「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第4部 -混沌- 」 東京都写真美術館 10/29

東京都写真美術館(目黒区三田)
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第4部 -混沌- 」
9/17~11/6

東京都写真美術館による「写真はものの見方をどのように変えてきた」シリーズの第4部「混沌」。この企画もついに最終回を迎えました。

今回は、日米欧における、1970年代以降の写真表現を追っかけます。会場には、いくつかのテーマに分かれた、それぞれに代表的な写真家の作品が並びますが、当然の如く、その表現の方向性は多種多様です。一連のこのシリーズ企画の中では、最もまとまりのない展示。これこそ「混沌」です。芸術としての地位を確立した写真。それへの安住の危うさも抱えながら、写真は世界や人間を、まさに体内の毛細血管のように覆い尽くして、「第三の目」を通り越した表現を追求します。

展示作品は、主に70年代以降のものですが、既に過去となってしまったその時代の潮流を、色濃く反映するものも目立ちました。80年代のアメリカで「ヤッピー」と呼ばれた新たな富裕層の出現は、写真へも新たな風をもたらします。HIV患者を写した作品のように、タイムリーな問題提起を行うものから、自身をスターのようにして写したポートレートまで、「写真はどこへいくのか。」という問いすら無駄に感じてしまうほど、雑多に表現が広がります。

会場で最も印象に残ったのは、日本人写真家のコーナーです。森山大道の「猪豚」(1975年)と、荒木経惟「写真論」(1988-1989年)の猫。森山ファン(?)の私としては、ここは「猪豚」を推したい所ですが、荒木の猫も、何気ない前足の仕草を捉えた様が非常に魅力的で、深く心に残ります。撮られることが嫌とでも言いたそうな、ややふてくされた猫の表情は、荒木だからこそ引き出されたものなのでしょうか。

他には、どの展覧会にあっても非常に目立ち、すぐに視界へ飛び込んで来る森山泰昌の作品や、今、森美術館で個展を開催中の杉本博司の劇場シリーズの一点、それにオノデラユキの古着を写した作品などが印象に残りました。

4月から毎回楽しみにして見続けた、この展覧会シリーズが終了してしまうことは、とても名残惜しいのですが、まずは、切り口鋭くコレクションを見せてくれた東京都写真美術館に大いに感謝したいと思います。来月6日までの開催です。
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今年も「神田古本まつり」へ行ってきました。

今日は、竹橋の近代美術館へ常設展示へ出向いた帰りに、神保町の古書店街へ廻って、「第46回神田古本まつり」(神保町ブックフェスティバルを含む。)を見てきました。言うまでもなくこのイベントは、毎年この時期に開催される、日本一の規模を誇る古本の祭典です。「神田古本まつり」そのものは来月3日までの開催ですが、すずらん通りに出版社や地域の飲食店のブースが並ぶ、「神田ブックフェスティバル」は、この土日だけの開催です。いつもは休日ともなれば閑散とする神保町も、今日はお祭りムード一色で、大変に賑わっていました。

私は、特にコアな古本ファンでもないので、いつもワゴンセールなどを素見しながら歩くだけなのですが、それでも気になるいくつかの本は、お祭り特有の盛り上がった雰囲気にものせられて、思わず買ってしまいます。今回は、ブックフェスティバルの藤原書店のブースに出ていた、半値以下のバルザックの小説や、「青空掘り出し市」にて投げ売り状態だったクラシック音楽や美術関連の本など、数点を購入しました。私が神保町へ出向いた時間は、既に夕方の16時を過ぎていたので、めぼしい本はかなりなくなっていたようですが、それでも、イベント終了の18時間際には、本がバナナの叩き売りさながらに、どんどん安くなります。

何ぶん、大量の古本が並ぶイベントなので、右往左往しながら、本を選ぶことになりますが、通常の「神保町価格」と変わらない古本も多く見られるので、衝動買いは禁物です。(と言いつつ、先ほど「雰囲気にものせられて。」などと書いておりますが…。)富山房のブースでは、このブログの名付け親の詩人でもある(?)、バイロンの「ドン・ジュアン」が、何方が購入されるのかは知りませんが、上下巻で半値になって売られていました。また、岩波の絶版コーナーや、白水社のブースは、毎年なかなか見応えがあります。ところで、とあるブースでは、ムーティやチェリビダッケの写真集が叩き売りされていましたが、これには少し驚きました。あの手の写真集の市場規模とは、一体どの程度なのでしょう。(売れたのでしょうか。)

トークショーやオークションなど、各種イベント等も開催される、神保町ならではのお祭りです。青空市は3日までの開催です。

「BOOK TOWN じんぼう」:神保町古本街のオフィシャルサイト。古本まつりの情報も満載。
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「マックス・ヘッドルーム -頭上注意の絵画- 」 ヴァイスフェルト 10/27

