太田市美術館・図書館へ行ってきました(後編:未来への狼火)

太田市美術館・図書館
「開館記念展 未来への狼火」
4/26~7/17



「前編:建物・施設」に続きます。太田市美術館・図書館へ行って来ました。

太田市美術館・図書館へ行ってきました(前編:建物・施設)

美術館の開館を記念して開催されているのが「未来への狼火」展です。太田の過去と現在を踏まえ、さらに未来を見据えるべく、美術家、画家、写真家、映像作家、さらに詩人やシンガーソングライターら9名のアーティストの作品を展示しています。


淺井裕介「言葉の先っぽで風と土が踊っている」 2017年

いきなり大作が待ち構えていました。淺井裕介の「言葉の先っぽで風と土が踊っている」です。横幅は何と14メートル、いわゆる泥絵と呼ばれる技法にて白い壁面へ直接描いています。いつもながらに緻密かつ大胆です。可愛らしくも、不思議な動物たちが入り乱れ、そこに植物のモチーフが加わります。まさしく魑魅魍魎です。人跡未踏のジャングルを思い起こしました。


淺井裕介「言葉の先っぽで風と土が踊っている」(部分) 2017年

淺井は太田に滞在し、シンボルの新田金山をはじめとする市内各地から土を採取した上で、この作品の制作に取り掛かりました。完成までには11日かかり、延べ100名の市民ボランティアが参加したそうです。


藤原泰佑「太田市街図」 2017年

その金山から俯瞰した太田の光景を描いたのが藤原泰佑でした。藤原は前橋の生まれです。太田を捉えるために万葉集にも詠まれたという金山へと向かいます。さらに街に滞在しては取材を行い、太田の一大パノラマともいうべき絵画を作り上げました。

これがかなり細かい。ロードサイドに立ち並ぶ飲食店の看板から、ひしめき合う家々にマンション、そして太田の呑龍こと大光院なども捉えています。


藤原泰佑「太田市街図」 2017年

太田駅前に目を転じると、美術館はまだ建設中のようでした。所々に雲霞も靡き、さも洛中洛外図のような趣きもあります。ただし実際には地図としての意味はなく、あくまでも太田の多様な事物をコラージュとして描いているそうです。よって過去と現在が交差します。ここには太田の土地の歴史も記録されているのかもしれません。


前野健太「金山の物見台から」 2017年

いわゆる美術家だけでなく、様々なアーティストが参加しているのも特徴です。その1人がシンガーソングライターの前野健太でした。主に都内で活動する前野は、太田の詩を書くため、この街に足を運びます。しかし当初は「生活者の息づかい」(解説より)が少なく、詩を制作するのが難しいと感じたそうです。

改めて訪れた前野は自転車で太田を巡ります。そしてかの金山に立ち、街を見下ろした際、モールの駐車場のフロントガラスがキラキラ反射しているのを目にしました。すると「歌が聞こえ始めた」と言います。いずれにせよ、前野はくまなく太田を訪ねては、同地を詩と歌に表現しました。

詩の「金山の物見台から」の情景描写が美しいのに感心しました。かのモールの光景、そして風の気配、さらに太田に根付いた産業などを言葉に起こしています。この詩の記された壁面の向かい側がちょうど藤原のパノラマ画です。見比べると太田の風土がより深く、情感豊かに浮かび上がってくるかもしれません。

市外3名のアーティストによる太田の発見。私も太田には縁はありませんが、これほど近しい形で見知ることが出来るとは思いませんでした。


清水房之丞「霜害警報」展示風景

さて前野の詩作しかり、テキストが展覧会の軸となっているのも重要です。太田に生まれ、詩を書き、郷土詩の普及にも尽力したのが清水房之丞でした。スロープには清水の詩集「霜害警報」が大きく掲げられています。とりわけ展覧会のタイトルにも採用された「村の俺達の狼火をあげよう」の力強い言葉が胸に響きました。またスケッチブックや初公開の創作ノートなども参照し、清水の創作活動についても紹介しています。

写真家の石内都が太田に関わりがあったとは知りませんでした。石内自身の出身は桐生です。そして母は北関東の村の出身で、父と出会ったのが、太田創業の飛行機、エンジンメーカーの中村飛行機の仕事でした。学徒動員によって働いていたそうです。

その母に因む「mother’s」が10点弱ほど出ています。愛用の遺品を捉えたシリーズです。毛の絡まった櫛には母の生きた証が刻み込まれているかのようでした。

昨年の六本木クロッシングにも参加した片山真理は太田で育ちました。幼い頃に両足を切断し、義足で生活してきた片山は、自らの身体をテーマにした作品を制作しています。デコラティブな義足そのものも作品です。事実上のデビュー作である「群馬青年ビエンナーレ05」の出展作、および太田市内で作られたという新作のポートレートなどが展示していました。

飯塚小かん斎の竹工芸品も見応え十分です。戦前、東京に生まれた飯塚は、まず洋画家を目指し、東京美術学校で藤島武二に師事します。しかし戦後、父に竹工芸を学び、その道へ進みました。卒業制作の油画「K嬢像」は新発見の油絵です。青く鮮やかな和服に身を包んだ女性を描いています。竹工芸は2点でした。晩年は金山の麓にアトリエを構えて制作していたそうです。

さらに昨年逝去した太田出身の画家、正田壤の油彩やドローイングも20点ほど展示。キュビスム風の油彩よりも、栗や鶏頭、それに赤城山などを描いた水彩の素描に魅力を感じました。


林勇気「there」 2017年

ラストは映像の林勇気です。素材は自ら太田を写した写真と、公募の写真、そして太田市民のインタビューでした。それらのデータをパソコンに取り込んでは編集し、無数に切り取り、重ね合わせてはアニメーションに表現しています。

スクリーンは一室の壁面の全てを用いていて、一部は天井に連続していました。たくさんのデータ、つまり写真や映像が、小さな四角い欠片のように映し出されます。それらは一切静止することなく、ただひたすら泡のように浮かび、また弾けては消えていきました。まるで太田のあらゆる諸相があまねく空間に広がるかのようでした。


淺井裕介「大地の行進」 2017年

スペースに制約があり、さほどボリュームがあるわけではありませんが、ともかく引き出しが多く、テキストにも重みがあり、見るだけでなく、とても読み応えのある内容でした。


林勇気「overlap」 2017年
 
1階から3階へ3つの展示室を歩いていると、否応なしに図書館のスペースが目に飛び込んできます。それをあえて利用したのか、展示室外、すなわち図書館エリアにも展示は拡張していました。淺井の描く生き物が館内の至る所に「生息」しているほか、林はタブレットで動画を展開し、片山もコラージュを西エントランス近くに出品しています。それを探して歩くのも楽しいのではないでしょうか。



太田駅までは東武線の特急りょうもうで北千住駅から約70~80分。着いてしまえば駅の目の前です。「未来への狼火」展はもとより、平田晃久による建物自体も一見の価値が十分にあります。

淺井の泥絵は会期を終えると消されてしまいます。太田の土は太田でなくては見ることは叶いません。


1階と3階の展示室の撮影ができました。(2階は不可)



7月17日まで開催されています。おすすめします。

「開館記念展 未来への狼火」 太田市美術館・図書館@obt_pr
会期:4月26日(水)~7月17日(月・祝)
休館:月曜日。但し祝日の7月17日は開館。
時間:10:00~18:00
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般800円、学生・団体640円、中学生以下無料。
住所:群馬県太田市東本町16-30
交通:東武伊勢崎線太田駅から徒歩1分。専用無料駐車場(40台)あり。
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太田市美術館・図書館へ行ってきました(前編:建物・施設)

太田市美術館・図書館
「開館記念展 未来への狼火」
4/26~7/17
 


東武伊勢崎線太田駅北口前に「太田市美術館・図書館」がオープンしました。

開館は今年の4月1日(土)でした。美術館では現在、開館記念展として「未来への狼火(のろし)」が開催中です。既にオープンから2ヶ月以上経過しましたが、私も先日、ようやく見に行くことが出来ました。



駅前とは聞いていましたが、本当に太田駅の目の前でした。北口のロータリーに接し、駅のタクシーやバス乗り場の真横です。一応、公式の案内では駅より徒歩1分とありますが、高架下の出口から30秒とかからないかもしれません。



白い壁とガラスを多用した建物です。まだ真新しいゆえか、青空にとても美しく映えて見えました。手がけたのは、ヴェネチア・ビエンナーレ第13回国際建築展(2012年)で金獅子賞を受賞した建築家の平田晃久です。ともすると閑散とした太田駅前に人々の流れを呼び戻すべく、「内外や表裏のない建物」(*)として、美術館を設計しました。「街の結び目」(*)のような建物を目指したそうです。 *は美術館のサイトより。



建物は3階建てです。5つの鉄筋コンクリートの箱と、その周囲を結ぶ鉄骨のスロープからなっています。スロープが曲線を描いているからか、全体として円形、ないし丸みを帯びていました。



入り口は3箇所です。東、南、西南の方向から自由に行き来することが可能です。正面の太田駅に面した部分にはカフェとイベントスペースがあります。その奥にインフォメーションがあり、美術館の展示室、そして図書館へと続いていました。



美術館と図書館のスペースが入り混じっているのが特徴です。美術館の展示室は3つです。いずれも1階から3階の全て異なる階に分かれています。図書館も同様でした。外周部に1階から3階へと続く「学びの道」があり、哲学・人文・自然科学や産業技術、図鑑の書架が設置されています。



「学びの道」以外には、2階に「絵本・児童書コーナー」と「アートブックコーナー」(一部は3階に展開。)、3階にレファレンスルームがあります。いずれのフロアも外周の螺旋状の「学びの道」が結びつけるような構造です。下から上へと回遊出来るように工夫されていました。



階段やスロープにも書架があるのも特徴です。随所にソファーやクッションがあり、自由に座って読むことも可能でした。また全体にガラス面が多いからか、図書館としてはかなり明るく感じるのではないでしょうか。開放感がありました。



蔵書で最も充実しているのが児童書と絵本です。あわせて1万冊あります。それに続くのが美術関連の書籍でした。写真集などを含むと9000冊に及びます。美術館を有する図書館ならではの蔵書構成と言えそうです。



ロゴマーク、サインシステムを手がけたのが、グラフィックデザイナーの平野篤史です。書体は全てオリジナルです。どこかポップで親しみやすい印象を受けました。



カーブミラー型の案内表示も面白いのではないでしょうか。螺旋構造のゆえか、フロア内には死角も少なくありませんが、それを逆手にとってのアイデアなのかもしれません。



エントランスの館内マップは立体です。これも楽しい仕掛けです。やや複雑な館内、時に迷路のように見えるかもしれませんが、それがむしろ建物の個性を際立たせています。

1階のカフェ「キタノスミスコーヒー」にはショップも併設され、いわゆる美術関連のグッズだけでなく、太田に因んだ土産物の販売も行われています。



カフェは地元で人気という「BLACKSMITH COFFEE」の運営です。自家焙煎コーヒーやエスプレッソによるラテアートのほか、ホットサンドなどの食事メニューの提供もありました。私もコーヒーをいただきましたが、コクがあり、美味でした。居心地も良く、ゆっくり寛げました。



一度、建物の外へ出てみました。内部と同様の螺旋構造です。外からも階段を使って、1階から3階、さらに屋上へと上がることが出来ます。



屋上へ上がって驚きました。まるで丘です。とても美術館の上とは思えません。芝生に植栽が施され、思わずシートを敷いてピクニックでもしたくなってしまいます。



外と中は半ば連続して、各階で出入りすることも可能です。テラスにはベンチもあり、実際に座って読書をしている方もおられました。屋上から南を向けば駅です。電車が入ってくる光景も望めました。



