「わたしの美術館展」 横浜美術館 8/28

横浜美術館(横浜市西区みなとみらい)
「わたしの美術館展 -市民が選んだ横浜美術館ベスト・コレクション- 」
7/29~8/31(会期終了)

約9500点にも及ぶという横浜美術館のコレクションの中から、近代日本画、印象派、それに現代美術など、約160点の品々が出品された展覧会です。一見すると、一般的な常設展示と大差ないようにも思えますが、市民による2500通もの応募の中から選ばれた人気作品の競演は、さすがにどれも見応え満点です。親子でのイベントやお得意(?)のワークシートなど、気軽に楽しめる企画も満載ということで、まさに夏休みらしい展覧会だとも言えるでしょう。

展示は「はぐくむ」や「はばたく」など、抽象的なイメージの言葉によって6つのカテゴリーに分かれていましたが、ジャンルとしては日本画や西洋画、それにシュルレアリスムなど、保守的な区分けとも合致していて、クロスオーバー的な要素は殆どありません。ですから、この手の分かりやすい展示は、自分の好きな作品を見つけたり、新たな作品との出会いによる喜びを手軽に味わうことができます。「あれも、これも。」というような雰囲気で楽しんできました。

最初のコーナーにある日本画には、速水御舟の「麦」(1925年)や横山大観の「霊峰不二」(1919年頃)、それに小林古径の「菓子」(1940年)など、今更私がどうこう言うまでもない力作が多数並んでいます。これまで、横浜美術館の日本画コレクションは、部分的にしか見たことがなかったので、30点あまりのそれらを鑑賞するだけで、早くも「お腹いっぱい」と言った所です。

先日Bunkamuraで見たモロー展の印象がまだ強く残っていますが、横浜美術館の所蔵品である「岩の上の女神」(1890年)も、大変に素晴らしい作品です。水彩による小品とも言える作品ですが、女神の透明な肌や、彼女が身につける美しい装飾品、それに精密な意匠が施されたローブなど、どれも実に細かく丁寧に描かれていて、青をベースにした背景の幻想的な雰囲気と合わせて、思わずその画面に吸い込まれてしまうような魅力をたたえています。この作品に出会えることだけでも、この展覧会に行った甲斐があると思うくらいです。

また、最近見た画家と言えば、これまた先日の世田谷美術館の「ゲント美術館名品展」で気になったデルヴォーも、全く同名の「階段」(1948年)という作品が展示されています。陽光が燦々と差し混んでいるテラスの中央に位置される階段には、胸を露にしながらも白いドレスを着た女性が一人佇んでいます。彼女は一体階段を降りようとしているのか、そうでないのか。片手を挙げて静止する様は、どこか人形のようです。テラスの外には工場か廃墟を思わせる景色が広がり、そこには同じように片手を挙げて胸を露にする女性が歩いているように見えます。ただこの作品で最も中心になっているのは、おそらくこの二名の女性ではなく、左前に立つ黒いマネキンではないでしょうか。赤いスカートを身につけて、まるで遠い昔から突如出現したような古めかしい姿。どこから来たのでしょうか。

以前、この美術館の常設展示で見て好きになったダリの大作「幻想的風景-暁、英雄的昼、夕暮-」(1942年)も、再び展示されていました。前回はもっと広々とした展示室にあり、途方もない奥行きと開放感を感じさせたのですが、今回はやや手狭な場所で、窮屈そうな表情を見せています。その他のいわゆる西洋画では、ブラックの「画架」(1938年)や、何回見ても感心させられるセザンヌの「ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山」(1892~95年)などに惹かれました。

最後は「生きる」のコーナー、要は現代美術です。ここではアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズなど、私がやや苦手とする作家も並んでいましたが、不可思議な表情を見せる少女が印象的な奈良美智や、原美術館で個展を開催中のやなぎみわ(もちろん見に行くつもりです。)の作品が一際存在感を見せていたのではないかと思います。近代日本画から西洋画を経て、今日本で活躍している方の現代美術へ至る。オーソドックスでもあり大雑把でもある道程ですが、飽きることはありません。

横浜美術館の膨大なコレクションを、分かりやすくリーズナブルに見ることのできる、とても親切な展覧会でした。どんな形にしろ、常設展示を再構築して見せる企画は大歓迎です。夏休みの「つなぎ的」なものであったとしても、是非また続けて欲しいと思います。
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「村井正誠・その仕事展」 世田谷美術館 8/27

世田谷美術館(世田谷区砧公園)
「村井正誠・その仕事展 -色彩とかたち、日常の風景- 」
4/29~8/28(会期終了)