ヴァイスフェルト(港区六本木)
「マックス・ヘッドルーム -頭上注意の絵画- 小川信治/カンノサカン/内海聖史」
10/7~29

「そう。問題なのは高さだ。」と宣言された、何やら謎めいたタイトルの展覧会です。三名のアーティストによる、その高さに工夫を凝らした(?)絵画が展示されています。

まず目についたのは、最奥部のアーチ状のスペースで展示されていた小川信治の「Without You- Virgin of the Rocks」です。ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」をモデルにした油彩画ですが、まるでオリジナルを写真で撮影して、それをコラージュしたのではないかと思ってしまうほど精巧に仕上げられています。ただ、オリジナルでは中央に描かれているはずの聖母の姿がここにはありません。と言うことで、当然ながら画面の構成はいささか奇妙です。作品の主題も、あくまで天使に促されるイエスとヨセフの対話だけに絞られています。またこの作品のために、わざわざアーチ状の壁面が作られていて、展示自体をもり立てていました。非常に高い完成度を見せる作品です。

まるで空中に浮いているように展示されていたのは、カンノサカンの真っ赤な作品「Miles Davis Frieze-Nefeltiti」でした。真っ赤なキャンバスをウレタン樹脂で仕上げて光沢感を出し、その上にアクリルにて、極めて動きのある模様が、繊細に、そしてダイナミックに描かれています。遠目で見ると、まるで酒井抱一の「秋草図屏風」のような、風に優雅に靡く草花の様子を思い起こさせますが、近寄ると、細い骨が何層にも積み重なって一本の線になっているようにも見えて、それがグロテスクな雰囲気をも醸し出しています。輝く真っ赤な地に、跳ね渡り飛び散る細い線。鮮やかでありながらも、多様に表情を変化させる奥深い作品です。

最後は、以前、東京都現代美術館での「MOTアニュアル2004展」でも気になった内海聖史の「Overhead Colours」を挙げないわけにはいきません。小さな小さなドットが、大きなキャンバスに何度も何度も打ち塗られています。まるでそのドットが焦げて剥げ落ちてくるかのような、大変重々しい質感です。以前に見た作品では、青や緑の鮮やかなドットが、キャンバスに余裕を持って、大きな余白を取りながら描かれていましたが、ここでは所狭しと折重なっていました。またドットの背後から顔を出しているのは、キャンバス上に直接塗られたものなのか、赤や青の色の残骸です。それにしても、壁を全て使って展示された、高さ2m40cm、横3mほどの大きなキャンバスの中にひしめき合うドットの重みは強烈です。有無を言わさない大迫力を見せつけていました。

視点の面白さもさることながら、一点一点を、しっかりと見せてくれる企画です。明日まで開催されています。
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「東のすみか西のひと」 ASK? art space kimura 10/27

ASK? art space kimura(中央区京橋)
「αMプロジェクト2005/vol.4/鈴木明×山田正好展 -東のすみか西のひと ライフ・リ・リサイクル- 」
10/17~29

京橋のASK? art space kimura(アスク・アートスペースキムラ)で開催中の、鈴木明と山田正好の二人展です。

ともかく会場に入って驚くのは、鈴木明による、新聞紙にて作られたドーム状の二つの「家」です。新聞紙の「かまくら」とも言えるでしょうか。それら大小2つの「家」は、中に入ることも出来て、さらには相互に行き来することも可能です。小さな入口から恐る恐る体を中へ滑らしてみると、そこはインクの匂いもまだ残る新聞紙の体内でした。「家」は、いわゆる古新聞(一度読んだ後という意味で。)ではなく、素材そのものとして、真新しい新聞を使っているようです。新聞の束を頑丈に束ねてそれを積み上げる。どうしても素材としてチープになりがちな新聞紙を、このように塊とすることで、しっかりとした存在感をも示します。また、「家」の内部は、装飾として、写真なども吊るされ、何やら居心地の良い雰囲気も醸し出します。さらに、ギャラリーの休憩スペースとしてのソファーも、大量の新聞紙によって制作されていました。巨大メディアの捉える、日々の悲観的なニュースの詰まった、目を背けたくなるような膨大な活字情報を、体の下で押しつぶすかのように、椅子として使う試み。その上ではお茶菓子も提供されて、ゆったりとくつろぐことも出来ます。これはなかなか皮肉めいているかもしれません。

新聞紙の「家」を取り巻いているのは、山田正好による小型のオブジェです。針金に、動物の皮を巻き付けて制作したという、それこそ生き物のような形をした作品は、不思議にも新聞紙が生み出す匂いと空間にマッチし、辺りを気持ち良さそうに歩き回ります。また、「家」に這いつくばったりする様も、どこか愛くるしいものです。これを最大限に巨大化すると、六本木ヒルズの象徴的なオブジェである、ルイーズ・ブルジョワの「ママン」のような、異様な不気味さへとつながるようにも思えましたが、そこまでの気配はありません。このギャラリーのゆったりとした時間の流れの中で、穏やかに生きていました。

新聞紙と動物の皮による「ホスピタリティ」。意外な組み合わせではありますが、これまた思いの外楽しむことが出来ました。明日29日までの開催です。
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「ZONE-POETIC MOMENT」 トーキョーワンダーサイト 10/23

トーキョーワンダーサイト(文京区本郷)
「ZONE-POETIC MOMENT」
9/30~10/30

若手8名のアーティストによる展覧会です。会場を、4つの「水準」=「ゾーン」(物質・象徴・隠喩・想像)に分け、さらにそれらを反復、または循環させて、会場全体を「POETIC MOMENT(ポエティック・モーメント)」、つまり「詩的な領域」へと変換させます。もちろん、このような小難しい「ゾーン」を意識しなくとも楽しめる企画です。(私も特に意識せずに拝見しました。)

