都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「花鳥風月」 ホテルオークラ東京 8/20
ホテルオークラ東京(港区虎ノ門2-10-4)
「第12回 秘蔵の名品 アートコレクション展:花鳥風月『日本とヨーロッパ』」
8/3-24(会期終了)
昨年に引き続き、今年も、ホテルオークラ東京でアートコレクション展が開催されました。応挙、抱一、芦雪、古径、マネ、モネ、シャガール、ヴラマンクなどの名品が、会場を雅やかに彩ります。このラインナップでつまらないはずがありません。難しいことを抜きにして、ただ名画を見る喜びにどっぷりと浸って来ました。
マネはこれまであまり積極的に見たことがないのですが、この展覧会に極上の名品が一つ展示されていました。それがパンフレット表紙にも使われているマネの「芍薬の花束」(1882)です。闇を背景にしてポッカリと浮き出た赤や白の芍薬の花。それが、歌舞伎の一画面が描かれているガラスの花瓶に美しく盛られています。それにしてもこの花瓶の透明感は見事です。金で象られた歌舞伎の図柄と水の質感、さらには束となった芍薬の茎と器のボリューム感が、折重なりながら巧みに表現されている。こんなに透明で、また輝くガラスの花瓶を見たのは初めてかもしれません。また、まるで雪が降り積もったように白い花瓶の台にも目を奪われました。今回の展覧会の西洋画ではこれを一番に推したいと思います。
花をモチーフとした作品では、川村記念美術館からやって来たラトゥールの「花瓶の花」(1877)も印象的です。ラトゥールと言うと、上野の西洋美術館にある「花と果物、ワイン容れのある静物」(1865)の美しい作品を思い出しますが、この「花瓶の花」もそれに負けていません。花に漂う静けさと儚さ。花が、まるで見る者を誘うように咲き誇っていました。これは危険です。今にも香るかのような花の質感と、抑えられつつも艶やかなその色彩には、思わず我を忘れて吸い込まれてしまいます。花の馨しい妖気。激しく自己主張するブラマンクの「花」とは実に対照的でした。その魅力に取り憑かれてしまうと抜け出せそうもありません。
海景と言えばブータンかクールベですが、私はブータンの方がより好きなようです。松岡美術館から出された「海、水先案内人」(1884)でも、雄大な海が、安定感のある構図の中で収まりよく描かれていました。やや荒々しい波に翻弄されるボートと、大きなマストを靡かせた帆船。緑色を帯びた粘り気を感じさせる海の描写に、雲の群がる巨大な空。海よりも空の方に画面がより多くとられている。広がりのある海景とは、まさにどこまでも果てしなく続く空の景色でもあることを示します。ブータンの海景画を見る際には、空の描写にも注目したいところです。
さて、いわゆる日本画では、今回の展覧会の目玉でもある酒井抱一の「四季花鳥図屏風」(1816)を一番に挙げるべきでしょう。金地に配された四季折々の美しい花や鳥たち。雪の残る白梅や、流麗なススキ、さらには可愛らしいタンポポや紫陽花までが、画面を縦横無尽に駆け回っています。そして白鷺や小鳥たちの舞う様子。こちらを向いた雉子の羽が、ススキと同じように右へと靡いていました。また、深い群青によって描かれた水流にも目を奪われます。このラインが作品の芯となって、一見バラバラに配されたような花や鳥をまとめ上げている。やや全体の表現にどことない硬さが感じられたのも事実ですが、その鮮やかな色遣いには素直に惹かれました。
つい先日、大倉集古館でそのごく一部を拝見した若冲の「乗興舟」(1767)とも再会です。今回はもう少し広げられた形で展示されていました。一番右にてそびえる城郭は淀城でしょうか。その後、八幡宮の山を越え、橋本、枚方と、淀川を大阪方面へ下っていきます。滔々と流れる淀川から、対岸にのぞむ山々の連なり。果てしなく続いていくようなその雄大な景色の下では、あまりにも小さく、また健気に歩く人々の姿がありました。ここまで来るとやはり全部見たいものです。
小林古径がたくさん展示されていました。全部で7点ほどです。これだけ見ると、私が日本画を見る切っ掛けともなった近代美術館での古径展を思い出します。川の流れに足を浸して、涼し気にこちらを見つめる女性を描いた「河風」(1915)や、まるで蛍が舞うように花を散らした「紫苑紅蜀葵」(1936)の味わいはたまりません。抱一、古径と、ともに私の大好きな日本画の巨匠を思いがけないほど拝見出来ました。幸せです。
併催美術展のうち、大倉集古館での「Gold」展をまだ拝見しておりません。「花鳥風月」のチケットで利用出来るようなので、近々、足を運んでこようと思います。
*関連エントリ(アートコレクション展の併催美術展)
「近代絵画の巨匠たち - 浅井忠 岸田劉生そしてモネ - 」 泉屋博古館・分館 8/20
「Gold - 金色の織りなす異空間 - 」 大倉集古館 9/16
「第12回 秘蔵の名品 アートコレクション展:花鳥風月『日本とヨーロッパ』」
8/3-24(会期終了)
昨年に引き続き、今年も、ホテルオークラ東京でアートコレクション展が開催されました。応挙、抱一、芦雪、古径、マネ、モネ、シャガール、ヴラマンクなどの名品が、会場を雅やかに彩ります。このラインナップでつまらないはずがありません。難しいことを抜きにして、ただ名画を見る喜びにどっぷりと浸って来ました。
マネはこれまであまり積極的に見たことがないのですが、この展覧会に極上の名品が一つ展示されていました。それがパンフレット表紙にも使われているマネの「芍薬の花束」(1882)です。闇を背景にしてポッカリと浮き出た赤や白の芍薬の花。それが、歌舞伎の一画面が描かれているガラスの花瓶に美しく盛られています。それにしてもこの花瓶の透明感は見事です。金で象られた歌舞伎の図柄と水の質感、さらには束となった芍薬の茎と器のボリューム感が、折重なりながら巧みに表現されている。こんなに透明で、また輝くガラスの花瓶を見たのは初めてかもしれません。また、まるで雪が降り積もったように白い花瓶の台にも目を奪われました。今回の展覧会の西洋画ではこれを一番に推したいと思います。
花をモチーフとした作品では、川村記念美術館からやって来たラトゥールの「花瓶の花」(1877)も印象的です。ラトゥールと言うと、上野の西洋美術館にある「花と果物、ワイン容れのある静物」(1865)の美しい作品を思い出しますが、この「花瓶の花」もそれに負けていません。花に漂う静けさと儚さ。花が、まるで見る者を誘うように咲き誇っていました。これは危険です。今にも香るかのような花の質感と、抑えられつつも艶やかなその色彩には、思わず我を忘れて吸い込まれてしまいます。花の馨しい妖気。激しく自己主張するブラマンクの「花」とは実に対照的でした。その魅力に取り憑かれてしまうと抜け出せそうもありません。
海景と言えばブータンかクールベですが、私はブータンの方がより好きなようです。松岡美術館から出された「海、水先案内人」(1884)でも、雄大な海が、安定感のある構図の中で収まりよく描かれていました。やや荒々しい波に翻弄されるボートと、大きなマストを靡かせた帆船。緑色を帯びた粘り気を感じさせる海の描写に、雲の群がる巨大な空。海よりも空の方に画面がより多くとられている。広がりのある海景とは、まさにどこまでも果てしなく続く空の景色でもあることを示します。ブータンの海景画を見る際には、空の描写にも注目したいところです。
さて、いわゆる日本画では、今回の展覧会の目玉でもある酒井抱一の「四季花鳥図屏風」(1816)を一番に挙げるべきでしょう。金地に配された四季折々の美しい花や鳥たち。雪の残る白梅や、流麗なススキ、さらには可愛らしいタンポポや紫陽花までが、画面を縦横無尽に駆け回っています。そして白鷺や小鳥たちの舞う様子。こちらを向いた雉子の羽が、ススキと同じように右へと靡いていました。また、深い群青によって描かれた水流にも目を奪われます。このラインが作品の芯となって、一見バラバラに配されたような花や鳥をまとめ上げている。やや全体の表現にどことない硬さが感じられたのも事実ですが、その鮮やかな色遣いには素直に惹かれました。
つい先日、大倉集古館でそのごく一部を拝見した若冲の「乗興舟」(1767)とも再会です。今回はもう少し広げられた形で展示されていました。一番右にてそびえる城郭は淀城でしょうか。その後、八幡宮の山を越え、橋本、枚方と、淀川を大阪方面へ下っていきます。滔々と流れる淀川から、対岸にのぞむ山々の連なり。果てしなく続いていくようなその雄大な景色の下では、あまりにも小さく、また健気に歩く人々の姿がありました。ここまで来るとやはり全部見たいものです。
小林古径がたくさん展示されていました。全部で7点ほどです。これだけ見ると、私が日本画を見る切っ掛けともなった近代美術館での古径展を思い出します。川の流れに足を浸して、涼し気にこちらを見つめる女性を描いた「河風」(1915)や、まるで蛍が舞うように花を散らした「紫苑紅蜀葵」(1936)の味わいはたまりません。抱一、古径と、ともに私の大好きな日本画の巨匠を思いがけないほど拝見出来ました。幸せです。
併催美術展のうち、大倉集古館での「Gold」展をまだ拝見しておりません。「花鳥風月」のチケットで利用出来るようなので、近々、足を運んでこようと思います。
*関連エントリ(アートコレクション展の併催美術展)
「近代絵画の巨匠たち - 浅井忠 岸田劉生そしてモネ - 」 泉屋博古館・分館 8/20
「Gold - 金色の織りなす異空間 - 」 大倉集古館 9/16
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「川瀬巴水展」 ニューオータニ美術館 8/27
ニューオータニ美術館(千代田区紀尾井町4-1 ニューオータニガーデンコート6階)
「大正・昭和の風景版画家 - 川瀬巴水展 - 」
7/25-9/3
ニューオータニ美術館で開催中の川瀬巴水(1883-1957)の回顧展です。展示作品の大部分が入れ替わると言うことで、前期と後期の両方を見てきました。
川瀬巴水の名前を初めて知ったのは、7月まで千葉市美術館で開かれていた「海に生きる・海を描く」展でのことです。私はその際に彼の風景版画へ強く引込まれました。要は一目惚れです。全国津々浦々、名所から何気ない街の一コマまで、巴水の風景版画は、日本の原風景を美しく表現します。そして藍を初めとしたその鮮やかな色彩感。底抜けに深い青の味わいは他の版画では見られません。色の魅力と風景への郷愁。どれも深く心に染み入る作品ばかりです。
惹かれた作品を挙げていくとキリがありませんが、やはり私には川瀬の色、特に青、または藍色の美しい色彩が魅力的にうつります。パンフレットの表紙を飾った代表作「馬込の月」(1930)の見事な色合い。雲に翳った満月が闇夜を煌煌と照らして、空全体を青く染め上げました。またこの青みは、海などの水辺を描いた作品にも大変美しく映えています。例えば、船着き場を描いた「別府の朝」(1929)です。青い水面はまるで鏡のように舟や月を反射させています。巴水の青い空と水。この美しさは格別です。
構図に対するセンスの良さを伺わせる作品も展示されています。中でも「駒形海岸」(1919)はとても面白い作品です。馬と荷車が連なって止まり、静かに疲れを癒している。そしてその情景を覗き込むかのような遠景の町並み。僅かな隙間から臨むことが出来るのは、美しく佇んでいる水辺越しの家々でした。そして空には真っ白な雲が伸びやかに靡いている。前景の緑と黄色、そして遠景の空や水に使われた青との対比も冴えています。見事です。
会場では、作品の他に「版画に生きる川瀬巴水」というドキュメンタリーも上映されていました。ここでは、巴水の版画制作の様子をじっくりと確認することが出来ます。巴水がスケッチした下絵を元に、熟練した彫師、摺師らが丹念に版画へと仕上げていく。まさに絵師、彫師、摺師の三者による魂のこもった共同作業です。一枚の版画にあれほどの手間がかかっているとは思いもよりません。この映像を見てからまた改めて巴水の版画を見るのも面白い。ビデオは約40分ほど少し長いのですが、是非拝見されることをおすすめします。
巴水の版画はhanga.comでもその画像をいくつか見ることが出来ます。そちらもおすすめです。展覧会は来月3日までの開催です。
*関連エントリ
「新版画と川瀬巴水の魅力」 ニューオータニ美術館 8/5:この展覧会と合わせて開催された講演会のレポートです。
「大正・昭和の風景版画家 - 川瀬巴水展 - 」
7/25-9/3
ニューオータニ美術館で開催中の川瀬巴水(1883-1957)の回顧展です。展示作品の大部分が入れ替わると言うことで、前期と後期の両方を見てきました。
