴びた後は、地中美術館を退館し、無料バスに乗車して、終点のつつじ荘へと戻りました。

後編:本村地区・家プロジェクトへと続きます。

「ベネッセアートサイト直島」 地中美術館、ベネッセハウスミュージアム、李禹煥美術館、家プロジェクトほか
休館:月曜日。但し祝日の場合開館し、翌日休館(地中美術館、李禹煥美術館、家プロジェクト)。無休(ベネッセハウスミュージアム)。
 *メンテナンスのための臨時休館あり。
時間:3月1日~9月30日 10:00~18:00、10月1日~2月末日 10:00~17:00(地中美術館、李禹煥美術館)。8:00~21:00(ベネッセハウスミュージアム)。10:00~16:30(家プロジェクト)
 *各館毎に最終入館時間の設定あり。
料金:2100円(地中美術館)。1050円(ベネッセハウスミュージアム、李禹煥美術館、家プロジェクト)。
 *各施設ともに15歳以下は無料。
 *ベネッセハウスミュージアムは宿泊客無料。
 *地中美術館はオンラインチケット予約制。
 *家プロジェクトは共通券。ワンサイトチケット(420円)あり。「きんざ」は完全予約制。
住所:香川県香川郡直島町3449-1(地中美術館)。香川県香川郡直島町琴弾地(ベネッセハウスミュージアム)。香川県香川郡直島町字倉浦1390(李禹煥美術館)。香川県香川郡直島町本村地区(家プロジェクト)。
交通:宇野港、または高松港より四国汽船フェリーにて宮浦港。(本村港へのルートあり)直島島内は路線バス、及びつつじ荘乗り換えの場内無料シャトルバスを利用
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「禅の里と恐竜の故郷を旅して」 後編:福井県立恐竜博物館

前編「曹洞宗大本山永平寺」に続きます。福井県立恐竜博物館へ行ってきました。



永平寺から福井県立恐竜博物館へは、九頭竜川に沿った国道をひたすら東へ進み、石川県にも接した勝山市へ向かう必要があります。



両側に山の迫る川縁の道を走っていると、ほぼ正面に銀色の卵のような形をした建物が目に飛び込んできました。遠くからでも大変に目立っていて、すぐに恐竜博物館であることが分かりました。



1989年から恐竜の調査事業を勝山市で開始し、多くの化石を発掘した福井県は、2000年に国内最大級の地質・古生物学博物館である福井県立恐竜博物館をオープンしました。



一帯は「かつやま恐竜の森」(勝山市長尾山総合公園)として整備されていて、想像以上に広大な施設でした。また「かつやま恐竜の森」には、実物大の恐竜の模型が揃うかつやまディノパークや化石発掘体験コーナー、恐竜の遊具のある公園やバーベキューガーデンなどもあり、恐竜博物館を中心とした一大テーマパークと捉えて差し支えありません。(一部は冬季期間休業。)

また2009年には勝山市全域が、恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークとして、日本ジオパークに認定されました。言わば日本の恐竜のふるさととも呼べるのではないでしょうか。



建物を設計したのは黒川紀章建築都市設計事務所で、ちょうど丘の中に埋もれるような形になっているのか、3階より入場し、エスカレーターで地下の「ダイノストリート」へ降りた後、1階の「恐竜の世界ゾーン」と「地球の科学ゾーン」、そしてスロープを経由して2階の「生命の歴史ゾーン」へと進む動線となっていました。

内部も卵形のスペースが特徴的で、ちょうどエントランスから潜り込むようなアプローチは、東京の葛西臨海水族園を連想させるものがありました。


「恐竜の世界ゾーン」展示風景

1階の「恐竜の世界ゾーン」からして圧巻の内容でした。ドーム型の高さ37メートルもの大ホールには、10体の本物の骨格を含む、全44体もの全身骨格が展示されていました。


「恐竜の世界ゾーン」展示風景

私もこれまでに様々な恐竜に関する展覧会を見てきたつもりでしたが、これほどの密度で骨格が並ぶ姿を目にしたの初めてだったかもしれません。


「恐竜の世界ゾーン」展示風景

また中央の円形状のスペースでは「恐竜のからだと暮らし」と題し、恐竜の誕生や食性などについてパネルや資料で紹介していました。


「恐竜の世界ゾーン」展示風景

ともかく骨格が密に並ぶだけに、標本そのものに圧倒されてしまいましたが、よく見やると解説パネルが詳細で、恐竜を見て楽しむだけでなく、学びの観点においても充実した展示であることが分かりました。