増山麗奈による産業廃棄物を題材にした一連の作品からは、強いメッセージ性が感じられました。千葉県の産業廃棄物現場にて撮影されたという一枚の大きな写真、その名も「Beautiful World」。見渡す限り、それこそ滝のように、上から下までゴミで占められた空間の中央には、裸足で立つ増山本人(?)の姿があります。3時間ほどの撮影にて、その後頭痛も感じたという、体を張った作品からは、日頃、何かと目を背けてしまいがちにもなる産廃問題を、身体的に引きつける形で、より生々しく考えさせます。また、古いパソコンや空き缶、それに壊れた自転車などがゴチャゴチャに置かれた、まさにゴミの山の上とも言える場所にある、胎児の形をした立体的なスクリーンの「Operation baby」では、そこへ、環境破壊のシンボルとしての戦争や、排気ガスをまき散らす道路の光景が、執拗に映しだされます。ゴミの溢れきった世界の下に、生まれて来なくてはならない胎児の姿。強く印象に残りました。

都市の何気ない姿を、美しく、そしてどこか幻想的に切り取ったのは、越中正人の「The Window Is The Door」です。これは、どこかの大きな交差点などで行き交う人々の光景を、やや斜め上の視点から、鳥瞰的に撮影した作品ですが、それらの写真は、どれも画面の殆どがぼかされていて、場所や個人をあまり特定させません。匿名同士の者がぶつかり合う都市の雑踏を、巧みに表現します。また、この作品は、数点が、展示室全体を囲むように並べられていたのですが、窓から入り込む日差しと、作品の画面の乾いた明るさが上手く呼応し合って、その場を美しく転換させます。これはなかなか魅力的です。

他にも、これらとは全く毛並みが異なったインスタレーションなど、いくつかの作品に目がとまりました。30日までの開催です。
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「巨匠 デ・キリコ展」 大丸ミュージアム 10/23

大丸ミュージアム・東京(千代田区丸の内)
「巨匠 デ・キリコ展 -異次元の森へ迷い込む時- 」
10/6~25(会期終了)

先日まで、「大丸ミュージアム・東京」にて開催されていた、デ・キリコ(1888-1978)の展覧会です。展示作品の殆どは、キリコ自身がキャリア初期に手がけた「形而上絵画」を、晩年になって焼き直して描いたという、いわゆる「新形而上絵画」でした。キリコが晩年になって、創作の原点でもあった「形而上絵画」を、どう捉え直したのか。それがこの展覧会の主眼です。

しばらく会場にて作品を見ていて、とても気になった点は、一つ一つの作品の完成度の問題です。主題はともかくも、構図、特に線と形の配置に非常に甘いもの、つまり、とても散漫に見えてくるものがかなり多くあります。余計な先入観なのか、キリコの絵画は、三次元の空間をあえて二次元に変換したような、平坦で歪んだ「場」に、幻想性を帯びた事物が配置されているにも関わらず、画面は極めて乾いている、つまり、物の気配を全く感じさせない点に、とても魅力的な部分があると思っていたのですが、今回の展示作品の中には、タッチや配色に妙に色気のある、つまり、絵として、その主題とは相容れないような「質感」が見られるものが目立つのです。晩年のキリコを全く評価しない見方もあるそうですが、それはともかくも、緊張感のない線と煩雑なタッチによる画面構成は、作品の主題から湧き上がる形而上的な「場」を、ただ絵画上だけに引き戻してしまいます。これでは、作品の訴えかける力が、非常に弱くなります。惹き込まれません。(もちろん、精緻に良く描かれた作品も数点あったので、全体的な印象ではありますが。)

ですから、その点で、むしろ興味深いのは、1930年代に描かれた「自画像」や、「ニンフの朝」(1948年頃)です。これらはもちろん、いわゆる「形而上絵画」ではありません。「自画像」では、骨太のタッチで、顔の表情や髪の毛の質感が、とても巧みに描かれています。くびれたシャツの質感や、どことなく不安気な目線の様子。眉間のシワの気になります。一方、「ニンフの朝」は、まるでモローのような幻想性を見せるタッチが印象深く、背を向けたニンフも魅惑的です。ルネッサンス期の作品を精力的に模写して、それを作品へ取り込んでいた、この時期のキリコの試み。意外な作風です。

一見してキリコの制作とも分かる、「形而上絵画」を半ば類型化させて生み出されたようなブロンズ像も展示されます。これらも晩年の作品にあたりますが、質感云々の問題を抜きにして楽しむことが出来ました。

キリコはこれまで好きな画家だったのですが、今回初めてまとめて作品を見たことで、その印象が少し変わりました。どうなのでしょうか。
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藤田嗣治 「ドルドーニュの家」 ブリヂストン美術館より

ブリヂストン美術館(中央区京橋)
常設展示
「藤田嗣治 -ドルドーニュの家- 」(1940年)