「日本の抽象表現を拓いたパイオニアの一人」(美術館パンフレットより。)という村井正誠(1905~1999)の回顧展です。村井の作品の多くは、彼自身の遺志によってこの世田谷美術館に寄贈されたそうで、この展覧会は、美術館の「収蔵品展」として位置付けられています。大きな油彩画から、様々な素材によるオブジェまで、村井の多彩な芸術表現に触れることの出来る、コンパクトながらも大変に優れた展覧会だと思いました。

村井の作品は「抽象表現」ということで、当然ながら、様々な色や形の組み合わせによる、平面、または立体の表現がメインとなるわけですが、そのどれもが人肌を思わせるような温もりがあって、画面に配された幾何学的な線や面も、不思議と無機質になることがありません。カンヴァスでは、白地の上に、青や赤などの原色による面が直線的に置かれたり、時には交わったりしていますが、そこには揺らぎがあり、まるで手彫り版画のような味わいがありました。

油彩画には、どこかカンディンスキーを思わせるような表現がありますが、カンディンスキーの画面構成が、切れ味鋭い躍動感があるのに対して、村井のそれはもっと自由度が高く伸びやかで、厳格さをあまり見せません。人の顔の微笑みのように見えるものや、小鳥をモチーフにしたような可愛らしい作品、または「もの派」的な静謐感のある作品まで、それぞれに深い味わいがあります。また、カンヴァスからまず目に飛び込んでくる配色も、一見鮮やかに見えますが、決して光り過ぎることなく、あくまでも抑制的です。白も、真っ白というよりも黒みを帯びた表現で、他の色と共鳴するかのようでした。

画面の中の形として気になったのは、白や黒で描かれた「円」です。いくつかの作品では、この円が画面構成上、とても重要な要素を占めているように見えます。見る側の視点をまず円へ集めて、画面の揺らぎをこの円で保ち、全体として提示する。抽象的でありながらも、人や動物など、どこか具体的な何かに見えるのは、この円そのものが、目のような働きを持っているからなのでしょうか。

「大覚寺」(1992年)と名付けられた晩年の作品では、それまでの表現がより穏やかで緩やかになっている様が見て取れます。色はさらに渋く「和」をイメージさせ、面や線も大きく太くなり、全体に強い剛胆さを与えます。それはまるで、一定の様式はあるにしろ、庭木や池など、様々な要素をランダムに混ぜながら、全体としては緩い一本の糸で結ばれているような日本庭園の美しさを連想させました。大きな石や玉砂利、それにこんもりとした植え込み。作品からはそのような風景が浮かび上ります。

素材に木やブロンズが使われたオブジェは、色が配されていない分、平面作品の表現を補うような、形としての面白さが見られます。木製のものは純粋に形の動きを、そしてブロンズの方は、金属特有の重々しい質感を利用した強い存在感を見せていたのではないでしょうか。ブロンズ製のオブジェ「自画像」(1985年)も、幾何学的な切り口で構成されながら、やはり平面で見せたような可愛気な雰囲気を漂わせています。ザラッとした鈍く光るブロンズの素材が、こうも優しく見えてくるとは思いませんでした。

村井の回顧展は、この美術館の他にも、神奈川県立近代美術館や大原美術館などで開催されたことがあるそうです。私としては、全く初めて見知った作家だったのですが、とてもすんなりと入り込むことの出来る世界がありました。
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「ゲント美術館名品展」 世田谷美術館 8/27

世田谷美術館(世田谷区砧公園)
「ゲント美術館名品展 -西洋近代美術のなかのベルギー- 」
6/11~9/4

ベルギーの古都ゲントからの品々で構成された、19世紀から20世紀前半の「ベルギー近代美術」の変遷を概観する展覧会です。もちろん、クノップフやマグリットなど「お馴染み」の巨匠も展示されていますが、近代美術一般と言うことで、新古典主義から丁寧に美術史へ触れている点も、この展覧会の良さの一つです。全体的にやや地味な作品が多く、さすがに「大作」ばかりとはいきませんが、肩の力を抜いて楽しめる企画だと思います。

初めの新古典主義で紹介されていたジョセフ・ナヴェの「ミラノの聖女ヴェロニカ」(1816年)。そのヴェロニカのまとう衣装の質感は、実に鮮やかで目を奪われます。衣装に配された「緑・赤・青」の、丁寧に塗り分けられる油彩の美しさは、この時代ならではの要素もありますが、ヴェロニカの白く透き通るような肌も魅惑的です。とても印象に残りました。

