都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「グループショウ 西から東から」 シュウゴアーツ 1/28
シュウゴアーツ(江東区清澄1-3-2 5F)
「グループショウ 西から東から」
2005/12/21-2006/2/4
シュウゴアーツの所属作家によるグループ展です。森村泰昌やイケムラレイコ、それに米田知子などのビック・ネームが並びます。作品点数こそ少ないものの、非常に楽しめる展覧会です。
ギャラリー入口のすぐ右手にて待ち構えていたのは、森村泰昌のお馴染みの写真作品「劇場としての私」(2003)でした。森村の扮するオリエンタルなキャラクター。それがまるでショーウィンドウのように連なります。まさに芝居小屋のような雰囲気です。
続いて目が行ったのは、床に直接置かれていたやなぎみわの「老少女面」(2005)でした。昨年に原美術館で開催された「無垢な老女と無慈悲な少女」を思い出させる、老いと若きが表裏一体となった仮面。それがたった一つだけ、円形の鏡の上に置かれています。手前の銀色の面が老女で、ガラスに映る黒い面が少女でしょうか。「真実を映す鏡」は果たしてどちらの味方なのか。鏡越しの仮面が不気味に映える作品でした。
会場中央にて一際異彩を放っていたのは、戸谷成雄の「双影根」(2005)です。左右二面に分かれた、まるで木棺のような長方形の木箱。長さ3メートル以上はあるでしょう。右側はあたかも棺の蓋のように塞がれていますが、左側は中が露出し、彫刻によってまるでゴッホのタッチのような紋様が象られています。また灰を上からまぶしたのか、色はどことなくくすみ、木の素材感が幾分押さえられているのも興味深い点です。この方の他の制作も見てみたくなるような作品でした。
写真では、何と言っても米田知子の「壁紙1」(1996)が一押しです。ごく一般的な模様の白い壁紙を写した作品ですが、少し捲れて出来たような凹凸感や陰影が驚くほど美しく捉えられています。この無機質さと、普通の壁紙という、まさに非美術的な場にあるものに見出された美感は、そのストイックな雰囲気と合わせて大変魅力的です。これは惹かれます。
他には古屋誠一の写真作品や、最近とても好きになったイケムラレイコのドローイングなどが見応え満点でした。どれか一つ作品が欲しくなってしまうような展覧会です。来月4日までの開催です。
「グループショウ 西から東から」
2005/12/21-2006/2/4
シュウゴアーツの所属作家によるグループ展です。森村泰昌やイケムラレイコ、それに米田知子などのビック・ネームが並びます。作品点数こそ少ないものの、非常に楽しめる展覧会です。
ギャラリー入口のすぐ右手にて待ち構えていたのは、森村泰昌のお馴染みの写真作品「劇場としての私」(2003)でした。森村の扮するオリエンタルなキャラクター。それがまるでショーウィンドウのように連なります。まさに芝居小屋のような雰囲気です。
続いて目が行ったのは、床に直接置かれていたやなぎみわの「老少女面」(2005)でした。昨年に原美術館で開催された「無垢な老女と無慈悲な少女」を思い出させる、老いと若きが表裏一体となった仮面。それがたった一つだけ、円形の鏡の上に置かれています。手前の銀色の面が老女で、ガラスに映る黒い面が少女でしょうか。「真実を映す鏡」は果たしてどちらの味方なのか。鏡越しの仮面が不気味に映える作品でした。
会場中央にて一際異彩を放っていたのは、戸谷成雄の「双影根」(2005)です。左右二面に分かれた、まるで木棺のような長方形の木箱。長さ3メートル以上はあるでしょう。右側はあたかも棺の蓋のように塞がれていますが、左側は中が露出し、彫刻によってまるでゴッホのタッチのような紋様が象られています。また灰を上からまぶしたのか、色はどことなくくすみ、木の素材感が幾分押さえられているのも興味深い点です。この方の他の制作も見てみたくなるような作品でした。
写真では、何と言っても米田知子の「壁紙1」(1996)が一押しです。ごく一般的な模様の白い壁紙を写した作品ですが、少し捲れて出来たような凹凸感や陰影が驚くほど美しく捉えられています。この無機質さと、普通の壁紙という、まさに非美術的な場にあるものに見出された美感は、そのストイックな雰囲気と合わせて大変魅力的です。これは惹かれます。
他には古屋誠一の写真作品や、最近とても好きになったイケムラレイコのドローイングなどが見応え満点でした。どれか一つ作品が欲しくなってしまうような展覧会です。来月4日までの開催です。
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「増井淑乃展」 小山登美夫ギャラリー 1/28
小山登美夫ギャラリー(江東区清澄1-3-2 7F)
「増井淑乃展」
1/21-2/10
小山登美夫ギャラリーの「gallery2」にて開催中の増井淑乃の個展です。水彩によるカラフルなドローイングが数点並んでいます。
鮮やかな緑や青にて描かれた、例えば鬱蒼とした森林とも、熱帯のジャングルとも言えるような画面。近くに寄って目を凝すと、線の一本一本が点描画のように細かく描かれていることが分かり、また森のような模様が、何か衣服のデザインを思わせるような形(解説によれば、ジャワ更紗やインドのペーズリー柄に似ているとのこと。)になっていることが見て取れます。そして興味深いのは、非常に精緻に描かれ、また、作品において唯一リアルな造形を見せている猫です。それがどの作品にも殆ど一匹描かれ、こちらを向きながら瞳をキラリと不気味に光らせています。奇妙な存在感のある、作品の核となる猫です。(馬が描かれていた作品もありました。)
森のような模様は、一つずつ丁寧に、クネクネと曲線を描きながら、画面全体に所狭しとビッシリ並びます。「全てを点と線にて埋め尽くさなくてはならない。」作り手のどこか神経質な、また迫られた焦燥感すら感じさせる作品でした。
「増井淑乃展」
1/21-2/10
小山登美夫ギャラリーの「gallery2」にて開催中の増井淑乃の個展です。水彩によるカラフルなドローイングが数点並んでいます。
鮮やかな緑や青にて描かれた、例えば鬱蒼とした森林とも、熱帯のジャングルとも言えるような画面。近くに寄って目を凝すと、線の一本一本が点描画のように細かく描かれていることが分かり、また森のような模様が、何か衣服のデザインを思わせるような形(解説によれば、ジャワ更紗やインドのペーズリー柄に似ているとのこと。)になっていることが見て取れます。そして興味深いのは、非常に精緻に描かれ、また、作品において唯一リアルな造形を見せている猫です。それがどの作品にも殆ど一匹描かれ、こちらを向きながら瞳をキラリと不気味に光らせています。奇妙な存在感のある、作品の核となる猫です。(馬が描かれていた作品もありました。)
森のような模様は、一つずつ丁寧に、クネクネと曲線を描きながら、画面全体に所狭しとビッシリ並びます。「全てを点と線にて埋め尽くさなくてはならない。」作り手のどこか神経質な、また迫られた焦燥感すら感じさせる作品でした。
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「李禹煥新作版画展・旧作展」 シロタ画廊 1/28
シロタ画廊(中央区銀座7-10-8)
「李禹煥新作版画展・旧作展」
1/10-1/28(会期終了)
銀座7丁目のシロタ画廊にて開催されていた李禹煥の版画展です。今年に入ってまだひと月も経たないというのに、2006年制作の新作版画6点と、かつて手がけた版画数点が並べて展示されています。「展力 Recommend & Review」掲載の展覧会です。
新作版画のタイトルは「黙」です。「照応」シリーズを思わせる大きな点、あるいは太いストロークが、余白たっぷりの空間に静かに配されています。「照応」よりもやや点に揺らぎが感じられるかもしれません。手でちぎったような紙に黒の点。その向きによって、何時ものことながら画面に動きも生まれます。版画だからなのか、キャンバスの作品に見られたようなストローク上の細かい線は殆ど確認出来ませんが、その分、点がまるで紙にのしかかる石のような存在感を見せています。
6点の「黙」シリーズでは、一際目立っていた「黙1」(2006)が非常に魅力的です。この作品のストロークには、他にはない、まるで生き物のような生気が感じられます。版画でありながら、水墨画の濃淡の揺らぎと、瑞々しい水彩絵具のグラデーションを同時に味わうことが出来る。そう言っても良いほど美しく、また多様に表情を変化させるストロークです。また水滴のような小さな点が、刷毛の先からほとばしっています。それがストロークの中の、小さな小さな無数の点や線ともつながっていく。即興的に、まさに創作の一瞬を捉えた、まるで書のような味わいも大変に美的です。
過去の作品は、この「黙」や近作の「照応」などと比べると、例えばデザインとしての面白さも持ち得るような魅力が感じられますが、その中では特に「島より」(1989)や「遺跡地にて」(1984)などに惹かれます。これらがまた「黙」とどう響き合うのか。多様に組み合わせることで、会場全体がインスタレーションとしても美しくなってくるのは、まさに李ならではなのかもしれません。
既に終了してしまいましたが、とどまらない李の今を味わうことが出来る展覧会でした。
「李禹煥新作版画展・旧作展」
1/10-1/28(会期終了)
銀座7丁目のシロタ画廊にて開催されていた李禹煥の版画展です。今年に入ってまだひと月も経たないというのに、2006年制作の新作版画6点と、かつて手がけた版画数点が並べて展示されています。「展力 Recommend & Review」掲載の展覧会です。
新作版画のタイトルは「黙」です。「照応」シリーズを思わせる大きな点、あるいは太いストロークが、余白たっぷりの空間に静かに配されています。「照応」よりもやや点に揺らぎが感じられるかもしれません。手でちぎったような紙に黒の点。その向きによって、何時ものことながら画面に動きも生まれます。版画だからなのか、キャンバスの作品に見られたようなストローク上の細かい線は殆ど確認出来ませんが、その分、点がまるで紙にのしかかる石のような存在感を見せています。