ブリヂストン美術館の常設展示の近代日本西洋画の中で、特に印象に残るのは、藤田嗣治(1886-1968)の「ドルドーニュの家」です。

まるで小さな要塞か穴蔵のような部屋の中には、古びた木製のテーブルと、暖炉、そして年代を感じさせる時計や燭台、それに銃などが配されています。右手の窪みは窓へつながっているのか、唯一この閉塞的な部屋に「外」の気配を感じさせますが、逆に左手の階段は、まるで「トマソン」のように置かれていて、外(または上)へつながっているようには見えません。また、藤田ならではとも言える乳白色と、黒を中心とした配色は、画面に瓶などの生活をイーメジさせる道具があるのにも関わらず、この家をがらんとした空洞か、あるいはまるで人気のない使われていない場所のように見せてきます。不思議です。

遠近感が歪んで描かれているのか、しばらく見ていると、平衡感覚が失われてしまうかのような気分に襲われます。あまりにも縦に長過ぎるように見えるテーブル、階段の手すりの歪み、そして天井に無骨に並ぶ梁。それらは全体の構図に不安定さをもたらしているようです。ただ、暖炉の上に並ぶ時計や瓶などだけは、端正にしっかりと置かれて、唯一の安定感を見せています。この、妙なアンバランスさもまた、作品の魅力の一つかもしれません。

この作品の中で、乳白色や黒などでまとめられていない、言わばハッキリとした色を見せているのは、階段上にかかる女性の肖像画(?)だけです。赤い服を身につけて前を凝視する女性。この作品のまさに紅一点として、不思議な存在感を見せつけています。

藤田嗣治の大規模な回顧展は、今後、来年の3月から5月にかけて、東京国立近代美術館での開催が予定されています。(その後、京都国立近代美術館と広島県立美術館へ巡回。)東京国立近代美術館の藤田の作品と言えば、同美術館が多く所蔵する、「大東亜戦争美術展」などに出品されたような巨大な戦争画もイメージさせますが、予定されている回顧展は、藤田の初期から晩年までの作品を概観するものだそうです。

独特の乳白色で占められた画面と、細い線で輪郭をとった、あまり重みを感じさせない事物の気配。東京国立近代美術館の回顧展も楽しみです。
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小倉遊亀 「浴女その二」 東京国立近代美術館より

東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
常設展示
「小倉遊亀 -浴女その二- 」(1939年)

東京国立近代美術館の所蔵する、小倉遊亀(1895-2000)の「浴女」。以前に拙ブログでも紹介した「その一」と対になる作品であるのが、この「その二」です。

「その一」では、美しいエメラルドグリーン色を見せる爽やかな湯に、二名のなよやかな女性がのんびりと浸かっている様子が描かれていましたが、「そのニ」では、菱形のタイル模様が印象的な脱衣場へと場所を移して、三名の女性が髪を結ったり、またパイプを吹かしたりする様が描かれています。三名の女性とも入浴後であるのか、とてもサッパリした様子でくつろぎ、おもむろに脱衣場の湿り気を体に纏っています。右手奥にかかる浴衣と帯びは、画面の左で、大きな鏡に向かいながら髪を梳かしている女性のものでしょうか。上半身を露にして鏡に向かう女性の美しい所作。少し愉し気な目と尖った口が、湯上がり後に独特な気持ちの高ぶりを感じさせます。

菱形のタイルと、二名の女性の浴衣の文様は、「その一」で見せたような淡い感覚とは異なって、実に精緻な筆によって仕上げられています。後ろ姿でパイプを吹かす女性の波模様の浴衣と黒い帯、そして、画面の前面で大きく立つ女性の青く太い横線の入った浴衣。それらは、菱形のタイル地に細かく書き込まれた横線と、上手く呼応しているのではないでしょうか。まず、画面の多くを占めるタイルの文様に目線が行き、その後、その上で調和するかのような浴衣の文様に目が届く。遠近感も器用に表現されていて、バランス感にも長けた作品です。

「その一」で見せた素晴らしい湯の質感にも強く惹かれましたが、この「その二」も、またそれとは異なった魅力を持つ作品です。やや日本画離れしたような厳格な構図感の中に見せるのは、ゆったりとした時間の流れに漂いながらくつろぐ女性の優しさでした。「その一」を見て数ヶ月後に出会うことが出来た「その二」。期待を裏切ることはありません。
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「プラート美術の至宝展」 損保ジャパン東郷青児美術館 10/8

損保ジャパン東郷青児美術館(新宿区西新宿)
「プラート美術の至宝展 -フィレンツェに挑戦した都市の物語- 」
9/10~10/23

「聖帯伝説」を持つ街、イタリアのフィレンツェ北部のプラートから、フィリッポ・リッピ(1406-1469)の板絵など、日本ではなかなかお目にかかれない貴重な美術品が出品された展覧会です。展示が予定されていた作品の内、約3点ほどが美術館のエレベーターに載せられないとのことで「未展示」となっていましたが、それでも大変に見応えのある内容に仕上がっています。

「聖帯伝説」とは、聖母マリア信仰の一形態として、中世以来のプラートに深く根付いた伝説です。12世紀頃に、エルサレムからプラートへ運び出されたという聖母マリアの帯び。その「聖帯」がプラートで、キリスト教信仰の中核の象徴として、または街の存在の強い根拠理由として、現在まで残り続けます。ベルナルド・ダッディの「聖帯伝説」(1337-38年)は、まさにその「聖帯伝説」をひも解いてくれる作品でしょうか。聖帯が舟によってプラートへ運ばれ、その後起きた数々の奇蹟。それが絵巻物風に描かれています。芸術として昇華した聖帯信仰の原初です。