川瀬巴水の名前を初めて知ったのは、7月まで千葉市美術館で開かれていた「海に生きる・海を描く」展でのことです。私はその際に彼の風景版画へ強く引込まれました。要は一目惚れです。全国津々浦々、名所から何気ない街の一コマまで、巴水の風景版画は、日本の原風景を美しく表現します。そして藍を初めとしたその鮮やかな色彩感。底抜けに深い青の味わいは他の版画では見られません。色の魅力と風景への郷愁。どれも深く心に染み入る作品ばかりです。
惹かれた作品を挙げていくとキリがありませんが、やはり私には川瀬の色、特に青、または藍色の美しい色彩が魅力的にうつります。パンフレットの表紙を飾った代表作「馬込の月」(1930)の見事な色合い。雲に翳った満月が闇夜を煌煌と照らして、空全体を青く染め上げました。またこの青みは、海などの水辺を描いた作品にも大変美しく映えています。例えば、船着き場を描いた「別府の朝」(1929)です。青い水面はまるで鏡のように舟や月を反射させています。巴水の青い空と水。この美しさは格別です。
構図に対するセンスの良さを伺わせる作品も展示されています。中でも「駒形海岸」(1919)はとても面白い作品です。馬と荷車が連なって止まり、静かに疲れを癒している。そしてその情景を覗き込むかのような遠景の町並み。僅かな隙間から臨むことが出来るのは、美しく佇んでいる水辺越しの家々でした。そして空には真っ白な雲が伸びやかに靡いている。前景の緑と黄色、そして遠景の空や水に使われた青との対比も冴えています。見事です。
会場では、作品の他に「版画に生きる川瀬巴水」というドキュメンタリーも上映されていました。ここでは、巴水の版画制作の様子をじっくりと確認することが出来ます。巴水がスケッチした下絵を元に、熟練した彫師、摺師らが丹念に版画へと仕上げていく。まさに絵師、彫師、摺師の三者による魂のこもった共同作業です。一枚の版画にあれほどの手間がかかっているとは思いもよりません。この映像を見てからまた改めて巴水の版画を見るのも面白い。ビデオは約40分ほど少し長いのですが、是非拝見されることをおすすめします。
巴水の版画はhanga.comでもその画像をいくつか見ることが出来ます。そちらもおすすめです。展覧会は来月3日までの開催です。
*関連エントリ
「新版画と川瀬巴水の魅力」 ニューオータニ美術館 8/5:この展覧会と合わせて開催された講演会のレポートです。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
結局、この展覧会の一番の見所は、最後の第四室の「特別展示(光と絵画の表情)」にあったのかもしれません。光の演出を加えた展示方法はもとより、ガラスケースを用いずに作品を並べるとは心底驚かされました。また「特別展示」は、その展示の方法だけが優れていたのではありません。並んでいる作品も素晴らしいものが多い。早速、私が今回の展覧会で最も感銘した、長沢蘆雪の「白象黒牛図屏風」(18世紀)と円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」(1789)の二点を挙げたいと思います。
長沢蘆雪の「白象黒牛図屏風」(18世紀)のど迫力な牛や象には思わず後ずさりしてしまいそうになります。とてつもなく巨大な屏風に描かれているのは、それぞれ2頭ずつの牛と象、それに一匹の犬と二羽のカラスでした。それが大(白象・黒牛)と小(犬・カラス)、または黒(カラス・黒牛)と白(白象・犬)の明快な対比を描いて左右に配されています。それにしても象と牛の大きさは異様です。足を曲げて、頭を屈んでもまだ窮屈そうに座っている。大きなものをただそのまま大きく伸びやかに描くのではなく、むしろ窮屈に収めることで、より一層高められるスケール感を表現しているのでしょう。そしてそれと対になる小さなカラスと犬も忘れられません。もちろん彼らも、牛と象の大きさを引き立てる為に置かれています。その他、牛と象の質感の対比や、カラスと犬の位置、もしくは表情までに細かい対比が示されている。単純な構成でありながらも緊張感のある構図が、画面全体を引き締めています。全く大味ではありません。凄い作品です。
円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」(1789)の神々しい美しさを前にするともうため息すらもれません。まるでそれ自体が光源であるように輝いた白の深み。照明の効果はこの作品をさらに引き立ててくれます。強い光が当てられたその瞬間、輝きは金箔、もしくは銀の貼られた屏風を大きく凌駕しました。眩しいばかりの煌めき。白がこれほど美しいと感じたのは初めてかもしれません。台地を切り刻むように鋭く落ちる滝と、徐々になだらかに連なっていく深い山々、そして荒々しい岩の剥き出す小川に群がった松林。それらが照明とともに白に包まれて現れ、また失われていく。深い呼吸のようにゆったりと刻まれた時の流れが、明るくなりまた暗くなる照明の演出によって見事に示されていました。どこまでも続くような雄大な景色と、途絶えることのない時間の流れ。まさに展示の最後を飾るのに相応しい作品です。
その他にも印象に残った作品がいくつかあります。まずは一推しの酒井抱一から「佐野渡図屏風」(19世紀)です。この作品もまた照明の演出が良い効果をもたらしていました。暗がりから明るくなって見えて来たのは、金地に浮かび上がる雪の描写です。それが星のようにキラキラと瞬いて現れる。馬も貴族も、またその従者も、そんな雪をまるで眩しく思うように屈んでいました。ちなみに抱一では「十二ヶ月花鳥図」(19世紀)も展示されていましたが、三の丸尚蔵館の「花鳥」展に出ていた「花鳥十二ヶ月図」(1823)を見てしまうとやや物足りなく思ってしまうかもしれません。ただし、12幅全てがガラスケースなしで展示されている様子は圧巻です。特に、可愛らしい蜂の舞った4月が印象に残りました。如何でしょうか。
ミニマリズムの面白さを伝えるような鈴木其一の「群鶴図屏風」(19世紀)も見逃せません。左に9羽、右に10羽、計19羽の鶴が、シンメトリー風に配されている。また、左右それぞれに描かれた水流も、同じように中央方向を向いて伸びていました。鶴は、下を向いたり、ひょいと首を下げたりしているものもいますが、それよりも全体としての均整のとれた構図感が優先している。前へ伸びた嘴、長い首、そしてほぼ同じように塗られた羽の色。形、色の双方がこの作品を均一なリズムでまとめ上げています。それこそデザインとしての魅力にも十分な、琳派ならではの作品と言えそうです。そしてケースなしの臨場感。鶴のペタペタという足音が聞こえてくるようでした。
若冲の作品も一点展示されています。それが、彼としては珍しい風景画の「黄檗山万福寺境内図」(18世紀)です。光の効果により、朝焼けに輝く万福寺が美しく演出されている。高い位置から万福寺を俯瞰しているのでしょうか。その眺めは実に良好です。ただし構図そのものは実際の景色と大きく異なっています。(大きくそびえ立つ手前の岩山などは架空のものだそうです。)またよく見ると、建物の屋根などが筋目描になっています。そしてその筋目も、画面後方へ向けて徐々に墨が淡くなっていく。遠くに見える塔は、まるで靄に包まれているかのようでした。デフォルメの才能にも長けた若冲は、風景画も、より視覚効果に優れた理想風景に仕立てしまったのでしょう。出来ればもう少し近い距離で拝見したかったのですが、これもなかなか味わい深い作品でした。
以上、長々と続いた「若冲と江戸絵画」展の感想を終ります。ちなみに「若冲と江戸絵画」展はこの後、京都国立近代美術館(2006/9/23-11/5)、九州国立博物館(2007/1/1-2/25)、愛知県美術館(2007/4/13-6/10)へと巡回します。そちら方面の方も是非お楽しみに!
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
長沢蘆雪の「白象黒牛図屏風」(18世紀)のど迫力な牛や象には思わず後ずさりしてしまいそうになります。とてつもなく巨大な屏風に描かれているのは、それぞれ2頭ずつの牛と象、それに一匹の犬と二羽のカラスでした。それが大(白象・黒牛)と小(犬・カラス)、または黒(カラス・黒牛)と白(白象・犬)の明快な対比を描いて左右に配されています。それにしても象と牛の大きさは異様です。足を曲げて、頭を屈んでもまだ窮屈そうに座っている。大きなものをただそのまま大きく伸びやかに描くのではなく、むしろ窮屈に収めることで、より一層高められるスケール感を表現しているのでしょう。そしてそれと対になる小さなカラスと犬も忘れられません。もちろん彼らも、牛と象の大きさを引き立てる為に置かれています。その他、牛と象の質感の対比や、カラスと犬の位置、もしくは表情までに細かい対比が示されている。単純な構成でありながらも緊張感のある構図が、画面全体を引き締めています。全く大味ではありません。凄い作品です。
円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」(1789)の神々しい美しさを前にするともうため息すらもれません。まるでそれ自体が光源であるように輝いた白の深み。照明の効果はこの作品をさらに引き立ててくれます。強い光が当てられたその瞬間、輝きは金箔、もしくは銀の貼られた屏風を大きく凌駕しました。眩しいばかりの煌めき。白がこれほど美しいと感じたのは初めてかもしれません。台地を切り刻むように鋭く落ちる滝と、徐々になだらかに連なっていく深い山々、そして荒々しい岩の剥き出す小川に群がった松林。それらが照明とともに白に包まれて現れ、また失われていく。深い呼吸のようにゆったりと刻まれた時の流れが、明るくなりまた暗くなる照明の演出によって見事に示されていました。どこまでも続くような雄大な景色と、途絶えることのない時間の流れ。まさに展示の最後を飾るのに相応しい作品です。
その他にも印象に残った作品がいくつかあります。まずは一推しの酒井抱一から「佐野渡図屏風」(19世紀)です。この作品もまた照明の演出が良い効果をもたらしていました。暗がりから明るくなって見えて来たのは、金地に浮かび上がる雪の描写です。それが星のようにキラキラと瞬いて現れる。馬も貴族も、またその従者も、そんな雪をまるで眩しく思うように屈んでいました。ちなみに抱一では「十二ヶ月花鳥図」(19世紀)も展示されていましたが、三の丸尚蔵館の「花鳥」展に出ていた「花鳥十二ヶ月図」(1823)を見てしまうとやや物足りなく思ってしまうかもしれません。ただし、12幅全てがガラスケースなしで展示されている様子は圧巻です。特に、可愛らしい蜂の舞った4月が印象に残りました。如何でしょうか。
ミニマリズムの面白さを伝えるような鈴木其一の「群鶴図屏風」(19世紀)も見逃せません。左に9羽、右に10羽、計19羽の鶴が、シンメトリー風に配されている。また、左右それぞれに描かれた水流も、同じように中央方向を向いて伸びていました。鶴は、下を向いたり、ひょいと首を下げたりしているものもいますが、それよりも全体としての均整のとれた構図感が優先している。前へ伸びた嘴、長い首、そしてほぼ同じように塗られた羽の色。形、色の双方がこの作品を均一なリズムでまとめ上げています。それこそデザインとしての魅力にも十分な、琳派ならではの作品と言えそうです。そしてケースなしの臨場感。鶴のペタペタという足音が聞こえてくるようでした。
若冲の作品も一点展示されています。それが、彼としては珍しい風景画の「黄檗山万福寺境内図」(18世紀)です。光の効果により、朝焼けに輝く万福寺が美しく演出されている。高い位置から万福寺を俯瞰しているのでしょうか。その眺めは実に良好です。ただし構図そのものは実際の景色と大きく異なっています。(大きくそびえ立つ手前の岩山などは架空のものだそうです。)またよく見ると、建物の屋根などが筋目描になっています。そしてその筋目も、画面後方へ向けて徐々に墨が淡くなっていく。遠くに見える塔は、まるで靄に包まれているかのようでした。デフォルメの才能にも長けた若冲は、風景画も、より視覚効果に優れた理想風景に仕立てしまったのでしょう。出来ればもう少し近い距離で拝見したかったのですが、これもなかなか味わい深い作品でした。
以上、長々と続いた「若冲と江戸絵画」展の感想を終ります。ちなみに「若冲と江戸絵画」展はこの後、京都国立近代美術館(2006/9/23-11/5)、九州国立博物館(2007/1/1-2/25)、愛知県美術館(2007/4/13-6/10)へと巡回します。そちら方面の方も是非お楽しみに!