6点の「黙」シリーズでは、一際目立っていた「黙1」(2006)が非常に魅力的です。この作品のストロークには、他にはない、まるで生き物のような生気が感じられます。版画でありながら、水墨画の濃淡の揺らぎと、瑞々しい水彩絵具のグラデーションを同時に味わうことが出来る。そう言っても良いほど美しく、また多様に表情を変化させるストロークです。また水滴のような小さな点が、刷毛の先からほとばしっています。それがストロークの中の、小さな小さな無数の点や線ともつながっていく。即興的に、まさに創作の一瞬を捉えた、まるで書のような味わいも大変に美的です。
過去の作品は、この「黙」や近作の「照応」などと比べると、例えばデザインとしての面白さも持ち得るような魅力が感じられますが、その中では特に「島より」(1989)や「遺跡地にて」(1984)などに惹かれます。これらがまた「黙」とどう響き合うのか。多様に組み合わせることで、会場全体がインスタレーションとしても美しくなってくるのは、まさに李ならではなのかもしれません。
既に終了してしまいましたが、とどまらない李の今を味わうことが出来る展覧会でした。
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新国立劇場 「魔笛」 1/29
新国立劇場 2005/2006シーズン
モーツァルト「魔笛」
指揮 服部譲二
演出 ミヒャエル・ハンペ
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京交響楽団
キャスト
夜の女王 佐藤美枝子
ザラストロ アルフレッド・ライター
タミーノ ライナー・トロースト
パミーナ 砂川涼子
パパゲーノ アントン・シャリンガー
パパゲーナ 諸井サチヨ
モノスタトス 高橋淳
弁者 長谷川顯
僧侶 加茂下稔 他
2006/1/29 14:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階
新国立劇場の「モーツァルト・イヤー2006」。そのスタートをまず飾った「魔笛」を楽日に観てきました。ハンペの舞台は1998年5月以来の再演です。
ともかくこの公演で真っ先に挙げるべきは、パミーナの砂川涼子の大健闘ぶりです。その実力からすれば当然かもしれませんが、ともかく役にハマりきり、まるでパミーナの音楽は彼女の為にあるとさえ思うほどに、美しく、そして情感たっぷりに歌い上げます。声量も決して他から突出し過ぎずに、器用にタミーノやザラストロに合わせていく。揺れ動くパミーナの気持ちを繊細に、そして大胆に吐露して存在感を発揮します。常に清らかさを失わない、激情の中であっても品性を保った、まさに貞節の鏡のような女性像を作り上げます。完璧です。
このオペラの主役とも言える夜の女王の佐藤美枝子は、一幕のアリアこそややキレに欠け、若干危なっかしい個所があったようにも思えましたが、「復讐のアリア」では一定の務めを果たしていました。楽日と言うことでやや疲れもあったのでしょうか。欲を言えばもう少し声量で押切っても良いかとは感じましたが、最大の聴き所を外すことはありません。無難に歌いこなしながらも、やや鼻にかかったような声があまり美しく聴こえなかったザラストロのライターは上回っていたと思います。
演技力からすればモノスタトスの高橋淳が一番優れていました。あまり魅力的でないモノスタトスという役に良くあれほど入り込めるものだと感心するほど、終始全身モノスタトスになりきります。彼の作り上げるムーア人は、パミーナを虐げる悪役と言うよりも、ザラストロの「豹変ぶり」に振り回され、また自身の欲望にも翻弄されるという道化役の色合いが濃いでしょう。笞を大げさにバンバン振り回しパミーナを必至に追い立てる姿は半ば滑稽で可愛らしく、ザラストロに追放されるのが気の毒にもなってしまうほどです。少々やり過ぎという声も挙がりそうですが、私は大いに拍手を送りたいと思います。元々このオペラでは非常に「オイシイ役」であるパパゲーノのシャリンガーも、これまたこのオペラで殆どお馴染みとなったアドリブを駆使しての好演でしたが、高橋の演技はそれに負けることはありません。
ハンペの演出は実にオーソドックスです。まさしく正統なメルヘン劇としての「魔笛」でしょうか。この作品に付きまとう「フリーメーソン」や「劇の破綻」などの要素はあえて退け、舞台を時にはゴージャスに、そして素直に楽しく飾り立てます。何かと場面転換の多い第二幕においても、可動式の二段舞台を上手く利用し、「上部=善=ザラストロ・聖堂」、「下部=悪=欲望渦巻く試練の場・女王」と分かり易く区別させてスムーズに劇を進めます。偶然ではありますが、2月のオーチャードにて予定されている「魔笛」のアンチテーゼ的な演出となっていたのかもしれません。(コンヴィチュニーは「魔笛はメルヘンでなく人生のエッセイ。」と述べているようです。)
さて指揮の服部譲二と東京交響楽団の演奏は、全体的にこぢんまりと響かせて瑞々しい「魔笛」の音楽を作り出していたものの、楽日とは思えないほど歌手と呼吸が合わない点が問題かと思いました。音楽が先立ち過ぎて歌手が無理に追っかけたり、逆に音楽が遅々とし過ぎて歌手がたまらず先に行ってしまうシーン(こちらが多い。)が散見されます。特にパパゲーノのシャリンガーとは意思疎通が上手く行かなかったのでしょうか。合わない所か、むしろ殆ど破綻している個所があるようにも思えました。少なくとも新国立劇場の公演にて、これほど音楽と歌手に齟齬を感じたのは初めてです。歌手と合わないのにアリアの最中でリズムを無理にかえる必要はないのかもしれません。まずは無難に聴かせて欲しかったとさえ思いました。
モーツァルトイヤーの「魔笛」公演だからなのか、会場はほぼ満員です。音楽はともかくも、歌手、演出ともに手堅い公演でした。
モーツァルト「魔笛」
指揮 服部譲二
演出 ミヒャエル・ハンペ
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京交響楽団
キャスト
夜の女王 佐藤美枝子
ザラストロ アルフレッド・ライター
タミーノ ライナー・トロースト
パミーナ 砂川涼子
パパゲーノ アントン・シャリンガー
パパゲーナ 諸井サチヨ
モノスタトス 高橋淳
弁者 長谷川顯
僧侶 加茂下稔 他
2006/1/29 14:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階
新国立劇場の「モーツァルト・イヤー2006」。そのスタートをまず飾った「魔笛」を楽日に観てきました。ハンペの舞台は1998年5月以来の再演です。
ともかくこの公演で真っ先に挙げるべきは、パミーナの砂川涼子の大健闘ぶりです。その実力からすれば当然かもしれませんが、ともかく役にハマりきり、まるでパミーナの音楽は彼女の為にあるとさえ思うほどに、美しく、そして情感たっぷりに歌い上げます。声量も決して他から突出し過ぎずに、器用にタミーノやザラストロに合わせていく。揺れ動くパミーナの気持ちを繊細に、そして大胆に吐露して存在感を発揮します。常に清らかさを失わない、激情の中であっても品性を保った、まさに貞節の鏡のような女性像を作り上げます。完璧です。
このオペラの主役とも言える夜の女王の佐藤美枝子は、一幕のアリアこそややキレに欠け、若干危なっかしい個所があったようにも思えましたが、「復讐のアリア」では一定の務めを果たしていました。楽日と言うことでやや疲れもあったのでしょうか。欲を言えばもう少し声量で押切っても良いかとは感じましたが、最大の聴き所を外すことはありません。無難に歌いこなしながらも、やや鼻にかかったような声があまり美しく聴こえなかったザラストロのライターは上回っていたと思います。
演技力からすればモノスタトスの高橋淳が一番優れていました。あまり魅力的でないモノスタトスという役に良くあれほど入り込めるものだと感心するほど、終始全身モノスタトスになりきります。彼の作り上げるムーア人は、パミーナを虐げる悪役と言うよりも、ザラストロの「豹変ぶり」に振り回され、また自身の欲望にも翻弄されるという道化役の色合いが濃いでしょう。笞を大げさにバンバン振り回しパミーナを必至に追い立てる姿は半ば滑稽で可愛らしく、ザラストロに追放されるのが気の毒にもなってしまうほどです。少々やり過ぎという声も挙がりそうですが、私は大いに拍手を送りたいと思います。元々このオペラでは非常に「オイシイ役」であるパパゲーノのシャリンガーも、これまたこのオペラで殆どお馴染みとなったアドリブを駆使しての好演でしたが、高橋の演技はそれに負けることはありません。
ハンペの演出は実にオーソドックスです。まさしく正統なメルヘン劇としての「魔笛」でしょうか。この作品に付きまとう「フリーメーソン」や「劇の破綻」などの要素はあえて退け、舞台を時にはゴージャスに、そして素直に楽しく飾り立てます。何かと場面転換の多い第二幕においても、可動式の二段舞台を上手く利用し、「上部=善=ザラストロ・聖堂」、「下部=悪=欲望渦巻く試練の場・女王」と分かり易く区別させてスムーズに劇を進めます。偶然ではありますが、2月のオーチャードにて予定されている「魔笛」のアンチテーゼ的な演出となっていたのかもしれません。(コンヴィチュニーは「魔笛はメルヘンでなく人生のエッセイ。」と述べているようです。)
さて指揮の服部譲二と東京交響楽団の演奏は、全体的にこぢんまりと響かせて瑞々しい「魔笛」の音楽を作り出していたものの、楽日とは思えないほど歌手と呼吸が合わない点が問題かと思いました。音楽が先立ち過ぎて歌手が無理に追っかけたり、逆に音楽が遅々とし過ぎて歌手がたまらず先に行ってしまうシーン(こちらが多い。)が散見されます。特にパパゲーノのシャリンガーとは意思疎通が上手く行かなかったのでしょうか。合わない所か、むしろ殆ど破綻している個所があるようにも思えました。少なくとも新国立劇場の公演にて、これほど音楽と歌手に齟齬を感じたのは初めてです。歌手と合わないのにアリアの最中でリズムを無理にかえる必要はないのかもしれません。まずは無難に聴かせて欲しかったとさえ思いました。
モーツァルトイヤーの「魔笛」公演だからなのか、会場はほぼ満員です。音楽はともかくも、歌手、演出ともに手堅い公演でした。
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モーツァルトイヤー 祝・生誕250周年!
今日1月27日は、生誕250周年を迎えたモーツァルトの誕生日です。恒例となったgoogleのロゴもご覧の通りの特別仕様でした。(顔がありません!これではヘンデルと言われても…。?)