メインはもちろん、フィリッポ・リッピ(及びフラ・ディアマンテ)の「身につけた聖帯を使徒トマスに授ける聖母」(1456-66年頃)です。中央には昇天を控えた聖母マリアが鎮座し、その周囲を天使や聖人が囲みます。15世紀中程の作品とは思えないほど色や形は鮮やかですが、特にマリアの後方に広がる空の青みは底抜けに深淵で、実に美しく輝きます。また、マリアを天へ運ぼうとする天使たちが手にかけた「マンドルラ」という聖なる光も、それに劣らず鮮明に描かれて、マリアを厳かに包み込みます。さらには、画面左に控える聖マルガリータと、右のラファエルの描写も非常に見事です。両者の凛とした顔の表情は、崇高な気位を感じさせますが、特に聖マルガリータの美しい横顔には深く魅せられます。足元に描かれた草花から、各聖人たちを見上げるようにマリアを拝し、その後方の青い空へと目を移す。作品は、目線よりも少し高い位置にありますが、それもまた天へ昇り行くマリアの姿を想像させます。

リッピ以外にもたくさん見るべき作品が並んでいますが、ベネデット・マイアーノ工房の「聖母子」(1500年頃)にも惹かれました。裸で赤ん坊のキリストを抱いている聖母マリアの姿。画面三方には、天使ケルビムの顔が配されていて、とても愛くるしい雰囲気を醸し出します。また、作品そのものは、彫刻として立体的に表現されていますが、不思議とそれが柔らかな温かみをも感じさせます。そして、この作品で最も素晴らしい点は、キリストを見つめるマリアの表情です。無邪気なキリストを体で受け止めながらも、目線に帯びる深い哀愁。そこからは、キリストのその後の受難を予感させるとともに、それすらも受け止めようとするマリアのキリストへ対する深い愛を感じさせます。

「聖母子」と同じような主題の作品では、ラッファエッリーノ・デル・ガルボの「聖母子遠さなき洗礼者ヨハネ」も魅力的です。背筋を伸ばして威厳に満ちた表情を見せる聖母マリア。「聖母子」に見られたような温かみこそあまりありませんが、背景まで丁寧に描かれた筆の見事さや、全体の構図の安定感など、洗練された高い完成度を見せる作品です。また、マリアとヨハネの目線の先にある幼子のキリストも、どこか聡明な顔立ちをしています。極めて理知的なイエス像です。

後半の展示では、カラバッジョを思わせる、カラッチョーロの「キリストとマグダラの聖女マリア」(1618-20年頃)が印象に残りました。妙に逞しい半裸のキリストと、まるで家事の最中に出てきたような、生活感すら感じられる聖女マリアが、とても動きのある構図で交錯しています。また、画面における明暗の対比は、眩しいくらい鮮明です。主題こそ極めて宗教的ですが、画面には二人の人情味が強く押し出されていて、タイトルに「キリスト」と「マリア」がなければ、決して宗教画には見られないような生気すら感じられます。ややキリストの描写が煩雑にも思えましたが、どこか心に残る作品ではありました。

聖帯と聖母マリアへの深い帰依。プラートの人々が大切に守ってきたその伝説を、深く感じとることの出来る展覧会です。23日までの開催です。
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「特別展 燕子花図」 根津美術館 10/9

根津美術館(港区南青山)
「特別展 国宝 燕子花図 -光琳・元禄の偉才- 」
10/8~11/6

門外不出の名品、尾形光琳(1658-1716)の「燕子花図」(新五千円札の裏面の図柄にも採用されました。)が、修復を経て約4年半ぶりに公開されました。貴重な展覧会です。

展示室の一番奥のガラスケースにて鎮座していたのが「燕子花図」でした。修復によるものなのか、地の美しい金箔と、花の深い青み、そして葉の淡い緑が、それ自身が全て光源であるかのように輝いています。展示室内の明かりも巻き込んで、とても300年前の品とは思えないほどに眩しい燕子花。本当に当時もこれほど煌めいていたのでしょうか。一瞬、躊躇してしまうほどに圧倒的です。私は今回、この作品に初めて接しましたが、これまでにこれほど爛々とした屏風画は見たことがありません。

燕子花は何の背景も与えられずに、ただひたすらに咲き並んでいます。どこかミニマリズム的です。右隻(向かって左)は左上から右下へ沈むように、そして左隻(向かって右)は高みへ昇っていくかのように、それぞれ燕子花が配されています。藍色を帯びてしっかりと色づけされた花々は、まるで屏風から取れてしまいそうなほど、重々しく、そしてしっとりとしていました。そんな花々を支えるのが、伸びやかな茎と葉です。こちらは、花よりもやや薄めに塗られていて、あくまでも脇役として地味に自己主張しています。燕子花の咲き誇る二隻の屏風。無限の広がりこそ感じさせますが、不思議と花の匂いやその場の空気を感じさせません。輝きこそ纏っているものの、思いの外、怜悧な表情を見せています。