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
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「ジャナイナ・チェッペ」展 トーキョーワンダーサイト渋谷 8/26
トーキョーワンダーサイト渋谷(渋谷区神南1-19-8)
「ジャナイナ・チェッペ」展
7/20-8/27(会期終了)
ブラジル系ドイツ人アーティスト、ジャナイナ・チェッぺの個展を見てきました。水に包まれ、また揺られ、さらには水へ手向かう女性の物語を、主に映像インスタレーションで表現した展覧会です。
彼女を取り巻く水は何かの象徴として描かれているのでしょうか。体をビニールのような物体で幾重にも縛り付け、水の中へ飛び出していく。そこから彼女の格闘が始まりました。もがき、苦しみ、そして水を撥ね付け、最後には殆ど諦めたようにして体を委ねている。私には、水は彼女を取り巻く社会であり、また罠のようにも感じられました。彼女は、その襲いかかる水の恐怖から逃れる時、平安が約束される。危険と隣り合わせになった格闘を抜けて、彼女は勝利を、いや大いなる敗北を受け入れたのでしょう。水に解き放たれた彼女の姿は、まるで腐乱死体のようでした。力なくただ漂っています。
彼女は水に浮かぶ美しき妖精ではなく、その魔力へ虚しく抵抗した一人の戦士です。ただ美しいだけでも、また居心地が良いだけでもない。(むしろ私には気味悪く感じられました。)まさに亡骸のように水を漂う彼女の姿が脳裏に焼き付く展覧会でした。
「ジャナイナ・チェッペ」展
7/20-8/27(会期終了)
ブラジル系ドイツ人アーティスト、ジャナイナ・チェッぺの個展を見てきました。水に包まれ、また揺られ、さらには水へ手向かう女性の物語を、主に映像インスタレーションで表現した展覧会です。
彼女を取り巻く水は何かの象徴として描かれているのでしょうか。体をビニールのような物体で幾重にも縛り付け、水の中へ飛び出していく。そこから彼女の格闘が始まりました。もがき、苦しみ、そして水を撥ね付け、最後には殆ど諦めたようにして体を委ねている。私には、水は彼女を取り巻く社会であり、また罠のようにも感じられました。彼女は、その襲いかかる水の恐怖から逃れる時、平安が約束される。危険と隣り合わせになった格闘を抜けて、彼女は勝利を、いや大いなる敗北を受け入れたのでしょう。水に解き放たれた彼女の姿は、まるで腐乱死体のようでした。力なくただ漂っています。
彼女は水に浮かぶ美しき妖精ではなく、その魔力へ虚しく抵抗した一人の戦士です。ただ美しいだけでも、また居心地が良いだけでもない。(むしろ私には気味悪く感じられました。)まさに亡骸のように水を漂う彼女の姿が脳裏に焼き付く展覧会でした。
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「BLOGRAFFITI 2004-2006」 キャスパーズギャラリー 8/26
キャスパーズギャラリー(目黒区青葉台1-25-4)
「BLOGRAFFITI 2004-2006」
8/22-27(会期終了)
いつもブログでお世話になっている「心の運動・胃の運動」のHoneyさんが、ご趣味の写真の個展を開催されました。会場は、目黒川沿いにあるキャスパーズギャラリー。Honeyさんにピッタリの可愛らしいギャラリーです。
タイトルからしてとても凝っています。「BLOGRAFFITI」(ブログラフィティ)とは聞き慣れませんが、これはブログとグラフィティを重ねたHoneyさんの造語なのだそうです。(カッコいい!)そして会場では、そんなHoneyさんの素敵なお写真が所狭しと並んでいました。一体何点展示されていたのでしょうか。もの凄い数でした。
まずは、Honeyさんご自身のセレクトによる25点の写真がお出迎えです。題して「Honey's Selection」。ブログをご覧になられている方であればご存知の写真が勢揃いしていました。そして次には、切手サイズに縮小されたHoneyさんの写真が壁一面に無数に連なって並びます。これぞまさに「BLOGRAFFITI」です。graffiti(グラフィティ)、つまり「壁などに刻まれた古代の絵画や文字。」という意味がピッタリの、それこそ巨大なモザイク壁画のように写真の並ぶインスタレーションでした。そして最後は、ブログの記事を写真と組み合わせて紹介するコーナーです。ここではHoneyさんお馴染みの「ここはどこでしょう?」や、美術展、そしてHoneyさんと言えばもう忘れてはならないチョコや食べ物のエントリまでが載っています。ブログと同様に、拝見するだけでもお腹がすいてしまいました…。美味しそうなお写真ばかりです。
ブログを通したご趣味の活動を、こうした実際の展示で表現されるのは本当に素晴らしいと思いました。ちなみにこの展示は「1st exhibition」とありました。と言うことは二回目も…?!これは楽しみです!
「BLOGRAFFITI 2004-2006」
8/22-27(会期終了)
いつもブログでお世話になっている「心の運動・胃の運動」のHoneyさんが、ご趣味の写真の個展を開催されました。会場は、目黒川沿いにあるキャスパーズギャラリー。Honeyさんにピッタリの可愛らしいギャラリーです。
タイトルからしてとても凝っています。「BLOGRAFFITI」(ブログラフィティ)とは聞き慣れませんが、これはブログとグラフィティを重ねたHoneyさんの造語なのだそうです。(カッコいい!)そして会場では、そんなHoneyさんの素敵なお写真が所狭しと並んでいました。一体何点展示されていたのでしょうか。もの凄い数でした。
まずは、Honeyさんご自身のセレクトによる25点の写真がお出迎えです。題して「Honey's Selection」。ブログをご覧になられている方であればご存知の写真が勢揃いしていました。そして次には、切手サイズに縮小されたHoneyさんの写真が壁一面に無数に連なって並びます。これぞまさに「BLOGRAFFITI」です。graffiti(グラフィティ)、つまり「壁などに刻まれた古代の絵画や文字。」という意味がピッタリの、それこそ巨大なモザイク壁画のように写真の並ぶインスタレーションでした。そして最後は、ブログの記事を写真と組み合わせて紹介するコーナーです。ここではHoneyさんお馴染みの「ここはどこでしょう?」や、美術展、そしてHoneyさんと言えばもう忘れてはならないチョコや食べ物のエントリまでが載っています。ブログと同様に、拝見するだけでもお腹がすいてしまいました…。美味しそうなお写真ばかりです。
ブログを通したご趣味の活動を、こうした実際の展示で表現されるのは本当に素晴らしいと思いました。ちなみにこの展示は「1st exhibition」とありました。と言うことは二回目も…?!これは楽しみです!
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
展覧会は今日で終ってしまいましたが、私の遅々として進まない拙い感想シリーズはもう少し続きます。今回は第五章「江戸琳派」です。ここでは、鈴木其一や酒井抱一といった大家の作品がズラリと並んでいました。ともかく琳派好き、さらには抱一、其一好きの身としてはたまりません。存分に楽しんで来ました。
まず初めに出迎えてくれたのは、酒井抱一の「三十六歌仙図屏風」(19世紀)です。所狭しと集う三十六名の歌仙たち。若冲の「群鶏図」ほどではないにしろ窮屈そうな構図ですが、元は光琳にその原画があるのだそうです。歌仙たちは、歌を詠むことよりも政談に忙しいのでしょうか。何やら皆、ヒソヒソと内緒話をしているような表情を見せています。意味深な仕草に目配り。目にそれぞれの思惑が浮かんでいます。非常に状態良く残された金箔と、多様な模様を見せる衣装との響宴。鮮やかな色の美感にも目を奪われる作品でした。
抱一ではもう一点、「四季草花図・三十六歌仙図色紙貼交屏風」(19世紀)を挙げたいと思います。彼の作品は次の「特別展示」にて代表的な「十二ヶ月花鳥図」(19世紀)が待っているわけですが、美しい色紙の映える詩情溢れた「四季草花図」の味わいも決してそれに劣りません。梅、たんぽぽ、紫陽花、朝顔、そして柳などが、抱一ならではのしなやかな線にて表現されている。右隻で目立っているのはやはり紫陽花と梅でしょうか。紫陽花の花は、若冲の平面的な表現とは対照的に、そのボリュームを感じさせるかのような立体的な描写でした。そして梅の枝は、まさにどこまでも伸びて行くような抱一らしい線。それこそ上へ下へと両手を広げたかように枝が分かれています。ところで、この作品の色紙の書は抱一自身によるものだそうです。絵と書を一人で仕上げたという珍しい屏風画。その隙のない組み合わせの妙にもまた魅力を感じました。
「特別展示」にて同じように名品を見せてくれる鈴木其一では、「青桐・紅楓図」(19世紀)が印象的です。青桐は夏の雨に、また楓は秋の雨にそれぞれ打たれていますが、特に青桐の方の雨はまるで光のカーテンのように美しく靡いています。また楓も、朱、黄、緑と、互いに美しく重なるように彩りを加え、葉の描写に色のリズムが感じられました。雨の音、またはその匂いが伝わってくる。臨場感に溢れた名作です。
次回は最後の「その6」として、ガラスケースを取っ払って光の演出を加えた驚異の展示、第4室「特別展示」のコーナーへ進みたいと思います。
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
まず初めに出迎えてくれたのは、酒井抱一の「三十六歌仙図屏風」(19世紀)です。所狭しと集う三十六名の歌仙たち。若冲の「群鶏図」ほどではないにしろ窮屈そうな構図ですが、元は光琳にその原画があるのだそうです。歌仙たちは、歌を詠むことよりも政談に忙しいのでしょうか。何やら皆、ヒソヒソと内緒話をしているような表情を見せています。意味深な仕草に目配り。目にそれぞれの思惑が浮かんでいます。非常に状態良く残された金箔と、多様な模様を見せる衣装との響宴。鮮やかな色の美感にも目を奪われる作品でした。
抱一ではもう一点、「四季草花図・三十六歌仙図色紙貼交屏風」(19世紀)を挙げたいと思います。彼の作品は次の「特別展示」にて代表的な「十二ヶ月花鳥図」(19世紀)が待っているわけですが、美しい色紙の映える詩情溢れた「四季草花図」の味わいも決してそれに劣りません。梅、たんぽぽ、紫陽花、朝顔、そして柳などが、抱一ならではのしなやかな線にて表現されている。右隻で目立っているのはやはり紫陽花と梅でしょうか。紫陽花の花は、若冲の平面的な表現とは対照的に、そのボリュームを感じさせるかのような立体的な描写でした。そして梅の枝は、まさにどこまでも伸びて行くような抱一らしい線。それこそ上へ下へと両手を広げたかように枝が分かれています。ところで、この作品の色紙の書は抱一自身によるものだそうです。絵と書を一人で仕上げたという珍しい屏風画。その隙のない組み合わせの妙にもまた魅力を感じました。
「特別展示」にて同じように名品を見せてくれる鈴木其一では、「青桐・紅楓図」(19世紀)が印象的です。青桐は夏の雨に、また楓は秋の雨にそれぞれ打たれていますが、特に青桐の方の雨はまるで光のカーテンのように美しく靡いています。また楓も、朱、黄、緑と、互いに美しく重なるように彩りを加え、葉の描写に色のリズムが感じられました。雨の音、またはその匂いが伝わってくる。臨場感に溢れた名作です。
次回は最後の「その6」として、ガラスケースを取っ払って光の演出を加えた驚異の展示、第4室「特別展示」のコーナーへ進みたいと思います。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展の拙い感想シリーズも、ようやく「その4」まで辿り着くことが出来ました。今回は、主に江戸の浮世絵、または風俗画などが展示されていた、第四章「江戸の画家」です。ここは率直に言って地味ですが、プライス氏の趣味が反映されようなユーモラスな作品も目立っていました。早速、印象に深かったものから書いていきます。
そのユーモラスな作品で真っ先に挙げたいのが、竹田春信の「達磨遊女異装図」(18世紀)です。達磨が遊女の小袖を、また遊女が達磨の法衣を身につけて立っている。それにしても達磨の遊女姿が何とも似合っています。ここでは、達磨の聖と遊女の俗が倒錯しているそうですが、私には少し困ったような顔をしつつも満更でもなさそうな達磨の表情が印象に残りました。(それにポーズも決まっています!)また、遊女の法衣は、地をそのままにした墨線だけで描かれています。そしてその一方で、達磨の顔もまた地をそのまま使っていた。顔と衣服がクロスするように表現されているのも興味深いところです。
河鍋暁斎の「妓楼酒宴図」(19世紀)のどんちゃん騒ぎは尋常ではありません。幕末の吉原で遊ぶ男性の姿を捉えたとのことですが、客は花魁などの芸者に囲まれて、思いっきりハメを外しているかのようにばか騒ぎをしています。そしてそれを覗き込む屏風の達磨。何でも彼はこの宴に眉をひそめる立場にあるようですが、本当は自分も入りたいのではないでしょうか。仲間はずれにされて何やら機嫌の悪そうな表情をしているように見えます。時を超え、今の日本でも普通に見られそうなこの騒ぎっぷり。花見時などの酒宴でハメを外すのはもはや日本の文化なのかもしれません。