「モーツァルト生誕250年、オーストリア各地で記念行事」(NIKKEI NET)
「モーツァルト生誕250周年、天才はいまだ愛される」(ロイター)
モーツァルトは、音楽以外の面(グッズ、イベント、癒し効果云々など。)でも盛り上がることが出来る唯一のクラシック作曲家なので、今年一年、様々なシーンにて登場することと思います。日本での話題のピークは、やはりゴールデンウィークに予定されている「熱狂の日」でしょうか。また前回のメモリアルイヤー(没後200周年。1991年。)のように、巷にモーツァルトのチョコやらワインなどが溢れるかもしれません。
私のコンサートでの今年の「モーツァルト始め」は、次の日曜に出向くつもりの新国立劇場「魔笛」ですが、まずは2月のN響C定期に予定されている、ブロムシュテット指揮の通称「大ミサ曲」に大いに期待します。「レクイエム」に負けない、むしろそれよりも優れた名曲かと思いますが、不思議とあまり取り上げられることがありません。今回N響のプログラムにのったのも、この「メモリアル」のおかげなのでしょうか。非常に楽しみです。
「モーツァルト生誕250年、オーストリア各地で記念行事」(NIKKEI NET)
「モーツァルト生誕250周年、天才はいまだ愛される」(ロイター)
モーツァルトは、音楽以外の面(グッズ、イベント、癒し効果云々など。)でも盛り上がることが出来る唯一のクラシック作曲家なので、今年一年、様々なシーンにて登場することと思います。日本での話題のピークは、やはりゴールデンウィークに予定されている「熱狂の日」でしょうか。また前回のメモリアルイヤー(没後200周年。1991年。)のように、巷にモーツァルトのチョコやらワインなどが溢れるかもしれません。
私のコンサートでの今年の「モーツァルト始め」は、次の日曜に出向くつもりの新国立劇場「魔笛」ですが、まずは2月のN響C定期に予定されている、ブロムシュテット指揮の通称「大ミサ曲」に大いに期待します。「レクイエム」に負けない、むしろそれよりも優れた名曲かと思いますが、不思議とあまり取り上げられることがありません。今回N響のプログラムにのったのも、この「メモリアル」のおかげなのでしょうか。非常に楽しみです。
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長谷川等伯 「烏鷺図」 川村記念美術館から
川村記念美術館(佐倉市坂戸631)
常設展示
「長谷川等伯 -烏鷺図- 」
常設展の日本画の展示室で見ることの出来る、長谷川等伯(1593-1610)の「烏鷺図」(1605年以降)です。等伯の晩年の傑作としても名高く、全長約3.5メートルにも及ぶ大きな画面へ鷺と鴉が巧みに配されています。実に雄大で、また伸びやかな大作です。
いづつやさん(いづつやの文化記号)によれば、この作品で「非常に印象深い点」は「水墨画の伝統からすれば異常」であり「新しい解釈」でもあるという左隻の5羽の黒カラスとのことですが、確かに画面を見てまず目に飛び込んで来たのは、この真っ黒なカラスの群れでした。非常に濃い黒にて、まるで黒い紙をベタッと貼付けたかのようにして仕上げられたカラス。背景の淡い、また簡素なタッチにて描かれた松の風情とは正反対の強い存在感です。そして、このカラスの躍動感のある描写も素晴らしい。上から下からと、グルグルと廻って飛び交うカラスは、あたかも餌の奪い合いの最中であるかのように激しく動きます。さらには、松の配された美しい背景も見事です。右手へ向かって水辺が消え行くかのような空間構成は、実に巧みに広がりと奥行き感を与えています。
右隻では、飛んだり羽を休めたりしている12羽の白鷺が、カラスに負けないほど生き生きと描かれていました。ただ、私がこの右隻にて特に惹かれた点は、木の幹から水辺にかけての、筆の流れるような風景描写です。大地から力強く伸びた幹が、大きくうねりながら、葉を振りかざして水辺へと突き刺さる。颯爽と、また流麗とも言える筆のタッチが、これほどに逞しい表現を見せるとは驚きです。画面右上の風に靡いた葉の繊細さと合わせて、簡素な描写にて巧みに場を作り上げる等伯の筆には感心させられました。
等伯の作品は、以前開催された出光美術館の展覧会で初めて見知りましたが、今回の川村でもその魅力をたっぷりと味わうことが出来ました。また、等伯と言えば今、上野の東京国立博物館にて「松林図屏風」が特別に公開されています。こちらは残念ながら私にはその素晴らしさが分からなかったのですが、(再度また挑戦します!)互いに制作時期の近い作品とのことで、見比べるのも興味深いと思います。ちなみに「烏鷺図」は常に公開されているわけではありません。お出向きの際はご確認なさることをおすすめします。
常設展示
「長谷川等伯 -烏鷺図- 」
常設展の日本画の展示室で見ることの出来る、長谷川等伯(1593-1610)の「烏鷺図」(1605年以降)です。等伯の晩年の傑作としても名高く、全長約3.5メートルにも及ぶ大きな画面へ鷺と鴉が巧みに配されています。実に雄大で、また伸びやかな大作です。
いづつやさん(いづつやの文化記号)によれば、この作品で「非常に印象深い点」は「水墨画の伝統からすれば異常」であり「新しい解釈」でもあるという左隻の5羽の黒カラスとのことですが、確かに画面を見てまず目に飛び込んで来たのは、この真っ黒なカラスの群れでした。非常に濃い黒にて、まるで黒い紙をベタッと貼付けたかのようにして仕上げられたカラス。背景の淡い、また簡素なタッチにて描かれた松の風情とは正反対の強い存在感です。そして、このカラスの躍動感のある描写も素晴らしい。上から下からと、グルグルと廻って飛び交うカラスは、あたかも餌の奪い合いの最中であるかのように激しく動きます。さらには、松の配された美しい背景も見事です。右手へ向かって水辺が消え行くかのような空間構成は、実に巧みに広がりと奥行き感を与えています。
右隻では、飛んだり羽を休めたりしている12羽の白鷺が、カラスに負けないほど生き生きと描かれていました。ただ、私がこの右隻にて特に惹かれた点は、木の幹から水辺にかけての、筆の流れるような風景描写です。大地から力強く伸びた幹が、大きくうねりながら、葉を振りかざして水辺へと突き刺さる。颯爽と、また流麗とも言える筆のタッチが、これほどに逞しい表現を見せるとは驚きです。画面右上の風に靡いた葉の繊細さと合わせて、簡素な描写にて巧みに場を作り上げる等伯の筆には感心させられました。
等伯の作品は、以前開催された出光美術館の展覧会で初めて見知りましたが、今回の川村でもその魅力をたっぷりと味わうことが出来ました。また、等伯と言えば今、上野の東京国立博物館にて「松林図屏風」が特別に公開されています。こちらは残念ながら私にはその素晴らしさが分からなかったのですが、(再度また挑戦します!)互いに制作時期の近い作品とのことで、見比べるのも興味深いと思います。ちなみに「烏鷺図」は常に公開されているわけではありません。お出向きの際はご確認なさることをおすすめします。
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「ホテル・ルワンダ」 シアターN渋谷 1/21
2006-01-25 / 映画
シアターN渋谷(渋谷区桜丘町24-4)
「ホテル・ルワンダ」
(2004年/南アフリカ=イギリス=イタリア/テリー・ジョージ監督)
ネット上の署名運動から上映にこぎつけたという話題の「ホテル・ルワンダ」を、渋谷の「シアターN」(旧ユーロ・スペース)で見てきました。期待を全く裏切ることのない、非常に希求力のある優れた作品です。これは是非おすすめします。
詳細なストーリーは公式HPを参照していただきたいのですが、この作品は、1994年にアフリカのルワンダで起きた恐るべき「ジェノサイド」(僅か三ヶ月強で100万人もの命が奪われた。)をテーマとしています。主人公は、首都キガリのベルギー系四つ星高級ホテル「ミル・コリン」にて支配人を勤めるポール。彼がフツ族とツチ族の対立という、植民地主義時代の遺物であり、今も大国のパワーゲームに翻弄されている苦い現実に巻き込まれます。ある日始まったツチ族への信じ難い「大虐殺」。その事実を目の当たりにしながら、必至に助けを求める人々を匿い、また生き存えさせていく日々が続きます。ルワンダに当時駐留していた国連平和維持軍も、その事件の残虐性を鑑みるとあまりにも無力でした。「我々は平和維持軍だ、仲裁はしない。」と無念にも述べるオリバー大佐の惨たらしい一言が、結果的に数十万人以上の犠牲者を生み出すことにもつながります。国際社会が派遣したのは、「白人」を助けるためだけに来たベルギー軍のみ。これ以降ポールを始めとしたルワンダ人は見捨てられて、狂気と憎悪の渦巻く血みどろの生存競争に否応無しに放り込まれるのです。「ミル・コリン」にて虐殺の模様を取材し、その一部をカメラにおさめた欧米人ジャーナリストのダグリッシュはポールにこう述べます。「世界の人々はあの映像を見て、『怖いね。』と言うだけでディナーを続ける。」当然ながらこのセリフは、まさに今この作品を見ている者全てに突きつけられるであろう真実の告発です。
民族間の対立を利用して統治してきた旧宗主国のベルギー、そしてルワンダ政府軍を後押しするフランス、さらには「ソマリアの失敗」から介入に及び腰となるアメリカを始めとした国際社会。複雑な要因の絡むこのジェノサイドは、後に主にフツ族の指導者が国際法廷によって裁かれることによって、一定の「ケリ」が付けられますが、この作品において悪者探しをしている暇は全くありません。「誰が正義で何が悪なのか。」という単純な対立項を軽く乗り越えて、あまりにも惨たらしいジェノサイドという敢然たる事実のみを、背筋が凍るほどの緊張感にて、間髪入れずに次から次へとぶつけてきます。「ツチ族はゴキブリだ。駆除せよ。」と叫ぶフツ族のプロパガンダラジオ局。それに呼応して、手にナタや銃を持ち殺戮の限りを尽くす者たち。無惨にも道路に転がり、また湖を埋め尽くす死体の数々。ポールは、何とか「ミル・コリン」に逃げて来た人々を助けようとして、政府軍幹部やフツ族民兵組織などに取り入り、あらゆる限りの手練手管を弄します。ここにはきれいごとはありません。彼は決して大衆を動かした偉大なヒーローではなく、ただ生きたい、そしてこれまで一緒に暮らして来た仲間を救いたいという一心で動き続けるのです。ツチ族でもある妻タチアナへの愛が、そのまま周囲の人々全てに行き渡って、何とか生き延びようと努力をする。破滅的な世界の中で、おびただしい数の死を与える者と、生へ執着心を剥き出しにした者との壮絶なぶつかり合い。ジェノサイドの残虐性と、それを殆ど野放しにした国際社会は当然ながら糾弾されなければなりませんが、ポールの生き様は、恐るべきあの圧倒的な残忍さの渦の中において、弱々しくも一筋の光明のように輝いています。もちろん、彼をそれこそ「救世主」のように崇めて、結果的に助かったことを「ハッピーエンド」として捉えるのはあまりにも盲目ですが、この作品にもし希望を見出すとすれば、まず極限の状況下において「生」を見つけたポールと、孤児を救い出す活動を懸命に続けた赤十字のアーチャーのような存在にあるのでしょう。
内戦の終結によってジェノサイドを間一髪で抜け出したポールたち。彼らを一時待っていたのは、暴力と破壊こそなけれども、非常に貧弱な難民キャンプでした。そこに群がる多くの人々。そして最も無力である小さな子供たち。彼ら彼女らは、一先ず眼前の悲劇こそ奇跡的に逃れられましたが、その先の未来に貧困を抜け出す生活はあるのでしょうか。エンドロールは、キャンプにて子供たちがルワンダ民謡を健気に歌うシーンです。それを見た時、これまで必至に堪えていた涙腺がとうとう緩んで、自らの無力を無責任にも涙で慰める他ありませんでした。この映画が見せる悲劇に終わりはありません。アフリカの今の、また世界で頻発する暴力に無関心ではいられないこと、そしてまさにそれを「怖いね。」だけで片付けてはならないこと。そしてこの世界、特にアフリカに真の「自決」が許されているのかということ。それらを考えると殆ど絶望的な気持ちにもさせられますが、ともかく一人でも多くの方に、ポールやアーチャー、そして必至に生きるルワンダの子供たちの姿を見て欲しい。心からそう思う作品でした。