展示は、前期(10/8-23)と後期(10/25-11/6)に分かれていますが、「燕子花図」は通して展示されるそうです。また「燕子花図」の他にも、約40点ほど光琳の作品(もしくは光琳とされる作品。)が並び、とても見応えのある展示となっています。ただ一概には言えませんが、貴重な作品(「孔雀立葵図」や「八橋蒔絵硯箱」など。)は、主に後期期間中に展示されるようです。一度だけの鑑賞を予定されている方であれば、今月25日からの後期展示をおすすめします。来月6日までの開催です。
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新国立劇場 「セビリアの理髪師」 10/16

新国立劇場 2005/2006シーズン
ロッシーニ「セビリアの理髪師」

指揮 ニール・カバレッティ
演出 ヨーゼフ・E.ケップリンガー
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト
 アルマヴィーヴァ伯爵 フェルディナンド・フォン・ボートマー
 ロジーナ リナート・シャハム
 バルトロ 柴山昌宣
 フィガロ ダニエル・ベルチャー
 ドン・バジリオ フェオドール・クズネツォフ
 ベルタ 与田朝子
 フィオレッロ 星野淳
 隊長 木幡雅志
 アンブロージオ 古川和彦

2005/10/16 15:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階

新国立劇場で「セビリアの理髪師」を聴いてきました。舞台をフランコ独裁政権下の1960年代に置き換えたという、ケップリンガーの演出が一番の見物です。

舞台中央の回転台の上にあるのは、ロジーナが軟禁されているバルトロの館です。建物は三層構造。中央の廊下を軸にして、左をロジーナ、右をバルトロの居室に振り分けます。また、廊下を含んだ各スペースには、それぞれ赤、黄、青の三色が鮮やかに配され、奇抜な雰囲気をも醸し出します。そして、バルトロの館の隣に建っているのは、ゴテゴテに飾られた娼家です。ロジーナと伯爵を巡る恋の物語が、読み替えこそないものの、舞台の上で直裁的に、極めて「ドギツく」演出されます。

演出上位の公演だからなのか、歌手がいわゆる棒立ちにて歌うことはありません。細かい所作まで実にリアルに描かれています。バルトロは、極めてコメディタッチに舞台中を走り回り、伯爵とロジーナは、欲望を露にするかのように、隙を見つけては抱き合います。もちろんフィガロも、道化として常に劇を引っ掻き回し、ドタバタ劇をさらに混乱させます。オペラの演出というよりも、一つの寸劇として楽しめるほどの完成度です。原作の持つ面白さを、さらに滑稽に味付けします。見ていて飽きることはありません。

歌手では、声質が魅力的だった伯爵のボートマー(幕切れの大アリアは歌われません。)や、演技も充実していたロジーナのシャハムが印象に残りました。ただ、二人とも、ロッシーニの歌い手としては、やや違和感があったようにも思います。また、バジリオのクズネツォフは、ロッシーニよりもワーグナーや、魔笛のザラストロ役で聴いてみたい歌声です。歌手の中でも特に高い演技力が要求されていた、バルトロの柴山は好演でした。喜怒哀楽の一つ一つを、全身で自然に表現していたのは見事です。

さて、指揮とオーケストラに関してですが、非常に残念ながら、指揮のニール・カバレッティの音作りに、全く共感することが出来ませんでした。毎年、いくつかのコンサートに接していると、年に一度か二度、途中で聴いているのが辛くなってくるような時がありますが、この日のカバレッティのロッシーニはまさにそれです。リズムは実に重く、まるで愉悦感のないロッシーニ。細部まで丁寧に鳴らしていて、オーケストラもそれに良く応えていたとは思いましたが、表情があまりにも直線的で、ギコチナなささえ感じられます。弦楽器から生まれる、湧き上がる飛沫のような軽やかな音と、人物の心情にピッタリ寄り添う、生き生きとした管楽器の響き。ロッシーニの音楽は、聴いていて心地よいほどまろやかに響き合いますが、これほどしかめっ面した音楽が、まさか「セビリア」から生まれて来ようとは思いませんでした。第二幕こそ、やや音楽に生気が取り戻されたようにも思いますが、第一幕は、聴いていて悲しくなるほど退屈でした。もちろんこれは、いつもの如く、私の全くの思い込みで、何ら明確な根拠もありませんが、これほど音楽を詰まらなく聴いてしまったのは実に久しぶりです。

演出と、歌手の力演はとても楽しめました。これで音楽が素晴らしければと思うと、少し残念です。
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二期会ニューウェーブオペラ劇場 「ジュリアス・シーザー」 10/15

二期会ニューウェーブオペラ劇場
ヘンデル「ジュリアス・シーザー」(エジプトのジュリオ・チェザーレ)

指揮 鈴木雅明
演出 平尾力哉
管弦楽 バッハ・コレギウム・ジャパン
キャスト
 ジュリアス・シーザー 山下牧子
 コルネリア 橘今日子
 セスト 日比野幸
 クーリオ 栗原剛
 クレオパトラ 文屋小百合
 プトレマイオス 中村裕美
 アキッラ 萩原潤
 ニレーノ 今井典子

2005/10/15 17:00~ 北とぴあ さくらホール 2階

フレッシュな二期会のメンバーと、日本の代表的な古楽器演奏グループであるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)のコンビ。先日、王子駅近くの北とぴあで、ヘンデルの名作「ジュリアス・シーザー」(エジプトのジュリオ・チェザーレ)を聴いてきました。