江戸の風俗画と言えばお馴染みの美人画も何点か展示されていました。その中では伝喜多川菊麿と勝川春草の「二美人図」(18-19世紀)が印象的です。私の好みは、障子から長閑な光景が差し込んでいる勝川春草の方ですが、伝喜多川菊麿の反り返った女性の姿にも目を奪われます。彼女の衣装に示されているのは、琳派風の絵柄でしょうか。何やら光琳をも思わせる燕子花をこれ見よがしに披露されていました。それにしても彼女の立ち姿は異様です。まるで魚が反るかのように大きくカーブして立っています。そして連れ添うもう一人の女性も斜めに反っていた。躍動的な構図感にも驚かされる作品でした。
「江戸の画家」は、「エキセントリック」と最後の「特別展示」の中継ぎ的な展示だったかもしれません。次回は第五章「江戸琳派」へ進みたいと思います。
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そのユーモラスな作品で真っ先に挙げたいのが、竹田春信の「達磨遊女異装図」(18世紀)です。達磨が遊女の小袖を、また遊女が達磨の法衣を身につけて立っている。それにしても達磨の遊女姿が何とも似合っています。ここでは、達磨の聖と遊女の俗が倒錯しているそうですが、私には少し困ったような顔をしつつも満更でもなさそうな達磨の表情が印象に残りました。(それにポーズも決まっています!)また、遊女の法衣は、地をそのままにした墨線だけで描かれています。そしてその一方で、達磨の顔もまた地をそのまま使っていた。顔と衣服がクロスするように表現されているのも興味深いところです。
河鍋暁斎の「妓楼酒宴図」(19世紀)のどんちゃん騒ぎは尋常ではありません。幕末の吉原で遊ぶ男性の姿を捉えたとのことですが、客は花魁などの芸者に囲まれて、思いっきりハメを外しているかのようにばか騒ぎをしています。そしてそれを覗き込む屏風の達磨。何でも彼はこの宴に眉をひそめる立場にあるようですが、本当は自分も入りたいのではないでしょうか。仲間はずれにされて何やら機嫌の悪そうな表情をしているように見えます。時を超え、今の日本でも普通に見られそうなこの騒ぎっぷり。花見時などの酒宴でハメを外すのはもはや日本の文化なのかもしれません。
江戸の風俗画と言えばお馴染みの美人画も何点か展示されていました。その中では伝喜多川菊麿と勝川春草の「二美人図」(18-19世紀)が印象的です。私の好みは、障子から長閑な光景が差し込んでいる勝川春草の方ですが、伝喜多川菊麿の反り返った女性の姿にも目を奪われます。彼女の衣装に示されているのは、琳派風の絵柄でしょうか。何やら光琳をも思わせる燕子花をこれ見よがしに披露されていました。それにしても彼女の立ち姿は異様です。まるで魚が反るかのように大きくカーブして立っています。そして連れ添うもう一人の女性も斜めに反っていた。躍動的な構図感にも驚かされる作品でした。
「江戸の画家」は、「エキセントリック」と最後の「特別展示」の中継ぎ的な展示だったかもしれません。次回は第五章「江戸琳派」へ進みたいと思います。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展の感想を先に進めます。今日は、今回の展覧会のハイライトでもある「エキセントリック」です。ここでは、伊藤若冲(1716-1800)の上質な作品が約20点ほど展示されていました。以下、いつものように、特に印象深かった作品について感想を書いていたいと思います。
まずは、プライス氏が、日本美術を蒐集する切っ掛けともなった「葡萄図」(18世紀)からです。図版などで見る限りでは大変に地味ですが、実際にその前に立つととても良い作品でした。確かにこれならスポーツカーを諦めたというのも分からなくはありません。葡萄の木が余白を巻き込んで縦横微塵に駆け巡り、さらには精緻に描き込まれた実や葉っぱが、その瑞々しく美しい質感を巧みに表現している。若い頃の作品とのことですが、ここには若冲の類い稀な空間構成力が早くも確立しています。またくねくねと曲がりながら進む枝は、輪郭線を用いずに墨の濃淡だけで描かれていました。それが、まるで光を通すような薄く透き通った葉っぱと、同じものが一つとしてない実をぶら下げている。そう言えば葡萄の味は、同じ房に付いているものでも一つ一つ微妙に異なります。甘いもの、酸っぱいもの。この葡萄も、そんな味の違いを見事に表現してるのかもしれません。ともかくこれだけは、是非、作品に近い位置で拝見することをおすすめします。画像だけでは分からない魅力がたくさん詰まった作品です。
若冲と言えば、動植綵絵に見られるような鶏の描写をまず思い出しますが、この展覧会にも鶏をモチーフとした作品がいくつも展示されていました。その中ではやはり「紫陽花双鶏図」(18世紀)が群を抜いています。ボツボツと平面的にくっ付いた花びらや、複雑に絡み合った枝や葉。紫陽花の特徴を個性的に捉えています。特に、一目見て若冲と分かる花びらの表現は独特です。これに、また同じく一目で彼だと分かる鶏が組合わされば完璧でしょう。左側で大見得を切った雄鶏と、曲線を大きく描いて体をくねらせた雌鶏。雌は、あたかも雄から押されたかのように、後ずさりしながらその方向を見つめています。それにしてもこの雌は侮れません。真ん丸で可愛らしくも見える純情な雄の目と比べて、雌のそれは明らかに不純です。やたらに嫌らしい目つきをしています。この作品は動植綵絵の同名の作品よりも前に描かれたとのことですが、私にはこの二羽の関係からこちらの方が魅力的に見えました。
「紫陽花双鶏図」と同じような動植綵絵に似た作品としては、「群鶏図」(18世紀)と「雪中鴛鴦図」(18世紀)が挙げられると思います。「群鶏図」は「梅花群鶏図」と比べると艶やかな梅の描写がない分やや地味に見えますが、パッと見ただけでは何羽いるか分からないほどギュウギュウに押し込まれた鶴は表現です。(「群鶏図」は、首がまるで蛇のように伸びています。これは不気味です。)また、動植綵絵と同名の「雪中鴛鴦図」では、水面へ顔を突っ込む水鳥に首が描かれています。ちなみにこの首は動植綵絵では省かれていました。さすがにこれは本人がない方が良いと判断したのでしょう。この二点に関しては、動植綵絵の方に軍配を挙げたいと思います。
極限まで精緻に、また隙なく描き切ってしまうのも若冲の魅力ですが、その反面での、一見、肩の力を抜いて描いたような、即興的な作品に味があるのもまた良い部分です。その系統の作品では、卵型の鶴が12羽も並んで滑稽な表情を見せた「鶴図屏風」(18世紀)と、アニメーションタッチの鳥や人物たちが並ぶ「花鳥人物図屏風」(18世紀)が印象に残りました。颯爽とした線にて卵のように胴体を描き、そこから足や羽を軽快に伸ばした「鶴図屏風」。一部に、筋目描と呼ばれる薄墨の滲みを使った技法が冴えています。花びらが重なり合うように連なった筋目描の羽。それが、単純なフォルムの『卵鶴』の中で描かれていると、より一層浮き彫りにされていくようです。また「花鳥人物図屏風」では、ヒョイとつま先で立って遠目を見つめているような鶏や、ニコニコと笑っているようなカラス(こんなに可愛らしいカラスも珍しい!)、さらにはまるでトマトの実のような花の描写が特に印象的でした。また、動植綵絵の「蓮池遊魚図」を思わせる魚の描写も見事です。ここでは、颯爽と描かれた大きな葉が画面全体を引き立てています。まるで縄のように長くべた塗りされた鶏の尾と、その一方での葉に見られるような軽やかな筆さばき。硬軟巧みに使い分ける若冲の筆には改めて驚かされるばかりでした。
筋目描を使った技法の作品では、「芭蕉雄鶏図」(18世紀)や「鯉魚図」(18世紀)も見逃せません。力強く鋭角的に飛び上がった鯉の「鯉魚図」も見事ですが、鶏の羽もバショウも筋目描で表現されている「芭蕉雄鶏図」も魅力的です。鶏冠の部分にまでも、ドットと筋目が美しくに交じり合っている。また筋目によるバショウの質感は、一説では若冲の子(!?)でもあるという伊藤若演の「芭蕉図」(18-19世紀)でも見ることが出来ます。バショウの大きな葉に溜る露が、若冲の作品と同じように仄かに照っている。残念ながら同じバショウでも、その配置に若冲ほどのリズム感がありませんが、焼きノリを一枚一枚並べたような表現もまた面白いと感じました。ちなみに「芭蕉雄鶏図」では、バショウの葉がねじるようにクロスして、鶏もヒョイっと首を曲げながらそれを見ています。そして足元には簡潔な線で示された草が生い茂る。筋目の技法を誇示しながらも、全体の構成感に全く隙がないのが若冲です。さすがの貫禄を見せつけていました。
墨絵の「鶏図」(18世紀)の構成感もまた秀でています。まるで斬新な書のような尾を旗のように靡かせている雄鶏が一羽。彼の視線の先には獲物でもあるのでしょうか。今にも一目散に走り出してしまいそうな勢いを見せています。そしてその雄を見つめるのは、奥の雌鶏と手前にいる小さな雛鳥でした。ともに、まるで雄の急な動きに驚いたかのように振り返っています。脇役にもしっかりポジションが与えられている。こういう細かい部分の面白さも、また病み付きになる若冲の魅力の一つではないでしょうか。
ともに晩年の作品とされる「伏見人形図」(1798)と「鷲図」(1798)の二点は好対照でした。一目見ただけでは同じ作家の作品とは思えません。「伏見人形図」は、若冲が生涯描き続けた人形の姿を可愛らしく捉えた作品です。まずは、そのふくよかな人形の顔に見入ってしまいますが、彼らがあたかも画面の後方からトコトコと連なって歩いているかのような画面構成も見逃せません。また「鷲図」は、北斎の晩年の作品にも通じるような緊張感を漂わせています。線の表現に、かつての精緻さがやや見られないようにも感じましたが、思いっきりデフォルメされた波と、グイッと首を突き出すかのような鷲の動きには目を奪われました。
さて、ここまであれこれと若冲作品についての拙い感想を書いてきましたが、やはり最後にはあの作品を挙げなくてはなりません。それはもちろんこの展覧会の目玉でもあり、またにわかに若冲のシンボルともなりつつある「鳥獣花木図屏風」(18世紀)です。なんと一隻、4万個以上の升目が存在するという、まるでタイル画のような作品。西陣織の下絵をヒントにしたとも言われつつも、やはりこの時代を隔絶したような表現技法にはただひたすらに驚かされます。ちなみに私がこの作品を拝見するのは二度目です。以前、森美術館のハピネス展で見た時には不思議と全く印象に残りませんでしたが、今回はじっくりと興味深く見ることが出来ました。ともかく何故このような技法、または表現を思いついたのか。そればかりに気をとられる作品でもあります。
右隻、左隻の全体を通して見ると、色のコントラストの都合によるものなのか、動物や背景の描写がやや平面的です。空間の奥行き感があまり感じられません。図版で見ると何故か背景の青が鮮やかで、その分、手前の緑、もしくは動物たちが浮き上がって見えますが、実物はそれほどでもありませんでした。また、作品の要ともなりそうな右隻の白象や左隻の鳳凰も、私にはあまり存在感があるように見えません。特に鳳凰は、その側に描かれたたくさんの鳥たちに埋もれています。むしろその左側にて、殆ど唐突に登場しているようにも思える『若冲の鶴』が際立っていました。何やら他の作品から切り出してきたかのような鶴が描かれています。あたかもこの作品が若冲のものであると言わんばかりの表現です。
それにしてもここに登場してくる動物たちはまるで置物です。若冲の描く動物たちは、いつも生き生きとした、または極限にデフォルメされた形のものが多いかと思いますが、ここにいるのはもっとどっしりとした、それこそ粘土細工のような動物でした。特に左隻の鳳凰の下で群がる鳥たちが顕著です。一部の鳥たちは鳳凰の方向を見つめながらも、何故か殆ど皆、てんでバラバラに右へ左へ向いて止まっている。またどれも恰幅の良い、とても重々しい体つきをしています。羽を開いてもにわかに飛べそうもない鳥たちばかり。お馴染みのシャープな線による、まるで体操選手のように軽快な動きを見せた動物たちもあまり見受けられません。それぞれの視線がもう少し重なり合っていえば、構図の緊張感も生まれて来るのではないかと感じました。(この辺が散漫と言われる由縁でしょうか。)確かにどこか引っかかる作品です。
次回は、第四章「江戸の画家」です。展覧会自体が終らないうちに最後まで感想をアップ出来ればと思います。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
まずは、プライス氏が、日本美術を蒐集する切っ掛けともなった「葡萄図」(18世紀)からです。図版などで見る限りでは大変に地味ですが、実際にその前に立つととても良い作品でした。確かにこれならスポーツカーを諦めたというのも分からなくはありません。葡萄の木が余白を巻き込んで縦横微塵に駆け巡り、さらには精緻に描き込まれた実や葉っぱが、その瑞々しく美しい質感を巧みに表現している。若い頃の作品とのことですが、ここには若冲の類い稀な空間構成力が早くも確立しています。またくねくねと曲がりながら進む枝は、輪郭線を用いずに墨の濃淡だけで描かれていました。それが、まるで光を通すような薄く透き通った葉っぱと、同じものが一つとしてない実をぶら下げている。そう言えば葡萄の味は、同じ房に付いているものでも一つ一つ微妙に異なります。甘いもの、酸っぱいもの。この葡萄も、そんな味の違いを見事に表現してるのかもしれません。ともかくこれだけは、是非、作品に近い位置で拝見することをおすすめします。画像だけでは分からない魅力がたくさん詰まった作品です。