バルビゾン派近辺のベルギーへの展開は、ジョセフ・ヘイマンスの「荒地に沈む太陽」(1876年頃)に、その昇華した姿を見せていたのではないでしょうか。地平線へ沈み行く太陽は雲に隠されていますが、そこから滲みだす柔らかい明かりは、荒地に広がる沼の水辺に穏やかに呼応しています。また、その柔らかな表現による空と大地の描写はどことなく刹那的で、一日の終わりを情緒豊かに表現しています。当然ながら全体の光量も少ないので、パッと見てもあまり映える作品ではありませんが、立ち去るのが惜しい気持ちにさせられる、そんな不思議な魅力をたたえた作品でしょう。

印象派と新印象派には、あまり惹かれた作品がなかったのですが、その後の象徴派にはアンソールやクノップフなどの力作が並び、どれも見応え十分でした。中性的な顔の表情に惹き込まれるクノップフの「香」(1898年頃)や、諧謔性のあるアンソールの一連の作品などには、最近、東京で開催されている一連の「ベルギー関係の展覧会」で拝見したものもありましたが、やはりこの時期に、ベルギー独自の芸術表現が花開いたと言えるのかもしれません。

この展覧会の中で最も気になった作品は、デルフォーの「階段」(1946年)です。ギリシャの神殿を思わせるような石造りの建物の中には、階段を対にするようにして歩く裸体の女性が二名。青いカーペットの敷かれた階段は、不思議と実在しない「絵の中の絵」のように見えてきますが、手前の女性も階段の非現実性に反応するかのように生気がなく、あくまでも「女性の形」として在るだけに見えます。むしろ、右奥に彫刻のように置かれた裸体の男女の方が、奇妙な生々しさを持っているでしょうか。灰色や青でまとめられた全体の色合いは、どこかヒンヤリとした雰囲気を生み出し、実際にある色とは無関係な「モノトーン風の景色」を見せています。「不条理な夢の世界」。そんな印象を受けます。強く惹き込まれました。

出展作品数は全部で約130点程と、かなりのボリュームがありましたが、ベルギー美術史の流れを大まかに追うことはできました。ミュージアムショップも付属レストランもベルギー一色です。くつろいだ雰囲気の漂う展覧会でした。
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夏の終わりの砧公園

今日は「ゲント美術館名品展」などを見るために世田谷美術館へ行きました。東急田園都市線用賀駅から整備されたアプローチを歩くこと15分、いつも大渋滞の環八通りの先には、大きな森と広場が広がります。そこが美術館のある砧公園です。この公園へは何度か足を運んだことがありますが、今日はデジカメを持参して、花や緑などを少しだけ撮ってみました。


まず目に飛び込んできたのはピンク色の花でした。


サルスベリはもう終わりのようです。


その代わり(?)にドングリが成長中。少しピンぼけしています。


蝶が足元をひらひらと…。とっさに撮ってみたのですが…。


生命力溢れる木々たち。お山のような形をしています。

暑い一日ではありましたが、秋は一歩一歩近付いているようです。広大な園内にはサイクリングコースもあるとか。今度是非挑戦してみようかと思います。「ゲント美術館名品展」と、思いのほか楽しめた「村井正誠・その仕事展」の感想は、また後日にでも…。
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「ベルナール・ビュフェ展」 損保ジャパン東郷青児美術館 8/20

損保ジャパン東郷青児美術館(新宿区西新宿)
「ベルナール・ビュフェ展」
7/23~8/28

ビュフェのコレクションとしては世界一の規模を誇るという、静岡県の「ビュフェ美術館」。その所蔵品によるビュフェの回顧展が、28日まで損保ジャパン東郷青児美術館で開催中です。

展示されていたのはビュフェの油彩画、全70点でした。作品は「人物画」と「風景画」、それに「静物画」と、ジャンル別に分けて並べられていましたが、ビュフェ自身の作風の変化は、「対象の異なり」より「制作時期の異なり」によるものが顕著だったと思います。活動初期の第二次大戦直後には、白や黒など、モノトーン的な配色によって構成された作品が目立ちましたが、その時期を抜けると、今度は鮮やかな色彩を大胆に取り入れた作品が描かれるようになります。その辺の特徴は、時系列に並べた展示の方がより分かりやすく提示できたかもしれません。

それにしても、彼の作品はどれも殆ど「隙」がありません。直線を多用して、どこか幾何学的にも見える事物の描写は、構図に厳格さをもたらします。そしてその直線の特徴は、人物画に強く独創性を与えたようです。ぎこちない顔の表情や動きは、その人物の背景から沸き立つ「人となり」を、半ば打ち消すかのように存在しています。まるで、人物が、人生やその物語を超えた場所に「ただある」ものとして存在しているかのようです。人の気配や生活の匂いをこれほどまでに消した上で、さらに人物の存在を「あるもの」として際立たせることが出来る。会場では、人物の「寂しさ」などを強調する説明がなされていましたが、私はその点よりも、先ほども書いた、人物の「在るものだけとしての強さ」の方が印象に残りました。決して剛胆さこそありませんが、クッキリとした線でハッキリと描き塗る。これが事物に強い存在感を与えるのです。