建物裏手には駐車場も整備されています。全部で40台です。美術館、図書館への来場者は無料で利用出来ます。



開館記念展の「未来の狼火」も鑑賞してきました。次のエントリでまとめたいと思います。

太田市美術館・図書館へ行ってきました(後編:未来への狼火)

「後編:未来の狼火」に続きます。

「開館記念展 未来への狼火」 太田市美術館・図書館@obt_pr
会期:4月26日(水)~7月17日(月・祝)
休館:月曜日。但し祝日の7月17日は開館。
時間:10:00~18:00
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般800円、学生・団体640円、中学生以下無料。
住所:群馬県太田市東本町16-30
交通:東武伊勢崎線太田駅から徒歩1分。専用無料駐車場(40台)あり。
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「神の宝の玉手箱」 サントリー美術館

サントリー美術館
「国宝『浮線綾螺鈿蒔絵手箱』修理後初公開 神の宝の玉手箱」 
5/31~7/17



サントリー美術館で開催中の「国宝『浮線綾螺鈿蒔絵手箱』修理後初公開 神の宝の玉手箱」を見てきました。

久々にため息が漏れるほどに美しい作品と出会いました。それがチラシ表紙を飾る国宝の「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」でした。


国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」(身) 鎌倉時代・13世紀 サントリー美術館

かの北条政子が愛玩したと伝えられる鎌倉時代の手箱です。外側は沃懸地と呼ばれる技法で、一面に金粉が蒔かれています。よって黄金色の深く、眩い光を放っていました。文様の名が浮線綾文です。同紋は「家格などに応じて公家の服飾、調度につけた有識文様」(解説より)の一つでした。宮中で広く使われていたそうです。


国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」(蓋表) 鎌倉時代・13世紀 サントリー美術館

紋は全部で115個もあります。いずれも夜光貝による螺鈿です。微かに7色の光に染まっていました。


国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」(蓋裏) 鎌倉時代・13世紀 サントリー美術館

ちょうど期間限定で蓋裏が特別に展示されていました。(6/26終了。)内部は布張りです。蓋裏には草花が蒔絵で描かれています。ともかく流麗です。何やら草花が闇に沈み込んでは息づいているようでした。表の力強い紋とは対比的と言えるのではないでしょうか。極めて精緻に象られていました。



現在、同手箱はサントリー美術館のコレクションです。このほど約半世紀ぶりに修理を経たのちに公開されました。

さて展覧会はこうした手箱を紹介。時に神々へ奉納された「神の宝」ともいうべき手箱がいくつも展示されています。

日本の手箱の起源はおおよそ平安時代でした。化粧道具や扇などの手回品を収めておくための箱が作られます。中国の影響を受けた唐櫛笥に原型があると指摘されているそうです。


国宝「桐蒔絵手箱」 明徳元(1390)年頃 熊野速玉大社 *展示期間:5/31~6/26

箱の中身が大切であるほど、美しく飾られ、箱そのものの装飾に価値が求められます。蒔絵や螺鈿の精巧な意匠が施され、後世には収集の対象となりました。


国宝「秋野鹿蒔絵手箱」 鎌倉時代・13世紀 出雲大社 *展示期間:5/31~6/26

冒頭の「秋野鹿蒔絵手箱」に魅せられました。秋の景色です。菊や桔梗、中でも萩が乱れるように咲き誇り、鹿の親子が群れています。遷宮に際して出雲大社に奉納されたと伝えられています。これぞ「神の宝」と称するに相応しい作品ではないでしょうか。

手箱には「簡単に開けてはならない箱」という意味も持ちえます。一つの有名な例として挙げられるのが浦島伝説でした。


いわゆる玉手箱として伝えられるのが、「松梅蒔絵手箱および内容品」でした。所蔵するのは九州最南端、開聞岳の麓にある枚聞神社です。この地には、竜宮伝説の元になる山佐彦、海幸彦の神話が存在し、同手箱も「竜宮の手箱」と呼ばれています。さらにあわせて「浦島絵巻」も展示し、手箱の呪力性について触れていました。

手箱を通して、貴族社会などの日常の生活について触れているのもポイントです。その資料とも言えるのが「類聚雑要抄指図巻」でした。同作は宮中の調度や室礼を示した「類聚雑要抄」を、指図として江戸時代に表したもので、平安時代の衣食住の様相が記録されています。中には手箱の高さや長さなども記されていました。


国宝「桐蒔絵手箱 内容品」 明徳元(1390)年頃 熊野速玉大社 *展示期間:5/31~6/26

是真の「五節句蒔絵手箱」にも目を惹かれました。蓋表は鞠です。意匠は幾分シンプルで、漆の質感が殊更に際立っています。ほか櫛箱や鏡、香合、棚に鏡台なども展示されています。単なる手箱のみの展覧会ではありません。

手箱の模造に関するトピックが興味深い内容でした。というのも、近現代の工芸家らの模造した名品手箱を展示し、いかに「造形技術が継承」(解説より)され、新たな創造へ繋げていたのかを検証しているわけです。


北村昭斎「籬菊螺鈿蒔絵手箱 模造」 平成8〜11(1996〜1999)年 鶴岡八幡宮

中でも「籬菊螺鈿蒔絵手箱および内容品 模造」に注目です。元の「籬菊螺鈿蒔絵手箱」は「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」と同様に、北条政子が愛用したと言われていますが、明治時代、ウィーンの万国博へ出展した際、帰りの船が伊豆沖で座礁し、失われてしまいます。しかし漆芸家の北村昭斎が残された絵図などにより復元。平成になって模造品として完成させました。この作品なくしては往時の姿を知ることが出来ません。


国宝「衵 萌黄地小葵浮線綾丸文二重織」 明徳元(1390)年頃 熊野速玉大社 *展示期間:5/31~6/26

ラストは「神宝と宮廷工芸」と題し、愛知の熱田神宮や和歌山の熊野速玉大社に伝わる古神宝を展示。手箱はもちろんのこと、礼服着用の際の装身具である「玉佩」など、見るも雅やかな作品が一堂に並んでいました。

「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」のCT画像、ないし修復のプロセスを示したパネルも大変に参考になります。ほか文様の意味について踏み込んだ展示もあり、様々な角度から手箱の魅力を伝えていました。

「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」の裏箱展示中の月曜日に出かけてきましたが、平日にも関わらず、館内はなかなか賑わっていました。ひょっとすると会期終盤の週末は混み合うかもしれません。



「絵巻マニア列伝」に続く好企画です。7月17日まで開催されています。おすすめします。

追記:国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」の蓋裏が、7/8~7/17の期間限定で再度公開されます。

「六本木開館10周年記念展 国宝『浮線綾螺鈿蒔絵手箱』修理後初公開 神の宝の玉手箱」 サントリー美術館@sun_SMA
会期:5月31日(水)~7月17日(月・祝)
休館:火曜日。但し7月11日は開館。
時間:10:00~18:00
 *毎週金曜、土曜日は20時まで開館。
 *7月16日(日)は20時まで開館。
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般1300円、大学・高校生1000円、中学生以下無料。
 *アクセスクーポン、及び携帯割(携帯/スマホサイトの割引券提示)あり。
場所:港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウンガレリア3階
交通:都営地下鉄大江戸線六本木駅出口8より直結。東京メトロ日比谷線六本木駅より地下通路にて直結。東京メトロ千代田線乃木坂駅出口3より徒歩3分。
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尾形光琳「風神雷神図屏風」 東京国立博物館

東京国立博物館・本館7室
尾形光琳「風神雷神図屏風」
5/30~7/2



尾形光琳の「風神雷神図屏風」が東京国立博物館で公開されています。


重要文化財「風神雷神図屏風」 尾形光琳 江戸時代・18世紀

二曲一双の屏風の左隻が雷神です。左足を前に出し、雷鼓を打ち鳴らそうとしています。右足を強く引き、右手を曲げているゆえか、やや身構えているようにも見えなくはありません。

一方で右隻に現れたのが風神でした。風を起こすための大きな白い袋を持っています。視線を互いに合わせているのでしょうか。ともに嵐を予兆される黒い雲を従えていました。双方は鬼の姿でありながらも、にやりと笑っているかのようで、どことなくコミカルです。親しみやすさも感じられました。

光琳が元にしたのが宗達の「風神雷神図屏風」でした。宗達画はかつて建仁寺の末寺である妙光寺に伝来。そこは光琳の弟である乾山の営んでいた鳴滝窯にほど近い場所でした。


重要文化財「風神雷神図屏風」(左隻) 尾形光琳 江戸時代・18世紀

おそらく光琳は乾山を通して宗達画の存在を知り、何らかのインスピレーションを得て、模写、すなわちトレースしたと考えられています。大きさも同一である上、輪郭線なども極めて精緻に写し取っています。また残された画稿から古絵巻を参照したことも分かっているそうです。いずれにせよ相当に力を入れて制作したことは間違いありません。


重要文化財「風神雷神図屏風」(右隻) 尾形光琳 江戸時代・18世紀

ただし幾つかの相違点があります。最も顕著なのが全体の配置です。宗達画は太鼓や衣の一部が画面からはみ出ているのに対し、光琳は風神、雷神とも位置をやや低くし、全体像を画面の中に収めています。さらに寸法自体も光琳画の方が大きめです。よって空間自体は光琳画の方が広いものの、両神とも宗達画よりやや小さく見えます。また細部の彩色なども一部変えているそうです。

会場は東博本館の2階7室。常設展内です。同室にはほか、宗達派の「扇面流図屏風」と17世紀の「洛中洛外図屏風」もあわせて公開されています。


重要文化財「夏秋草図屏風」 酒井抱一 江戸時代・19世紀 *2010年の東博平常展での展示風景。(現在は展示されていません。)

のちに光琳に私淑した酒井抱一は、本作の裏に「夏秋草図屏風」を描きました。雷神には雨にうたれる夏草を配し、風神には風に吹かれる秋草を表しました。

抱一はここで風神と秋草、雷神と夏草、風神雷神の金に夏秋草図の銀、天上の神と地上の自然などを対比しました。いわば琳派変奏の代表的な作品として知られています。

かつて光琳の「風神雷神図屏風」と抱一の「夏秋草図屏風」は表裏一体、2つで1つの作品でした。それが保存上の観点から切り離されたのは1974年です。以来、別々の作品として独立しています。

大琳派展など、同じ展覧会に出展される機会こそありますが、表裏一体の形で公開されたのを、私は一度見たことがありません。いつか目にできればと思いました。


尾形光琳の「風神雷神図屏風」は7月2日まで公開されています。

尾形光琳「風神雷神図屏風」 東京国立博物館・本館7室(@TNM_PR
会期:5月30日(火)~7月2日(日)
時間:9:30~17:00。
 *毎週金・土曜は21時まで、日曜・祝日は18時まで開館。
 *入館は閉館の30分前まで。
休館:月曜日。但し月曜日が祝日または休日の場合は開館し、翌平日に休館。
料金:一般620(520)円、大学生410(310)円、高校生以下無料。
 *( )は20名以上の団体料金。
住所:台東区上野公園13-9
交通:JR上野駅公園口より徒歩10分。東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、京成電鉄上野駅より徒歩15分。
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「ジャコメッティ展」 国立新美術館