「中国四川省の恐竜たち」展示風景

さらに奥では「中国四川省の恐竜たち」とし、同地域の中生代の恐竜を実物大で再現したジオラマも広がっていました。


「中国四川省の恐竜たち」展示風景

一部では動く恐竜の模型があるなど、全体として臨場感があり、まるで恐竜のいた時代へタイムワープしたかのような錯覚に陥るかもしれません。


「ダイノシアター」

対面スクリーンに恐竜の生態を再現した「ダイノシアター」も迫力十分でした。


「日本とアジアの恐竜」から

1階スペースで見逃せないのは、アジアや日本、特にご当地である福井県の恐竜について紹介する展示があることでした。


「手取層群の環境再現」

日本では長く恐竜の化石が発見されませんでしたが、1978年に岩手県で竜脚類の化石が見つかると、次々と各地で化石が掘り出されるようになりました。その結果、日本でもジュラ紀後期から白亜紀後期にかけて、北海道から九州に至るまでに恐竜が生息していたことが判明しました。


「フクイティアン・ニッポネンシス」

そのうち手取層群とは、北陸一帯に分布する中世代の地層で、これまでにも多くの化石が発見されました。そして全長10メートルほどと推定され、白亜紀前期の竜脚類であるフクイティアン・ニッポネンシスも、手取層群のある勝山で見つかった恐竜でした。


「フクイサウルス・テトリエンシス」(複製)

このフクイベナトール・パラドクサスを含め、同じく勝山で発見されたフクイベナトール・パラドクサスやフクイサウルス・テトリエンシスなど5体の新種の恐竜化石は、2017年に発掘現場とともに国の天然記念物に指定されました。


「恐竜発掘現場再現」展示コーナー

また同じく1階の「地球と科学ゾーン」では、恐竜発掘現場の再現の他、地質調査や岩石など、科学の視点から地球について紹介する展示も行われていました。



再び「恐竜の世界ゾーン」へ戻り、骨格標本の立ち並ぶ光景を見下ろしながら、スロープで2階へと上がると、「生命の歴史ゾーン」へと辿り着きました。


「ケナガマンモス」(複製)他

ここではドーム型の展示室の半分を利用し、生命の誕生から人類の出現までを追っていて、古生代から新世代へと至る生命の進化の軌跡を辿ることが出来ました。ケナガマンモスの大きな複製骨格も迫力があるかもしれません。


「生命の歴史ゾーン」展示風景

植生の変化、恐竜から鳥への進化のプロセス、哺乳類時代の陸と海を比べた展示も興味深い内容ではないでしょうか。何も恐竜博物館は恐竜の時代のみにスポットを当てた博物館ではありませんでした。

この他、ティラノサウルスレックスの骨格を間近に観察可能なダイノラボや、化石のクリーニング作業を公開した「化石クリーニング室」などもあり、恐竜の魅力に触れるとともに、調査や研究の一端についての知見を得ることも出来ました。海外の研究機関との共同調査にも取り組む福井県立恐竜博物館は、日本やアジアの恐竜学の一大研究拠点でもありました。


「生命の歴史ゾーン」展示風景

この日は特別展の開催はなく、時間の都合もあり、常設展のみ観覧してきましたが、予想以上のボリュームでした。そして恐竜博物館には、ツアー形式で見学可能な「野外恐竜博物館」もあり、博物館の内外を含め、「かつやま恐竜の森」の全てを楽しむには、おそらく1日がかりとなるのではないでしょうか。


「アロサウルス・フラギリス」

近年、福井県立恐竜博物館の人気が高まり、今年の上半期の入館者数は過去最高の65万人を記録し、年間でも昨年度の93万名を上回る勢いで推移しています。確かに私が出向いた日も、混雑こそしていなかったものの、若い方から年配の方、さらにファミリーに至る幅広い層の人々で賑わっていました。


「ディメトロドン・リンバタス」

現在、福井県では、2023年の北陸新幹線敦賀延伸開業を見据え、博物館を増築し、新たな特別展示室や収蔵庫、研究体験スペースを設けることを検討しています。ショップやレストランの拡充も予定されています。



既に福井を代表する文化観光施設と化していましたが、数年後にはスケールアップした恐竜博物館がお目見えするのでしょうか。また改めて出かけたいと思いました。

「福井県立恐竜博物館」
休館:第2・4水曜日
 *祝日の時は翌日が休館、夏休み期間は無休。
 *年末年始(12月29日~1月2日)但し2019年度は12月31日~1月2日。
 *施設点検などに伴う臨時休館あり。
時間:9:00~17:00
 *入館は16時半まで。
 *開館時間を拡大する期間あり。
料金:一般730(630)円、高・大学生420(320)円、小・中学生260(210)円。未就学児、70歳以上無料。
 *( )内は30名以上の団体料金。
 *特別展は別途料金。
 *毎月第3日曜日の「家庭の日」(7~9月を除く)、4月17日の「恐竜の日」、5月18日の「国際博物館の日」、10月15日の「化石の日」、11月第3土曜日の「関西文化の日」、2月7日の「ふるさとの日」は常設展観覧料が無料。
住所:福井県勝山市村岡町寺尾51-11 かつやま恐竜の森内
交通:えちぜん鉄道勝山永平寺線勝山駅下車、コミュニティバスにて約15分、及びまたはタクシーにて約10分。無料駐車場あり。(乗用車1500台分)
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「禅の里と恐竜の故郷を旅して」 前編:曹洞宗大本山永平寺