このような対象の強い存在感は、風景画でもよく表されていたと思います。ニューヨークの摩天楼を描いた「マンハッタン」(1958年)では、直線を交差させて、積み木のように組み上げて生み出されたビルの描写も面白いのですが、街にはどこにも人の気配がないこと、そして、賑わいとは無縁の生気を抜き取ったような白をベースにした乾いた画面、さらには、若干の焦燥感を呼び起こすような縦長の構図が、このビルと街に「あることへの重み」のようなものを与えます。丁寧に対象を描いたバロック絵画にも通ずるような繊細な描写と、直線と面による画面構成の抽象的な要素も持ち得る。これは希有な作品だと思いました。

「赤い花」(1964年)と「あじさい」(1971年)。花を描いたこの二つの作品も印象に残りました。「赤い花」では、黒い花瓶に白い背景、そして強い線による描写がこれまでの「ビュフェ風」とも言えそうですが、デコレーションケーキのクリームのように、カンヴァスを飾るようにして塗り上げた赤い絵具による花は、それまでになかった表現で驚かされます。また、「あじさい」も、青い絵具をパテで塗って仕上げたような一つ一つの花びらの表現が個性的です。その深い青みには惹き込まれました。

本格的にビュフェを見たのは今回が初めてでしたが、もっと多くを見てみたいと思わせるほど、見応えのある作品ばかりです。静岡県にあるビュフェ美術館。これは一度出向いてみなくてはいけません。
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「タワーレコード vs 石丸電気?」 in秋葉原


今日は、首都圏最後の大型新線とも言われる「つくばエクスプレス」の開業がニュースで話題になっていましたが、その始発駅である秋葉原にタワーレコードの出店が決まったそうです。山手線沿線では、池袋、新宿、渋谷と、西側ばかりに店を構えるタワーですが、秋葉原への進出によって、ようやく東側にも「黄色い袋」を提げた買い物客が見られることになるのでしょうか。

タワーレコードプレスリリース(pdf)によれば、「ヨドバシカメラマルチメディアAKIBA」(仮称)の開店に合わせ、9月16日にそのビルの7階にオープンするとのことです。品揃えはフルラインと言うことで、当然ながらクラシックの取り扱いも予告されています。現代音楽や輸入盤に強いタワーのことなので、いよいよ、長年秋葉原に君臨してきた石丸電気との全面対決(?)かとも思ってしまいますが、店舗面積が300坪強と、同じくタワーの新宿店の3分の1程度の規模となっています。この大きさでの過度な期待は禁物かもしれません…。

私自身、最近はあまりCDを買わなくなったのですが、よく行く店は新宿のタワーか秋葉原の石丸電気です。以前、石丸は、クラシックCDを二店に分散させるように置いていて、非常に買い難かったのですが、先日の改装の折に一つに統合され、豪華な試聴室が設けられるなど、今までにはないサービスも付け加えられました。また、昔程ではありませんが、新譜CDの価格設定も良心的です。自宅からも行きやすいので、これからもメインで使います。

東京中心部でクラシックを多く扱う新譜のCD店と言えば、池袋・渋谷のHMV、新宿・渋谷のタワーレコード、秋葉原の石丸電気、銀座の山野楽器などでしょうか。AmazonやHMVなどの強力なオンライン販売もある上、ただでさえ市場の小さいクラシックCDの取り扱いですから、どの店も大変な営業努力をされていることかと思いますが、来月の16日には、早速「タワーレコード秋葉原店」へ出向いてみようかと思っています。
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あくまでも愉しいアーノンクールの「悔い改めるダビデ」

ヨーロッパ夏の音楽祭2005 NHK-FMベストオブクラシック(8/22 19:20~)

曲 モーツァルト/「カンタータ 悔い改めるダビデ K.469」

指揮 ニコラウス・アーノンクール
演奏 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 
ソプラノ マリン・ハルテリウス/ロベルタ・インヴェルニッツィ
テノール クリストフ・シュトレール
合唱 アルノルト・シェーンベルク合唱団

「ハ短調ミサ曲K.427」の改作として知られる「悔い改めるダビデK.469」。あまり頻繁に演奏される曲ではありませんが、アーノンクールとその手兵でもあるウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)、それにシェーンベルク合唱団とは豪華な組み合わせです。早速耳を傾けてみました。