国立新美術館
「国立新美術館開館10周年  ジャコメッティ展」 
6/14~9/4



国立新美術館で開催中の「ジャコメッティ展」のプレスプレビューに参加してきました。

国内では11年ぶりとなるジャコメッティの回顧展が、国立新美術館ではじまりました。

出品は彫刻が約50点です。さらに5点の絵画、80点の素描と版画が加わります。大半は世界3大ジャコメッティ・コレクションの1つとして知られる、南フランスのマーグ財団美術館のコレクションでした。

1901年、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォに生まれたアルベルト・ジャコメッテイは、印象派画家であった父の元で絵画の制作に励みますが、のちに彫刻を志し、彫刻家のアントワーヌ・ブールデルのアトリエで人体デッサンなどに取り組みました。


「キュビスム的コンポジションー男」 1926年 大原美術館

比較的早い1920年代の彫刻はジャコメッテイと分からないかもしれません。一例が「キュビスム的コンポジションー男」です。量感のある石膏を組み合わせて人物像を構築しています。のちの細く引き伸ばされた彫像の片鱗すら伺えません。


「女=スプーン」 1926/1927年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

初めてのモミュメンタルな彫像が「女=スプーン」でした。モチーフはパリの博覧会で目にした西アフリカのダン族の擬人化されたスプーンです。ここに女性の姿を重ねています。プリミティブとも言えるのではないでしょうか。丸みを帯びた造形は可愛らしくもありました。


「キューブ」 1934/1935年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

量感といえば「キューブ」も同様でした。切り出した巨石をそのまま立てたかのようなブロンズ像は、もはや何ら人体の形をとっていません。ジャコメッティは1926年から27年にかけて、矩形の塊を組み合わせた「コンポジション」を制作します。古代エジプトやエトリルア美術のほか、アフリカやオセアニアの彫刻も参照したそうです。さらにダリやブルトンらと交流。キュビズム、ないしシュルレアリスムの影響を受けました。

1933年の父の死後、ジャコメッティは頭部の制作を行うようになります。翌年には早くもシュルレアリスムと決別し、モデルに基づく人物の彫刻の制作をはじめました。


「小像(男)」 1946年 メナード美術館 ほか

ジャコメッティは変革を試みる芸術家です。その一端が小像への展開でした。「空間と人体との関係を探り始める」(解説より)と、像は収縮し、反面に台座が大きく広がっていきます。結果的に像は僅か2、3センチの高さにまで縮小しました。まるでマッチ棒のようです。これほど小さな人物の彫刻をつくる芸術家をほかに探すのは難しいかもしれません。

「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦むことなく私は何度も新たに始めたが、数ヶ月後にはいつも同じ地点に達するのだった。」 アルベルト・ジャコメッティ

一方でジャコメッティは「彫像の縮小現象に抵抗」(解説より)し、今度は1メートルという高さを自らに課して制作するようになります。それに伴って彫像はどんどん細くなり、いつしか削ぎ落とした量感を持つジャコメッティならではのスタイルを生み出しました。


「大きな像(女:レオーニ)」 1947年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

「大きな像(女:レオーニ)」のモデルは恋人のイザベルです。1947年に制作に着手するも、予定の展示に出展されることなく、アトリエに残され、おおよそに10年後に再び手が加えられました。腰の部分が僅かにくびれ、両手を真っ直ぐ腰のあたりに降ろしています。まさしくジャコメッティです。これらの一連の女性立像は、最終的に晩年に至るまで多様なバリエーションを経て展開していきました。

戦後のジャコメッティが取り組んだのは群像でした。1940年代後半にパリの街をスケッチし、立ち歩く女性や男性を、一つの台座に置いた、群像形式の彫像を作り上げました。


「3人の男のグループⅠ」 1948/1949年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

この頃のジャコメッティの群像に個々の特性はほぼ見られません。例えば「3人の男のグループ」です。互いに別の方向へ歩く男の姿を表現していますが、皆、当然のように細く、同じように足を踏み出していて、特定の人物を連想することは叶いません。ただ個性を剥ぐことで、彫像そのものよりも、各々の配置や運動、いわば空間との関係を強く意識させています。男たちのどこへ行こうとしているのでしょうか。彫刻は台座を超えて空間へと拡張していました。

ジャコメッティは制作のためには労力を惜しまない芸術家でした。よほど人の本質を表現したかったのでしょう。モデルには長時間不動のポーズを要請します。よって応えられるのは、家族や恋人に友人といった身近な人物だけでした。


「ディエゴの胸像」 1954年 豊田市美術館

1歳年下の弟をモデルとしたのが「ディエゴの胸像」です。ディエゴは兄と共同でアトリエも構え、何度もモデルを務めた、制作のパートナーでした。ジャコメッティは1950年代にディエゴをモデルとした7点の胸像を制作しました。小さな頭部を支えるのは台座のように大きな胸部です。頬や顔には細かな線が刻まれ、表情を伺うことも出来ます。それにしても時に激しく抉られ、また波打つような表面の質感が凄まじい。細部だけをとってみれば、もはや雄弁なまでの表現でモデルを象っています。


「女性立像」 1952年頃 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

ただジャコメッティはあくまでも「写実的に再現するのではなく、自分の目に見えるままに形づくろうと試みた。」と述べているそうです。のちに「実存を探求」(解説より)する制作の姿勢は、サルトルらの哲学者にも評価されました。


「猫」 1951年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

人間をひたすら表現したジャコメッティの中に、一種、異質とも呼べる作品がありました。それが動物です。1951年に何体かの動物の石膏像を制作、うち1点が「猫」でした。モデルは弟ディエゴのもとに住み着いていた猫です。胴体はほぼ骨で、頭の部分のみが丸く肉付けされています。朝、ベッドに近づいてくる猫の姿の記憶をもとに作られたそうです。


「ヴェネツィアの女Ⅰ-Ⅸ」 1956年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

一つのハイライトとも呼べるのが「ヴェネツィアの女」でした。出展は全9点です。1956年、ジャコメッティはヴェネツィア・ビエンナーレと、ベルン美術館での個展のために、女性立像の制作に没頭。結果15点が石膏像として制作されます。うち9点がのちにブロンズに鋳造され、「ヴェネツィアの女」として発表されました。

一連の連作ではあるものの、「ヴェネツィアの女」には、個々に思いの外に違いがありました。例えば手前の1では前にせり出してくるような動きがあるのに対し、真後ろの3は直立不動です。手もピタリと体につけ、さも天を仰ぐように静止しています。「完成されることもあり得ず、完全でもあり得ない。」とはジャコメッティの言葉です。ここに常に「前進」(解説)しようとした芸術家の活動が現れているのかもしれません。

1958年、ジャコメッティはニューヨークのチェース・マンハッタン銀行の広場のためのモニュメントの制作を依頼されます。彼は「女性立像」、「頭部」、「歩く男」の3つのモチーフを採用し、制作に着手しました。それまでの粘土ではなく、針金の骨組に石膏をつけて削りとるという、新たな方法で行いました。

しかし制作は難航を極めます。数十ヴァージョンを試みるも、プランに満足せず、完成を諦めてしまいました。よって広場にも設置されませんでした。


手前:「大きな頭部」 1960年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

ただ改めて1960年に「大きな女性立像」と「大きな頭部」、「歩く男」がブロンズとして起こされ、展覧会で評価されます。出展の3作は、所蔵先のマーグ財団美術館が開館する際に新たに鋳造されたものでした。


「歩く男Ⅰ」 1960年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

大きく足を開いて前に踏み出しているのが「歩く男Ⅰ」です。先を急ぐのがやや前のめりになっています。表情はやや険しいものの、しっかりと前を見据えています。解説には「瞬間の軽やかさ」とありますが、私には男の確かな一歩、言い換えれば力強いまでの前へと進む姿勢、ないし意思を感じました。


「大きな女性立像Ⅱ」 1960年 マルグリット&エメ・マーグ財団美術館

私が最も惹かれたのは「大きな女性立像Ⅱ」です。モデルは直立の女性で、両手を伸ばしては腰につけています。体は細く、乳房と臀部の量感がやや際立っていました。口は閉じ、目はかすかに上を向いているようにも見えます。しばらく眺めていると不思議と百済観音の姿を思い起こしました。何たる幽玄な姿なのでしょうか。寡黙であり、幾分とはかなくも、確かに「崇高」(解説より)です。これほど美しき女性像とは思いもよりませんでした。


「真向かいの家」 1959年 マーグ・コレクション

構成は全16章立てです。ジャコメッティの業績を時間軸で追いつつ、彼との交流で有名な日本人哲学者の矢内原伊作の交流や、同時代の詩人らへの影響、さらにマーグ財団美術館を設立したエメ=マーグとの関係についても検証しています。かなり網羅的です。質量ともに充実していました。


「ジャコメッティ展」会場風景 *撮影可能エリア

「大きな女性立像」、「大きな頭部」、「歩く男」の3点のみ撮影が可能です。ただし三脚、フラッシュ、自撮り棒などの使用は出来ません。ご注意下さい。

[ジャコメッティ展 巡回予定]
豊田市美術館:2017年10月14日(土)~12月24日(日)



「Final Portrait」
http://finalportrait.jp

なお展覧会終了後ではありますが、来年1月よりジャコメッティを描いた映画、「Final Portrait」(原題)が公開されます。そちらとあわせて鑑賞するのも良いかもしれません。


*7/3追記
改めてジャコメッティ展に行ってきました。美術館に着いたのは7月2日(日)の午後2時頃。チケット購入、ないし入場待ちのための行列はいずれもありませんでした。場内も至ってスムーズです。不思議と作品が静寂を呼ぶのか、展示室内が静まり返っていたのも印象的でした。



作品保護の観点もあり、会場内の温度がかなり低く設定されているようです。半袖では少し寒く感じるほどでした。何か一枚羽織るものがあると良いかもしれません。

9月4日まで開催されています。

「国立新美術館開館10周年  ジャコメッティ展」@giacometti2017) 国立新美術館@NACT_PR
会期:6月14日(水)~9月4日(月)
休館:火曜日。
時間:10:00~18:00
 *毎週金・土曜日は20時まで開館。
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般1600(1400)円、大学生1200(1000)円、高校生800(600)円。中学生以下無料。
 * ( )内は20名以上の団体料金。
 *8月2日(水)~7日(月)は高校生無料観覧日。(要学生証)
住所:港区六本木7-22-2
交通:東京メトロ千代田線乃木坂駅出口6より直結。都営大江戸線六本木駅7出口から徒歩4分。東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩5分。

注)写真は報道内覧会時に主催者の許可を得て撮影したものです。
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「にっぽんの『奇想建築』を歩く」 サライ2017年7月号

サライ最新7月号、「にっぽんの『奇想建築』を歩く」を読んでみました。

「サライ2017年7月号/にっぽんの奇想建築を歩く/小学館」

奇想といってまず思い出すのが、若冲や蕭白、それに蘆雪らの江戸絵画ですが、何も奇想は美術だけに当てはまる概念ではありません。



建築から奇想を見出そうとするのが、サライ7月号、その名も「日本の奇想建築を歩く」でした。建築史家の藤森照信は、奇想建築を「文明の衝突時に誕生する」と述べています。



「国宝救世観音菩薩立像 特別公開」 法隆寺夢殿(はろるど) *この春の特別公開を見てきました。

いくつか実例を見ていきましょう。最も古い形として挙げられるのが法隆寺でした。現存する最古の木造建築でもある金堂の高欄は、それまでの日本建築になかった様式であり、おそらく当時の人々は不可思議に感じたものであろうと指摘しています。

近代の日本で最も激しく文明が衝突したのが幕末明治の時代でした。西洋化のプロセスは、時に日本古来の建築様式と融合し、「擬洋風建築」と呼ばれる奇想建築が生み出されました。