1244年、曹洞宗の宗祖道元によって開かれた永平寺は、座禅修行の道場として、長らく人々の信仰を集めてきました。そして福井県北東部の永平寺町の山中にて、法堂、仏殿、僧堂などの7つの堂による伽藍を有してきました。



羽田から9時前の飛行機に乗り、小松へ降り立った後、福井の知人の車に乗ったのは10時頃でした。小松から永平寺へはおそらく北陸自動車道を入り、福井北JCTから中部縦貫自動車道を経由して、永平寺参道ICから向かうのが一般的かもしれませんが、今回は知人の案内によって、小松から山代温泉、山中温泉、さらに大聖寺川へと伸びる国道364号線を利用することにしました。



山中温泉を過ぎるとダム湖を望む山道となりましたが、しばらく走って福井県内に入ると、江戸時代初期に建てられ、同県内最古の民家である「坪川家住宅」こと「千古の家」が姿を現しました。



残念ながら休館日のため、中に入ることは叶いませんでしたが、門の外からも母屋だけは見ることが出来ました。茅葺の屈曲した屋根が極めて特徴的な建物で、当時の豪族の生活様式を伝えることから、1966年に国の重要文化財に指定されました。



「千古の家」を出て、再び364号の山道を上っては下り、九頭竜川を渡ると、永平寺町へと到着しました。ただ永平寺は、役場のある町中心部より南側の山中にあるため、さらに車を進めると、土産店などの立ち並ぶ門前の通りが見えてきました。



車を停めて門前へと向かうと、南側にもう一本の参道が伸びていることが分かりました。これは今年夏、「永平寺門前まちなみ整備事業」にて整備された新たな参道で、永平寺川沿いの石畳の親水空間には宿泊施設も設けられました。この新しい参道は1600年の古地図に由来するもので、創建当時から明治時代までは、永平寺川沿いを歩いて参詣していたことが記録されているそうです。その後、ルートが変わって現在へと至りましたが、いわば約1世紀ぶりに参道が復元されたとして良いのかもしれません。



龍門を抜け、木立の中、苔の生茂る石垣などを眺めて歩くと、参詣者の受付のある通用門が見えてきました。



永平寺での参詣は、まず通用門で受付を済ませ、その後、吉祥閣、傘松閣へと進み、さらに僧堂、仏殿、法堂などを回廊を歩きながら、左回りに7つの伽藍を巡るスタイルになります。また写真に関しては、修行僧である雲水にカメラを向けなければ、原則自由に撮影が出来ました。(フラッシュ不可。)



傘松閣の2階にある「絵天井の間」の天井絵が圧巻でした。156畳もの大広間の天井には、昭和初期の144名の日本画家の描いた彩色画が飾られていて、四季の草花や鳥など、いわゆる花鳥風月を主題した作品が230枚も広がっていました。



7つの伽藍の中で最も古い建物が、1749年に築かれた山門で、中国の唐の様式に基づく楼閣でした。また山門から見上げると、さも山城の砦のような威容を見せる中雀門や仏殿を望むことも出来ました。



伽藍の中心に位置するのが、1902年に改築された仏殿で、曹洞宗の本尊である釈迦牟尼仏をはじめ、弥勒仏と阿弥陀仏が祀られていました。



檀の上には「祈祷」の額が掲げられ、左右には実に精巧な彫刻の施された欄間がのびていました。いずれも禅の逸話などを表現しているそうです。



大きな屋根の広がる僧堂にも目を引かれました。仏殿と同様の1902年の改築で、正面には「雲堂」の額が掛けられ、日々の雲水の修行の場として用いられています。



「法王法」の額を掲げ、伽藍でも最も高い場所に位置するのが、聖観世音菩薩を祀った法堂でした。住持が法を説く道場として築かれていて、説法の他に、朝課などの法要の儀式も執り行われています。



今回、私が永平寺をお参りして印象的だったのは、伽藍を繋ぐ回廊の存在でした。そして時折、伽藍の窓から垣間見える景観が殊更に美しく、しばし立ち止まっては見入ってしまいました。