ところでこの曲は、モーツァルト研究家として著名なアインシュタインによれば、「はなはだ分裂した曲」であると指摘されています。要は、ダ・ポンテが付けたという歌詞と、本来ミサ曲のために作られた筈の音楽の間には、大きな乖離があるということです。確かに、急いで作曲されたこのカンタータは、大部分が「ハ短調ミサ曲」からの転用によって構成されていて、テノールのためのアリア「数知れぬ悩みの中で」と、ソプラノのためのアリア「暗い、不吉な闇の中から」、それに最後の合唱の一部だけが、この曲のオリジナルの部分となっています。もちろん、この日の解説の磯山氏によれば、その追加部分のオーケストレーションは素晴らしく、いささかの価値を損なうこともないそうですが、もし、二曲の新作アリアがなければ、「価値のない曲」として片付けられてしまう、そんな雰囲気がありそうな気もします。単なるミーハーなモーツァルト好きの私にとっては、ただ、ハ短調ミサ曲の上に流れるイタリア語の歌詞の流麗さや、追加された二曲のオペラ風の華々しさや人懐っこさに惹かれるのですが、何かと問題がある音楽なのかもしれません。

アーノンクールによる演奏は実にスピーディでした。勿体ぶった表情を一切つけないで、音楽に生気と愉しさを与えるように進めます。もちろん、CMWの喰らいつきも見事で、特に弦のしなやかさと躍動感には舌を巻くほどです。ただ、録音のせいか、パート間にあまり透明感や明晰さが見られず、全体的に少々ごちゃごちゃした印象も受けましたが、その抜群、いや独特の語り口によるリズム感はさすがでしょう。また、シェーンベルク合唱団を、そっとオーケストラにのせるように歌わせて、仄かで淡い雰囲気を作り出します。あくまでも柔らかい。自然体な音楽と、合唱や歌唱との絶妙な「間」。これは一体何処から来るのでしょうか。

大の時差嫌いとも言われるアーノンクールですが、来年の11月には、ウィーンフィルやコンツェントゥス・ムジクスとの来日公演が予定されています。私は、彼の演奏を熱心に聴き込んでいる「ファン」ではありませんが、これは期待が高まります。日本の古楽演奏史に新たな一ページを付け加える、記念碑的な公演となるかもしれません。
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「ギュスターヴ・モロー展 前期展示」 Bunkamura ザ・ミュージアム 8/14

Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷区道玄坂)
「ギュスターヴ・モロー展 -フランス国立ギュスターヴ・モロー美術館所蔵- 」
8/9~9/11(前期)
9/13~10/23(後期) 

モロー自身のアトリエでもある、フランス国立モロー美術館の所蔵品によって構成された展覧会です。展示期間が前期と後期に分かれていますが、メインとなる油彩画はほぼ通して展示され、水彩や素描などが約半分づつ並べられます。まずは前期展示です。

私にとって印象深いモローとは、やはり上野の西洋美術館にある「牢獄のサロメ」(1973~76)です。哀愁を帯びたサロメの表情と、描き抜かれた繊細な衣装、そして牢獄の薄暗く湿っぽい雰囲気と、全体の堅牢な構図感。いつ見ても素晴らしい作品だと思うですが、今回のモロー展でも、サロメをテーマにした作品が多数展示されています。もちろん、その中では「出現」(1876年)があまりにも圧倒的です。この展覧会で最もインパクトのある作品かもしれません。

「出現」は、モロー独特の「サロメ」物語観による、サロメとヨハネの出会いを極めて衝撃的に描いた作品です。神々しささえ感じさせるサロメの鋭い視線の先には、閃光の中に「出現」したヨハネの生首が、サロメを見下しながら浮かび上がります。サロメの片腕はヨハネの方向へピンと力強く伸ばされていて、まるでサロメ自身がヨハネを召還したようです。流れるようなサロメの立ち姿と、彼女が纏う透明感のある衣装、そしてヨハネの生首から滴る血の生々しさなど、どれもがとても繊細に描かれている作品ですが、さらに見るべき点は、背景に描かれた「彫り」のような白い線描でしょうか。これは、幾分漠然とした印象さえ与える背景の油彩の塗りを引き締め、サロメとヨハネの間で繰り広げられる物語を引き立てます。白い線は後から描かれたそうですが、これは作品の重要な要素です。有るか無いかで大変に印象が異なるでしょう。

ところで、モローの多くの作品を見て一つ気になった点があります。それは、油彩画の塗りの仕上がりです。一枚の絵の中に、丁寧に仕上げている部分と、どこか中途半端な印象を与える部分に落差があって、全体としての完成度はどうなのかと思ってしまう作品がありました。(もちろん、これは見方によって大きく分かれるかもしれません。)ですから、私としては、そうした油彩画よりも、細かいデッサンと美しい色がバランス良く調和していた水彩画の方に軍配を挙げたいと思います。モローの幻想的な作風は、柔らかい水彩の表現に、より丁寧に見られていたのではないでしょうか。