表紙を飾る「旧開智学校」も典型的な擬洋風建築です。ともかく青い塔が青空に映えます。バルコニーには白い雲が浮かんでいました。さらに屋根はエンジェルがのっています。なお建物表面は石張りのように見えますが、実は漆喰でした。そこにも擬洋風の形を見出すことが出来ます。



ほかには山形市郷土館や伊豆の岩科学校なども紹介。写真、記事とも充実しています。ちなみに岩科学校はバルコニーや柱や手すりの装飾が西洋的である一方、玄関上の瓦屋根やなまこ壁に日本の伝統的な様式が見られるそうです。内部には当地の左官の名工、入江長八も腕を振り、鏝絵などを残しました。

「伊豆の長八ー幕末・明治の空前絶後の鏝絵師」 武蔵野市立吉祥寺美術館(はろるど)

この入江長八は、かつて武蔵野市立吉祥寺美術館での回顧展でも紹介されました。岩科学校の位置する松崎には、伊豆の長八美術館もあります。一度、現地を見学したいものです。



奇想建築特集の主役というべきなのが伊東忠太でした。まずすぐに思い浮かぶのが、現在、改装中の大倉集古館です。初めて見た時は、私も独特な佇まいに驚いたものでした。



忠太の建築でも特に知られるのが築地本願寺です。明治9年の竣工。伝統的な寺院建築とインドの仏教建築を合わせた建物は、一目見るだけで脳裏に焼きつくかのような強い印象を与えます。私も初めて立ち入った際は外国にでも来たかのような錯覚に陥りました。



なお現在、築地本願寺は境内整備、インフォメーションセンターなどの建設のため、一部が工事中です。白いフェンスで覆われていました。完成予定は今秋の10月だそうです。

地元の千葉にも忠太の建築があることを初めて知りました。それが市川市の中山法華経寺の聖教殿です。私も早速、見学に行ってきました。



最寄駅は京成線の中山駅です。駅前の参道を北へ進むと大きな門が見えてきます。法華経寺は日蓮宗の大本山です。広い境内を有しています。



日蓮聖人像の安置された祖師堂をはじめ、五重塔や法華堂などは国の重要文化財に指定されています。聖教殿は境内の最奥部でした。祖師堂を抜け、宝殿門を過ぎると、樹木の鬱蒼とした森が現れました。何やらひんやりとしています。その中で忽然と姿を見せるのが聖教殿でした。



一見して感じたのは異様な迫力があるということです。地盤から最上部までは約22メートル。事前に見ていた写真よりもはるかに大きく感じられました。



構造は鉄筋コンクリートです。外装に花崗岩を採用しているそうです。外観は確かにインド風ながらも、正面柱頭の霊獣などは西洋の古典主義の意匠も採られています。鉄扉を堂々と飾るのは法輪でした。

竣工は昭和6年です。国宝「立正安国論」や「観心本尊抄」をはじめとした貴重な寺宝が収められています。それゆえに内部の見学は叶いません。



ここで嬉しいのがサライの誌面です。特別に撮影した内部の写真が掲載されていました。内部は外観とは一変、何と純和風でした。厨子や簞笥も忠太自らが設計しています。ドーム型の格天井も珍しいのではないでしょうか。外も中も確かに奇想でした。

また通常、非公開の本願寺伝道院の内部も撮影を行っています。さらに京都の祇園閣や伊賀の俳聖殿などもピックアップ。かつての阪急梅田駅のコンコースをシャンデリアとともに飾ったレリーフも忠太の設計でした。

奇想建築以外にも見どころがあります。まずは巻頭の藤原新也による「沖ノ島」の特集です。ともかく写真が美しい。自然の姿が神々しくも感じられました。また美術関連では7月5日より上野の森美術館で開催される「石川九楊展」のほか、奈良国立博物館で「源信 地獄・極楽への扉」についての案内もありました。

「サライ2017年7月号/にっぽんの奇想建築を歩く/小学館」

見て、読んで楽しめるサライ7月号の「にっぽんの『奇想建築』を歩く」特集。雑誌片手に奇想建築を見て回るのも面白いのではないでしょうか。



ちなみに来月の8月号は「くらべる日本美術」です。建築、美術ファンにとって嬉しい企画が続きます。こちらも期待したいです。

「にっぽんの『奇想建築』を歩く」 サライ2017年7月号
内容:唐破風にエンジェル、築地に珍獣。こんな建物に誰がした?にっぽんの「奇想建築」を歩く。法隆寺から安土城、日光東照宮そして「伊東忠太」へ。旧開智学校、山形市郷土館、岩科学校ほか。
出版社:小学館
価格:700円(税込)
刊行:2017年6月9日
仕様:156頁
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「リアル(写実)のゆくえ」 足利市立美術館

足利市立美術館
「リアル(写実)のゆくえ 高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの」 
6/17~7/30



明治以降、現代へと至る日本の絵画の「写実」表現に着目します。足利市立美術館で開催中の「リアル(写実)のゆくえ 高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの」を見てきました。

チラシ表紙が冒頭の展開を物語ります。右は幕末明治の洋画家、高橋由一の「鮭」です。縦長の画面に半身の切り取った鮭を描いています。ちょうど吊るした状態を表しているのでしょう。由一の鮭は何点か存在していますが、山形美術館の寄託作品でした。確かに迫真的です。これほど知られた鮭の絵画はほかにないかもしれません。

それでは左の鮭は誰が描いたのでしょうか。磯江毅でした。1954年に大阪に生まれ、10歳でスペインに留学し、その後も同地で制作を続けたマドリード・リアリズムの画家です。本作のタイトルは「鮭ー高橋由一へのオマージュ」です。由一画を参照したのは言うまでもありません。

さすがに隣り合わせにあるだけに、否応なしに比較せざるを得ません。(実際の会場では左右が逆に展示されています。)由一はキャンバスへ鮭を描いたのに対し、磯江は板の上に描いています。背景も由一画のように黒、闇ではなく、板そのものです。さらに鮭を吊るした上に紐で両側から縛っています。

ともかく精緻です。板の上の木目にも色彩を加えています。そして紐の一部には実際の紐が使われていました。しかしそれゆえか、板も紐も描かれているのか、実際の事物なのか、俄かに判然としません。何やらだまし絵を前にしたかのようでした。

鮭の半身が際立つのは磯江です。骨は白く鮮やかでした。一方で由一作は黒ずんでいる箇所もあります。筆触は重々しく、まるで鮭の放つ生臭さが伝わるかのようでした。磯江作が洗練されているとすれば、由一作の方がより生々しいと言えるかもしれません。

明治と現代の2つの写実表現。画家の個性はあるとはいえ、約150年を経て、どのように変化したのでしょうか。モチーフしかり、確かに似ていますが、むしろ違いが際立って見えました。


加地為也「静物」 1880年 宮城県美術館

2点の鮭を参照したあとは明治時代に遡ります。高橋由一と同様に写実に取り組んだ五姓田義松らの作品が並んでいました。五姓田として思い出すのが神奈川県立歴史博物館での回顧展です。その時にも印象に深かった「老母図」が出ていました。亡くなる間際の母を描いた一枚です。仰向けで横たわる老母の姿は痛々しい。骨ばった手や顎の表現には鬼気迫るものを感じました。


原田直次郎「神父」 1885年 信越放送

加地為也の「静物」を見て連想したのは17世紀のオランダの風俗画でした。魚や海老がカゴに入っています。魚はなにやらグロテスクな一方、カゴは極めて精緻に描いています。また原田直次郎の「神父」も目を引きました。神父の横顔です。ちょうど頭から白いひげの部分に光が当たっています。深い慈愛が滲み出るかのようでした。


河野通勢「風景」 1916年 調布市武者小路実篤記念館

明治の写実は大正に入って岸田劉生らに受け継がれました。劉生画は計7点です。さらに劉生の結成した草土社の椿貞雄と河野通勢も出ています。河野の「裾花川の河柳」のうねるような筆触が鮮烈です。やはり劉生に倣ったのでしょうか。北方ルネサンス絵画を思わせました。

清水敦次郎の「老人と髑髏」に驚かされました。修道服を着た老人が、テーブルの上の髑髏を両手で押さえています。後方にはアラベスク模様のカーテンがあり、窓からは戸外の風景も見えました。老人の顔も手も土色で皺だらけで、相当に年季が入っています。確かに細部を克明に表しているものの、もはや現実を超えた、いわばデロリとも呼べるような表現ではないでしょうか。一目で脳裏に焼きつくかのようなインパクトがありました。

昭和で目立つのが、高島野十郎、長谷川りん二郎、そして牧島如鳩です。いずれも「異端」(解説より)、ないし「孤高」とも称されるような個性的な画家ばかりでした。


牧島如鳩「魚藍観音像」 1952年 足利市民文化財団

長谷川ではやはり「猫」が挙げられるのではないでしょうか。画家の愛猫、タローを描いた有名な作品です。眠りこける猫の姿を緻密に写し取っています。とはいえ、不思議と置物のように見えるのも興味深いところです。一方の高島は「割れた皿」で写実を極めます。牧島の画風は特異です。ハリストス正教会の伝道者でもあった彼は、日本の土着的なモチーフを取り込みつつも、キリスト教と仏教的世界観を融合させたような宗教画を生み出しました。確かにリアルです。しかし景色はまるで現実ではありません。


水野暁「The Volcanoー大地と距離について/浅間山」 2012-2016年 個人蔵

ラストは現代でした。タイトルにも「現代につなぐもの」とありましたが、想像以上に現代の作品が多く展示されています。実際、出展中2割弱が、1970年代から近年に描かれた現代の写実絵画で占められていました。

半ば写真と見間違うかのような作品が並ぶ中で、一際、異彩を放っているのが安藤正子でした。1976年に愛知で生まれ、2012年に原美術館でも個展を行った画家でもあります。

作品は2点、赤ん坊をモチーフとした「Light」でした。黄金色にも染まる毛糸の下で赤ん坊が寝ています。毛の編み目も精緻です。質感が独特でした。うっすらと画面が光を帯びているかのようです。滑かな感触が見て取れました。


岸田劉生「壺の上に林檎が載って在る」 1916年 東京国立近代美術館

個々のキャプションに、いわゆる解説ではなく、画家本人、ないしほかの画家らの評した言葉を記載されているのも面白いところです。カタログが一般書籍として発売中です。論考も充実しています。そちらを参照するのも良いかもしれません。


展示は先行した平塚市美術館からの巡回展です。足利展以降、以下の予定で各美術館でも行われます。

[リアル(写実)のゆくえ 巡回スケジュール]
碧南市藤井達吉現代美術館:8月8日(火)~9月18日(月・祝)
姫路市立美術館:9月23日(土)~11月5日(日)

「リアル(写実)のゆくえ/生活の友社」

出展は100点超。全国各地の国公立美術館から作品がやって来ています。平塚での評判は耳にしていましたが、確かに見応えがありました。



7月30日まで開催されています。

「リアル(写実)のゆくえー高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの」 足利市立美術館
会期:6月17日(土)~7月30日(日)
休館:月曜日(7月17日は開館)、7月18日(火)。
時間:10:00~18:00 
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般700(560)円、大学・高校生500(400)円、中学生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
場所:栃木県足利市通2-14-7
交通:JR線足利駅下車徒歩10分、東武伊勢崎線足利市駅下車徒歩10分。北関東自動車道足利インターチェンより車で15分。美術館前、周辺に無料駐車場あり。
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日本最古の学校、「史跡足利学校」を訪ねる