この公演で圧倒的な存在感を示していたのは、言うまでもなく、鈴木雅明率いるBCJの演奏でしょう。全三幕、レチタティーヴォを含めれば、かなりの長丁場となるこのオペラを、最初から最後まで、緊張感を全く途切れさせないで、極めて明朗にかつ、丁寧に演奏します。決して早くなり過ぎることのない落ち着いたテンポ設定で、輝かしいヘンデルの煌めきを聴かせながらも、時折、このオペラの生々し劇的要素をえぐりとるかのように、鋭く鮮やかに切り込みます。また、歌手のサポートも実に見事で、全く危なげありません。フワッと体が浮くかのような管楽器の軽やかさと、しなやかで湿り気を帯びた弦楽器群の響き。そしてその円やかなブレンド具合。いつものBCJが聴かせる精緻で手堅い音楽に、愉悦感が大きく加わります。これは実に贅沢です。

二期会の若手メンバーで構成された歌手では、クレオパトラの文屋小百合が最も目立っていました。シーザーを誘惑する艶やかさこそ、やや控えめに表現されているようにも見えましたが、それが逆に、彼女のシーザーへの甘い恋心を強く示します。劇が進行するにつれ、シーザーへの感情が複雑に変化するクレオパトラ。このような、殊更に色気を振りまくことのないクレオパトラも、また良いのではないでしょうか。他には、役にハマりきって、力強いプトレマイオス像を見せてくれた中村裕美も印象に残りました。もちろん、声も強靭で強い意志を感じませす。やや弱々しかったタイトルロールの山下牧子を上回る存在感でした。

演出は平尾力哉によるものです。舞台後方に三面のスクリーンを配し、映像によって、時間を古のエジプトから現代アメリカへと移します。シーザーは、ハリウッドスターのような出で立ちでカッコ良く振るまい、まさに現代アメリカの正義と「パスク・ロマーナ」を引っ掛けます。また、セストはパンクファッションに身を包み、「キャー!」と奇声をも発して声援を送る、女性ファンクラブを引き連れて歩きます。一方、プトレマイオスの描写はやや複雑です。第三幕のハーレムの場では、映像に一瞬北朝鮮の「美女軍団」も映しだされて、何やら第三世界の雄として、「将軍様」のような描かれ方をされていましたが、部下にドラックを注射させるシーンも頻繁に登場し、何処かヒッピー的な役割を持たせているのか、アメリカ内での「反パスク・アメリカーナ」の存在として、シーザーへ対抗する意味を持たせているのかとも思いました。(それとも北朝鮮の「麻薬製造問題」に引っ掛けた?!)平尾によれば、現代アメリカへ移した舞台設定も、あくまで「9.11」以前ということで、幕切れの映像には、ニューヨークの世界貿易センタービルが高らかに、そしてどこか不気味に映しだされます。パスク・アメリカーナも永遠ではない。そのような、至極当たり前なメッセージだったのでしょうか。ただ私は、いわゆる「9.11」で、歴史の時間軸を分けて見ることに抵抗があるので、ここはあまり賛同出来ません。終演後、カーテンコールに登場した平尾氏には、痛烈な大ブーイングが浴びせられていました。私も、全体としてはどこか凡庸な印象が拭えず、もう少しセンスが良ければとも思いましたが、所々に仕掛けられた小さな細工は、それなりに楽しむことが出来ました。

いわゆるバロック・オペラを生で聴いたのは今回が初めてでしたが、演出面はともかくも、BCJの極めて質の高い管弦楽と、歌手たちの真摯な歌声の響宴には、大いに拍手を送りたいと思います。今後も日本で、ヘンデルやラモー、それにヴィヴァルディあたりのオペラが積極的に上演されていくことを願いたいです。
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第31回乃木神社管絃祭 「蘭陵王一具」 10/13

乃木神社第31回管絃祭

曲:蘭陵王一具

演奏 乃木雅楽会/雅楽同友会

2005/10/13 18:00 乃木神社

乃木坂の乃木神社にて、無料(!)で行われた雅楽の催しです。管絃と舞楽を合わせて約二時間ほど、神前にて雅楽がたっぷりと披露される企画ですが、私の時間の都合で開始時間に大幅に遅刻してしまい、最後の「蘭陵王」だけを鑑賞することとなりました。

「蘭陵王」は、舞楽の中で、左方一人舞(舞台の左手より登場し、一人で舞いを披露する。)としては、最も有名な作品とのことです。また、一般的にこの曲は、一具として全曲演奏されることよりも、省略形の「陵王」のみの披露となることが多いそうですが、この日は一具として全て演奏されました。大変に貴重な機会です。

「蘭陵王」は、古の中国の北斉の蘭陵王が、周の大軍を打ち破り、その勇を轟かせたという故事にのっとって作られた舞楽です。厳めしい竜の仮面を付けて、足を高らかに挙げてはおろし、舞台を所狭しと右へ左へ力強く舞う蘭陵王。端正な雅楽の調べに包まれて、ゆったりとしながらも勇壮に舞うその姿は、夢か幻か、今眼前に、古の蘭陵王が復活したと思わせるほどの凄みです。舞いは、薄暗い夜の社殿の張りつめた空気を、丁寧にかき分けては切り裂きます。蘭陵王の幻を呼び覚ます厳かな儀式。緊張感なしに見ることは出来ません。