その点で私が最も素晴らしいと思ったのは、水彩とグワッシュで仕上げられた「ケンタウロスに運ばせる死せる詩人」(1890年)です。穏やかな死顔を見せる詩人を抱きかかえたケンタウロスの憂鬱な表情。二人は一体どのような関係にあったのでしょう。水彩とグワッシュを合わせることで豊かな質感を見せた、夕陽やケンタウロスの足元の描写や、二人の背後に広がる深い青みを帯びた白い大空も魅力的です。とても小さな作品でしたが、すっと惹き込まれるものがありました。

展示は時系列に並んでいるのではなく、「神々の世界」や「サロメ」、または「詩人たちの世界」などテーマ別に構成されています。私はどちらかと言うと「サロメ」と「聖書の世界」など、後半部分の展示作品に魅力を感じましたが、ギリシャ神話から多くの題材がとられた前半部分の作品も、モローの豊かな詩情と空想力には驚かされます。水彩やペン画などは後期展示で多く入れ替わります。もう一度行くつもりです。
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「きらめく女性たち」 ホテルオークラ東京 8/13

ホテルオークラ東京「平安の間」
「第11回秘蔵の名品 アートコレクション展:きらめく女性たち」
8/6~25

ホテルオークラ東京が毎年夏に開催する「秘蔵の名品アートコレクション展」。第11回を迎えた今年のお題は「きらめく女性たち」です。ルノワールを始めとする西洋画から、藤田嗣治や岸田劉生の近代日本洋画、さらには伊東深水や上村松園などの日本画まで、多様に美しく描かれた女性の供宴です。

約25点ほど展示されていた西洋画の中で最も印象に残ったのは、ドニの「赤いベットに横たわる裸婦」(1898年)です。その名の通り、真っ赤に彩られたベットの上に、豊満な体の女性が一人横たわっています。構図的には非常に安定した、落ち着きのある作品ですが、パッと目に飛び込んでくる「赤」が鮮烈で、それがまた横たわる裸婦を浮き上がらせます。ドニが一時影響されたという古典主義の元に描かれた作品とのことですが、鮮烈な「赤」をこの女性へ与えた彼の表現力に驚かされました。

クールベの「眠る草刈り女」(1845年)は、彼の美しい風景画で見せるような、端正でありながらもどことなく荒々しい筆の魅力を感じさせる作品です。私は今回、クールベのいわゆる人物画を初めて見たと思うのですが、画面の手前で眠る女性に与えられている丁寧でハッキリとした色遣いと、背景のややぼやけたような暗いタッチの対比が実に見事です。写実的でありながらも、何やらギリシャ神話の女性を描いたような壮大な物語性を感じさせます。他にも、初期のルノワールによる、その後の画風からは姿を消したような細かくクッキリとしたタッチが興味深い「牛と羊をつれた羊飼いの少女」(1886年)や、独特な哀愁の表情を見せるモディリアーニの「若い女性の肖像」(1918年)などが印象に残りました。

さて、展示の後半を占めていた近代日本洋画と日本画では、何と言っても伊東深水の「夕涼み」(年代不詳)でしょうか。伊東深水はこの他にも6点出品されていて、丹念で精緻な衣装の塗りが美しい「春宵」(1954年)なども素晴らしいのですが、「夕涼み」で見せた官能的な女性の表情の柔らかさは、頭一つ抜きん出た表現力を感じます。後ろへやや傾くように舟に腰掛け、川で涼をとる女性のうら寂しい姿。少しはだけた様に見える着物の味わいにも「涼」を思わせますが、あらぬ方向を見ているような女性の視線には儚さすら感じさせます。私がこの展覧会で最も記憶に残った美しい女性の姿がここにありました。

他の日本画(洋画も含む。)では、「白」の美しさを上手く使って、颯爽な雰囲気を漂わす藤田嗣治の作品や、丹念で清潔感のある描写と艶やかさも併せ持つ鏑木清方の「七夕」(1929年)、または黒い着物の意匠と姿勢を正した女性の様の構図感が素晴らしい奥村土牛の「舞妓」(1954年)などに魅せられました。西洋画と日本画を問わず、どの作品からも女性への温かい眼差しが深く感じられます。

この展覧会のチケットで、ホテル前にある大倉集古館とその分館にも入場することができます。そちらの方は今回時間切れで行かなかったのですが、是非別の機会に見てきたいと思いました。展覧会は25日までの開催です。
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クリスティの華美で端麗な「パリ交響曲」