史跡足利学校を見学してきました。



江戸時代に「坂東の大学」と称された足利学校は、創建年代に諸説あるものの、少なくとも室町時代に再興されたことから、日本最古の学校と言われています。

敷地面積は約5000坪です。明治時代に廃校となり、多くの建物は撤去されましたが、大正時代に国の史跡に指定。そして戦後、保存整備事業がスタートしました。平成2年になって建物と庭園の復元が完了し、江戸時代の姿が甦るに至りました。



場所は足利市の中心部です。両毛線の足利駅から歩いておおよそ10分弱でした。「入徳」と記された門が見えてきます。学校の入口でした。



受付を済ませ、孔子像を過ぎると、もう一つの門が待ち構えていました。その名も「学校門」です。寛文8年の創建で、日本で唯一「学校」の扁額が掛けられています。足利学校のシンボル的な存在でもあります。



学校門の正面に位置するのが孔子廟でした。「大成殿」と呼ばれています。学校門と同様の寛文8年の造営でした。中国の明の聖廟を模していて、中には孔子が祀られています。坐した像は珍しいそうです。



敷地内で最も目立つのが、方丈と庫裏、そして書院でした。いずれも平成2年の復元です。講義や学習、そして台所、さらに書斎や接客のためのスペースとして用いられました。まさに校舎です。足利学校の中核的な施設と言って良いかもしれません。



方丈の高さは約13メートルです。茅葺きの大きな屋根が特徴的でした。広い座敷があり、ちょうど中では漢字試験が行われていました。さらに内部には仏殿の間や尊牌の間があります。歴代徳川将軍の位牌が安置されていました。



室町時代に足利学校を再興したのが、関東管領の上杉憲実でした。儒学の四経の書籍を寄進した上、学則を整備します。さらに鎌倉から禅僧を招き、庠主(しょうしゅ)と呼ばれる学長を定めました。以降、代々の庠主は禅僧が務めました。



儒学、特に易について学んだ僧が多く、16世紀半ば頃には3000名の学徒を数えるに至ったそうです。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、足利学校をして、「最も大にして最も有名なる坂東の大学」と海外に紹介しました。



室町期最後の庠主が家康の信任を得ていたことから、幕府より朱印地を寄進されます。それに伴い庠主も1年間の吉凶を占って幕府へ提出しました。第13代庠主の時代、寛文8年には、幕府や大名の寄付を受けて大修築を敢行し、現在も残る孔子廟や学校門などを整備しました。ただしのちの宝暦4年の落雷により方丈や書院などが焼失してしまいました。



江戸時代も半ばになり朱子学が隆盛すると、易学中心の足利学校の活動自体は衰微していきます。一方で古い歴史を有することから、古典籍を所蔵する図書館として注目されたそうです。多くの文人らも訪ねました。



庭園は方丈を挟んで南北に2つ。北庭園と南庭園に分かれています。方丈から裏門に面するのが南庭園です。築山泉水式の庭園です。老松に巨石が置かれています。



北庭園は規模が小さいものの、南庭園より格が高いそうです。同じく築山泉水式で、池の中には中之島があり、弁天を祀る小さな祠があります。書院から眺める景色が殊更に美しく見えました。



「字降松」も興味深いのではないでしょうか。読みで「かなふりまつ」です。第7代庠主の時代、この松に読めない字や意味のわからない言葉を紙に書くと、翌日にはふりがなや注釈がついていたというエピソードに由来します。



さらに学生寮こと衆寮や農具置き場の木小屋なども立ち並びます。学びの場は自給自足の生活の場でもありました。裏手の菜園では野菜などの食材も栽培されていました。


足利市立美術館からも歩いて数分でした。隣には足利一門の氏寺である鑁阿寺もあります。あわせて見学するのも良いかもしれません。

「史跡足利学校」@Ashikaga_Gakko
参観時間:9:00~16:30(4月~9月)、9:00~16:30(10月~3月) 
休日:第3月曜日(祝日、振替休日の時は翌日)。年末(12月29日~12月31日)。
参観料:一般420(340)円、高校生210(170)円。中学生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
住所:栃木県足利市昌平町2338
交通:JR線足利駅より徒歩10分。東武伊勢崎線足利市駅より徒歩15分。北関東自動車道足利インターチェンジより車で15分。観光無料駐車場あり。
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「ヴォルスー路上から宇宙へ」 DIC川村記念美術館

DIC川村記念美術館
「ヴォルスー路上から宇宙へ」 
4/1~7/2



DIC川村記念美術館で開催中の「ヴォルスー路上から宇宙へ」を見てきました。

20世紀前半に活動し、アンフォルメルの先駆者としても知られるヴォルス(1913~1951。本名:アルフレート=オットー=ヴォルフガング・シュルツ。)。私がヴォルスの作品に出会ったのも、ここDIC川村記念美術館のコレクション展でのことでした。

最近では横浜美術館の「複製技術と美術家たち」のほか、同じく同館の「全館写真展示」などにも出展。見る機会がなかったわけではありません。とはいえ、体型的に接したことは一度もありませんでした。それもそのはずです。国内で初めて「メディアを横断したヴォルスの作品世界全体」(解説より)を紹介する展覧会です。全120点。DIC川村記念美術館の所蔵品を中心に、ヴォルスの多様な制作を俯瞰しています。

震えるような描線でも知られるヴォルスですが、キャリア初期は意外にも写真家として生計を立てていました。少年時代をドレスデンで過ごしたヴォルスは、高校の退学処分を受けると、工場で働いたり、写真家の助手を務めるようになります。その後、一時的にバウハウスへと入るものの、ナチスの支配に嫌気をさしたこともあってか、モホイ=ナジの推薦により、フランスへと渡りました。そこで写真家としてデビュー。1937年にはパリで初の写真展を開催します。パリ万国博覧会では「エレガンスと装飾館」の公式カメラマンにも選ばれました。


「万国博覧会のマネキン人形」 1937年 横浜美術館

その万博の際に撮影された作品かもしれません。並び立つマネキンを後ろから捉えたのが「万国博覧会のマネキン人形」です。ヴォルスは当初、肖像写真で成功を収めました。芸術家との交流もあったことでしょう。かの芸術家、マックス・エルンストなどもポートレートとして写しています。


「枝」 1938-1939年 J・ポール・ゲティ美術館

ただむしろ興味深いのは静物の写真でした。「無題(バケツ)」では、水に布や雑巾の浸ったバケツをほぼ真上から写しています。また「枝」は枝のみを捉えた一枚ですが、影が重なり合うことで、奇怪な生き物を写したようにも見えます。ヴォルスは野菜や肉などの食品をオブジェ的に写した作品でも評価を得ました。


「舗装石」 1932-42年 J・ポール・ゲティ美術館

パリの何気ない街角を写した風景の作品も魅惑的でした。雨に濡れた路面の縁石を写した「舗装石」は、トリミングしたような構図も面白いのではないでしょうか。ほか「セーヌ河岸の3人の眠る人」など、ヴォルスは市井の人々の姿もカメラに収めました。


「セーヌ河岸の3人の眠る人」 1933年 横浜美術館

しかし戦争が運命を変えます。1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツ人だったヴォルスは敵国人として収容所に収監されました。やむなく写真家としての活動を中断、かわって水彩画を描くようになります。翌年、ルーマニア人で、フランス国籍を持つグレティと結婚しました。すると釈放され、主に南仏を転々としながら、制作を続けました。グレティは戦争中の引越しの際にも作品を大切に保管していたそうです。彼女の存在なくしてはヴォルスの名は後世に残らなかったかもしれません。


「人物と空想の動物たち」 1936-40年 ギャラリーセラー

私が最も惹かれるのも一連の水彩画でした。なにやら楽しげなのが「人物と空想の動物たち」です。人物とも動物ともつかぬ生き物たちが、まるで楽器を賑やかに演奏するような光景が表されています。ヴォルスは制作に際し、自然の虫や小さな生き物などの細部を観察したそうです。そこから「不思議な生命体」(解説より)を生み出しました。

少年時代に見たクレーの影響も指摘されています。しかしヴォルスの作品は、より幻影的、ないし幻視的とも言えるのではないでしょうか。さも俄かに現れては、また消えていくモチーフは、次第に抽象度を増し、特定の形を有しない、より「自由な描画世界」(解説より)を築きあげるようになります。


「トリニダード」 1947年 DIC川村記念美術館

「船」もヴォルスが頻繁に描いたモチーフの1つでした。糸のようにもつれる線は極めて繊細です。マストや帆は絡み合い、まるで息を吹きかければ崩れてしまうかのような脆さを見せています。


「コンポジション」 1950年 DIC 川村記念美術館

「眼を閉じて わたしはしばしば見つめる、わたしが見なければならないものは みなそこにある、美しいもの、疲れさせるもの。」とはヴォルスの言葉です。まさしく眼を閉じて、脳裏に浮かび上がるイメージを、絵画平面へ巧みに落とし込んだのかもしれません。しみじみと心に染み入りました。琴線に触れるとはこのことを指すのかもしれません。


「作品、または絵画」 1946年頃 大原美術館

無数に走る線の向こうに都市の姿が垣間見えました。「作品、または絵画」です。建物やネオンサインの合間に、人らしき有機的な何かが浮遊し、またひしめきあっています。細部を追えば追うほど、その中に吸い込まれそうになりました。


「街の中心」 1955年 個人蔵

ヴォルスは1945年から約5年間、版画を集中して制作しました。技法はドライポイントです。引っかき傷のような線のみで、街や船、そしてハート型の心臓などを象っています。中にはしみと題した形を伴わない作品もありました。意識自体を表現に顕在化させようとしたのかもしれません。線の一つ一つがヴォルスの魂の運動のようにも見えました。


「心臓」 1962年 DIC川村記念美術館

これらの版画は生前に作品集として公開されることはなかったそうです。しかしグレティ夫人は価値を見出したのでしょう。彼の死後、夫人の手により、原版を用いた版画集が3度、刊行されました。


「赤いザクロ」 1940/41-48年 DIC川村記念美術館

ラストは油彩画です。ヴォルスは戦前も油彩を手がけていましたが、本格的に描いたのは戦後、1946年からのことでした。翌年には画廊の個展で発表し、アンフォルメルで知られるマチューらの絶賛の評価を受けます。結果、亡くなるまでに約90点の油彩画を描きました。


「ニーレンドルフ」 1947年 DIC川村記念美術館

時に厚く絵具を盛り上げた油彩画にはほかには見られない強度があります。とはいえ、やはり引っ掻き線や即興的なドリッピングの技法は、水彩や版画世界に通じなくもありません。おどろおどろしくもあり、一転して躍動するような有機的なモチーフは、絵画平面の中で確かに胎動、ないし棲息していました。

「静かな意識に閉ざされて じぶんの選んだ もっとも深いものに わたしは忠実であった 今も忠実であり、これからもあるだろう。」 ヴォルス


「暗闇の街」 1962年 DIC川村記念美術館

カタログが良く出来ていました。ともかく美しい装幀です。永久保存版になりそうです。


「ヴォルスー路上から宇宙へ」会場風景

全ての作品の撮影が出来ます。(ヴォルス展会場内のみ。ほかの展示室は不可。)