山の中の鬱蒼とした森の中にある永平寺は、木々を揺らす風の音か鳥のさえずりくらいしか聞こえないほど静寂に包まれていました。



ちょうど紅葉の少し前のシーズンでもあり、まだ葉も青々と茂っていましたが、冬になると一帯は多くの雪が降り積もるそうです。



2018年に福井地方を襲った豪雪では、あまりにもの積雪のため、一時参拝が中断されたこともありました。その豪雪の様子もお寺の中で紹介されていましたが、まさに雪に埋もれた状態に置かれていて、除雪などで相当の苦難があったことも想像されます。また毎年、雪のために多くの瓦を取り替えているそうです。



一通り参拝した後は、門前で永平寺そばを食べ、次の目的地である福井県立恐竜博物館へと向かいました。



後編「福井県立恐竜博物館」へと続きます。

「曹洞宗大本山永平寺」
休場:年中無休
参拝時間:8:30~17:00
 *入場は16時半まで。
拝観料:大人500円、小・中学生200円。
 *座禅などの体験には別途料金。
住所:福井県吉田郡永平寺町志比5-15
交通:えちぜん鉄道勝山永平寺線永平寺口駅から、京福バス永平寺門前行または永平寺行に乗り、終点下車、徒歩5分。特急「永平寺ライナー」(京福バス、福井駅より直行約30分。毎日運行)あり。
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金沢に谷口建築を訪ねて 後編:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館

前編「鈴木大拙館」に続きます。谷口吉郎・吉生記念金沢建築館を見学してきました。



谷口吉郎・吉生記念金沢建築館が位置するのは、金沢市寺町5丁目の谷口吉郎の住まいの跡地でした。鈴木大拙館から道なりで約1.3キロと歩けなくはありませんが、私は周遊バスを利用し、最寄りの広小路バス停より向かうことにしました。



同館は谷口吉郎、ないし吉生を顕彰し、建築資料のアーカイブを構築すべく建てられた施設で、谷口吉生の設計により2019年7月に開館しました。まだオープンしてから半年も経っていないゆえに、金沢の新たな建築観光スポットと呼んでも差し支えないかもしれません。



蛤坂へと下る寺町通りの坂道に面した建物は、簾や庇などの日本の建築要素を取り入れた外観を特徴としていて、道路の反対側からもガラスを通して1階のラウンジを望むことが出来ました。また地上2階、地下1階建てで、周囲の建物と軒高を揃えていることから、街並みへも違和感なく溶け込んでいるようにも見えました。



1階のエントランスを進むと、案内、それにミュージアムショップとカフェが、縦に長いラウンジへと連なっていました。ちょうど夕方前の時間帯ゆえか、窓からは燦々と光が降り注いでいて、必ずしも広いとは言えないにも関わらず、かなりの開放感がありました。



内庭のある地下は2つの企画展示室から構成されていて、開館記念展である「清らかな意匠―金沢が育んだ建築家・谷口吉郎の世界」が開催されていました。ここでは谷口吉郎の建築をパネルや資料で紹介していて、金沢だけでなく、全国に展開する谷口建築を見知ることが出来ました。(企画展示室内は撮影不可。)



一方の2階部分には、常設展示として、谷口吉郎の設計した迎賓館赤坂離宮和風別館「游心邸」の広間と茶室が再現されていました。



そして寺町通りを挟んだ反対側には水庭が築かれていて、犀川沿いの崖地の上に面していることから、樹木越しに金沢市街を眺めることも出来ました。



1974年に建てられた「游心邸」は、日本の伝統的な建築を基にしていて、広間は47畳の一の間と12畳の二の間から成り立っています。



広間から広縁へ連なる天井は、平天井と斜め天井が組み合わせられていて、縦長のデザインの障子や広い床や棚など、思いの外に変化のある空間にも見えました。



また能舞台のような小間のある茶室は、周囲の椅子席より点前を鑑賞出来るように作られていて、ここでも斜め天井や木を編んだ網代天井など、上下に起伏のある空間が作られていました。



中への立ち入りは出来ないため、座敷から外を眺めることは叶いませんが、広間からは斜め天井を通し、広縁、そして水庭の景色を一体となって取り込むように設計されているそうです。日本の伝統的な様式へ現代の意匠を融合させた、谷口吉郎の稀なセンスも感じられました。



一通り、見学を済ませた後は、1階カフェの茶房「楓」で少し休憩することにしました。ここでは加賀紅茶やコーヒーなどの軽食をとることが可能で、まるでビールのような泡立ちのドラフトアイスコーヒーも美味しくいただけました。金沢21世紀美術館内のFusion21と同様、主に金沢でカフェなどを展開するメープルハウスが運営しています。

さて最後にお出かけの際におすすめしたいのが、金沢市文化施設共通観覧券です。

*泉鏡花記念館

同観覧券は、鈴木大拙館、及び谷口吉郎・吉生記念金沢建築館を含む、金沢市内の17の文化施設にフリーで入場出来るパスポートで、1DAYパスポート520円、3日間パスポート830円などがあります。(1年間パスポート2090円もあり。)私も1DAYパスポートを購入しました。