ベルリン・フィル演奏会(5) NHK-FMベストオブクラシック(8/19 19:20~)

曲 ハイドン/交響曲第97番ハ長調(ヤンソンス指揮)
  モーツァルト/交響曲第31番ニ長調(クリスティ指揮)
  シューベルト/交響曲ニ長調からアンダンテ(ラトル指揮)
  ベートーヴェン/交響曲第4番変ロ長調(ラトル指揮)

演奏 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

今週の「ベストオブクラシック」は、ベルリン・フィルの特集だったようですが、その最終日となった今日の放送は、ヤンソンス、クリスティ、ラトルの三人の指揮者による「ウィーン古典派」の競演でした。それぞれの指揮者の個性が素直に出そうな興味深いプログラムです。久々にラジオに耳を傾けてみました。

「ヤンソンスとハイドン」という組み合わせは、少々意外な印象を受けますが、演奏自体は実に丁寧着実と言えるような内容だったと思います。印象に残った第2楽章では、一つ一つのフレーズを強めに繰り返し、デュナーミクはやや大きめの方向に伸び、ゆったりとした流れで全体の構造を提示します。時折、低音部重視の、粘っこく突き上げるような音のなぞり方は、結果としてハイドンには似つかないような重厚感を与えていましたが、その辺はヤンソンスならではの工夫なのかもしれません。

一転してクリスティによる「パリ交響曲」は、音を細かく砕いてサッとまいたような颯爽感と、華美で祝典的な雰囲気、(もちろん、この曲ならではの要素もありますが。)そして小気味良いリズムが印象的でした。細かいパッセージにも注意が払われ、弦の切れ味も、それにそっと合わせるような木管も良好。同じオーケストラでも、指揮者が違うだけでこうも表現が異なることに、当たり前ながら改めて気がつかされます。古典派なら私は断然こちらの表現を好みます。特に第3楽章のアレグロはまさに疾風。単純な上昇音階の心地よさが心を洗います。

最後は、音楽監督のラトルが振ったベートーヴェンの交響曲第四番です。第一楽章の序奏部は暗鬱な響きで、これは重厚長大路線なのかと思わせますが、その後はやや崩れ気味ながらもギアーが入って加速していきます。響きにあまり膨らみがなくて平板に聴こえてくるのが気になりましたが、裏を返せば、それだけ凝縮された音ということにもなるのでしょうか。オーケストラがラトルの即興的な指示に喰らいつく。そんな光景が目に浮かぶようです。

第3楽章はかなり個性的でした。室内楽と大管弦楽を同時に操っているかのような、極めて幅の広い表現で、音楽に勢いとうねりを与えます。木管にスポット当てて柔らかく響きを作ったと思いきや、再び弦でゴリゴリと押してくる。妙に分裂した印象を受けます。元々曲想が目まぐるしく変化する第4楽章も同様で、その目まぐるしさをさらに強調してきます。リズム感の良さこそラトルならではと言った感もありましたが、私としてはどこか違和感が残る演奏だったようにも思います。どうでしょうか。
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「フィリップス・コレクション展」 森アーツセンターギャラリー 8/10

森アーツセンターギャラリー(港区六本木)
「フィリップス・コレクション展 -アートの教科書- 」
6/17~9/4

アメリカの実業家の家庭に育ったダンカン・フィリップスが、個人的なコレクションとして集めた名画の数々。そのコレクションの中核であるルノワールの「舟遊びの昼食」など、新古典主義からキュビズムまでの絵画、約60点近くが公開された展覧会です。「アートの教科書」のサブタイトルの通り、作品を鑑賞しながら絵画史を概観できます。美術ファンにはたまらない名画揃いの展覧会でした。

まずはルノワールの大作、「舟遊びの昼食」(1880~81年)です。陽光が燦々と差し込む中で行われている賑やかな宴の様子は、少し卑猥さも見せるような人物の表情や仕草にも表されていますが、(犬と戯れる女性は、何と可愛らしい表情をしているのでしょう…。)手前に大きく描かれたテーブルの上の品々の描写には、特に目を奪われました。光を美しく纏うガラスのボトルやグラス、白い器に盛られた瑞々しい葡萄、そしてそれらを包み込むように敷かれた、柔らかな純白のテーブルクロス。全てが光と共鳴しながら調和し、そして輝いています。個人的にルノワールはかなり苦手な画家なのですが、これらの描写を見るだけでも、この作品がいかに「名画」なのかが良く分かりました。