*公開映画館数が少ない為なのか、(シアターNは非常にキャパシティも小さい。)会場は常に満員のようです。時間に余裕を持って早めに行くことをおすすめします。(あまりギリギリだと立ち見か、次回上映に廻されるようです。)
「ホテル・ルワンダ」
(2004年/南アフリカ=イギリス=イタリア/テリー・ジョージ監督)
ネット上の署名運動から上映にこぎつけたという話題の「ホテル・ルワンダ」を、渋谷の「シアターN」(旧ユーロ・スペース)で見てきました。期待を全く裏切ることのない、非常に希求力のある優れた作品です。これは是非おすすめします。
詳細なストーリーは公式HPを参照していただきたいのですが、この作品は、1994年にアフリカのルワンダで起きた恐るべき「ジェノサイド」(僅か三ヶ月強で100万人もの命が奪われた。)をテーマとしています。主人公は、首都キガリのベルギー系四つ星高級ホテル「ミル・コリン」にて支配人を勤めるポール。彼がフツ族とツチ族の対立という、植民地主義時代の遺物であり、今も大国のパワーゲームに翻弄されている苦い現実に巻き込まれます。ある日始まったツチ族への信じ難い「大虐殺」。その事実を目の当たりにしながら、必至に助けを求める人々を匿い、また生き存えさせていく日々が続きます。ルワンダに当時駐留していた国連平和維持軍も、その事件の残虐性を鑑みるとあまりにも無力でした。「我々は平和維持軍だ、仲裁はしない。」と無念にも述べるオリバー大佐の惨たらしい一言が、結果的に数十万人以上の犠牲者を生み出すことにもつながります。国際社会が派遣したのは、「白人」を助けるためだけに来たベルギー軍のみ。これ以降ポールを始めとしたルワンダ人は見捨てられて、狂気と憎悪の渦巻く血みどろの生存競争に否応無しに放り込まれるのです。「ミル・コリン」にて虐殺の模様を取材し、その一部をカメラにおさめた欧米人ジャーナリストのダグリッシュはポールにこう述べます。「世界の人々はあの映像を見て、『怖いね。』と言うだけでディナーを続ける。」当然ながらこのセリフは、まさに今この作品を見ている者全てに突きつけられるであろう真実の告発です。
民族間の対立を利用して統治してきた旧宗主国のベルギー、そしてルワンダ政府軍を後押しするフランス、さらには「ソマリアの失敗」から介入に及び腰となるアメリカを始めとした国際社会。複雑な要因の絡むこのジェノサイドは、後に主にフツ族の指導者が国際法廷によって裁かれることによって、一定の「ケリ」が付けられますが、この作品において悪者探しをしている暇は全くありません。「誰が正義で何が悪なのか。」という単純な対立項を軽く乗り越えて、あまりにも惨たらしいジェノサイドという敢然たる事実のみを、背筋が凍るほどの緊張感にて、間髪入れずに次から次へとぶつけてきます。「ツチ族はゴキブリだ。駆除せよ。」と叫ぶフツ族のプロパガンダラジオ局。それに呼応して、手にナタや銃を持ち殺戮の限りを尽くす者たち。無惨にも道路に転がり、また湖を埋め尽くす死体の数々。ポールは、何とか「ミル・コリン」に逃げて来た人々を助けようとして、政府軍幹部やフツ族民兵組織などに取り入り、あらゆる限りの手練手管を弄します。ここにはきれいごとはありません。彼は決して大衆を動かした偉大なヒーローではなく、ただ生きたい、そしてこれまで一緒に暮らして来た仲間を救いたいという一心で動き続けるのです。ツチ族でもある妻タチアナへの愛が、そのまま周囲の人々全てに行き渡って、何とか生き延びようと努力をする。破滅的な世界の中で、おびただしい数の死を与える者と、生へ執着心を剥き出しにした者との壮絶なぶつかり合い。ジェノサイドの残虐性と、それを殆ど野放しにした国際社会は当然ながら糾弾されなければなりませんが、ポールの生き様は、恐るべきあの圧倒的な残忍さの渦の中において、弱々しくも一筋の光明のように輝いています。もちろん、彼をそれこそ「救世主」のように崇めて、結果的に助かったことを「ハッピーエンド」として捉えるのはあまりにも盲目ですが、この作品にもし希望を見出すとすれば、まず極限の状況下において「生」を見つけたポールと、孤児を救い出す活動を懸命に続けた赤十字のアーチャーのような存在にあるのでしょう。
内戦の終結によってジェノサイドを間一髪で抜け出したポールたち。彼らを一時待っていたのは、暴力と破壊こそなけれども、非常に貧弱な難民キャンプでした。そこに群がる多くの人々。そして最も無力である小さな子供たち。彼ら彼女らは、一先ず眼前の悲劇こそ奇跡的に逃れられましたが、その先の未来に貧困を抜け出す生活はあるのでしょうか。エンドロールは、キャンプにて子供たちがルワンダ民謡を健気に歌うシーンです。それを見た時、これまで必至に堪えていた涙腺がとうとう緩んで、自らの無力を無責任にも涙で慰める他ありませんでした。この映画が見せる悲劇に終わりはありません。アフリカの今の、また世界で頻発する暴力に無関心ではいられないこと、そしてまさにそれを「怖いね。」だけで片付けてはならないこと。そしてこの世界、特にアフリカに真の「自決」が許されているのかということ。それらを考えると殆ど絶望的な気持ちにもさせられますが、ともかく一人でも多くの方に、ポールやアーチャー、そして必至に生きるルワンダの子供たちの姿を見て欲しい。心からそう思う作品でした。
*公開映画館数が少ない為なのか、(シアターNは非常にキャパシティも小さい。)会場は常に満員のようです。時間に余裕を持って早めに行くことをおすすめします。(あまりギリギリだと立ち見か、次回上映に廻されるようです。)
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NHK-BS2 モーツァルト・イヤー歌劇特集
メモリアルイヤーのモーツァルトの誕生日(1/27)に合わせた企画なのか、NHKのBSにて「モーツァルト・イヤー歌劇特集」と題された、主要オペラ作品の放送が行われています。第一回目の「後宮からの誘拐」は既に今日終ってしまいましたが、明日未明には「フィガロ」、そして翌々日には「ドン・ジョバンニ」などが予定されています。興味のある方、録画されてみては如何でしょう。
1月25日 (水) 00:30~03:50
チューリヒ歌劇場 「フィガロの結婚」(1996年2月 チューリヒ歌劇場)
管弦楽:チューリヒ歌劇場管弦楽団
指揮:ニコラウス・アルノンクール
演出:ユルゲン・フリム
1月26日 (木) 00:30~03:10
エクサン・プロバンス音楽祭 「ドン・ジョヴァンニ」(2002年7月 エクサン・プロバンス)
管弦楽:マーラー室内管弦楽団
指揮:ダニエル・ハーディング
演出:ピーター・ブルック
1月27日 (金) 00:30~03:30
ベルリン国立歌劇場 「コシ・ファン・トゥッテ」(2002年9月 ベルリン国立歌劇場)
管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
演出:ドーリス・デリエ
1月28日 (土) 00:30~03:20
ロイヤル・オペラハウス 「魔笛」(2003年1月 コヴェントガーデン王立歌劇場)
管弦楽:コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
指揮:コリン・デーヴィス
演出:デーヴィッド・マクヴィカー
どれも以前放送されていた記憶があるので、再放送かもしれません。またBS-hiの「ハイビジョン・クラシック館」では、28日深夜から翌日未明にかけて、「皇帝ティートの慈悲」の放映も予定されています。
1月28日(土) 23:00~01:10
チューリヒ歌劇場公演 「皇帝ティトゥスの慈悲」
管弦楽:チューリヒ歌劇場管弦楽団
指揮:フランツ・ウェルザー・メスト
私もいくつか録画して見てみようかと思います。詳細は上記のリンク先(NHK)へどうぞ。
1月25日 (水) 00:30~03:50
チューリヒ歌劇場 「フィガロの結婚」(1996年2月 チューリヒ歌劇場)
管弦楽:チューリヒ歌劇場管弦楽団
指揮:ニコラウス・アルノンクール
演出:ユルゲン・フリム
1月26日 (木) 00:30~03:10
エクサン・プロバンス音楽祭 「ドン・ジョヴァンニ」(2002年7月 エクサン・プロバンス)
管弦楽:マーラー室内管弦楽団
指揮:ダニエル・ハーディング
演出:ピーター・ブルック
1月27日 (金) 00:30~03:30
ベルリン国立歌劇場 「コシ・ファン・トゥッテ」(2002年9月 ベルリン国立歌劇場)
管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
演出:ドーリス・デリエ
1月28日 (土) 00:30~03:20
ロイヤル・オペラハウス 「魔笛」(2003年1月 コヴェントガーデン王立歌劇場)
管弦楽:コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
指揮:コリン・デーヴィス
演出:デーヴィッド・マクヴィカー
どれも以前放送されていた記憶があるので、再放送かもしれません。またBS-hiの「ハイビジョン・クラシック館」では、28日深夜から翌日未明にかけて、「皇帝ティートの慈悲」の放映も予定されています。
1月28日(土) 23:00~01:10
チューリヒ歌劇場公演 「皇帝ティトゥスの慈悲」
管弦楽:チューリヒ歌劇場管弦楽団
指揮:フランツ・ウェルザー・メスト
私もいくつか録画して見てみようかと思います。詳細は上記のリンク先(NHK)へどうぞ。
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「日本の四季 -雪月花- 」 山種美術館 1/21
山種美術館(千代田区3番町2)
「日本の四季 -雪月花- 」
2005/12/3-2006/1/22(会期終了)
東京では久々の「大雪」となった先週の土曜日、山種美術館で開催されていた「日本の四季 雪月花展」を見て来ました。タイトルの通り「雪月花」を画題としたものと、冬、さらには正月の「吉祥」にちなんだ作品が展示されます。まさに日本の冬の美しさを、日本画にて味わうことの出来る展覧会です。
展示は全体的に些か地味にも感じましたが、惹かれた作品はいくつかありました。中でも私の一押しは、菱田春草の「月四題」(1909-10)です。春夏秋冬の四部作に分かれたこの作品は、以前「春」だけを見て感銘した記憶がありますが、こうして4点並んだ姿もやはり見応え満点です。菱田春草ならではとも言えるような、柔らかくて淡い曲線美によってまとめられた草木の味わい深さ。特に「冬」では、しっとりと湿り気を含んだ雪が枝に仄かに被さって、何時かは溶けてしまうであろう雪の儚さすら感じさせます。ややザラッともしたような、水分を多く含んだ雪の質感。それを美しく伝える作品でもありました。
酒井抱一の「飛雪白鷺図」(1823-28)も見事です。抱一は春草に比べると、もっとダイナミックな線にて、シャープな動きを見せながら草木を象っているかと思いますが、その味わいはこの作品でも十分に堪能することが出来ます。白鷺が上下対になって配される構図の妙と、水面から伸びる、水に流れされてるような草の表現。そして特に優れているのは、降りしきる雪の描写です。パラッパラッと、まるで片栗粉を吹きかけたような真っ白い粉雪。それがまるで鷺たちを祝福するかのように、上から静かに降り散らされます。そしてその雪を喜んでいるかのような、鷺の生き生きとした表情。これも魅力的です。
金を大胆に使いながらも、不思議と素朴な雰囲気がある高山辰雄の「中秋」(1986)も面白い作品です。画面中央にぽっかりと浮かぶ大きな満月。全体を覆う金色は、その月明かりを意味しているのでしょうか。小さな川に一本の高木、そして人気のない一軒家。それらが全て音を立てないで静かに佇んでいます。そしてタッチはまるで点描画のように精緻です。また、モノトーンの、どこか版画のような味わいがあるのも、この作品の魅力の一つかと思いました。