7月2日まで開催されています。遅くなりましたが、おすすめします。

「ヴォルスー路上から宇宙へ」 DIC川村記念美術館@kawamura_dic
会期:4月1日(土)~7月2日(日)
休館:月曜日。
時間:9:30~17:00(入館は16時半まで)
料金:一般1300(1100)円、学生・65歳以上1100(900)円、小・中・高生600(500)円。
 *( )内は20名以上の団体料金。
 *コレクション展も観覧可。
 *5月5日(木)はこどもの日につき高校生以下入館無料。
住所:千葉県佐倉市坂戸631
交通:京成線京成佐倉駅、JR線佐倉駅下車。それぞれ南口より無料送迎バスにて30分と20分。東京駅八重洲北口より高速バス「マイタウン・ダイレクトバス佐倉ICルート」にて約1時間。(一日一往復)
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「クエイ兄弟ーファントム・ミュージアム」 渋谷区立松濤美術館

渋谷区立松濤美術館
「クエイ兄弟ーファントム・ミュージアム」 
6/6~7/23



渋谷区立松濤美術館で開催中の「クエイ兄弟ーファントム・ミュージアム」を見てきました。

ロンドンを拠点に、人形アニメーションや映画、舞台美術などの分野で活動するクエイ兄弟。1947年、ペンシルベニアに一卵性双生児として生まれたスティーブン・クエイとティモシー・クエイは、フィラデルフィア芸術大学へ進学し、当初はイラストレーションを学びました。

そこで東欧の文化芸術に強い興味を覚えます。さらにロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートに学び、アニメーション作品を制作するようになりました。

その学生時代のイラストレーションから展示は始まりました。「シュトックハウゼンを完璧に口笛で吹く服装倒錯者」からして奇異です。ピエロのような髪飾りをした男が一人、横向きになっています。線は極めて細く、まるでヴォルスの素描のようでした。手や顔の部分のみが細密です。そして喉元から昆虫が突き出し、口笛から音符が連なっていました。確かに倒錯的です。言い換えれば怪奇的とも呼べるかもしれません。


「カフカの『夢』」 1970年

カフカの文学やヤナーチェクの音楽にもインスピレーションを受けています。うち一つが「カフカの『夢』」でした。肩に剣を差した男が家屋の玄関先を通り過ぎています。実に細やかな筆使いです。男の顔の髭はもちろん、建物の木目から光の陰影までを極めて写実的に表現しています。にも関わらず、実在感は希薄です。それこそ夢、幻を前にしているかのようでした。


「楡の木の向こうからトランペットの音が」 1970年

70年代に制作された「黒の素描」シリーズはより幻想的とも呼べるかもしれません。素材は黒の鉛筆のみ。闇がほぼ全てを支配しています。「楡の木の向こうからトランペットの音が」に目を奪われました。真夜中のサッカー場で一人の男がボールを振り上げています。縦縞のユニフォームらしき服を着ていました。並木の向こうには古びた建造物も見えます。ほかに人の姿は皆無です。背景の黒は鉛筆の塗りつぶしでした。何と執拗なまでに黒、闇を表現されているのでしょうか。

「ベンチの上の分割された肉体」も生々しい。まさに人体が切断されて転がっています。語弊があるかもしれませんが、もはや猟奇的ですらありました。

1979年に最初のアニメーション、「人工の夜景ー欲望果てしなき者ども」を発表します。クエイ兄弟はアニメ制作において、「黒の素描」のモチーフを度々、再利用しました。ここでも「黒の素描」の「ラボネキュイエール城」を引用しています。こうした一連の素描こそクエイ兄弟の創作の原点とも呼べるのかもしれません。


「ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋」 1984年

さて前半のイラストレーションやポスターに続くのが、クエイ兄弟を世に知らしめた人形アニメーション、そしてミュージックビデオやコマーシャルなどの映像作品でした。

ここで重要なのがデコールです。クエイ兄弟な撮影に際し、オブジェやパペットを少しずつ移動。1秒間に25コマという驚くべきスピードでコマ撮りしています。


「ストリート・オブ・クロコダイル」 1986年

その舞台装置がデコールです。一例が「ストリート・オブ・クロコダイル」でした。見るも精緻です。細部の作り込みは並大抵ではありません。


「ストリート・オブ・クロコダイル」 1986年

ただしデコールは何も映像の場面を忠実に再現したわけではありません。改めて作中の異なる時間や場面を一つの空間に落とし込んで表現しています。「ストリート・オブ・クロコダイル」は1986年にはカンヌ国際映画祭短編部門にノミネートされ、クエイ兄弟の代表作として評価されています。


「ストリート・オブ・クロコダイル」(部分) 1986年

デコールはおおよそ10点ほどの出展です。中にはレンズ越しに覗き込むものもあります。すると像が歪むゆえか、より異世界を見ているような気持ちにさせられました。いずれにせよ映像のエッセンスが詰まっています。ハイライトと言っても差し支えありません。*ロビーの「ストリート・オブ・クロコダイル」のみ撮影が可能でした。

ラストは映像です。とはいえ、諸々と制約のある美術館のことです。いずれも抜粋での上映でした。全部で9本、時間にして20分程度です。「ブラザーズ・クエイ短編作品集」(角川より発売)の映像を引用していました。

素描や映像のほかにもコンサートのポスターやリーフレット、さらには若きクエイ兄弟が影響を受けたポーランドのポスターなども出ていました。実のところ私自身、クエイ兄弟の作品に接したのは初めてでしたが、思いがけないほど惹かれました。「カルト的人気」(解説より)があるというのにも頷かされます。



アジア初の本格的なクエイ兄弟の回顧展です。既に神奈川県立近代美術館葉山と三菱地所アルティアム(福岡)の会期を終え、ここ渋谷区立松濤美術館へと巡回してきました。以降の巡回はありません。

7月には同じく渋谷のイメージフォーラムにてクエイ兄弟の記念上映会が行われます。



「ブラザーズ・クエイの世界」@イメージフォーラム
7月8日(土)〜7月28日(金)

計7プログラム、全30作品の上映です。クエイ兄弟展のチケットを持参すると、上映一般料金から200円引きになります。(上映会の半券を提示すると松濤美術館の観覧料が2割引。)展覧会と相互に楽しむのも良さそうです。



心なしかいつもよりもより照明が落とされていたかもしれません。クエイ兄弟の時に陰鬱な世界は、どこか内省的で重厚な松濤のスペースにも良く似合っていました。

「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム/求龍堂」

7月23日まで開催されています。おすすめします。

「クエイ兄弟ーファントム・ミュージアム」 渋谷区立松濤美術館
会期:6月6日(火)~7月23日(日)
休館:6月12日(月)、19日(月)、26日(月)、7月3日(月)、10日(月)、18日(火)。
時間:10:00~18:00 
 *毎週金曜日は19時まで開館。
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般1000(800)円、大学生800(640)円、高校生・65歳以上500(400)円、小中学生100(80)円。
 *( )内は10名以上の団体、及び渋谷区民の入館料。
 *渋谷区民は毎週金曜日が無料。
 *土・日曜、休日は小中学生が無料。
場所:渋谷区松濤2-14-14
交通:京王井の頭線神泉駅から徒歩5分。JR線・東急東横線・東京メトロ銀座線、半蔵門線渋谷駅より徒歩15分。
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「FEEL THE Mucha HEART~ミュシャ展」 伊藤忠青山アートスクエア

伊藤忠青山アートスクエア
「FEEL THE Mucha HEART~民衆のための芸術(デザイン)とチェコへの愛~」 
6/2~7/2



アルフォンス・ミュシャのポスター芸術を紹介する展覧会が、外苑前の伊藤忠青山アートスクエアで開催されています。

出展は国内の個人のコレクションです。連作の「四季」にはじまり、図案集の「装飾資料集」、各種商業ポスターのほか、チェコ時代に手がけたポストカードや証書、さらに独立を祝福した「国の目覚め」など、多様な作品を網羅していました。

場内の撮影が出来ました。


アルフォンス・ミュシャ「四季」 1886年

「四季」はミュシャが初めて手がけた装飾パネルです。女性たちをモデルに春夏秋冬の情景を描きました。夏はいかにも涼し気です。水面に素足をつけては淡いピンク色の肌を露出しています。実りの秋は葡萄や菊が空間を飾ります。冬の雪の枝は日本の美術を取り入れたのでしょうか。総じて華やかながらも、どこか哀愁を感じさせるのは、ミュシャならではの表現かもしれません。パステルカラーに染まる色彩感覚も絶妙です。透明感がありました。


アルフォンス・ミュシャ「4つの時の流れ」 1899年

同じく4つの連作の「4つの時の流れ」は1日の時間をテーマにした作品です。ゴシック調のフレームの中で女性たちが時を表しています。朝から夕、夜にかけて暗くなっていました。それに伴う花も変化します。夜はシャクナゲです。女性が肘をついて眠りこけています。足元を衣服で隠した作品が多い中、この連作は全ての素足を見せています。実に艶やかでした。


アルフォンス・ミュシャ「レスリー・カーター」 1908年

一際目立つのは「レスリー・カーター」でした。モデルはアメリカの女優です。大きな花の髪飾りを身につけ、ほぼ正面を見据えて立っています。背景を彩るのは白い百合です。色遣いが独特でした。というのも、全体を青緑色で表しているからです。幾分、「不気味」(解説より)、言い換えれば不健康にも見えます。何故にミュシャは使ったのでしょうか。


アルフォンス・ミュシャ「装飾資料集」 1902年

「装飾資料集」は当時、「装飾デザインの総合辞典」(解説より)と称されたそうです。植物、人物、文字、動物、食器や装飾品などの多様なモチーフを図案化しています。色も様々です。美術を学ぶ人々に重宝されました。


アルフォンス・ミュシャ「ジョブ」 1896年

商品の魅力を伝える商業ポスターもミュシャの得意とするところでした。例えば「ジョブ」は巻きタバコの宣伝用です。また「ルフェーヴル=ユティル」っはビスケット会社のカレンダーとして制作されました。いわゆるミュシャ・スタイルの女性が左手でビスケットを盛った皿を差し出しています。


アルフォンス・ミュシャ「リュション」 1895年

モデルが男性であることから、一時はミュシャ作ではないとされていたそうです。それが「リュション」です。馬に乗った男性がにこやかにポーズをとっています。ピレネー山脈のリゾート地のリュションを宣伝するためのポスターでした。馬の下に描かれた建物は同地の風景を示しているのかもしれません。


アルフォンス・ミュシャ「ツリナーズ・ビターワイン」(部分) 1907年

カルフォルニア・ワインを宣伝する「ツリナーズ・ビターワイン」はアメリカ滞在時代の作品です。白いドレスを着た女性が笑顔を浮かべながら葡萄を絞っていました。ちなみにこのワインはミュシャの友人の科学者が制作し、「胃に良く効く」として知られていたそうです。どのような味がしたのでしょうか。


アルフォンス・ミュシャ「有価証券 パリ フランス」 1920年

さらにフランス企業の有価証券もデザイン。やはりミュシャの友人の社が縁で制作されたそうです。テーマは産業です。農業や化学、商業などを擬人化した女性を描いています。


アルフォンス・ミュシャ「ホイットマン社のチョコレート缶容器」 1900年

ポスター以外ではチョコレート缶の容器や香水瓶も興味深いのではないでしょうか。よほど引き手数多だったのでしょう。ほかにもビスケット缶のラベルなどもデザイン。デザイナーとして旺盛に活動していることがよく分かります。

ラストはチェコでの活動です。ミュシャは1910年、例の「スラヴ叙事詩」の構想実現のためチェコへと戻ります。同地にてポスターを制作したほか、独立を果たした新生チェコスロバキア政府から切手や紙幣のデザインを引き受けました。


アルフォンス・ミュシャ「国の目覚め」 1918年

「国の目覚め」が力作です。手前の少年が足かせが外れているのは、ハプスブルク家からの解放を表しているそうです。後ろには伝説のチェコの最初の女王、リブジェが両手を伸ばして鎮座しています。祝典のための準備をするのか、周辺にもたくさんの人物がいました。小品ではありますが、やはり「スラブ叙事詩」の世界観を思わせてなりません。