若冲と言えば、動植綵絵に見られるような鶏の描写をまず思い出しますが、この展覧会にも鶏をモチーフとした作品がいくつも展示されていました。その中ではやはり「紫陽花双鶏図」(18世紀)が群を抜いています。ボツボツと平面的にくっ付いた花びらや、複雑に絡み合った枝や葉。紫陽花の特徴を個性的に捉えています。特に、一目見て若冲と分かる花びらの表現は独特です。これに、また同じく一目で彼だと分かる鶏が組合わされば完璧でしょう。左側で大見得を切った雄鶏と、曲線を大きく描いて体をくねらせた雌鶏。雌は、あたかも雄から押されたかのように、後ずさりしながらその方向を見つめています。それにしてもこの雌は侮れません。真ん丸で可愛らしくも見える純情な雄の目と比べて、雌のそれは明らかに不純です。やたらに嫌らしい目つきをしています。この作品は動植綵絵の同名の作品よりも前に描かれたとのことですが、私にはこの二羽の関係からこちらの方が魅力的に見えました。
「紫陽花双鶏図」と同じような動植綵絵に似た作品としては、「群鶏図」(18世紀)と「雪中鴛鴦図」(18世紀)が挙げられると思います。「群鶏図」は「梅花群鶏図」と比べると艶やかな梅の描写がない分やや地味に見えますが、パッと見ただけでは何羽いるか分からないほどギュウギュウに押し込まれた鶴は表現です。(「群鶏図」は、首がまるで蛇のように伸びています。これは不気味です。)また、動植綵絵と同名の「雪中鴛鴦図」では、水面へ顔を突っ込む水鳥に首が描かれています。ちなみにこの首は動植綵絵では省かれていました。さすがにこれは本人がない方が良いと判断したのでしょう。この二点に関しては、動植綵絵の方に軍配を挙げたいと思います。
極限まで精緻に、また隙なく描き切ってしまうのも若冲の魅力ですが、その反面での、一見、肩の力を抜いて描いたような、即興的な作品に味があるのもまた良い部分です。その系統の作品では、卵型の鶴が12羽も並んで滑稽な表情を見せた「鶴図屏風」(18世紀)と、アニメーションタッチの鳥や人物たちが並ぶ「花鳥人物図屏風」(18世紀)が印象に残りました。颯爽とした線にて卵のように胴体を描き、そこから足や羽を軽快に伸ばした「鶴図屏風」。一部に、筋目描と呼ばれる薄墨の滲みを使った技法が冴えています。花びらが重なり合うように連なった筋目描の羽。それが、単純なフォルムの『卵鶴』の中で描かれていると、より一層浮き彫りにされていくようです。また「花鳥人物図屏風」では、ヒョイとつま先で立って遠目を見つめているような鶏や、ニコニコと笑っているようなカラス(こんなに可愛らしいカラスも珍しい!)、さらにはまるでトマトの実のような花の描写が特に印象的でした。また、動植綵絵の「蓮池遊魚図」を思わせる魚の描写も見事です。ここでは、颯爽と描かれた大きな葉が画面全体を引き立てています。まるで縄のように長くべた塗りされた鶏の尾と、その一方での葉に見られるような軽やかな筆さばき。硬軟巧みに使い分ける若冲の筆には改めて驚かされるばかりでした。
筋目描を使った技法の作品では、「芭蕉雄鶏図」(18世紀)や「鯉魚図」(18世紀)も見逃せません。力強く鋭角的に飛び上がった鯉の「鯉魚図」も見事ですが、鶏の羽もバショウも筋目描で表現されている「芭蕉雄鶏図」も魅力的です。鶏冠の部分にまでも、ドットと筋目が美しくに交じり合っている。また筋目によるバショウの質感は、一説では若冲の子(!?)でもあるという伊藤若演の「芭蕉図」(18-19世紀)でも見ることが出来ます。バショウの大きな葉に溜る露が、若冲の作品と同じように仄かに照っている。残念ながら同じバショウでも、その配置に若冲ほどのリズム感がありませんが、焼きノリを一枚一枚並べたような表現もまた面白いと感じました。ちなみに「芭蕉雄鶏図」では、バショウの葉がねじるようにクロスして、鶏もヒョイっと首を曲げながらそれを見ています。そして足元には簡潔な線で示された草が生い茂る。筋目の技法を誇示しながらも、全体の構成感に全く隙がないのが若冲です。さすがの貫禄を見せつけていました。
墨絵の「鶏図」(18世紀)の構成感もまた秀でています。まるで斬新な書のような尾を旗のように靡かせている雄鶏が一羽。彼の視線の先には獲物でもあるのでしょうか。今にも一目散に走り出してしまいそうな勢いを見せています。そしてその雄を見つめるのは、奥の雌鶏と手前にいる小さな雛鳥でした。ともに、まるで雄の急な動きに驚いたかのように振り返っています。脇役にもしっかりポジションが与えられている。こういう細かい部分の面白さも、また病み付きになる若冲の魅力の一つではないでしょうか。
ともに晩年の作品とされる「伏見人形図」(1798)と「鷲図」(1798)の二点は好対照でした。一目見ただけでは同じ作家の作品とは思えません。「伏見人形図」は、若冲が生涯描き続けた人形の姿を可愛らしく捉えた作品です。まずは、そのふくよかな人形の顔に見入ってしまいますが、彼らがあたかも画面の後方からトコトコと連なって歩いているかのような画面構成も見逃せません。また「鷲図」は、北斎の晩年の作品にも通じるような緊張感を漂わせています。線の表現に、かつての精緻さがやや見られないようにも感じましたが、思いっきりデフォルメされた波と、グイッと首を突き出すかのような鷲の動きには目を奪われました。
さて、ここまであれこれと若冲作品についての拙い感想を書いてきましたが、やはり最後にはあの作品を挙げなくてはなりません。それはもちろんこの展覧会の目玉でもあり、またにわかに若冲のシンボルともなりつつある「鳥獣花木図屏風」(18世紀)です。なんと一隻、4万個以上の升目が存在するという、まるでタイル画のような作品。西陣織の下絵をヒントにしたとも言われつつも、やはりこの時代を隔絶したような表現技法にはただひたすらに驚かされます。ちなみに私がこの作品を拝見するのは二度目です。以前、森美術館のハピネス展で見た時には不思議と全く印象に残りませんでしたが、今回はじっくりと興味深く見ることが出来ました。ともかく何故このような技法、または表現を思いついたのか。そればかりに気をとられる作品でもあります。
右隻、左隻の全体を通して見ると、色のコントラストの都合によるものなのか、動物や背景の描写がやや平面的です。空間の奥行き感があまり感じられません。図版で見ると何故か背景の青が鮮やかで、その分、手前の緑、もしくは動物たちが浮き上がって見えますが、実物はそれほどでもありませんでした。また、作品の要ともなりそうな右隻の白象や左隻の鳳凰も、私にはあまり存在感があるように見えません。特に鳳凰は、その側に描かれたたくさんの鳥たちに埋もれています。むしろその左側にて、殆ど唐突に登場しているようにも思える『若冲の鶴』が際立っていました。何やら他の作品から切り出してきたかのような鶴が描かれています。あたかもこの作品が若冲のものであると言わんばかりの表現です。
それにしてもここに登場してくる動物たちはまるで置物です。若冲の描く動物たちは、いつも生き生きとした、または極限にデフォルメされた形のものが多いかと思いますが、ここにいるのはもっとどっしりとした、それこそ粘土細工のような動物でした。特に左隻の鳳凰の下で群がる鳥たちが顕著です。一部の鳥たちは鳳凰の方向を見つめながらも、何故か殆ど皆、てんでバラバラに右へ左へ向いて止まっている。またどれも恰幅の良い、とても重々しい体つきをしています。羽を開いてもにわかに飛べそうもない鳥たちばかり。お馴染みのシャープな線による、まるで体操選手のように軽快な動きを見せた動物たちもあまり見受けられません。それぞれの視線がもう少し重なり合っていえば、構図の緊張感も生まれて来るのではないかと感じました。(この辺が散漫と言われる由縁でしょうか。)確かにどこか引っかかる作品です。
次回は、第四章「江戸の画家」です。展覧会自体が終らないうちに最後まで感想をアップ出来ればと思います。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
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「近代絵画の巨匠たち - 浅井忠 岸田劉生そしてモネ - 」 泉屋博古館・分館 8/20
泉屋博古館・分館(港区六本木1-5-1)
「近代絵画の巨匠たち - 浅井忠 岸田劉生そしてモネ (住友コレクション)- 」
8/5-10/9
泉屋博古館・分館で開催中の「近代絵画の巨匠たち」展へ行ってきました。私などサブタイトルに大きな字で「そしてモネ」と書かれると、さぞやたくさんのモネが展示されているのかと思いこんでしまいますが、その期待は見事なまでに裏切られました。モネは2点。展示のメインは、岸田劉生、梅原龍三郎、浅井忠らを初めとする日本の近代絵画です。(約50点。)主に、明治・大正期の洋画を概観出来る内容でした。
先日、ブリヂストンで拝見した坂本繁二郎も2点ほど展示されています。その内の1点、「二馬壁画」(1946)はこの展覧会のハイライトかもしれません。お馴染みのパステル色の馬のモチーフが、人の高さを超えるほどの巨大なキャンバスに描かれている。その大きさは圧倒的です。天井の低いブリヂストンでは物理的に展示出来ないとさえ思うほどでした。ブリヂストンの回顧展で坂本の馬に魅了された方には、この作品だけを見るだけでも展覧会へ行く価値がある。あえてそうおすすめしておきたいと思います。ともかく意外な場所でまたあの馬に再会することが出来ました。有難いことです。
梅原龍三郎は少し苦手かもしれません。以前に松濤美術館で開催された回顧展はかなり興味深く拝見することが出来ましたが、不思議と他の作家と交じり合うように展示されると、その鮮やかな色彩が目にキツくも感じられます。また、波のようにうねる極太のタッチ。一目見てそれだと分かる個性を示していますが、色彩のオーラに巻き込まれてしまいそうな「薔薇図」(1969)などは、思わず一歩下がってしまうほどでした。梅原の魅力を感じるには、まだまだ学習が足りないようです。
相変わらずの好き嫌いの話で恐縮ですが、岸田劉生も私にとって苦手な作家の一人です。こちらはどの作品を見ても非常に良く描けていて、素直に見事だとは思うのですが、その世界に引き込まれるところまでには至っていません。ちなみに劉生は、「二人麗子図」(1922)など4点が展示されていました。
その他、浅井忠の素朴な風景画、または一見場違いなローランスの「マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち」(1877)などが印象に残りました。来月7日から一部展示替え(浅井忠の作品を中心に。)があるようです。10月9日までの開催です。
*関連エントリ(アートコレクション展の併催美術展)
「花鳥風月」 ホテルオークラ東京 8/20
「Gold - 金色の織りなす異空間 - 」 大倉集古館 9/16
「近代絵画の巨匠たち - 浅井忠 岸田劉生そしてモネ (住友コレクション)- 」
8/5-10/9
泉屋博古館・分館で開催中の「近代絵画の巨匠たち」展へ行ってきました。私などサブタイトルに大きな字で「そしてモネ」と書かれると、さぞやたくさんのモネが展示されているのかと思いこんでしまいますが、その期待は見事なまでに裏切られました。モネは2点。展示のメインは、岸田劉生、梅原龍三郎、浅井忠らを初めとする日本の近代絵画です。(約50点。)主に、明治・大正期の洋画を概観出来る内容でした。
先日、ブリヂストンで拝見した坂本繁二郎も2点ほど展示されています。その内の1点、「二馬壁画」(1946)はこの展覧会のハイライトかもしれません。お馴染みのパステル色の馬のモチーフが、人の高さを超えるほどの巨大なキャンバスに描かれている。その大きさは圧倒的です。天井の低いブリヂストンでは物理的に展示出来ないとさえ思うほどでした。ブリヂストンの回顧展で坂本の馬に魅了された方には、この作品だけを見るだけでも展覧会へ行く価値がある。あえてそうおすすめしておきたいと思います。ともかく意外な場所でまたあの馬に再会することが出来ました。有難いことです。
梅原龍三郎は少し苦手かもしれません。以前に松濤美術館で開催された回顧展はかなり興味深く拝見することが出来ましたが、不思議と他の作家と交じり合うように展示されると、その鮮やかな色彩が目にキツくも感じられます。また、波のようにうねる極太のタッチ。一目見てそれだと分かる個性を示していますが、色彩のオーラに巻き込まれてしまいそうな「薔薇図」(1969)などは、思わず一歩下がってしまうほどでした。梅原の魅力を感じるには、まだまだ学習が足りないようです。
相変わらずの好き嫌いの話で恐縮ですが、岸田劉生も私にとって苦手な作家の一人です。こちらはどの作品を見ても非常に良く描けていて、素直に見事だとは思うのですが、その世界に引き込まれるところまでには至っていません。ちなみに劉生は、「二人麗子図」(1922)など4点が展示されていました。
その他、浅井忠の素朴な風景画、または一見場違いなローランスの「マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち」(1877)などが印象に残りました。来月7日から一部展示替え(浅井忠の作品を中心に。)があるようです。10月9日までの開催です。
*関連エントリ(アートコレクション展の併催美術展)
「花鳥風月」 ホテルオークラ東京 8/20
「Gold - 金色の織りなす異空間 - 」 大倉集古館 9/16