*寺島蔵人邸

そしてパスポートを手に泉鏡花記念館、寺島蔵人邸、室生犀星記念館の3施設もあわせて行きましたが、全て対象施設のためにフリーで見学出来ました。また「1ウィークとくとくミュージアムめぐり」にも参加し、5館のスタンプを集め、クリアファイルなどの記念品も頂戴しました。

*寺島蔵人邸

1DAYタイプであれば、鈴木大拙館と谷口吉郎・吉生記念金沢建築館でも元が取れます。さらに他の施設の見学を含めれば、相当にお得ではないでしょうか。

*ひがし茶屋街

なお言うまでもなく、金沢市内には鈴木大拙館や谷口吉郎・吉生記念金沢建築館だけでなく、石川県立伝統産業工芸館や金沢市立玉川図書館など、谷口親子の手掛けた施設が存在します。今回は残念ながら時間の都合もあり、他の建物までは廻れませんでした。また改めて出向きたいと思います。

「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」
休館:月曜日
 *月曜日が休日の場合はその直後の平日。
 *年末年始(12月29日~1月3日)
時間:9:30~17:00
 *入館は16時半まで。
料金:一般310(260)円、65歳以上210円、高校生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
 *金沢市文化施設共通観覧券で入場可。(1DAYパスポート520円、3日間パスポート830円。)
 *特別展開催時は別途料金の場合あり。
住所:石川県金沢市本多町3-4-20
交通:JR金沢駅兼六園口(東口)より城下まち金沢周遊バス、及び北陸鉄道路線バス「広小路」下車、徒歩2~3分。
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金沢に谷口建築を訪ねて 前編:鈴木大拙館

金沢出身の建築家、谷口吉郎と、子の谷口吉生に所縁のある金沢には、いくつかの谷口建築が存在します。



その1つが金沢出身の仏教哲学者の鈴木大拙を顕彰し、思索の場として建てられた鈴木大拙館で、2011年に谷口吉生の設計によってオープンしました。



金沢駅からバスに乗り、最寄りの本多町で下車して、本多通りから小道へ折れると、鈴木大拙館が姿を現しました。ちょうど北陸放送のビルの裏側に位置し、小立野台地の斜面緑地を背にしていて、建物越しにも鬱蒼とした森を目にすることが出来ました。



玄関棟、展示棟、思索空間棟と名付けられた3つの棟からなっていて、いずれも回廊で結ばれつつ、玄関の庭、水鏡の庭、露地の庭の3つの庭が、建物を取り囲むように配されていました。



受付を済ませ、右手にクスノキのある玄関の庭を眺めながら、内部回廊を直進すると、展示棟に辿り着きました。この棟は展示空間と学習空間から構成されていて、大拙の書や写真、言葉が紹介されていた他、一部の著作を手にとって閲覧することも可能でした。

「単にものを鑑賞する場としない」(公式サイトより)とする鈴木大拙館では、あくまでも空間全体にて大拙の心や思想に触れることを志向していて、いわゆる資料などの展示品は多くはありませんでした。



展示棟を出ると、水の満たされた水鏡の庭が目に飛び込んできました。ちょうど正面の思索空間棟を囲みつつ、水盤が展示棟の間に築かれていて、ベンチに座わりながら、思い思いに建物などを眺めることも出来ました。



ちょうどこの日は雲ひとつない晴天のため、水盤には建物の影や周囲の樹木が映り込んでいて、時折、吹く風に揺れては、僅かに波を立てていました。



水に浮かぶような思索空間棟を眺めつつ、風や樹木のざわめきに耳を傾けていると、突如、大きな水音とともに、水盤に波紋が広がる光景を目に飛び込んできました。それは一瞬の静寂を打ち破り、僅かな緊張感を与えつつも、すぐさま元の静寂へと戻っていき、さも永続的な時間を刻んでいるかのようでした。



最も特徴的な建物は思索空間棟と言えるかもしれません。がらんとした内部には、畳による椅子のみがぐるりと四角形を描くように置かれていて、それ以外のものは一切ありませんでした。



そして四方には開口部があり、常に開け放たれているのか扉もなく、周囲の景色ともに、僅かな風が吹き込んでくる様を肌で感じることも出来ました。どのように中で過ごすかについてはあくまでも来館者に委ねられていました。

開口部より切り取られた借景も殊更に美しく、ぼんやりと眺めていると、いつしか時間の感覚を忘れていくかのようで、それこそ無の境地へと達するかのようでした。



明治3年に同地、金沢市本多町に生まれた鈴木大拙は、禅を研究すると、後にアメリカへ渡っては、仏教哲学を世界に紹介しました。生前には、建物の設計者である谷口吉生の父、吉郎との交流もあったそうです。