アルフォンス・ミュシャ「チェコ音楽の殿堂」 1928年

チェコの音楽家を描いたのが「チェコ音楽の殿堂」でした。チェコは数多くの音楽家を輩出した国です。ヴァイオリンを弾く少女の下に、スメタナやドボルザークなどの名だたる作曲家が座っています。演奏に耳を傾けているのでしょうか。原画は油彩だそうです。かつてのパリ時代の装飾的な雰囲気も感じられます。

さて、ミュシャといって記憶に新しいのは、国立新美術館の「ミュシャ展」です。門外不出の超大作、「スラブ叙事詩」をチェコ国外で初めて一括して展示。驚くべきスケールでした。チェコの歴史を追いつつ、その一大スペクタクルに圧倒されたものでした。


会期中頃から人気も沸騰し、特に終盤にかけては最大で2時間にも及ぶ待ち時間が発生しました。最終的な入場者は60万名を超えました。少なくとも現時点において、今年一番、観客を集めた展覧会でした。


アルフォンス・ミュシャ「パリスの審判」(部分) 1894年

伊藤忠もミュシャ展に協賛していたそうです。その縁もあってか、今回の展示を行っています。



ミュシャ人気も継続中なのかもしれません。いつもはひっそりとしたアートスクエアの会場も、混雑こそしていなかったものの、思いの外に人で賑わっていました。なお会場内にはグッズ販売ブースもありました。ポストカードなども購入出来ます。

「ミュシャのすべて/角川新書」

この内容で観覧は無料です。7月2日まで開催されています。

「FEEL THE Mucha HEART~民衆のための芸術(デザイン)とチェコへの愛~」 伊藤忠青山アートスクエア
会期:6月2日(金)~7月2日(日)
休館:会期中無休。
時間:11:00~19:00
料金:無料。
住所:港区北青山2-3-1 シーアイプラザB1F
交通:東京メトロ銀座線外苑前駅4a出口より徒歩2分。東京メトロ銀座線・半蔵門線・都営大江戸線青山一丁目駅1出口より徒歩5分。
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「田原桂一 Les Sens」 ポーラミュージアムアネックス

ポーラミュージアムアネックス
「田原桂一 Les Sens」 
6/9~7/9



はからずとも遺作展となってしまいました。ポーラミュージアムアネックスで開催中の「田原桂一 Les Sens」展を見てきました。

会場は暗室でした。床には一面に細かな黒い砂が敷き詰められています。踏み込めば砂のじゃりじゃりとした感触が足に伝わりました。いつものホワイトキューブでの展示ではありません。

その暗がりに浮かび上がるのが「Les Sens」のシリーズです。モチーフは全て手です。全部で4点ありました。いずれも2015年にフランスのリヨンで発表した写真です。日本初公開でもあります。



モデルはおそらく一人ではありません。というのも、大人と子どもが手を取り合っているからです。腕と手、そして指のみが写されているため、誰の手はおろか、明確な性別も判然としません。しかし小さな赤ん坊のような手が、大人の太い指をか弱く、手繰り寄せるように握る姿は、例えば親子のような密接な繋がりを思わせます。



また大人の手が子どもの手を包むように握る姿も美しい。それ一つ自体がまるで石の彫刻のようでもありました。



一際、輝くのが光のオブジェです。間隔をあけて点滅をひたすら繰り返しています。さらにレーザーによるプリズムの光の演出も行われていました。田原は展示の準備に際し、「庭を作りたい」、「光を操りたい。」と語っていたそうです。確かに夜の石庭に迷い込んだような雰囲気も感じられました。



「人の想いを写し 自然を映し ひかりを移す 風があり薫りたち 静寂に音が響き 肌がふるえる 温度のある優しさと鉱物の輝き」 田原桂一(解説パネルより)

それにしてもあまりにも突然の訃報でした。田原桂一は、展覧会を直前に控えた今月6日、肺がんのために亡くなられました。65歳でした。


私が田原の作品を見知ったのは、今から10年以上も前、2004年に東京都庭園美術館で行われた「光の彫刻」と題した個展でした。

当時は庭園美術館の現本館のみでの展示でした。特に「トルソー」のシリーズに惹かれ、同館の空間とも相まってか、深く感銘したことを覚えています。その「トルソー」は夜間のイベントで美術館の屋外正面にも投影されました。とても美しいライトアップでした。



以来、必ずしも作品に接する機会は多くありませんでしたが、今回の「Les Sens」の開催を知った際も、久々に作品を見られると楽しみにしていました。改めて心からご冥福をお祈りいたします。



7月9日まで開催されています。

「田原桂一 Les Sens」 ポーラミュージアムアネックス@POLA_ANNEX
会期:6月9日(金)~7月9日(日)
休館:会期中無休
料金:無料
時間:11:00~20:00 *入場は閉館の30分前まで
住所:中央区銀座1-7-7 ポーラ銀座ビル3階
交通:東京メトロ有楽町線銀座1丁目駅7番出口よりすぐ。JR有楽町駅京橋口より徒歩5分。
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「歿後60年 椿貞雄展」 千葉市美術館

千葉市美術館
「歿後60年 椿貞雄 師・劉生、そして家族とともに」 
6/7~7/30



千葉市美術館で開催中の「歿後60年 椿貞雄 師・劉生、そして家族とともに」を見てきました。

30歳の頃に図画教師として船橋に着任し、亡くなるまで同地で暮らしながら、画家として活動した一人の人物がいました。


椿貞雄「髪すき図」 1931(昭和6)年 東京国立近代美術館

その名が椿貞雄(1896〜1957)。生まれは山形の米沢です。大正3年に18歳で上京し、岸田劉生の作品を見て衝撃を受けます。よほど心酔したのでしょうか。手紙を書き、劉生との出会いを果たしました。そして草土社の結成に参加します。武者小路実篤らの白樺派の人道主義にも影響を受けたました。

冒頭のテーマは「出会い」。言うまでもなく劉生と椿の出会いです。2人の自画像が並んでいました。うち一枚がチラシ表紙にも選ばれた椿の「自画像」です。ちょうど劉生に師事した年に描かれました。

やや眉間に皺を寄せ、太い唇を結んだ表情はとても力強い。前を見据えた視線にも迫力が感じられます。顔面の筋肉ほか、衣服のごわごわとした質感などは、師の劉生の画風に似ているかもしれません。


岸田劉生「芝川照吉氏之像」 1919(大正8)年 東京国立近代美術館

思いの外に劉生画の参照が多いのもポイントです。例えば「椿君之肖像」は劉生が椿のために描いた肖像です。赤いカーテンを背景に、貞雄がやや斜めの方向を向いて構えています。顔面の感触は実に生々しく、北方ルネサンス、ひいてはデューラーの作風を見ることも出来ます。

面白いのが「人類の意思」でした。劉生はブレイクの影響を受け、旧約聖書の各場面を描きました。祈る人々やおそらく聖人の姿も垣間見えます。ミケランジェロの「最後の審判」のイメージに近いかもしれません。

椿が「能面的」と称したという「古屋君の肖像」もよく知られているのではないでしょうか。実のところ出展の約1割5分ほどが劉生の作品でした。貞雄の劉生への傾倒ぶりは並大抵ではありません。劉生が藤沢の鵠沼に移り住むと、貞雄も同様に引っ越し、互いの家を行き来しながら、制作に勤しみます。当初の貞雄の画業は劉生なくしては成り得なかったのかもしれません。

劉生が宗元画などの「東洋的写実」(解説より)に関心を持つと、椿も日本画の制作を行うようになりました。関東大震災に際しては、京都へ渡り、文人画も描きます。船橋で図画教員になったのは大正15年です。翌年、転居し、ヨーロッパへの遊学を除き、亡くなるまでの30年間を船橋で過ごしました。

劉生の麗子像と同じ肩掛けを着せたのが「童女像」です。おかっぱ頭で人形のように可愛らしい。否応なしに麗子の画を連想させます。椿は「愛情の画家」とも称されていたそうです。展覧会のタイトルに「家族とともに」とありますが、実際にも終生、自らの姪や子どもなどの家族の肖像を多く描きました。


岸田劉生「狗をひく童女」 1924(大正13)年 ポーラ美術館

浮世絵からの摂取もありました。寛永の浮世絵「犬を連れた禿図」です。劉生は山東京伝の版本を元にして「狗をひく童女」を描きます。さらに椿も童女のモチーフを借りて「春夏秋冬図屏風」を表しました。各々に個性的です。同じ図からもまた異なった表現を見せています。確かに初期の椿は劉生画に倣っていますが、次第に影響を脱し、自らの画風を切り開いていきました。


椿貞雄「冬瓜南瓜図」 1946〜47(昭和21〜22)年 島根県立石見美術館

その一つの例が静物画です。劉生は宗元画の参照から、絵具の抵抗感、ないし物質感を避けたのに対し、椿は油彩絵具自体の力強さを細密表現に生かそうと試みます。ともかく冬瓜が目立ちました。「冬瓜南瓜図」はどうでしょうか。ゴツゴツした南瓜の質感を絵具を重ねて表現。冬瓜も白や緑の絵具を塗り込めて描いています。重厚感がありました。

壺も得意のモチーフです。中でも「白磁大壺に椿」が美しい。白く、水色にも光る陶の質感を巧みに再現しています。あえて椿の画業の到達点を挙げるとするならば、こうした壺や野菜に見られるような静物画にあったと言えるかもしれません。

椿は変化する画家です。一つのきっかけは劉生の死です。さらに著しいのは戦後の展開でした。筆触は動きを伴って大胆となり、色彩は驚くほど明るく、鮮やかになります。椿自身、戦後に「自由に絵が描けるようになった」(解説より)と語っているそうです。もはや初期の劉生のルネサンス云々の影響は殆ど見られません。

船橋の画家ゆえに千葉の風景も幾つか登場します。面白いのが船橋観光協会のためのポスターでした。「東京から一番近い船橋海水浴場へ」と題し、水着姿の少女が潮干狩りをする姿を描いています。たくさんのアサリをカゴに入れては楽しそうです。実に素朴です。生命感に溢れています。

単に劉生の弟子と捉えるには語弊があるほど、多彩な作風を持つ画家だと言えるのではないでしょうか。その変遷を追うのも興味深いものがありました。


出展は計194点(一部に展示替えあり)。手紙などの資料も含みます。初期から晩年までの作品も網羅します。千葉市美ならではの充実ぶりです。質量ともに申し分ありません。

昭和32年、61歳で没した椿は、船橋市宮本の西福寺に埋葬されました。ゆかりの地、千葉単独での回顧展です。巡回はありません。



7月30日まで開催されています。

「歿後60年 椿貞雄 師・劉生、そして家族とともに」 千葉市美術館@ccma_jp
会期:6月7日(水)~7月30日(日)
休館:7月3日(月)。
時間:10:00~18:00。金・土曜日は20時まで開館。
料金:一般1200(960)円、大学生700(560)円、高校生以下無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
 *前売券は千葉都市モノレール千葉みなと駅、千葉駅、都賀駅、千城台駅の窓口、及びローソンチケット、セブンチケットで会期末日まで販売。
住所:千葉市中央区中央3-10-8
交通:千葉都市モノレールよしかわ公園駅下車徒歩5分。京成千葉中央駅東口より徒歩約10分。JR千葉駅東口より徒歩約15分。JR千葉駅東口より京成バス(バスのりば7)より大学病院行または南矢作行にて「中央3丁目」下車徒歩2分。
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「叢ーQusamura展」 PARCO MUSEUM