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「マギー 『THIS IS MORE』他」 トーキョーワンダーサイト 8/19
トーキョーワンダーサイト(文京区本郷2-4-16)
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.3」
8/5-27
お茶の水のワンダーサイトで定点観測している展覧会です。今回の展示は林俊作とマギーの計二名。ズバリ、ともに私のかなり苦手な雰囲気の作品でしたが、それぞれに強い個性を持つ内容でした。
林俊作の「ターヘル・アナトミア」は強烈です。こればっかりは私の好みとサッパリ合わないのですが、まるで展示室いっぱいに神経を張り巡らしたような彼の脳内世界が、これでもかと言うほどに自己増殖して展開されています。奇怪でど迫力のモンスター。殆ど病的なまでに細部表現へのこだわりを見せたドローイングが、所狭しと並んでいました。太陽の爆発から深淵の宇宙まで。質感は究極にチープながらも、SF的なモチーフの生命体が右へ左へと暴れ回っています。もうこうなってくると私の頭では殆ど理解することが出来ません。未来都市、暗号文字、怪獣、そして破滅。「自分を解体する。」というコンセプトに基づいているとのことですが、もはや見る側の私の脳すら分解し、浸食するかのような作品です。作者の林俊作は1992年生まれ。あとはご覧になって判断されることを願います。
マギーの「THIS IS MORE」は、それぞれのモチーフに潜んだ顔の表情が謎めいています。岩山の主のようにドーンと鎮座する「かぶとやま」や、さらには日本列島のこれまた主として日本に内在した「メタクソ地図」など、どれも不安な視線をこちら側へ向けていました。何を憂うのか。そして何を思うのか。その視線にしばし足を止めさせられる作品でした。
今月27日までの開催です。次回の第4回(9/9から)もまた拝見したいと思います。
*関連エントリ
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.2」(「mayu 『mayu展』他」) 7/8
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.1」(「山本挙志『いってかえる』他」) 4/23
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.3」
8/5-27
お茶の水のワンダーサイトで定点観測している展覧会です。今回の展示は林俊作とマギーの計二名。ズバリ、ともに私のかなり苦手な雰囲気の作品でしたが、それぞれに強い個性を持つ内容でした。
林俊作の「ターヘル・アナトミア」は強烈です。こればっかりは私の好みとサッパリ合わないのですが、まるで展示室いっぱいに神経を張り巡らしたような彼の脳内世界が、これでもかと言うほどに自己増殖して展開されています。奇怪でど迫力のモンスター。殆ど病的なまでに細部表現へのこだわりを見せたドローイングが、所狭しと並んでいました。太陽の爆発から深淵の宇宙まで。質感は究極にチープながらも、SF的なモチーフの生命体が右へ左へと暴れ回っています。もうこうなってくると私の頭では殆ど理解することが出来ません。未来都市、暗号文字、怪獣、そして破滅。「自分を解体する。」というコンセプトに基づいているとのことですが、もはや見る側の私の脳すら分解し、浸食するかのような作品です。作者の林俊作は1992年生まれ。あとはご覧になって判断されることを願います。
マギーの「THIS IS MORE」は、それぞれのモチーフに潜んだ顔の表情が謎めいています。岩山の主のようにドーンと鎮座する「かぶとやま」や、さらには日本列島のこれまた主として日本に内在した「メタクソ地図」など、どれも不安な視線をこちら側へ向けていました。何を憂うのか。そして何を思うのか。その視線にしばし足を止めさせられる作品でした。
今月27日までの開催です。次回の第4回(9/9から)もまた拝見したいと思います。
*関連エントリ
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.2」(「mayu 『mayu展』他」) 7/8
「Emerging Artist Support Program 2006 vol.1」(「山本挙志『いってかえる』他」) 4/23
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岡本太郎の「明日の神話」と「汐留アート塾」 inシオサイト
汐留で公開中の岡本太郎の幻の絵画「明日の神話」と、それに合わせて開催されているアートのイベント「汐留アート塾」を見てきました。場所は、汐留の超高層ビル街「シオサイト」内の地下歩道、及びその広場です。ちょうど日本テレビタワーの前あたりでしょうか。お盆休みの休日と言うこともあってかやや混雑していました。
岡本太郎の壁画の裏には行列が出来ていました。何と作品を至近で見るには10分待ちなのだそうです。と言っても、行列に並ばないと壁画を見られないわけではありません。確かに列へ加われば壁画の真ん前に立つことが可能ですが、表へ廻って並ばずに見ても5メートルと離れていない所で鑑賞することが出来ます。また率直に申し上げて、私自身もそんなに岡本太郎へ思い入れがありません。ここは行列を遠慮して遠目で眺めることにしました。ともかくどでかい壁画です。例の派手なタッチが壁一面に渦巻いています。相変わらず見る者を跳ね飛ばすようなエネルギー。もう近寄るのも遠慮してしまうほどでした…。
岡本太郎の壁画へ別れを告げた後は、そのすぐ隣で開催されている「汐留アート塾」へ行ってみました。こちらは10カ所ほどの各ブースにて、若手アーティストの方が公開制作を続けたり、簡単なワークショップなどを開いているイベントです。また画廊も少しだけ出展しています。いくつかのブースでは作品やポストカード、さらにはTシャツなどの販売も行われていました。買い物客や観光客の一部が、興味津々とブースへ近づいていきます。
「アート塾」自体は決して大仕掛けのイベントではありません。殆ど他の企画(「サマーフェスタ・アフリカ」など。)と一緒くたにされたような形で開催されています。(どこからどこまでが「アート塾」なのかさえ良く分からないほどです。)ただその分、縁日のような、格式張らない賑わいが形成されていました。それにもちろん「アート」への高い敷居も見られません。特に音楽に合わせて作品へ向かう「ユキンコアキラ」の公開制作は目立っていました。私としては「明日の神話」よりもこちらを推したいくらいです。
岡本太郎の壁画や「アート塾」は、シオサイトの夏のイベント「GO! SHIODOME ジャンボリー2006」の関連企画だそうです。また会場ではスタンプラリーも開催されていました。立体迷路のようなシオサイト内を、スタンプラリーの台紙を頼りにウロウロしてみるのはいかがでしょうか。(とおすすめしつつ、あまりにも暑かったもので私は遠慮しましたが…。)
8月31日までの開催されています。また週毎にアーティストの方が入れ替っているようです。機会があればもう一度行ってみたいと思いました。
*「アート塾」のタイムリーな情報はsayakaさんのブログ「ArtsLog」へどうぞ!
岡本太郎の壁画の裏には行列が出来ていました。何と作品を至近で見るには10分待ちなのだそうです。と言っても、行列に並ばないと壁画を見られないわけではありません。確かに列へ加われば壁画の真ん前に立つことが可能ですが、表へ廻って並ばずに見ても5メートルと離れていない所で鑑賞することが出来ます。また率直に申し上げて、私自身もそんなに岡本太郎へ思い入れがありません。ここは行列を遠慮して遠目で眺めることにしました。ともかくどでかい壁画です。例の派手なタッチが壁一面に渦巻いています。相変わらず見る者を跳ね飛ばすようなエネルギー。もう近寄るのも遠慮してしまうほどでした…。
岡本太郎の壁画へ別れを告げた後は、そのすぐ隣で開催されている「汐留アート塾」へ行ってみました。こちらは10カ所ほどの各ブースにて、若手アーティストの方が公開制作を続けたり、簡単なワークショップなどを開いているイベントです。また画廊も少しだけ出展しています。いくつかのブースでは作品やポストカード、さらにはTシャツなどの販売も行われていました。買い物客や観光客の一部が、興味津々とブースへ近づいていきます。
「アート塾」自体は決して大仕掛けのイベントではありません。殆ど他の企画(「サマーフェスタ・アフリカ」など。)と一緒くたにされたような形で開催されています。(どこからどこまでが「アート塾」なのかさえ良く分からないほどです。)ただその分、縁日のような、格式張らない賑わいが形成されていました。それにもちろん「アート」への高い敷居も見られません。特に音楽に合わせて作品へ向かう「ユキンコアキラ」の公開制作は目立っていました。私としては「明日の神話」よりもこちらを推したいくらいです。
岡本太郎の壁画や「アート塾」は、シオサイトの夏のイベント「GO! SHIODOME ジャンボリー2006」の関連企画だそうです。また会場ではスタンプラリーも開催されていました。立体迷路のようなシオサイト内を、スタンプラリーの台紙を頼りにウロウロしてみるのはいかがでしょうか。(とおすすめしつつ、あまりにも暑かったもので私は遠慮しましたが…。)
8月31日までの開催されています。また週毎にアーティストの方が入れ替っているようです。機会があればもう一度行ってみたいと思いました。
*「アート塾」のタイムリーな情報はsayakaさんのブログ「ArtsLog」へどうぞ!
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展の拙い感想シリーズです。今日は第二章の「京の画家」。ここでは、若冲とも重なる京都の絵師たちから、特に円山派の作品などが幅広く紹介されていました。早速、見応えのある作品がズラリと並んでいます。
第一章の感想で取り上げた鯉と同じように、この展覧会では虎をモチーフとした作品がいくつも登場します。私がその中で惹かれたのは、会場入口に展示されていた長沢芦雪の「猛虎図」(18世紀)と、亀岡規礼の同名の作品でした。芦雪の虎が、まるで獰猛な番犬のように鋭く、また強圧的とすれば、規礼のそれは艶やかな毛並みを披露した美しいモデルでしょう。ただその一方で、殆ど妖怪のような風貌を見せる片山楊谷の「猛虎図」(18世紀)や、レースの編み目のように細かい毛並みを見せる源キ(王へんに奇)のそれは、私には少し生々し過ぎて見えてしまいます。あまり好きではありません。また、会場外の企画展示室にあった「虎図屏風」(17世紀)は、一言で簡単に表せばとてもヘンテコな作品です。大きな牙を見せながら、その存在感を誇示するかのように月へ向かって吼えていますが、私には、彼が何かに恐れを為して悲鳴をあげているように見えました。とんでもない化け物でも登場したのでしょうか。後ろ足を竹へくっ付けて下がっているのは、もう逃げ場がない証拠なのかもしれません。次の瞬間には襲われてしまっている。断末魔の苦しみとはまさにこのことのようにも思えました。
円山応挙の名品がこのセクションで展示されています。それが「赤壁図」(1776)です。私など赤壁と言えば、すぐに戦いのイメージを浮かべてしまいますが、これは中国・北宋時代における舟遊びの光景を描いた作品だそうです。岩肌の荒々しく露出した赤壁と、雄大に流れ行く長江。一艘の小舟がのんびりと川に揺られていました。川面に浮かんでいるのは月明かりでしょうか。ゆらゆらと弛む水面が、透き通るほどの細い線にて丁寧に表現されています。また談笑する者たちや、お茶を沸かす人の姿もどこか可愛らしい。微笑ましく、情緒豊かな光景。地味ながらも素敵な作品かと思います。
応挙門下では、円山応震(応挙の次男の子。)の「駱駝図」(18世紀)も印象的でした。まるで人間のような顔をしたラクダが二頭、くつろいだ姿にて並んでいます。ちなみにこのラクダは、当時、長崎へ来航したオランダ船によりもたらされたものだそうです。応震はそれを写生したのしょう。背中にかけての長い毛が、まるで風に吹かれているように靡いていました。ちなみに応震の作品は、夏と秋の麦畑を描いた「麦稲図屏風」(19世紀)も展示されています。画面中央をまるで大河のように滔々と貫く霞。その描写が麦畑のデザイン的な表現と相まって、作品全体を抽象的な味わいに仕立て上げています。こちらは私にはあまり魅力的にうつらなかったのですが、「駱駝図」に見られる繊細さと、その一方での「麦稲図」の大胆さはとても同じ作者には見えません。他の作品も拝見してみたいです。
抽象的と言えば、まるでシニャックの点描を思わせる池観了の「山水図」(18-19世紀)も面白い作品です。米点と呼ばれる横点にて象られた山や木々。朱に色付いた山の景色も見事ですが、水辺に迫る木の葉の明るい緑がとても爽やかです。そしてその米点に対する、殆ど無造作に描かれた木の幹や枝。まるで下から狼煙があがっているかのように揺らめいています。その対比も興味深いと感じました。