館内で紹介されていた「外は円くても中に四角なところがあって欲しい」との大拙の言葉を思い浮かびました。

鈴木大拙館はシンプルでかつ、直線で構成された幾何学的な建物でしたが、四角はもとより、水盤の波紋の円など、それこそ仙崖の表した「○△□」、つまりは鈴木大拙が「ユニバース」と名付けたとされる宇宙的な世界を感じることが出来るかもしれません。



移ろう景色に見惚れつつ、大拙の言葉にも触れながら、しばらく身と心を鈴木大拙館へと委ねました。



なお鈴木大拙館の横手からは、松風閣庭園や中村記念美術館などへと続く小道がのびています。私も少しだけ散策して、次の目的地の「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」へと向かいました。



後編「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」へと続きます。

「鈴木大拙館」
休館:月曜日
 *月曜日が休日の場合はその直後の平日。
 *年末年始(12月29日~1月3日)
 *展示替え休館日あり。
時間:9:30~17:00
 *入館は16時半まで。
料金:一般310(260)円、65歳以上210円、高校生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
 *金沢市文化施設共通観覧券で入場可。(1DAYパスポート520円、3日間パスポート830円。)
住所:石川県金沢市本多町3-4-20
交通:JR金沢駅兼六園口(東口)より城下まち金沢周遊バス、及び北陸鉄道路線バス「本多町」下車、徒歩4分。
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小田原文化財団「江之浦測候所」への旅 後編:竹林エリア

「前編:明月門エリア」に続きます。小田原文化財団「江之浦測候所」へ行ってきました。



明月門エリアより藤棚を抜けると、木漏れ日の差し込む鬱蒼とした森の中に入りました。さらに小道を進み、坂道を降りると、小さな石仏などが道端から顔をひょっこり覗かせていました。



これらは、大阪の実業家で、仏教美術を蒐集し、茶人でもあった細身古香庵が、泉大津の邸宅に置いていた石仏群でした。なお同氏のコレクションの多くは、仏教美術だけではなく、琳派などの江戸絵画でも定評のある京都の細見美術館へと引き継がれています。



竹林エリアは明月門エリアより遅れること約1年、2018年10月に新たにオープンした、山の斜面のみかん畑を囲むように整備されたエリアでした。明月門エリアよりも低い場所にあり、確かに下からギャラリー棟を眺めると、相当の高低差があることが分かりました。



ここで中核となる施設が、昭和30年代にみかん畑の道具小屋を整備して作られた化石窟でした。



古屋の中ではみかん栽培のための農機具類や、杉本の化石コレクションが展示されていて、とりわけ目立っていたのが約5億年前に遡る三葉虫の化石でした。



さらに化石窟への奥へと進むと、硝子の社に祀られた縄文時代後期の石棒が姿を現しました。いわゆる石剣への移行期に当たる祭祀用の用具で、水色のガラスの質感と独特なコントラストを描いていました。



小屋の裏手の磐座も見逃せません。樹木の根が露出しては、まるで大蛇のように大地へ食らいつく斜面の前には、1本の石棒が祀られていて、何やら太古の遺跡の気配を伝えるかのようでした。なお巨石は小屋を整備する途中、偶然に発見されたそうです。



化石窟を見学して小道を歩くと、竹林を背景に杉本自身の造形作品、「数理模型0010」が光学ガラスの上に立つ姿が目に飛び込んできました。先ほどの太古の磐座からは一転、さも宇宙と交信するアンテナのような近未来的な雰囲気が感じられるかもしれません。



かつて広島の中心部にあり、原爆投下時に被曝した宝塔の塔身も印象深い資料ではないでしょうか。宝塔は南北朝から室町時代に作られたとされていて、屋根の部分は熱線などにより粉砕されたと考えられているそうです。



一通り、竹林とみかん畑を見学し終えた後は、斜面の小道を登り、明月門エリアへと戻ることにしました。



しばらく進み、ちょうど海へと突き出た夏至光遥拝100メートルギャラリーの展望台の下を抜けて、建物の裏手に回ると、石造の鳥居と茶室「雨聴天」が見えてきました。



「雨聴天」は利休の待庵の写しで、春分と秋分の日の出の際は、太陽の光がにじり口より中へ差し込むように作られています。



そして屋根はかつて残されていた小屋のトタンを用いていて、雨が降る音がトタンに響く音を聴くことから、「雨聴天」と名付けられました。茶室の中へ入ることは叶いませんが、外から中の様子は伺うことは出来ました。



茶室横の鎌倉時代の鉄宝塔も興味深いのではないでしょうか。木造の宝塔を鉄で鋳造したもので、これ以外には現在、13世紀の国宝「西大寺鉄宝塔」と15世紀の重要文化財「日光山鉄宝塔」の2例しか確認されていません。極めて貴重な作品資料と言えそうです。