山種美術館からは、降りしきる雪を踏みしめながら千鳥が淵方向へ歩きました。雪が降ると音がかき消されていきます。いつもに増して静寂に包まれたお堀にて、雪に埋もれた一輪の赤い花を見つけました。後二ヶ月もすれば、この界隈も白から華々しいピンク色へと変化することでしょう。私の好きな冬の終わりがそろそろ近づいている。そう思うと少し寂しくも感じた展覧会でした。
「日本の四季 -雪月花- 」
2005/12/3-2006/1/22(会期終了)
東京では久々の「大雪」となった先週の土曜日、山種美術館で開催されていた「日本の四季 雪月花展」を見て来ました。タイトルの通り「雪月花」を画題としたものと、冬、さらには正月の「吉祥」にちなんだ作品が展示されます。まさに日本の冬の美しさを、日本画にて味わうことの出来る展覧会です。
展示は全体的に些か地味にも感じましたが、惹かれた作品はいくつかありました。中でも私の一押しは、菱田春草の「月四題」(1909-10)です。春夏秋冬の四部作に分かれたこの作品は、以前「春」だけを見て感銘した記憶がありますが、こうして4点並んだ姿もやはり見応え満点です。菱田春草ならではとも言えるような、柔らかくて淡い曲線美によってまとめられた草木の味わい深さ。特に「冬」では、しっとりと湿り気を含んだ雪が枝に仄かに被さって、何時かは溶けてしまうであろう雪の儚さすら感じさせます。ややザラッともしたような、水分を多く含んだ雪の質感。それを美しく伝える作品でもありました。
酒井抱一の「飛雪白鷺図」(1823-28)も見事です。抱一は春草に比べると、もっとダイナミックな線にて、シャープな動きを見せながら草木を象っているかと思いますが、その味わいはこの作品でも十分に堪能することが出来ます。白鷺が上下対になって配される構図の妙と、水面から伸びる、水に流れされてるような草の表現。そして特に優れているのは、降りしきる雪の描写です。パラッパラッと、まるで片栗粉を吹きかけたような真っ白い粉雪。それがまるで鷺たちを祝福するかのように、上から静かに降り散らされます。そしてその雪を喜んでいるかのような、鷺の生き生きとした表情。これも魅力的です。
金を大胆に使いながらも、不思議と素朴な雰囲気がある高山辰雄の「中秋」(1986)も面白い作品です。画面中央にぽっかりと浮かぶ大きな満月。全体を覆う金色は、その月明かりを意味しているのでしょうか。小さな川に一本の高木、そして人気のない一軒家。それらが全て音を立てないで静かに佇んでいます。そしてタッチはまるで点描画のように精緻です。また、モノトーンの、どこか版画のような味わいがあるのも、この作品の魅力の一つかと思いました。
山種美術館からは、降りしきる雪を踏みしめながら千鳥が淵方向へ歩きました。雪が降ると音がかき消されていきます。いつもに増して静寂に包まれたお堀にて、雪に埋もれた一輪の赤い花を見つけました。後二ヶ月もすれば、この界隈も白から華々しいピンク色へと変化することでしょう。私の好きな冬の終わりがそろそろ近づいている。そう思うと少し寂しくも感じた展覧会でした。
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2006年上半期 私の気になる美術展
「美術の窓」2月号(生活の友社発行)の「先取り!今年の展覧会 BEST80」と題した特集に、今年前半に開催予定の展覧会情報が一挙掲載されています。その中で私が特に気になった展覧会を少しピックアップしてみました。
現代美術
「イサム・ノグチ展」 横浜美術館 4/15-6/25(予定)
「カルティエ現代美術財団コレクション展」 東京都現代美術館 4/22-7/2
「アフリカ・リミックス」 森美術館 5/27-8/31
「束芋展」 原美術館 6/3-未定
日本美術
「ニューヨーク・バーク・コレクション展」 東京都美術館 1/24-3/5 (MIHO MUSEUM3/15-6/11)
「藤田嗣治展」 東京国立近代美術館 3/28-5/21 (京都国立近代美術館5/30-7/23 広島県立美術館8/3-10/9)
「若冲と琳派展」 東京国立博物館 7/4-8/27 (京都国立近代美術館9/23-11/5 07年に九州国立博物館と愛知県美術館へ巡回)
西洋美術
「ロダンとカリエール展」 国立西洋美術館 3/7-6/4 (オルセー美術館7/10-10/1)
「プラド美術館展」 東京都美術館 3/25-6/30 (大阪市立美術館7/15-10/15)
「アルベルト・ジャコメッティ展」 神奈川県立近代美術館葉山 6/3-7/30 (兵庫県立美術館8/8-10/1 川村記念美術館10/10-12/3)
「パウル・クレー展」 川村記念美術館 6/24-8/20 (北海道立近代美術館8/29-10/9 宮城県美術館10/17-12/10)
現代美術では、MOTでの「イサム・ノグチ展」にて目覚めた(?)私にとって嬉しい、横浜美術館の「ノグチ展」がまず気になります。また、何年か前にオペラシティーで拝見して好きにはなれなかったものの、不思議と強く記憶に残った束芋の個展(原美術館)にも期待したいところです。ちなみに原美術館では、来月出向く予定のオラファー・エリアソンの展覧会(3/5まで)も楽しみにしています。そして森美術館の「アフリカ・リミックス」も、普段あまり紹介されないアフリカの現代美術と言うことで、この美術館ならでは鋭い切り口に期待したいと思います。
日本関連では、東京国立近代美術館で開催予定の藤田嗣治の大個展がとても楽しみです。権利関係等々でなかなか見られなかった藤田の作品が、日本初公開の作品を交えながら、竹橋に一同に介す貴重な機会です。また、都美の「ニューヨーク~」と東博の「若冲と琳派展」では、やはり若冲が一番の目的でしょうか。ちなみに若冲は、昨年に引き続いて静岡県立美術館でも展覧会(コレクション名品展7/26-9/3)が予定されています。こちらも少し足を伸ばして何とか見てみたいものです。(4月から大倉集古館にて予定されている展覧会にも出品があるようです。)
西洋美術では、日本初公開作品を含んだ約100点にて構成されるという、大規模なクレーの個展が期待大です。またクレーは、大丸ミュージアムでも展覧会(2/9-28)が予定されています。それぞれ出品先が異なるようで、全く別の企画と思いますが、一度まとまって見てみたい画家だったので非常に楽しみです。プラド展は、数年前に開催された同名の展覧会も見ましたが、今回もエル・グレコやティツィアーノなどの強力なラインナップが揃うとのことです。「ロダンとカリエール展」は、西洋美術館からオルセーへ巡回するという意欲的な企画が興味をそそります。いつも西洋美術館で展示されているロダンも、あまり集中して拝見したことがなかったので、これを気に「開眼」出来ればなどとも思います。
その他では以下の展覧会にも注目したいと思います。
「ホルスト・ヤンセン展」 埼玉県立近代美術館 4/5-5/21(八王子夢美術館より巡回)
「武満徹展」 東京オペラシティアートギャラリー 4/9-6/18
「エルンスト・バルラハ展」 東京藝術大学美術館 4/12-5/28 (京都国立近代美術館より巡回 山梨県立美術館6/3-7/17)
「吉原治良展」 東京国立近代美術館 6/13-7/30 (愛知県美術館より巡回 宮城県美術館8/6-10/9)
「ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展 江戸の誘惑」 江戸東京博物館 10/21-12/10 (神戸市立博物館と名古屋ボストン美術館より巡回)
記載ミス等があるかもしれません。詳細は「美術の窓」2月号にてご確認下さい。
現代美術
「イサム・ノグチ展」 横浜美術館 4/15-6/25(予定)
「カルティエ現代美術財団コレクション展」 東京都現代美術館 4/22-7/2
「アフリカ・リミックス」 森美術館 5/27-8/31
「束芋展」 原美術館 6/3-未定
日本美術
「ニューヨーク・バーク・コレクション展」 東京都美術館 1/24-3/5 (MIHO MUSEUM3/15-6/11)
「藤田嗣治展」 東京国立近代美術館 3/28-5/21 (京都国立近代美術館5/30-7/23 広島県立美術館8/3-10/9)
「若冲と琳派展」 東京国立博物館 7/4-8/27 (京都国立近代美術館9/23-11/5 07年に九州国立博物館と愛知県美術館へ巡回)
西洋美術
「ロダンとカリエール展」 国立西洋美術館 3/7-6/4 (オルセー美術館7/10-10/1)
「プラド美術館展」 東京都美術館 3/25-6/30 (大阪市立美術館7/15-10/15)
「アルベルト・ジャコメッティ展」 神奈川県立近代美術館葉山 6/3-7/30 (兵庫県立美術館8/8-10/1 川村記念美術館10/10-12/3)
「パウル・クレー展」 川村記念美術館 6/24-8/20 (北海道立近代美術館8/29-10/9 宮城県美術館10/17-12/10)
現代美術では、MOTでの「イサム・ノグチ展」にて目覚めた(?)私にとって嬉しい、横浜美術館の「ノグチ展」がまず気になります。また、何年か前にオペラシティーで拝見して好きにはなれなかったものの、不思議と強く記憶に残った束芋の個展(原美術館)にも期待したいところです。ちなみに原美術館では、来月出向く予定のオラファー・エリアソンの展覧会(3/5まで)も楽しみにしています。そして森美術館の「アフリカ・リミックス」も、普段あまり紹介されないアフリカの現代美術と言うことで、この美術館ならでは鋭い切り口に期待したいと思います。
日本関連では、東京国立近代美術館で開催予定の藤田嗣治の大個展がとても楽しみです。権利関係等々でなかなか見られなかった藤田の作品が、日本初公開の作品を交えながら、竹橋に一同に介す貴重な機会です。また、都美の「ニューヨーク~」と東博の「若冲と琳派展」では、やはり若冲が一番の目的でしょうか。ちなみに若冲は、昨年に引き続いて静岡県立美術館でも展覧会(コレクション名品展7/26-9/3)が予定されています。こちらも少し足を伸ばして何とか見てみたいものです。(4月から大倉集古館にて予定されている展覧会にも出品があるようです。)
西洋美術では、日本初公開作品を含んだ約100点にて構成されるという、大規模なクレーの個展が期待大です。またクレーは、大丸ミュージアムでも展覧会(2/9-28)が予定されています。それぞれ出品先が異なるようで、全く別の企画と思いますが、一度まとまって見てみたい画家だったので非常に楽しみです。プラド展は、数年前に開催された同名の展覧会も見ましたが、今回もエル・グレコやティツィアーノなどの強力なラインナップが揃うとのことです。「ロダンとカリエール展」は、西洋美術館からオルセーへ巡回するという意欲的な企画が興味をそそります。いつも西洋美術館で展示されているロダンも、あまり集中して拝見したことがなかったので、これを気に「開眼」出来ればなどとも思います。
その他では以下の展覧会にも注目したいと思います。
「ホルスト・ヤンセン展」 埼玉県立近代美術館 4/5-5/21(八王子夢美術館より巡回)
「武満徹展」 東京オペラシティアートギャラリー 4/9-6/18
「エルンスト・バルラハ展」 東京藝術大学美術館 4/12-5/28 (京都国立近代美術館より巡回 山梨県立美術館6/3-7/17)
「吉原治良展」 東京国立近代美術館 6/13-7/30 (愛知県美術館より巡回 宮城県美術館8/6-10/9)
「ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展 江戸の誘惑」 江戸東京博物館 10/21-12/10 (神戸市立博物館と名古屋ボストン美術館より巡回)
記載ミス等があるかもしれません。詳細は「美術の窓」2月号にてご確認下さい。
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新国立劇場 次シーズンのオペララインナップ発表!