狼煙と書いて思い出しました。長沢芦雪の「神仙亀図」(18世紀)にもそんな表現が登場します。右幅の亀に注目です。波を高く乗り越えて進む亀が描かれていますが、その亀の前に描かれた波の描写はどうでしょう。狼煙と言うよりも、むしろペンなどの試し書きのニョロニョロと称せるかもしれません。また亀の口から出ているかのような波は、まるで彼が煙草を吹かしているかのようでした。この作品は、おそらく即席で描かれたとのことですが、デフォルメ感と、良い意味での力の抜けた表現は何とも記憶に残ります。非常に高いレベルに仕上げられた芦雪の「牡丹孔雀図屏風」(1781)と、この「神仙亀図」や「軍鶏図」(18世紀)を同時に見ると、一言で芦雪の作風とはこれだと示せないような奥深さを感じました。芦雪もいつかはまとめて見てみたい画家の一人です。
若冲の描く雄鶏にはどれも強烈な自我を感じますが、岸駒の「雨中雄鶏図」(18世紀)の雄鶏も負けてはいません。首を大きく傾げて、少し伏せながらまるで睨むように目線を光らす姿。獲物を鋭く狙った様子を表しているのでしょうか。そしてその引き締まった肉体。岩肌に美しく咲いた花と同様、鶏全体も非常に精緻な筆で描かれていますが、どっしり構えた両足から鶏冠までに一瞬の隙も見られません。まるでサイボーグのようです。
第二章で特に良く描けていると感心したのは、森狙仙の「梅花猿猴図」(19世紀)でした。梅の木にぶら下がった親子猿。こんな細い枝では、いくら岩壁へ足を引っかけていても直ぐさま落ちてしまいそうですが、この猿は恐ろしく身軽なのでしょう。毛並みがまるで綿飴のように描かれ、それこそフワフワと浮くかのように表現されています。また、親猿の手に握られているのは、捕まえたばかりの虫でした。何やら得意げに手を見つめ、小猿も驚いたように覗き込んでいる。やや即興的に描かれた梅との対比を含め、とても味わい深い作品でした。
次回はメインの若冲、第三章「エキセントリック」へ進みたいと思います。
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
第一章の感想で取り上げた鯉と同じように、この展覧会では虎をモチーフとした作品がいくつも登場します。私がその中で惹かれたのは、会場入口に展示されていた長沢芦雪の「猛虎図」(18世紀)と、亀岡規礼の同名の作品でした。芦雪の虎が、まるで獰猛な番犬のように鋭く、また強圧的とすれば、規礼のそれは艶やかな毛並みを披露した美しいモデルでしょう。ただその一方で、殆ど妖怪のような風貌を見せる片山楊谷の「猛虎図」(18世紀)や、レースの編み目のように細かい毛並みを見せる源キ(王へんに奇)のそれは、私には少し生々し過ぎて見えてしまいます。あまり好きではありません。また、会場外の企画展示室にあった「虎図屏風」(17世紀)は、一言で簡単に表せばとてもヘンテコな作品です。大きな牙を見せながら、その存在感を誇示するかのように月へ向かって吼えていますが、私には、彼が何かに恐れを為して悲鳴をあげているように見えました。とんでもない化け物でも登場したのでしょうか。後ろ足を竹へくっ付けて下がっているのは、もう逃げ場がない証拠なのかもしれません。次の瞬間には襲われてしまっている。断末魔の苦しみとはまさにこのことのようにも思えました。
円山応挙の名品がこのセクションで展示されています。それが「赤壁図」(1776)です。私など赤壁と言えば、すぐに戦いのイメージを浮かべてしまいますが、これは中国・北宋時代における舟遊びの光景を描いた作品だそうです。岩肌の荒々しく露出した赤壁と、雄大に流れ行く長江。一艘の小舟がのんびりと川に揺られていました。川面に浮かんでいるのは月明かりでしょうか。ゆらゆらと弛む水面が、透き通るほどの細い線にて丁寧に表現されています。また談笑する者たちや、お茶を沸かす人の姿もどこか可愛らしい。微笑ましく、情緒豊かな光景。地味ながらも素敵な作品かと思います。
応挙門下では、円山応震(応挙の次男の子。)の「駱駝図」(18世紀)も印象的でした。まるで人間のような顔をしたラクダが二頭、くつろいだ姿にて並んでいます。ちなみにこのラクダは、当時、長崎へ来航したオランダ船によりもたらされたものだそうです。応震はそれを写生したのしょう。背中にかけての長い毛が、まるで風に吹かれているように靡いていました。ちなみに応震の作品は、夏と秋の麦畑を描いた「麦稲図屏風」(19世紀)も展示されています。画面中央をまるで大河のように滔々と貫く霞。その描写が麦畑のデザイン的な表現と相まって、作品全体を抽象的な味わいに仕立て上げています。こちらは私にはあまり魅力的にうつらなかったのですが、「駱駝図」に見られる繊細さと、その一方での「麦稲図」の大胆さはとても同じ作者には見えません。他の作品も拝見してみたいです。
抽象的と言えば、まるでシニャックの点描を思わせる池観了の「山水図」(18-19世紀)も面白い作品です。米点と呼ばれる横点にて象られた山や木々。朱に色付いた山の景色も見事ですが、水辺に迫る木の葉の明るい緑がとても爽やかです。そしてその米点に対する、殆ど無造作に描かれた木の幹や枝。まるで下から狼煙があがっているかのように揺らめいています。その対比も興味深いと感じました。
狼煙と書いて思い出しました。長沢芦雪の「神仙亀図」(18世紀)にもそんな表現が登場します。右幅の亀に注目です。波を高く乗り越えて進む亀が描かれていますが、その亀の前に描かれた波の描写はどうでしょう。狼煙と言うよりも、むしろペンなどの試し書きのニョロニョロと称せるかもしれません。また亀の口から出ているかのような波は、まるで彼が煙草を吹かしているかのようでした。この作品は、おそらく即席で描かれたとのことですが、デフォルメ感と、良い意味での力の抜けた表現は何とも記憶に残ります。非常に高いレベルに仕上げられた芦雪の「牡丹孔雀図屏風」(1781)と、この「神仙亀図」や「軍鶏図」(18世紀)を同時に見ると、一言で芦雪の作風とはこれだと示せないような奥深さを感じました。芦雪もいつかはまとめて見てみたい画家の一人です。
若冲の描く雄鶏にはどれも強烈な自我を感じますが、岸駒の「雨中雄鶏図」(18世紀)の雄鶏も負けてはいません。首を大きく傾げて、少し伏せながらまるで睨むように目線を光らす姿。獲物を鋭く狙った様子を表しているのでしょうか。そしてその引き締まった肉体。岩肌に美しく咲いた花と同様、鶏全体も非常に精緻な筆で描かれていますが、どっしり構えた両足から鶏冠までに一瞬の隙も見られません。まるでサイボーグのようです。
第二章で特に良く描けていると感心したのは、森狙仙の「梅花猿猴図」(19世紀)でした。梅の木にぶら下がった親子猿。こんな細い枝では、いくら岩壁へ足を引っかけていても直ぐさま落ちてしまいそうですが、この猿は恐ろしく身軽なのでしょう。毛並みがまるで綿飴のように描かれ、それこそフワフワと浮くかのように表現されています。また、親猿の手に握られているのは、捕まえたばかりの虫でした。何やら得意げに手を見つめ、小猿も驚いたように覗き込んでいる。やや即興的に描かれた梅との対比を含め、とても味わい深い作品でした。
次回はメインの若冲、第三章「エキセントリック」へ進みたいと思います。
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その1・正統派絵画)
東京国立博物館・平成館(台東区上野公園13-9)
「プライス・コレクション 若冲と江戸絵画」展
7/4-8/27
いつの間にやら会期末が近づいていました。先日、入場者が20万人を突破したという話題の「プライスコレクション 若冲と江戸絵画」展です。結局、これまでに2、3度足を運びました。さすがに最近はかなり混雑しています。
当然ながら見応えのある展覧会なので、私の拙い感想もいつも以上にダラダラと長くなってしまいます。と言うことで、ここは会場の構成に則り、章毎に分けて書くことにしました。まずは早速、第一章の「正統派絵画」からです。メインの「エキセントリック」(=若冲)と対になるような、まさにオーソドックスな狩野派などの作品が並んでいました。特に印象深かった4点を挙げてみます。
一番に惹かれた作品は、四季折々の野山の光景を描いた「花鳥図屏風」(17世紀)でした。この屏風画は、春から冬への四季変化が、画面の中央にてちょうど円を描くように表現されているそうですが、特に左隻の秋から冬の部分が秀でています。雪の仄かに降り掛かった柳の木に、しっとりと濡れたような瑞々しい椿の花。そして柳の枝はまるで秋雨のように美しい弧を描いて垂れ下がっています。また右隻では、大胆に配された金雲と呼応するような松の描写がとても個性的です。蛇のように曲がりくねった枝へ、まるで小山の如く盛り上がった葉がベッタリとくっ付いている。地味な色遣いながらも、そのデフォルメされた形には目を奪われました。
屏風画では、曽我二直庵の「松鷹図屏風」(17世紀)もなかなか魅力的です。ここではまず、まるで木彫のような鷹が目につきます。松は思い切った、それこそ劇画のようなタッチで表現されていながら、鷹は実に精緻に描かれている。羽の一枚一枚はパズルのように組合わさっていました。そして、左右それぞれで睨みあう鷹の緊張感。余白を用いて簡潔な構図をとりながらも、彼らの視線、その配置などに力強さを感じる作品です。
この展覧会では鯉を描いた作品がいくつか登場しますが、その中で最も奇妙なのが渡辺始興の「鯉魚図」(18世紀)でしょう。滝を昇る鯉のモチーフ。これは、鯉が龍になるという「登竜門」の故事から、出世をイメージさせる目出度い画題の作品だそうですが、残念ながらこの鯉は尾ひれを滝壺へ残してしまったようです。またその滝壺も、水が轟々と渦巻いていると言うよりは、むしろ煙がモクモクと靡いているかのように見えます。滝を昇ろうとしているよりも、何とか壁にへばりついて落ちないように頑張っている。どうやら出世どころの話ではなかったようです。
「芥子薊蓮華草図」(17-18世紀)の美しさも忘れられません。細い線によって描かれた芥子や草花。そのか弱いタッチと相反するようなたらし込みがとても大胆でした。また芥子の花の赤から白へグラデーションが鮮やかです。そして構図としてもまとまりが良い。鄙びた雰囲気が印象に残りました。
第二章「京の画家」、もしくはそれ以降の感想については、また後日アップしたいと思います。
*関連エントリ
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
「プライス・コレクション 若冲と江戸絵画」展
7/4-8/27
いつの間にやら会期末が近づいていました。先日、入場者が20万人を突破したという話題の「プライスコレクション 若冲と江戸絵画」展です。結局、これまでに2、3度足を運びました。さすがに最近はかなり混雑しています。
当然ながら見応えのある展覧会なので、私の拙い感想もいつも以上にダラダラと長くなってしまいます。と言うことで、ここは会場の構成に則り、章毎に分けて書くことにしました。まずは早速、第一章の「正統派絵画」からです。メインの「エキセントリック」(=若冲)と対になるような、まさにオーソドックスな狩野派などの作品が並んでいました。特に印象深かった4点を挙げてみます。
一番に惹かれた作品は、四季折々の野山の光景を描いた「花鳥図屏風」(17世紀)でした。この屏風画は、春から冬への四季変化が、画面の中央にてちょうど円を描くように表現されているそうですが、特に左隻の秋から冬の部分が秀でています。雪の仄かに降り掛かった柳の木に、しっとりと濡れたような瑞々しい椿の花。そして柳の枝はまるで秋雨のように美しい弧を描いて垂れ下がっています。また右隻では、大胆に配された金雲と呼応するような松の描写がとても個性的です。蛇のように曲がりくねった枝へ、まるで小山の如く盛り上がった葉がベッタリとくっ付いている。地味な色遣いながらも、そのデフォルメされた形には目を奪われました。
屏風画では、曽我二直庵の「松鷹図屏風」(17世紀)もなかなか魅力的です。ここではまず、まるで木彫のような鷹が目につきます。松は思い切った、それこそ劇画のようなタッチで表現されていながら、鷹は実に精緻に描かれている。羽の一枚一枚はパズルのように組合わさっていました。そして、左右それぞれで睨みあう鷹の緊張感。余白を用いて簡潔な構図をとりながらも、彼らの視線、その配置などに力強さを感じる作品です。
この展覧会では鯉を描いた作品がいくつか登場しますが、その中で最も奇妙なのが渡辺始興の「鯉魚図」(18世紀)でしょう。滝を昇る鯉のモチーフ。これは、鯉が龍になるという「登竜門」の故事から、出世をイメージさせる目出度い画題の作品だそうですが、残念ながらこの鯉は尾ひれを滝壺へ残してしまったようです。またその滝壺も、水が轟々と渦巻いていると言うよりは、むしろ煙がモクモクと靡いているかのように見えます。滝を昇ろうとしているよりも、何とか壁にへばりついて落ちないように頑張っている。どうやら出世どころの話ではなかったようです。
「芥子薊蓮華草図」(17-18世紀)の美しさも忘れられません。細い線によって描かれた芥子や草花。そのか弱いタッチと相反するようなたらし込みがとても大胆でした。また芥子の花の赤から白へグラデーションが鮮やかです。そして構図としてもまとまりが良い。鄙びた雰囲気が印象に残りました。
第二章「京の画家」、もしくはそれ以降の感想については、また後日アップしたいと思います。
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「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その2・京の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その3・エキセントリック)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その4・江戸の画家)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その5・江戸琳派)