宝塔を観覧し、箱根町の「奈良屋」の別邸への門として使われていた門を潜ると、夏至光遥拝100メートルギャラリーの中からも見えた円形石舞台に辿り着きました。そして石舞台の一方が冬至光遥拝隧道の入口となっていて、中に入っては海の方へと歩くことが出来ました。



隧道の途中には採光のため光井戸があり、光学硝子の破片が敷き詰められていました。雨の日は、雨粒の一滴一滴が井戸に降り注ぐのを目で見られるそうです。



さらに光に誘われて先へ向かうと止め石があり、まさに目の前に海を望めました。写真では分かりにくいかもしれませんが、ちょうど開口部の上下で海と空が二分していて、まさに杉本の海景そのものでした。

最後に観覧に際しての注意点です。まずチケットは原則、ネットでの事前予約制です。専用サイトにて午前の部(10:00~13:00)、もしくは午後の部(13:30~16:30)のどちらかを予約する必要があります。なお入場人数を相当に制限しているのか、敷地内の人は疎らで、見学に際して並ぶことなどは一切ありませんでした。



敷地内はほぼ屋外で、屋内スペースはギャラリー棟や待合所程度に過ぎず、空調のあるスペースも限られています。全て歩いて見て回るため、見学時間は個人差があるものの、最低2時間は必要です。

また敷石や舗装されていない通路も多く、歩きやすい服装や靴でないと観覧するのもままなりません。高低差のある山道もあるので、簡単なトレッキングの感覚で準備されることをおすすめします。雨具等も必須です。外を歩くことを考えると、傘よりもレインコートの方が有用かもしれません。



飲食に関しては自販機は設置されていましたが、カフェや売店はありませんでした。ただ屋外のベンチでは持ち込んでの飲食が可能でした。とは言え、根府川駅には食事を調達出来るような店はないので、予め用意する必要がありそうです。



9月初旬のまだ暑い日に出向いたからか、歩いていると、終始、汗が吹き出ているのを感じました。夏は暑さ、そして冬は寒さ対策が必要です。



測候所の名が表すように、気象条件によっても鑑賞体験が大きく変わるのかもしれません。私が出向いた日は快晴でしたが、曇天や雨、それに季節によっても光の感覚はもちろん、景色が大きく違って見えるのではないでしょうか。

杉本は子どもの頃、江の浦を走る東海道線から見た景色が、海景シリーズの原点だと語っています。



「古代の人々がどのように自然を見ていたのか?」を同時体験出来るという江の浦測候所は、まさに杉本の美意識で全てが構築された、「アーティストとしての集大成」(解説より)を飾るに相応しい場所でした。

「小田原文化財団江之浦測候所」@odawara_af
休館:火、水、年末年始および臨時休館日
時間:午前の部(10:00~13:00)、午後の部(13:30~16:30) *事前予約制。各回定員制での入れ替え。
料金:一般3000円(ネット事前購入。税別。)。当日の場合は3500円(朝9時より電話予約。税別)。
住所:神奈川県小田原市江之浦362-1
交通:JR線根府川駅より無料送迎バス。JR線真鶴駅よりタクシー10分。(料金2000円程度)駐車場あり。
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小田原文化財団「江之浦測候所」への旅 前編:明月門エリア

小田原文化財団「江之浦測候所」へ行ってきました。

現代美術家の杉本博司は、自らのコレクションを公開すべく、2017年10月、神奈川県小田原市に建築施設や庭園からなる江之浦測候所をオープンしました。



最寄駅はJR東海道線の根府川駅でした。10時前の電車で駅に到着すると、淡い水色に彩られた木造の可愛らしい駅舎が出迎えてくれました。相模湾に面した同駅は見晴らしの良いことでも知られ、関東の駅百選に認定されています。



根府川駅からの徒歩アクセス(約50分)は現実的ではありません。よって事前に予約しておいた無料送迎バスで行くことにしました。午前のバスは9:45、10:05、10:30の3便あり、駅前から10:05の便に乗車すると、バスはカーブの多い山間の道をしばらく登って、約10分ほどで江之浦測候所の駐車場にたどり着きました。



江之浦測候所が位置するのは、箱根外輪山を背にした、相模灘を眼下にした急峻な山地で、駐車場からも海を一望することが出来ました。そして駐車場から坂道を上がると、右手に瓦屋根の古い門、明月門が姿を現しました。



これは室町時代、鎌倉の明月院の正門として建てられ、大正の関東大震災で半壊し、後に解体と保存、また移築されて、戦後に根津美術館の正門として使われた建物でした。2006年の根津美術館の建て替えの際、小田原文化財団へと寄贈され、この地に再建されたそうです。江之浦測候所のシンボルと言えるかもしれません。