我らの(?)新国立劇場の、次シーズンのオペラの演目が発表されました。芸術監督ノヴォラツスキーの、最後の年度となるラインナップです。
2006/2007シーズン・オペラ ラインアップ発表(新国立劇場)
2006/9/7-21(6公演) ヴェルディ「ドン・カルロ」(新制作) 指揮:ミゲル・ゴメス=マルティネス
10/20-30(5公演) モーツァルト「イドメネオ」(新制作) 指揮:ダン・エッティンガー
11/30-12/9(4公演) ベートーヴェン「フィデリオ」 指揮:コルネリウス・マイスター
12/1-10(4公演) ロッシーニ「セビリアの理髪師」 指揮:ミケーレ・カルッリ
2007/2/25-3/10(5公演) ワーグナー「さまよえるオランダ人」(新制作) 指揮:ミヒャエル・ボーダー
3/15-24(4公演) ヴェルディ「運命の力」 指揮:マウリツィオ・バルバチーニ
3/22-31(4公演) プッチーニ「蝶々夫人」 指揮:若杉弘
4/15-27(5公演) プッチーニ「西部の娘」(新制作) 指揮:ウルフ・シルマー
6/6-20(6公演) R.シュトラウス「ばらの騎士」(新制作) 指揮:ペーター・シュナイダー
6/16-21(4公演) ヴェルディ「ファルスタッフ」 指揮:ダン・エッティンガー
テーマは「運命・希望ある別れ」。プレミエは今シーズンと同じ5つです。私としてはまず、ヴェルディで一番好きな「ドン・カルロ」が、新しい演出にて再び上演されることを歓迎したいのですが(ただ指揮はあまり良い印象のないマルティネスですが…。)、ようやく取り上げてもらえたモーツァルトの傑作セリア「イドメネオ」も非常に楽しみです。また指揮者では、「西部の娘」を振るシルマーと、遂に新国立劇場に登場することとなった「バラの騎士」のシュナイダーが注目でしょうか。ただ、日本人指揮者が、次期音楽監督の若杉氏のみと言うのは少々寂しいかもしれません。
キャスト等も既に発表されています。イマダンテの藤村実穂子、ロジーナのバルチェッローナ、ピンカートンのジャコミーニなどが気になります。演出などの詳細は新国HPにてどうぞ。
2006/2007シーズン・オペラ ラインアップ発表(新国立劇場)
2006/9/7-21(6公演) ヴェルディ「ドン・カルロ」(新制作) 指揮:ミゲル・ゴメス=マルティネス
10/20-30(5公演) モーツァルト「イドメネオ」(新制作) 指揮:ダン・エッティンガー
11/30-12/9(4公演) ベートーヴェン「フィデリオ」 指揮:コルネリウス・マイスター
12/1-10(4公演) ロッシーニ「セビリアの理髪師」 指揮:ミケーレ・カルッリ
2007/2/25-3/10(5公演) ワーグナー「さまよえるオランダ人」(新制作) 指揮:ミヒャエル・ボーダー
3/15-24(4公演) ヴェルディ「運命の力」 指揮:マウリツィオ・バルバチーニ
3/22-31(4公演) プッチーニ「蝶々夫人」 指揮:若杉弘
4/15-27(5公演) プッチーニ「西部の娘」(新制作) 指揮:ウルフ・シルマー
6/6-20(6公演) R.シュトラウス「ばらの騎士」(新制作) 指揮:ペーター・シュナイダー
6/16-21(4公演) ヴェルディ「ファルスタッフ」 指揮:ダン・エッティンガー
テーマは「運命・希望ある別れ」。プレミエは今シーズンと同じ5つです。私としてはまず、ヴェルディで一番好きな「ドン・カルロ」が、新しい演出にて再び上演されることを歓迎したいのですが(ただ指揮はあまり良い印象のないマルティネスですが…。)、ようやく取り上げてもらえたモーツァルトの傑作セリア「イドメネオ」も非常に楽しみです。また指揮者では、「西部の娘」を振るシルマーと、遂に新国立劇場に登場することとなった「バラの騎士」のシュナイダーが注目でしょうか。ただ、日本人指揮者が、次期音楽監督の若杉氏のみと言うのは少々寂しいかもしれません。
キャスト等も既に発表されています。イマダンテの藤村実穂子、ロジーナのバルチェッローナ、ピンカートンのジャコミーニなどが気になります。演出などの詳細は新国HPにてどうぞ。
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「ゲルハルト・リヒター展」 川村記念美術館 1/14
川村記念美術館(佐倉市坂戸631)
「ゲルハルト・リヒター -絵画の彼方へ- 」
2005/11/3~2006/1/22
ドイツ現代美術の巨匠、ゲルハルト・リヒター(1932~)の日本初となる大規模な回顧展です。絵画を中心とする約50点の作品が、川村記念美術館の大きな空間の中で美しく映えています。非常に見応えのある展覧会です。
リヒターは1960年代から、主に「フォト・ペインティング」(写真を拡大してキャンバスに描き写す。)や「カラーチャート」(無数の色の小片を並べて提示する。)、それに「グレイ・ペインティング」(グレイ一色のモノトーン絵画。)から「アブストラクト・ペインティング」(いわゆる抽象絵画。)など、様々なジャンルの絵画を同時に平行させながら創作して来ましたが、当然ながらこの展覧会ではその全てが展示されています。言い換えれば、抽象から具象、それに鮮やかな色彩からモノトーンまで、おおよそ絵画で為せるであろうあらゆる表現を楽しめる展覧会とも言えそうです。
私が最も惹かれたのは、大きな展示室を使って、贅沢に、そして大胆に展示された極めて抽象的な二点の作品、「岩壁」(1989)と「森(3)」(1990)でした。縦300センチ横250センチの「岩壁」は、白、灰、青、緑、赤などのあらゆる色彩が、荒々しいタッチの元、何層にもなって立体的に塗られた作品ですが、少し離れて見ると、まるで波が岩壁に打ち砕けて、その飛沫が上へ飛び上がっている姿のような動きすら感じさせます。そして、もう一方の「森」もそれに負けず劣らぬの存在感です。340×260センチの大きなキャンバスに、ぶちまけるかのようにして放たれた鮮烈な色彩の帯と粒。横方向に塗られた深い青みに逆らうかのような、縦方向に揺らいだ黄色の表現は、まるで深い森に差し込む一筋の光のようにも見えます。リヒターは、これらの作品を自ら撮影した風景写真などを元にして仕上げたとのことですが、確かに具象と抽象の間を感じさせるこれらの作品は、あたかもモネの作品における光の移ろいと、抽象の純粋な色彩と形の面白さを同時に見ているような味わいがあります。これほど多面的に表情を変える、いわゆる「抽象絵画」も稀有だと思うほどです。
「フォト・ペインティング」は、写真をまさに写実的にキャンバスへと移し替えたものですが、その具象性はともかく、画面は写真と言うよりもむしろ映像的で、しかもどこかノスタルジー的な雰囲気をたたえています。宗教画の主題を思わせる「2本の蝋燭」(1982)と「髑髏」(1983)、それにシスレーの雪景色を思い起こさせるような「農場」(1999)や、ぶれた画面が今にも消え入りそうで、花の命の儚さすら感じさせる「バラ」(1994)は、どれも大変に魅力的です。写真のようなリアリティーを持つ作品は視覚トリック的な要素を、また、懐古的なイメージを与える作品からは印象派の持つような美感をも与えます。
その視覚的トリックにもつながる、作品を見ると言うことに対してのリヒターの問題意識は、ガラスを使用した作品からも強く伺うことが出来ます。中でも「11枚のガラス板」(2004)は、工業製品でもある大きなガラス板を11枚並べてくっ付けただけという、まさにデュシャンのレディメイドを思わせる作品ですが、その前に立った時に見える世界ほど美しいものはありません。11枚のガラスに写り込む空間は、それを見ている自分も含め、全てが震えるかのように(それこそフォト・ペインティングで見せる揺らぎのように。)ぼやけていますが、それがまるで鏡の向こう側の世界の存在をイメージさせて、その境界となっている鏡に思わず足を踏み入れたくなります。また、11枚重ねの鏡面世界は、当然ながらそれを見ている自分の姿を最もぼかして写しますが、それが作品を見ているはずの自分がまるで鏡に見られているか、もしくは作品の一部に組み込まれてしまったような気にもさせて、結果的に作品を見ている自分の存在の危うさを感じさせます。鏡を使用した作品は他にも展示されていましたが、この「11枚のガラス板」の美しさだけは忘れることがなさそうです。
「絵画になにができるかを試すこと。~略~今何がおこっているのかについて、自分自身のために一つの映像をつくろうとしつづけることです。」(作品目録より。)とリヒターは述べていますが、まさにキャンバスにのせられた美しい映像を通して、その光や幻影を感じさせながら、ガラスの作品のように見る者すら取り込む「絵画の彼方への旅」を楽しませてくれる展覧会です。これだけの世界観を作り上げた作家の回顧展が、今回日本初というのが驚きです。今月22日までの開催となりますが、是非おすすめしたいと思います。(21、22日には、この川村記念美術館と、スイス現代美術展を開催している千葉市美術館の間に無料シャトルバスが運行されます。所要時間は約30~40分ほどです。私も先週このバスを使って両方の展覧会を楽しみましたがなかなか便利でした。滅多に運行されないか、もしくは初めての試みとなるこのバスを使って、千葉での現代アートに触れるのも良さそうです。)
「ゲルハルト・リヒター -絵画の彼方へ- 」
2005/11/3~2006/1/22
ドイツ現代美術の巨匠、ゲルハルト・リヒター(1932~)の日本初となる大規模な回顧展です。絵画を中心とする約50点の作品が、川村記念美術館の大きな空間の中で美しく映えています。非常に見応えのある展覧会です。
リヒターは1960年代から、主に「フォト・ペインティング」(写真を拡大してキャンバスに描き写す。)や「カラーチャート」(無数の色の小片を並べて提示する。)、それに「グレイ・ペインティング」(グレイ一色のモノトーン絵画。)から「アブストラクト・ペインティング」(いわゆる抽象絵画。)など、様々なジャンルの絵画を同時に平行させながら創作して来ましたが、当然ながらこの展覧会ではその全てが展示されています。言い換えれば、抽象から具象、それに鮮やかな色彩からモノトーンまで、おおよそ絵画で為せるであろうあらゆる表現を楽しめる展覧会とも言えそうです。
私が最も惹かれたのは、大きな展示室を使って、贅沢に、そして大胆に展示された極めて抽象的な二点の作品、「岩壁」(1989)と「森(3)」(1990)でした。縦300センチ横250センチの「岩壁」は、白、灰、青、緑、赤などのあらゆる色彩が、荒々しいタッチの元、何層にもなって立体的に塗られた作品ですが、少し離れて見ると、まるで波が岩壁に打ち砕けて、その飛沫が上へ飛び上がっている姿のような動きすら感じさせます。そして、もう一方の「森」もそれに負けず劣らぬの存在感です。340×260センチの大きなキャンバスに、ぶちまけるかのようにして放たれた鮮烈な色彩の帯と粒。横方向に塗られた深い青みに逆らうかのような、縦方向に揺らいだ黄色の表現は、まるで深い森に差し込む一筋の光のようにも見えます。リヒターは、これらの作品を自ら撮影した風景写真などを元にして仕上げたとのことですが、確かに具象と抽象の間を感じさせるこれらの作品は、あたかもモネの作品における光の移ろいと、抽象の純粋な色彩と形の面白さを同時に見ているような味わいがあります。これほど多面的に表情を変える、いわゆる「抽象絵画」も稀有だと思うほどです。