雅楽を屋外で聴いたのは今回が初めてでしたが、笙や笛の音が、社殿に反響し過ぎることなく、場の空気と混ざり合いながら、辺りの木々の茂みへ、一抹の余韻を残しながら消えていきます。また、時折聞こえる虫の鳴き声や、風に靡く木々の微かなざわめきは、雅楽の音へスッと入り込むかのようにして、その場をさらに盛り立てます。さすがに東京都心部ということで、車やバイクなど、いわゆる雑音も聞こえて来ましたが、不思議とあまり気になることはありません。あくまでも、社殿には厳かな舞いと、自然と戯れる雅楽の美しい響きだけがありました。実に趣きがあります。

毎年開催されていた催しとのことで、来年もまた予定されるとのことです。次回は前半部分から、しっかりと鑑賞したいと思います。
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古典四重奏団 「バルトーク:弦楽四重奏曲第4~6番」 10/12

古典四重奏団 バルトーク弦楽四重奏曲全曲演奏会第2回

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番、第5番、第6番

演奏 古典四重奏団
   第一ヴァイオリン 川原千真
   第二ヴァイオリン 花崎淳生
   ヴィオラ 三輪真樹
   チェロ 田崎瑞博

2005/10/12 19:15 第一生命ホール

古典四重奏団による、バルトークの弦楽四重奏曲の全曲演奏会です。この日は、先月28日に行われたという第3番までの演奏に引き続いて、第4番から最後の第6番までが演奏されました。ちなみに、古典四重奏団を聴くのは今回が初めてです。

古典四重奏団は、バルトークの非常に優れた一連の弦楽四重奏曲を、一旦、怜悧な眼差しで眺め、咀嚼した上で、一気呵成に、まるで曲へ深く潜り込むように演奏していきます。プログラムの初め、特に第4番においては、響きの明晰さが欠けて、全体的にぼやけた表現になっているようにも思いましたが、曲が進んでくるにつれて、曲を俯瞰しつつも巧みに寄り添いながら、または、少しの湿り気を帯びながらもシャープな切れ味を聴かせる、実に味わいのある演奏へ変化していきます。これは見事です。

全体的に、主にアレグロ楽章において、この四重奏団の稀な演奏能力が示されていたと思いました。音を下支えするチェロの渋い響きの上に、ヴァイオリンがしなやかに切れ込む。そこに色気や艶はあまり見られません。と言っても、決して冷ややかで鋭角的過ぎることはなく、どこか人懐っこさも僅かに残して、バルトーク独特の語り口を音に刻んでいきます。また、時折、奏者同士による自然なアイコンタクトによって生まれる間は、音楽にどこか柔らかさも付け加えさせて、呼吸を整えさせます。良い意味での中庸さ。曲のエッセンスを、ことさら飾り立てることなく表現した演奏です。

弦楽四重奏のコンサートに特有の、空気が張りつめたような強い緊張感。古典四重奏団のコンサートは、今後もしばらく聴き続けていきたいと思いました。
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「テンポラリー・イミグレーション展」 ワタリウム美術館 10/9

ワタリウム美術館(渋谷区神宮前)
「テンポラリー・イミグレーション展 -つかの間の日常に- 」
7/2~10/23

ラーズ・ミュラー、ベアート・ゾデラー、シルビア・ベッヒュリの三名のアーティストが、「通りすがりの移住者」として東京に住み、そこの何気ない日常から、意外な、新たな世界を見出す試みを繰り返します。全体のコンセプトと実際の展示作品があまり結びつかないようにも思いましたが、異文化交流的な視点も持ち合わせる展覧会です。

三名の中で最も印象に残ったのは、断然、2階の展示室に並んでいたベアート・ゾデラーの作品です。計10点ほど壁面に展示されていたコラージュ作品。文房具店で見かけるような、丸形や四角形の小さなシールを、小さな紙に張り合わせて、様々な形を作ります。シャボン玉がプカプカと浮いているような図柄から、ジグソーパズルのように組み合わせたものまで、ごく一般的なシールを重ね合わせただけであるのに、それがどれも華やかで可愛らしいデザインへと生まれ変わります。楽しく見ることが出来ました。

また、ゾデラーでは、段ボールを使った大きなオブジェも見事です。美術館の吹き抜けを上手く利用して置かれた、まるで要塞のような巨大な段ボールの集合体。遠くから眺めると、木でしっかりと組み合わされたような重みすら感じますが、近くから見ると、やはり紛れもなく段ボールです。今までにもいわゆる現代アートで、段ボールを使った作品を何点か見たことがありますが、少なくともその中では、このゾデラーの作品が一番だと思いました。どうしても陳腐に見えてしまう段ボールを、あれほど形として面白く組み合わせ、そして質感としても豊かに見せるとは驚きです。コラージュ作品と合わせて、日常的な題材を使いながらも意外な世界を見せるゾデラーの業。この展覧会で最も目立っていたのではないでしょうか。

全体的には展示にボリュームがなく、方向性の見出しにくい作品も並んでいて、あまり優れた展覧会とは思えなかったのですが、ゾデラーの世界に出会えたことは喜びです。また、会場にて配布されていた冊子には、ゾデラーの他の作品も写真入りで紹介されていました。一度、彼のインスタレーションを、規模の大きな個展で紹介していただければとも思います。今月の23日までの開催です。
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