ただ受付は明月門にはありませんでした。係の方の誘導により門を横目に進むと、四方をガラスで囲んだ待合所に案内されました。中央には樹齢一千年を超える屋久杉のテーブルが置かれ、窓の外からは箱根外輪山を見渡すことが出来ました。



このスペースが事実上の受付でした。敷地内の見学は原則、自由ですが、入場の際には一度、待合所にて係の方から注意事項などの説明を聞く必要があります。そこでマップを頂戴し、立ち入り禁止エリアなどを説明していただいた後、いよいよ見学となりました。



江之浦測候所のエリアは大きく分けて2つ存在します。1つは待合室やギャラリー棟や光学硝子舞台、茶室からなる明月門エリアです。そしてその先に榊の森、みかん道、化石窟、竹林の小道からなる竹林エリアが続いていました。よって順路の通り、明月門エリアより見学することにしました。



まず待合所の目の前に建つのが、夏至光遥拝100メートルギャラリーと名づけられた、測候所唯一のギャラリー棟でした。ちょうど海抜100メートルの位置に、全長100メートルからなる建物で、ギャラリーの先端部は海に突き出すような展望スペースとなっていました。そして夏至の朝、海から昇る太陽の光がこの建物の中を透過するように設計されていました。



大谷石の壁が特徴的な建物の中には、杉本の海景シリーズの作品が展示されていて、一方のガラス壁から外を見やると円形石舞台と、苔庭に据えた三角形の石が設置されていました。



こうした石こそ測候所の要と言えるかもしれません。実際のところ庭園内には、飛鳥時代に遡る法隆寺の若草伽藍の礎石や、天平時代の元興寺の礎石、それに室町時代の渡月橋の礎石などが、さも空間を引き締めるかのように随所に置かれていました。



堆く石の積まれた三角塚も目を引くのではないでしょうか。これは根府川石を組む過程で古墳のような空間が現れたことから、実際に古墳石室に使われた石と石棺の一部を収めたもので、まるで明日香の石舞台古墳を連想させるかのようでした。



石舞台は能舞台の寸法を基本として設計されていて、石材は当地を開発した際に出土した転石を用いていました。なおそもそも同地は強固な岩盤で支えられていて、近隣には根府川石丁場など、石を切り出すための丁場が今も残されているそうです。なおこの石舞台の石橋の軸線は、春分秋分における朝日の光が抜ける線に合わせられていました。



夏至光遥拝100メートルギャラリーと並び、明月門エリアで象徴的な存在であるのが、光学硝子舞台と古代ローマ円形劇場写し観客席でした。舞台は冬至の朝の光を貫く冬至光遥拝隧道と並行に設置され、檜の懸造りの上に光学硝子が敷き詰められていました。まさに海に突き出さんとばかりの斜面に位置していて、さながら空中舞台とも言えるかもしれません。



その舞台を囲むのが、イタリアのラツィオ州にあるフェレント古代ローマ円形劇場遺跡を再現した観客席でした。ちょうど観客席から舞台を眺めると、立ち位置によっては水に浮かんでいるようにも見えなくなく、それこそ杉本の海景シリーズと重なって思えてなりませんでした。



また冬至光遥拝隧道の上は、止め石の場所まで歩いて進むことも可能でした。何せ高い位置にあり、手すりも一切ないため、足元もすくみましたが、先から広がる海はまさに絶景と言えるのではないでしょうか。なおこの止め石は敷地内の随所にありましたが、いずれも立ち入り禁止箇所を示す目印として使われていました。



円形劇場への入口にはイタリアの大理石のレリーフがはめ込まれていました。これは12~13世紀頃に作られた、旧約聖書のエデンの園にあった生命の樹を表現したもので、かつてはヴェネツィアの商館のファサードに掲げられていたそうです。



測候所の名が示すように、夏至、冬至、春分、秋分と、それぞれの光の在り処や位置と、敷地内の建物なり施設が全て関係して築かれているとしても良いのかもしれません。



眩しいまでの光を感じつつ、古い社か遺跡に迷い込んだかのような明月院エリアをしばらく散策した後は、階段を降り、工事現場用の単管で組まれた藤棚をくぐり抜けて、竹林エリアへと足を伸ばしてみました。



「後編:竹林エリア」へと続きます。

「小田原文化財団江之浦測候所」@odawara_af
休館:火、水、年末年始および臨時休館日
時間:午前の部(10:00~13:00)、午後の部(13:30~16:30) *事前予約制。各回定員制での入れ替え。
料金:一般3000円(ネット事前購入。税別。)。当日の場合は3500円(朝9時より電話予約。税別)。
住所:神奈川県小田原市江之浦362-1
交通:JR線根府川駅より無料送迎バス。JR線真鶴駅よりタクシー10分。(料金2000円程度)駐車場あり。
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