「フォト・ペインティング」は、写真をまさに写実的にキャンバスへと移し替えたものですが、その具象性はともかく、画面は写真と言うよりもむしろ映像的で、しかもどこかノスタルジー的な雰囲気をたたえています。宗教画の主題を思わせる「2本の蝋燭」(1982)と「髑髏」(1983)、それにシスレーの雪景色を思い起こさせるような「農場」(1999)や、ぶれた画面が今にも消え入りそうで、花の命の儚さすら感じさせる「バラ」(1994)は、どれも大変に魅力的です。写真のようなリアリティーを持つ作品は視覚トリック的な要素を、また、懐古的なイメージを与える作品からは印象派の持つような美感をも与えます。
その視覚的トリックにもつながる、作品を見ると言うことに対してのリヒターの問題意識は、ガラスを使用した作品からも強く伺うことが出来ます。中でも「11枚のガラス板」(2004)は、工業製品でもある大きなガラス板を11枚並べてくっ付けただけという、まさにデュシャンのレディメイドを思わせる作品ですが、その前に立った時に見える世界ほど美しいものはありません。11枚のガラスに写り込む空間は、それを見ている自分も含め、全てが震えるかのように(それこそフォト・ペインティングで見せる揺らぎのように。)ぼやけていますが、それがまるで鏡の向こう側の世界の存在をイメージさせて、その境界となっている鏡に思わず足を踏み入れたくなります。また、11枚重ねの鏡面世界は、当然ながらそれを見ている自分の姿を最もぼかして写しますが、それが作品を見ているはずの自分がまるで鏡に見られているか、もしくは作品の一部に組み込まれてしまったような気にもさせて、結果的に作品を見ている自分の存在の危うさを感じさせます。鏡を使用した作品は他にも展示されていましたが、この「11枚のガラス板」の美しさだけは忘れることがなさそうです。
「絵画になにができるかを試すこと。~略~今何がおこっているのかについて、自分自身のために一つの映像をつくろうとしつづけることです。」(作品目録より。)とリヒターは述べていますが、まさにキャンバスにのせられた美しい映像を通して、その光や幻影を感じさせながら、ガラスの作品のように見る者すら取り込む「絵画の彼方への旅」を楽しませてくれる展覧会です。これだけの世界観を作り上げた作家の回顧展が、今回日本初というのが驚きです。今月22日までの開催となりますが、是非おすすめしたいと思います。(21、22日には、この川村記念美術館と、スイス現代美術展を開催している千葉市美術館の間に無料シャトルバスが運行されます。所要時間は約30~40分ほどです。私も先週このバスを使って両方の展覧会を楽しみましたがなかなか便利でした。滅多に運行されないか、もしくは初めての試みとなるこのバスを使って、千葉での現代アートに触れるのも良さそうです。)
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カジミール・マレーヴィッチ 「シュプレマティズム(消失する面)」 川村記念美術館から
川村記念美術館(佐倉市坂戸631)
常設展示
「カジミール・マレーヴィッチ -シュプレマティズム(消失する面)- 」
マレーヴィッチ(1878-1935)のシュプレマティズム絵画では、日本唯一のコレクションという川村記念美術館所蔵の「シュプレマティズム(消失する面) 」(1916-17)です。新印象主義から未来派、さらには自身の提唱したシュプレマティスム(絶対主義)から具象絵画への回帰と、度々作風を変化させたマレーヴィッチの画業の中では、最も優れたとされる時期の作品です。
純粋で幾何学的な形態を求めたというシュプレマティズムですが、その一連の作品群でも特に有名なのは、白いキャンバス上に、いくつもの大小異なる赤や青などの四角形(あるいは円形)が描かれたものです。しかし、ここで紹介した作品はそれらと大分趣が異なります。やや黒みがかった白地に、たった一つだけ大きく描かれたフック形の面。面は、黒とも青ともとれるような色で象られ、そこがちょうどフォンタナの「空間概念」の鋭い切れ込みのように、キャンバスの内側やさらにその向こう側をもイメージさせます。そして、このフック型の面は、上部がまるでキャンバスに刺さっているかのように、白地をグルッと回り込んで描かれています。それがまた、このシンプル極まりない画面に躍動感をもたらすのでしょうか。まるでフックの面が、たった今キャンバスに突き刺さって留まっているようにも見え、またあるいはそれが、逆にキャンバスを飛び出して何処かへ行ってしまった面の痕(影)のようにも見えます。「消失する面」とはまさにこのフック型の面を示すのかもしれません。形の純粋さを通り越した、力強い動きを感じさせる作品です。
国内ではあまり見る機会がないというマレーヴィッチですが、川村記念美術館の常設展示では必見の作品と言えそうです。
常設展示
「カジミール・マレーヴィッチ -シュプレマティズム(消失する面)- 」
マレーヴィッチ(1878-1935)のシュプレマティズム絵画では、日本唯一のコレクションという川村記念美術館所蔵の「シュプレマティズム(消失する面) 」(1916-17)です。新印象主義から未来派、さらには自身の提唱したシュプレマティスム(絶対主義)から具象絵画への回帰と、度々作風を変化させたマレーヴィッチの画業の中では、最も優れたとされる時期の作品です。
純粋で幾何学的な形態を求めたというシュプレマティズムですが、その一連の作品群でも特に有名なのは、白いキャンバス上に、いくつもの大小異なる赤や青などの四角形(あるいは円形)が描かれたものです。しかし、ここで紹介した作品はそれらと大分趣が異なります。やや黒みがかった白地に、たった一つだけ大きく描かれたフック形の面。面は、黒とも青ともとれるような色で象られ、そこがちょうどフォンタナの「空間概念」の鋭い切れ込みのように、キャンバスの内側やさらにその向こう側をもイメージさせます。そして、このフック型の面は、上部がまるでキャンバスに刺さっているかのように、白地をグルッと回り込んで描かれています。それがまた、このシンプル極まりない画面に躍動感をもたらすのでしょうか。まるでフックの面が、たった今キャンバスに突き刺さって留まっているようにも見え、またあるいはそれが、逆にキャンバスを飛び出して何処かへ行ってしまった面の痕(影)のようにも見えます。「消失する面」とはまさにこのフック型の面を示すのかもしれません。形の純粋さを通り越した、力強い動きを感じさせる作品です。
国内ではあまり見る機会がないというマレーヴィッチですが、川村記念美術館の常設展示では必見の作品と言えそうです。
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「スイス現代美術展」 千葉市美術館 1/14
千葉市美術館(千葉市中央区中央3-10-8)
「スイス現代美術展 リアルワールド-現実世界」
2005/12/17~2006/2/26
5組のスイス人アーティストによる現代美術の展覧会です。オブジェや写真、または映像など、様々なジャンルの作品が、空間を贅沢に使って展示されています。スイスの今の、どこか無機質なアート・シーンを感じられる展覧会です。
一番初めに展示されているシャリヤー・ナシャットの二点のビデオ・インスタレーションでは、「規制する線」(2005)を特に面白く見ることが出来ます。舞台は、ルーブル美術館内にあるルーベンスの「マリー・ド・メディシス」。ここに、上半身をさらけ出した一人の男性が、絵画へ身体的に対峙するというコンセプトの元、ルーベンスの作中における芳醇な肉体美と競うかのような肉体を見せながら、絵に向かって逆立ちなどをして、ひたすら意味ありげに絵画を告発します。「ルーベンス」という崩れ去ることのない西洋美術の権威の前において、半ば悲壮感を漂わせながら絵と対決する半裸の男性。イメージの重なる、絵画と男性の二つの肉体は美的でもあり、そのぶつかり合いにあまり嫌みを感じさせません。なかなか興味深い作品です。
この展覧会で最も美しかったのは、ウーゴ・ロンディノーネの「スリープ」(1999)です。海辺を歩く、どこか中性的な男女を捉えた167枚の写真。それが、壁面に設置された、真っ白の大きな木製のパネルにたくさん貼られています。海辺という同じ場にいるはずの男女は、決して仲良く一枚の写真におさまることはありません。また、どの写真も男女の姿以外は、写り込む海や空などを中心にして、周囲の白パネルの支持体を巻き込むかのように、極めて白っぽく捉えられています。この白さと、視線のつながりすらない、男女が別々に捉えられた写真。やはりここに二人の関係を見ないわけにはいかないでしょう。乾いた、そして緊張感のあるこの男女の関係を、何やら不安気に見せる作品でした。
「緊急用や警察用の装備品に隠された意味を探る」(美術館HPから。)という主旨の作品を制作するファブリス・シージは、何と言っても「エアバッグ」(1997)が目立ちます。展示室中央にドーンと置かれた、真っ赤なトランポリンのような、約5メートル四方、厚さ1メートルほどの巨大な緊急脱出用エアバック。もちろん靴を脱いで上に乗ることも可能です。ビニールがややゴツゴツとした感触を与えますが、空気の上にのせられている感覚はやはり心地良く(空気ポンプにて常に膨らんだ状態にあります。)、思わず本来の用途を忘れさせるようなのんびりした雰囲気に包まれてしまいます。そして、この作品に揺られながら、壁にかけられた同じくシージによる「グレーのモノクローム」(2003)を眺めます。遠目からだとまるでモノクローム絵画のようですが、実は軍用などに使われるシートをフレームに張っただけの作品です。それに気付いた時、今自分ののっているエアバックの奇妙な心地良さは何を示すのか。「隠された意味」を身体的に感じさせる作品なのかもしれません。
大きな作品が多い反面、数は少なく、全体的なボリュームこそやや欠けますが、あまり他では紹介されない、スイスの現代美術に触れられる展覧会です。来月26日までの開催です。
「スイス現代美術展 リアルワールド-現実世界」
2005/12/17~2006/2/26
5組のスイス人アーティストによる現代美術の展覧会です。オブジェや写真、または映像など、様々なジャンルの作品が、空間を贅沢に使って展示されています。スイスの今の、どこか無機質なアート・シーンを感じられる展覧会です。