「若冲と江戸絵画」展 東京国立博物館 (その6・特別展示)
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「ヨロヨロン 束芋」 原美術館 8/13
原美術館(品川区北品川4-7-25)
「ヨロヨロン 束芋」展
6/3-8/27
束芋の作品をまとまって見るのは、2003年にオペラシティで開催された個展以来のことです。原美術館の空間に合わせて制作されたという、新作映像インスタレーション3点を中心に、束芋の創作を多様に紹介する展覧会でした。
残暑厳しい品川駅からの道のりで火照った体を冷ますには、まず入口すぐ横の暗室に展示されている「真夜中の海」(2006)を見るのが最適でしょう。何やら巨大なパネルに並んだいくつもの覗き穴。中からは冷気が引っ切りなしに流れ出ています。それを顔に受けながら、しばし闇の海での物語に見入ること。巻貝のように渦巻く波と、ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れた真っ白い物体。まるでジュゴンのように輝いています。そして耳に飛び込んで来るのは、轟々と絶え間なく続く波の音でした。真っ暗で、また誰もいない波打ち際で見つめた夜の海の記憶。いつの間にか海に引きずり込まれてしまうような感覚に近いかもしれません。背筋に感じる一抹の恐怖感と、正面から流れてくる冷たい風。時にクールな一面を見せる束芋ワールドの効果的な導入かと思いました。
「にっぽんの台所」(1999年)は以前にも見たことがあるかもしれません。襖や障子で作られたコテコテの日本家屋に、逞しい主婦が、まさにその主として一人気を吐く映像作品です。リストラされた旦那をすぐさまギロチンにして処理したその姿には、明日は我が身と震え上がる男性の方もいらっしゃるのではないでしょうか。また、電子レンジの中で回転する政治家の虚しさは実に滑稽です。ピリリと効くスパイスのような皮肉が利いていました。
ダンディズムとエロスを表現したような「hanabi-ra」(2003)の美しさは格別です。入れ墨に化けた花びらが儚くひらひらと散っていく。時に背中には鯉が泳ぎ、また長谷川等伯風の烏が飛び去ります。桜の散り際の美学でしょうか。それにしてもこの作品は、何としてでも最後まで鑑賞しなくてはなりません。アッと驚く豪快な仕掛けが待ち構えている。捲れて削ぎ落とされ、さらには切り刻まれ崩壊する過程が瞬く間に過ぎ去っていきました。堆く積もった美の残骸には清めの酒を振りかけたい。そんな気持ちにもさせられます。
今回の展覧会のハイライトでもある「公衆便女」(2006)はさすがの貫禄です。3面スクリーンの巨大な映像装置。そこには、汚れ切った女性用の大きなトイレが映し出されます。そして繰り広げられるのは、現代女性を半ばシニカルに見つめた多様な物語でした。ランドセルを背負い、下着一枚の姿となって執拗に髪を梳かし続ける女性。携帯電話を便器の中へ落としたが為に、水着姿となって飛び込んで追っかける者。さらには、口の中から胎児を吐き出し、亀にのっけて水へと流してしまう様子。OL風の女性が、まさに自らを傷つけるかのように鏡を叩き割るシーンも印象的でした。それぞれの精神病理が、寓話的なモチーフを用い、また一見不条理な物語を装いながらも、実はかなり直裁的な形にて表現されている。彼女たちは、互いに関係し合うことも、また自らをなめ回すように見る蛾を気にすることもありません。あくまでも孤独に生き続けている。独特な寂寥感。ここに「ヨロヨロン」の意味が頭をよぎります。作品を見終えると、そのほろ苦い後味がしばらく残り続けました。
映像インスタレーションの他にも、どこかダリ風の味わいすら見せる「惡人」(2006)や、何とも気味の悪い「虫遊び」(2005)などのドローイングも展示されています。相変わらずのおどろおどろしさと、その反面でのシュールな社会的テーマへの切り込み。ともかくいつ見ても記憶へ強く焼き付けられるアーティストです。今月27日までの開催です。もちろんおすすめ致します。
「ヨロヨロン 束芋」展
6/3-8/27
束芋の作品をまとまって見るのは、2003年にオペラシティで開催された個展以来のことです。原美術館の空間に合わせて制作されたという、新作映像インスタレーション3点を中心に、束芋の創作を多様に紹介する展覧会でした。
残暑厳しい品川駅からの道のりで火照った体を冷ますには、まず入口すぐ横の暗室に展示されている「真夜中の海」(2006)を見るのが最適でしょう。何やら巨大なパネルに並んだいくつもの覗き穴。中からは冷気が引っ切りなしに流れ出ています。それを顔に受けながら、しばし闇の海での物語に見入ること。巻貝のように渦巻く波と、ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れた真っ白い物体。まるでジュゴンのように輝いています。そして耳に飛び込んで来るのは、轟々と絶え間なく続く波の音でした。真っ暗で、また誰もいない波打ち際で見つめた夜の海の記憶。いつの間にか海に引きずり込まれてしまうような感覚に近いかもしれません。背筋に感じる一抹の恐怖感と、正面から流れてくる冷たい風。時にクールな一面を見せる束芋ワールドの効果的な導入かと思いました。
「にっぽんの台所」(1999年)は以前にも見たことがあるかもしれません。襖や障子で作られたコテコテの日本家屋に、逞しい主婦が、まさにその主として一人気を吐く映像作品です。リストラされた旦那をすぐさまギロチンにして処理したその姿には、明日は我が身と震え上がる男性の方もいらっしゃるのではないでしょうか。また、電子レンジの中で回転する政治家の虚しさは実に滑稽です。ピリリと効くスパイスのような皮肉が利いていました。
ダンディズムとエロスを表現したような「hanabi-ra」(2003)の美しさは格別です。入れ墨に化けた花びらが儚くひらひらと散っていく。時に背中には鯉が泳ぎ、また長谷川等伯風の烏が飛び去ります。桜の散り際の美学でしょうか。それにしてもこの作品は、何としてでも最後まで鑑賞しなくてはなりません。アッと驚く豪快な仕掛けが待ち構えている。捲れて削ぎ落とされ、さらには切り刻まれ崩壊する過程が瞬く間に過ぎ去っていきました。堆く積もった美の残骸には清めの酒を振りかけたい。そんな気持ちにもさせられます。
今回の展覧会のハイライトでもある「公衆便女」(2006)はさすがの貫禄です。3面スクリーンの巨大な映像装置。そこには、汚れ切った女性用の大きなトイレが映し出されます。そして繰り広げられるのは、現代女性を半ばシニカルに見つめた多様な物語でした。ランドセルを背負い、下着一枚の姿となって執拗に髪を梳かし続ける女性。携帯電話を便器の中へ落としたが為に、水着姿となって飛び込んで追っかける者。さらには、口の中から胎児を吐き出し、亀にのっけて水へと流してしまう様子。OL風の女性が、まさに自らを傷つけるかのように鏡を叩き割るシーンも印象的でした。それぞれの精神病理が、寓話的なモチーフを用い、また一見不条理な物語を装いながらも、実はかなり直裁的な形にて表現されている。彼女たちは、互いに関係し合うことも、また自らをなめ回すように見る蛾を気にすることもありません。あくまでも孤独に生き続けている。独特な寂寥感。ここに「ヨロヨロン」の意味が頭をよぎります。作品を見終えると、そのほろ苦い後味がしばらく残り続けました。
映像インスタレーションの他にも、どこかダリ風の味わいすら見せる「惡人」(2006)や、何とも気味の悪い「虫遊び」(2005)などのドローイングも展示されています。相変わらずのおどろおどろしさと、その反面でのシュールな社会的テーマへの切り込み。ともかくいつ見ても記憶へ強く焼き付けられるアーティストです。今月27日までの開催です。もちろんおすすめ致します。
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「アフリカ・リミックス」展 森美術館 8/13
森美術館(港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー53階)
「アフリカ・リミックス - 多様化するアフリカの現代美術 - 」
5/27-8/31
森美術館で開催中の「アフリカ・リミックス」展へ行ってきました。日頃、あまり慣れ親しみのないアフリカの現代美術を、壮大なスケールで紹介する展覧会です。一見、アフリカンアートへ手軽に誘うようなスタイルをとりながら、実はかなりディープで奥深い世界が待ち構えている。これは好企画かと思いました。
アフリカはともかく日本となかなか接点の見出しにくい地域です。普段のニュースをとっても、アフリカの日常が詳細に伝えられることはまずありません。もちろんそれはアートの世界でも同様でしょう。未知の作家による、思いもよらないような展開を見せる作品たち。自分がいわゆる美術を鑑賞する際に、いかにその基盤となる文化の立場から物事を見ているのかが良く分かります。ズバリ、好き嫌いだけの判断に立てば、ここには自信を持って好きだと言えるアートは殆どありません。しかし、何やらよく分からないのに、心を揺さぶられる作品が確かに存在する。この「分からないのに心を動かされる。」という感覚は久しぶりです。もしかしたら、自分の好き嫌いの判断を超えた部分にこれらの作品はあるのかもしれない。一目見ただけでは、その「趣味の悪さ」に思わず通り過ぎたくなるような作品も、ここは二度、三度と見て、まさに苦い良薬を口にするように味わってみたい。そんな気持ちにもさせられました。
六本木ヒルズではこの展覧会と平行して、いくつものアフリカを楽しく盛り上げるようなイベントが企画されています。しかし展覧会自体には、それに反するかのような重いテーマの作品が多く並んでいました。かつての植民地支配を告発した作品はもとより、今のアフリカの不安定さをストレートに、時に笑いを用いて表現した作品たち。そのアイロニカルな笑いには、私も居心地悪く、ただ頬を引きつらせるかしかありません。また総じて物質感よりも、その意味に価値を見出す作品の方が多いように思いました。表現への意思が恐ろしいまでに渦巻いています。
展覧会は、デュッセルドルフから、ロンドン、さらにはポンピドゥー・センターを経て、この森美術館へ巡回しています。アジアを一口でまとめてしまうのが危険なのことと同じく、アフリカの諸地域を全て同じように捉えてしまうのも身勝手ではありますが、この展覧会がアフリカへ巡回しないのであれば大変に残念です。また、普段アートに親しんでおられる方にこそ、特におすすめしたい内容かと思いました。今月末までの開催です。
「アフリカ・リミックス - 多様化するアフリカの現代美術 - 」
5/27-8/31
森美術館で開催中の「アフリカ・リミックス」展へ行ってきました。日頃、あまり慣れ親しみのないアフリカの現代美術を、壮大なスケールで紹介する展覧会です。一見、アフリカンアートへ手軽に誘うようなスタイルをとりながら、実はかなりディープで奥深い世界が待ち構えている。これは好企画かと思いました。
アフリカはともかく日本となかなか接点の見出しにくい地域です。普段のニュースをとっても、アフリカの日常が詳細に伝えられることはまずありません。もちろんそれはアートの世界でも同様でしょう。未知の作家による、思いもよらないような展開を見せる作品たち。自分がいわゆる美術を鑑賞する際に、いかにその基盤となる文化の立場から物事を見ているのかが良く分かります。ズバリ、好き嫌いだけの判断に立てば、ここには自信を持って好きだと言えるアートは殆どありません。しかし、何やらよく分からないのに、心を揺さぶられる作品が確かに存在する。この「分からないのに心を動かされる。」という感覚は久しぶりです。もしかしたら、自分の好き嫌いの判断を超えた部分にこれらの作品はあるのかもしれない。一目見ただけでは、その「趣味の悪さ」に思わず通り過ぎたくなるような作品も、ここは二度、三度と見て、まさに苦い良薬を口にするように味わってみたい。そんな気持ちにもさせられました。
六本木ヒルズではこの展覧会と平行して、いくつものアフリカを楽しく盛り上げるようなイベントが企画されています。しかし展覧会自体には、それに反するかのような重いテーマの作品が多く並んでいました。かつての植民地支配を告発した作品はもとより、今のアフリカの不安定さをストレートに、時に笑いを用いて表現した作品たち。そのアイロニカルな笑いには、私も居心地悪く、ただ頬を引きつらせるかしかありません。また総じて物質感よりも、その意味に価値を見出す作品の方が多いように思いました。表現への意思が恐ろしいまでに渦巻いています。
展覧会は、デュッセルドルフから、ロンドン、さらにはポンピドゥー・センターを経て、この森美術館へ巡回しています。アジアを一口でまとめてしまうのが危険なのことと同じく、アフリカの諸地域を全て同じように捉えてしまうのも身勝手ではありますが、この展覧会がアフリカへ巡回しないのであれば大変に残念です。また、普段アートに親しんでおられる方にこそ、特におすすめしたい内容かと思いました。今月末までの開催です。
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