PARCO MUSEUM
「叢ーQusamura展〜蠢く植物の世界〜」 
6/10〜6/26



PARCO MUSEUMで開催中の「叢ーQusamura展〜蠢く植物の世界〜」を見てきました。

広島で植物屋、「叢ーQusamura」を営む小田康平は、「いい顔してる」をコンセプトに、日本各地から植物を蒐集しているそうです。

その小田のセレクトした植物が一堂に揃いました。ほぼ全てがサボテン類などの多肉植物です。



入口で林立するのも多くのサボテンです。まるで大勢の人が手を挙げて歓迎しているかのようでした。果たしてどの植物が、より「いい顔」をしているのでしょうか。



顔が黄色いのが「黄金太平丸」でした。てっぺんの部分がまるでかぼちゃのように黄ばんでいます。左右に伸びるのが手とすると、人の形のようにも見えなくはありません。基本的にサボテン園芸の世界では、「鮮やかな色と、本来の肌色が均等に混じることを良し」(解説より)とするため、こうした部分だけ変色したサボテンの価値は低いそうです。しかし小田はあえて良さを見出しました。



「スーパーバラ丸綴化」も面白いのではないでしょうか。すくっと伸びた柱の上に、丸くうねったサボテンが乗っています。接ぎ木です。「大蛇」とありましたが、確かに蛇がとぐろを巻いているように見えます。これも一つの個性的な顔と言えるのかもしれません。



同じく接ぎ木のサボテンが「拳骨団扇」でした。平たく丸みを帯びたサボテンの上に、無数の突起のついたサボテンが絡み合っています。2つは同じ団扇サボテンの仲間です。上のサボテンが突然変異を起こしています。とても同じ種類には見えません。



一瞬、動物のように見えたのが「玉翁殿」でした。棘のあるサボテンのイメージとは一転、白い毛が山のようにせり上がっています。まさに奇怪です。このようなサボテンがあるとはまるで知りませんでした。なお毛は強い太陽光線から身を守るために生えているそうです。触れることは叶いませんが、やはりふさふさとしているのでしょうか。



奇怪といえば「黄刺芳泉丸」も忘れられません。鉢の中からサボテンが触手を広げるように溢れ出ています。一つ一つの突起は生々しく、今にも目の前で動きそうなほどでした。もちろんサボテンは大きく動きません。ただし実際は生息域を拡大すべく、移動に「執着」(解説より)しているそうです。いずれは鉢を覆い隠すほど成長するのかもしれません。サボテンの底知れぬ生命力に驚かされました。



ハイライトは「秘密の部屋」と題したコーナーでした。一足踏み入れれば、そこはジャングル。サボテンが一室を飲み込むように群れています。小田は「陣地を増やそう」(解説より)とする植物の勢いに恐怖感を覚えるそうです。奇想天外な形をするサボテンは、もはや人知を超えた存在と言えるのかもしれません。まさしく空間を支配していました。



「Qusamura」(くさむら)のQは、質問を意味する「Question」から取られています。確かにどのサボテンも、「一体、何故にこのような形をしているのだろう。」と思うものばかりです。一つ一つに強烈な個性がありました。



会場内の一部の植物は購入も可能です。プライスリストがついています。



大型の植物は6桁以上と高価ですが、7000〜8000円程度の鉢植えもありました。お気に入りの「いい顔」を探すのも楽しいかもしれません。


6月26日まで開催されています。

「叢ーQusamura展〜蠢く植物の世界〜」 PARCO MUSEUM@parco_art
会期:6月10日 (土) 〜6月26日 (月)
休館:2月15日。
時間:10:00~21:00
 *入館は閉館の30分前まで。
 *最終日は18時閉場。
料金:一般500円 、学生400円、小学生以下は無料。
住所:豊島区南池袋1-28-2 池袋パルコ本館7階
交通:JR線、西武池袋線、東武東上線、東京メトロ丸ノ内線・有楽町線池袋駅東口より徒歩1分。
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「ランス美術館展」 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館

東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館
「フランス絵画の宝庫 ランス美術館展」
4/22~6/25



東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で開催中の「フランス絵画の宝庫 ランス美術館展」を見てきました。

藤田嗣治がフランスに帰化し、レオナール・フジタとして洗礼を受けた地こそ、フランス北部の都市、ランスに位置するノートル=ダム大聖堂でした。

この街にフジタは自身の発案で平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)を建築。内部を飾るためのステンドグラスやフレスコ画を制作しました。

フジタ自身はパリ郊外に埋葬されましたが、夫人は遺言により聖母礼拝堂に葬られます。さらに夫人の死後、ランス美術館にはフジタの作品が多数納められました。現在ではヨーロッパでも屈指のフジタコレクションを有しているそうです。

チラシの表紙もフジタ作品です。実のところ展覧会自体も後半はフジタ展と化していました。


レオナール・フジタ「聖ベアトリクス」 1965年

というのも、フジタの油彩やテンペラ画が約15点。さらに聖母礼拝堂のフレスコやステンドグラスのための下絵素描が10点ほどまとめて展示されているからです。加えて礼拝堂内部の様子を写真パネルで紹介しています。また油彩に関しては熊本県立美術館とひろしま美術館からも出展がありました。総出展数70点のうち25点がフジタの作品で占めています。


レオナール・フジタ「十字架のキリスト」 1965年

その下絵素描が思いがけないほどに迫力がありました。例えば「十字架のキリスト」です。磔刑にされたキリストの姿を、フェルトペンや、木炭のほか、擦筆を用いて描いています。線は極めて密で迷いがありません。ゴツゴツした両足や肋骨の浮き出た胸、さらには細い両手などが見事に表現されています。色はなくとも迫真的です。フジタも相当に力を入れて取り組んでいたのではないでしょうか。


レオナール・フジタ「猫」 1963年

壁画下絵でフレスコの「キリストの顔」なども凄みがあります。さらにステンドグラスの下絵の「聖ベアトリクス」も美しい。得意のモチーフである「猫」も目を引きます。漠然とフジタがあることは知っていましたが、まさかこれほど作品が揃っているとは思いませんでした。

さてフジタに先立つ前半部はランス美術館のコレクション展です。バロック、ないしロココに始まり、ロマン派から印象派の絵画がやって来ています。

冒頭の静物画、マールテン・ブーレマ・デ・ストンメの「レモンのある静物」が見事でした。テーブルの上で転がるのはレモンです。ナイフで皮が剥かれています。割れたくるみはヴァニタスを表しています。何よりも写実的なのはグラスでした。白ワインが注がれているのか、僅かに黄色を帯びています。よく見るとグラスの表面に光に輝く窓らしきものが写っていました。室内の景色が反射する姿を表したのかもしれません。グラスを通して絵画の空間が拡張しています。


リエ=ルイ・ペラン=サルブルー「ソフィー夫人(またの名を小さな王妃)の肖像」 1776年

リエ=ルイ・ペラン=サルブルーの「ソフィー夫人(またの名を小さな王妃)の肖像」も魅惑的な一枚でした。モデルはルイ15世の6女でアデライードの妹のリフィーです。水色のドレスを着飾っています。室内の装飾も豪華です。貴族の優美な生活を伝えています。

フジタ以外では最大の目玉と言えるかもしれません。ジャック=ルイ・ダヴィッド(および工房)の有名作、「マラーの死」が展示されていました。


テーマは革命家の暗殺です。右手をだらんと垂らして絶命したのがマラーでした。胸の上あたりを刺されたのでしょうか。生々しい傷跡も残っています。実際のマラーは重い皮膚病に罹っていたそうですが、絵画では白く美しい肌に置き換えられています。死に際しての英雄を讃えた作品です。背景の闇から浮かぶマラーの姿はドラマティックでもありました。

国立西洋美術館での回顧展の記憶も新しいシャセリオーが2点出ていました。うち「バンクォーの亡霊」はシェイクスピアのマクベスを題材にしています。食事の席に着くマクベスの前にバンクォーの亡霊が現れていました。マクベスは杯を取りながらも、驚いたような表情をしています。シャセリオーは劇作そのものではなく、ヴェルディのオペラから場面を引用したそうです。確かに舞台を前にしたような臨場感がありました。


アルフレッド・シスレー「カーディフの停泊地」 1897年

ファンには嬉しい一枚です。シスレーの「カーディフの停泊地」が見逃せません。没する2年前の作品です。ウェールズの首都を訪ねたシスレーは、カーディフの港を俯瞰して描きました。手前に立つのが一本の高木です。暖色を交えているのか、一部はオレンジや黄色に染まっています。木の近くでは海を眺める人影も見えました。眼下に広がるのが大海原です。船が何隻も浮かんでいます。空は一面の晴天です。海とともに白く、そして水色に輝いています。晩年とはいえ筆は素早く、躍動感もあります。光がともかく眩い。思わず深呼吸したくなるほどでした。


ポール・ゴーギャン「バラと彫像」 1889年

ゴーギャンの「バラと彫像」も優れた作品ではないでしょうか。花瓶に飾られたバラの色は様々です。ニュアンスは繊細で、水色や赤の絵具を薄く塗り重ねているようにも見えます。彫像はゴーギャンの自作です。テーブルの面と背後の壁の色の組み合わせも面白い。理知的な構成とも言えるかもしれません。

あまり聞き慣れない画家に興味深い絵画がありました。ヨーゼフ・シマの「ロジェ=ジルベール=ルコント」です。シマはヨゼフ・シーマなどとも表記されるチェコの画家です。パリへ出てシュルレアリストの芸術家と交流しました。一面の闇を背景に人物がシルエット状に表されています。明確に浮かぶのは白い顔のみで、表情はあまり伺えません。身体はほぼ影と呼んでも差し支えないかもしれません。一部は白く、まるで透き通っているようです。幽玄な雰囲気すら感じられました。


カミーユ・ピサロ「オペラ座通り、テアトル・フランセ広場」 1898年

派手さこそありませんが、フジタを中核に、フランス絵画の系譜を良質なコレクションで辿ることが出来ます。館内も比較的空いています。想像以上に楽しめました。

さて東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館は、2020年春の開業に向けて、新たな美術館の建設を進めています。



場所はほぼ現在地。現美術館の入居する損保ジャパン日本興亜本社ビルの敷地内です。ちょうどビルの新宿駅側にあたります。



既存の構造物の解体工事が始まりました。まだ大掛かりな重機は入っていないようでしたが、予定地は白いフェンスで覆われていました。



本格的な着工は今年の8月です。竣工は2019年の9月を予定しています。建物は地上6階、地下1階です。1、2階をカフェとミュージアムショップ、そしてエントランスホール、3〜5階を展示室、6階を事務室として使用するそうです。カフェは新設です。展示室も現美術館より拡張されます。

「新美術館の建設について」:SOMPOホールディングス株式会社

来年以降には建物の姿も見えてくるのではないでしょうか。オープン時には館名の変更も予定されています。今後の動向にも注目したいところです。



6月25日まで開催されています。

「フランス絵画の宝庫 ランス美術館展」 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館
会期:4月22日(土)~6月25日(日)
休館:月曜日。
時間:10:00~18:00
 *入館は閉館の30分前まで。
 *毎週金曜日は20時まで開館。
料金:一般1300(1100)円、大学・高校生800(650)円、中学生以下無料。
 *( )は20名以上の団体料金。
住所:新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
交通:JR線新宿駅西口、東京メトロ丸ノ内線新宿駅・西新宿駅、都営大江戸線新宿西口駅より徒歩5分。
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