一番初めに展示されているシャリヤー・ナシャットの二点のビデオ・インスタレーションでは、「規制する線」(2005)を特に面白く見ることが出来ます。舞台は、ルーブル美術館内にあるルーベンスの「マリー・ド・メディシス」。ここに、上半身をさらけ出した一人の男性が、絵画へ身体的に対峙するというコンセプトの元、ルーベンスの作中における芳醇な肉体美と競うかのような肉体を見せながら、絵に向かって逆立ちなどをして、ひたすら意味ありげに絵画を告発します。「ルーベンス」という崩れ去ることのない西洋美術の権威の前において、半ば悲壮感を漂わせながら絵と対決する半裸の男性。イメージの重なる、絵画と男性の二つの肉体は美的でもあり、そのぶつかり合いにあまり嫌みを感じさせません。なかなか興味深い作品です。
この展覧会で最も美しかったのは、ウーゴ・ロンディノーネの「スリープ」(1999)です。海辺を歩く、どこか中性的な男女を捉えた167枚の写真。それが、壁面に設置された、真っ白の大きな木製のパネルにたくさん貼られています。海辺という同じ場にいるはずの男女は、決して仲良く一枚の写真におさまることはありません。また、どの写真も男女の姿以外は、写り込む海や空などを中心にして、周囲の白パネルの支持体を巻き込むかのように、極めて白っぽく捉えられています。この白さと、視線のつながりすらない、男女が別々に捉えられた写真。やはりここに二人の関係を見ないわけにはいかないでしょう。乾いた、そして緊張感のあるこの男女の関係を、何やら不安気に見せる作品でした。
「緊急用や警察用の装備品に隠された意味を探る」(美術館HPから。)という主旨の作品を制作するファブリス・シージは、何と言っても「エアバッグ」(1997)が目立ちます。展示室中央にドーンと置かれた、真っ赤なトランポリンのような、約5メートル四方、厚さ1メートルほどの巨大な緊急脱出用エアバック。もちろん靴を脱いで上に乗ることも可能です。ビニールがややゴツゴツとした感触を与えますが、空気の上にのせられている感覚はやはり心地良く(空気ポンプにて常に膨らんだ状態にあります。)、思わず本来の用途を忘れさせるようなのんびりした雰囲気に包まれてしまいます。そして、この作品に揺られながら、壁にかけられた同じくシージによる「グレーのモノクローム」(2003)を眺めます。遠目からだとまるでモノクローム絵画のようですが、実は軍用などに使われるシートをフレームに張っただけの作品です。それに気付いた時、今自分ののっているエアバックの奇妙な心地良さは何を示すのか。「隠された意味」を身体的に感じさせる作品なのかもしれません。
大きな作品が多い反面、数は少なく、全体的なボリュームこそやや欠けますが、あまり他では紹介されない、スイスの現代美術に触れられる展覧会です。来月26日までの開催です。
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読売日本交響楽団 「シベリウス:交響曲第5番」他 1/15
読売日本交響楽団 第74回東京芸術劇場マチネーシリーズ
セゲルスタム: 交響曲第91番
ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第2番
シベリウス: 交響曲第5番
ピアノ アレクサンダー・ガヴリリュク
指揮 レイフ・セゲルスタム
演奏 読売日本交響楽団
2006/1/15 14:00 東京芸術劇場3階
今年初めてのコンサートは、セゲルスタムの指揮による、読売日響「芸劇マチネーシリーズ」でした。プログラムは、セゲルスタム自作の交響曲とシベリウスの5番、それにソリストにガヴリリュクを迎えての、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。私は数年ぶりにこのマチネーへ出向いたのですが、会場はとても混雑していて、特に女性の姿が多く見受けられました。プログラムの妙か、ピアニストによるものなのか、ともかくもなかなか活況を呈していたコンサートです。
さて、この日最も素晴らしかったのは、二曲目のラフマニノフのピアノ協奏曲、特にアレクサンダー・ガヴリリュクのピアノ独奏です。恥ずかしながら私は、ホールに行って初めて彼の名を知ったのですが、ともかくピアノにて繊細な感性を表現することの出来る、非常に力のあるピアニストでした。何かとお涙頂戴的な要素もあるこの超名曲を、決して力で押し切ることなく、半ば一歩曲から引いて構えるようにして、端正にピアノを鳴らして仕上げていきます。きらびやかな高音のトリル、やや訥々としながらも、素朴にピアノを語らせることの出来る控えめな中音域。そして繊細で、まるでシルクの肌触りのように滑らかなピアニッシモ。そのどれもが欠けることなく器用に表現されて、強烈な個性こそありませんが、この曲の持つ魅力を巧みに引き出すのです。実は私はこの曲があまり好きではないのですが、こうなってくると彼のピアノにひたすら聞き惚れるしかありません。今後は是非、美しく聴かせることに難しい、モーツァルトのピアノ協奏曲で聴いてみたいとも思います。予期せぬほど美しいピアノを聴かせてくれた、ガヴリリュクだけで、私のこの日のコンサートは殆ど終りです。(と言ったら怒られそうですが…。)
さて、メインのシベリウスは随分と重めです。セゲルスタムのタクトの元、非常にこってりとした厚みのある音色によって、時折ワーグナーの「ジークフリート」を思わせるような、渋く、また濃厚な音楽を作り上げます。全体的なテンポはやや遅めでしょうか。一つ一つのフレーズを、あまり力を入れないで丁寧になぞっていく。この曲における印象的な主題は特にゆっくりと鳴らしながらも、弦も管も抑制的に演奏させて、オーケストラを華美に味付けしない。何故か突然、俗っぽく盛り上がってくるいくつかの箇所を除けば(それこそオペラ的にクライマックスを作り上げます。)、これほどこじんまりとした響きが読響から聴かれるとは思いませんでした。
終始どうしても気になったのは、デュナーミクの、特にピアニッシモ方向における平板な表現と、全体のレンジの狭さです。ある時は管弦楽が咆哮し、またある時は室内楽のように精緻に響く、まさに目まぐるしく表情の変化するこの曲が、どこを切り取ってもあまり変わらないように聴こえてしまいます。冷気を帯びているような、寒々しいシベリウスのストイックな魅力のある響きが、セゲルスタムの手にかかると、あまりにも温かみとふくらみを持ち過ぎるのかもしれません。もちろん、それも一つのスタイルではあるので、こればかりは私の好みに合わなかったとしか言う他ないでしょう。それにしても洗練されたこの美しい曲が、あまりにも長く聴こえてしまったのは残念でした。
21日の公演にて予定されている「復活」では、セゲルスタムの方向性が上手く曲とマッチするような気もします。あまり好意的でないことばかり書いてしまいましたが、もう少し聴き続けてみたい方だとは思いました。
セゲルスタム: 交響曲第91番
ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第2番
シベリウス: 交響曲第5番
ピアノ アレクサンダー・ガヴリリュク
指揮 レイフ・セゲルスタム
演奏 読売日本交響楽団
2006/1/15 14:00 東京芸術劇場3階
今年初めてのコンサートは、セゲルスタムの指揮による、読売日響「芸劇マチネーシリーズ」でした。プログラムは、セゲルスタム自作の交響曲とシベリウスの5番、それにソリストにガヴリリュクを迎えての、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。私は数年ぶりにこのマチネーへ出向いたのですが、会場はとても混雑していて、特に女性の姿が多く見受けられました。プログラムの妙か、ピアニストによるものなのか、ともかくもなかなか活況を呈していたコンサートです。
さて、この日最も素晴らしかったのは、二曲目のラフマニノフのピアノ協奏曲、特にアレクサンダー・ガヴリリュクのピアノ独奏です。恥ずかしながら私は、ホールに行って初めて彼の名を知ったのですが、ともかくピアノにて繊細な感性を表現することの出来る、非常に力のあるピアニストでした。何かとお涙頂戴的な要素もあるこの超名曲を、決して力で押し切ることなく、半ば一歩曲から引いて構えるようにして、端正にピアノを鳴らして仕上げていきます。きらびやかな高音のトリル、やや訥々としながらも、素朴にピアノを語らせることの出来る控えめな中音域。そして繊細で、まるでシルクの肌触りのように滑らかなピアニッシモ。そのどれもが欠けることなく器用に表現されて、強烈な個性こそありませんが、この曲の持つ魅力を巧みに引き出すのです。実は私はこの曲があまり好きではないのですが、こうなってくると彼のピアノにひたすら聞き惚れるしかありません。今後は是非、美しく聴かせることに難しい、モーツァルトのピアノ協奏曲で聴いてみたいとも思います。予期せぬほど美しいピアノを聴かせてくれた、ガヴリリュクだけで、私のこの日のコンサートは殆ど終りです。(と言ったら怒られそうですが…。)
さて、メインのシベリウスは随分と重めです。セゲルスタムのタクトの元、非常にこってりとした厚みのある音色によって、時折ワーグナーの「ジークフリート」を思わせるような、渋く、また濃厚な音楽を作り上げます。全体的なテンポはやや遅めでしょうか。一つ一つのフレーズを、あまり力を入れないで丁寧になぞっていく。この曲における印象的な主題は特にゆっくりと鳴らしながらも、弦も管も抑制的に演奏させて、オーケストラを華美に味付けしない。何故か突然、俗っぽく盛り上がってくるいくつかの箇所を除けば(それこそオペラ的にクライマックスを作り上げます。)、これほどこじんまりとした響きが読響から聴かれるとは思いませんでした。
終始どうしても気になったのは、デュナーミクの、特にピアニッシモ方向における平板な表現と、全体のレンジの狭さです。ある時は管弦楽が咆哮し、またある時は室内楽のように精緻に響く、まさに目まぐるしく表情の変化するこの曲が、どこを切り取ってもあまり変わらないように聴こえてしまいます。冷気を帯びているような、寒々しいシベリウスのストイックな魅力のある響きが、セゲルスタムの手にかかると、あまりにも温かみとふくらみを持ち過ぎるのかもしれません。もちろん、それも一つのスタイルではあるので、こればかりは私の好みに合わなかったとしか言う他ないでしょう。それにしても洗練されたこの美しい曲が、あまりにも長く聴こえてしまったのは残念でした。
21日の公演にて予定されている「復活」では、セゲルスタムの方向性が上手く曲とマッチするような気もします。あまり好意的でないことばかり書いてしまいましたが、もう少し聴き続けてみたい方だとは思いました。
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