私が最も惹かれた作品は、シスレーの「ルーヴシェンヌの雪」(1874年)です。しっとりとした雪が降り積もる街角には、傘を斜めに差した女性が一人こちらへ向かって来ます。とぼとぼと、足元の雪を一歩一歩踏みしめるように進むその姿。散歩と言うよりも、何か一仕事を終えて帰路に着いているようにも見えます。作品の構図感は極めて厳格ですが、タッチは幾分軽めになされています。まるで、雪の降る様も街の姿も全てが、成るがままに、静かに佇みながら時を刻んでいるような印象を与えます。心和らぐ日常の一コマを美しく切り取った作品でした。

一見すると幾何学的な模様の中に、線で丁寧に描かれた聖堂の姿を浮き彫りにしていたのは、クレーの「大聖堂」(1924年)です。四角形に配されたオレンジや黄色がかった茶色を背景に、白い線で細かく描かれた大聖堂。もちろん構図は幾分抽象的で、線と面に区切られた画面からは、聖堂が仄かに浮き上がっていきます。良く見ると建物の装飾なども表現されていて、ずっと見ていても飽きない作品です。クレーの奥深い表現力の一端を、また改めて見るように思いました。

マティスの「エジプトのカーテンがある室内」(1948年)も大変に見応えのある作品です。「黒」と「赤」を大胆に使った配色の妙、大きく描かれた窓辺越しに見える草木の圧倒的な表現、そして手前に配された果物とエジプト風(?)のカーテン。何から何まで全く隙のない、まさに「完璧」な作品です。マティスもその偉業には感服させられるもの、なかなか好きになれない画家だったのですが、この作品には心から感銘させられました。「黒」が生み出す艶やかさというのを、初めて見せられた気がします。実に鮮烈な表現です。

展示の構成は実にシンプルで、その数も決して多くないものの、「質」には目を見張らされるものがある、大変に充実した展覧会です。9/4まで、連日無休で開催しています。
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Casa Brutus特別号 「丹下健三DNA」を買ってみました。

前々からアナウンスがありましたが、先日Casa Brutusの「丹下健三DNA」が発売されたようなので、早速書店で購入してみました。丹下健三氏の偉業を振り返った特別号とのことで、当然ながら紙面は丹下建築で一色です。

世界で活躍された丹下健三氏の業績を全て網羅するのは、それこそ「全集」的な分量になってしまうのかと思いますが、Casa Brutusもなかなかコンパクトにまとめていて、私のような建築の素人にも分かり易く工夫された紙面となっています。「丹下健三はいったい誰なのか?」として、その業績を回顧しながら、内外の芸術家や建築家による氏へのオマージュは、とても読み応えがありそうです。これからじっくりと拝見しようかと思います。

さて、丹下建築は世界33ヶ国、全330以上にも及ぶのだそうですが、紙面上ではそれを「ベスト100」にまとめ上げて、写真付きで一挙公開しています。その中には、今の時点から考えると非常に奇異にも思える「東京計画1960」(東京湾を埋め立て、壮大な一大海上都市を建築する計画。)や、先の大戦中の政治色を濃く反映したような「大東亜建設記念営造計画」など、夢物語かはたまた散り行く幻影かとも言えそうな、ある意味で度肝を抜かれるようなものもありますが、今でも西新宿で一際天へ貫くような鋭い切れ味を見せる「東京都新庁舎」や、台場の埋め立て地を上から重々しく支えている巨大な「フジテレビ本社ビル」など、東京ではすっかりお馴染みの建物も載せられています。これらはあまりにも有名です。(ちなみに丹下氏とは全く関係がありませんが、私が東京の高層ビルの中で好きなのは、何処から見ても美しい「愛宕グリーンヒルズ」と、ヌーベルの「電通本社ビル」です。後者は汐留の汚いスカイラインに埋没していますが、一棟で建っていたらさぞ格好良かったことでしょう…。)

そのような中、改めて氏の凄まじさに感服させられる建物は、ありきたりですが、やはり「東京カテドラル聖マリア大聖堂」「国立代々木競技場」でしょうか。幸いにして両方ともこの目で見たことがありますが、フォルムのシャープな美しさと、細部の丁寧な意匠がまさに芸術品です。特に競技場は内部の空間も独創的で、競技場と観客を包み込む一体感は、希有な雰囲気を持っています。ともに1961年の作品とのことですが、紙面を見る限りではその時期の丹下建築は特に面白く、どれも魅せられました。

カラー写真をふんだんに使った、Casaならではの贅沢な特集です。これはしばらく楽しめそうです。
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「フォロー・ミー!:新しい世紀の中国現代美術」 森美術館 8/10

森美術館(港区六本木)
「フォロー・ミー!:新しい世紀の中国現代美術」
7/2~9/4

「中国 美の十字路展」と同時開催中の展覧会です。隋や唐など、古の品々が並んだ展示室から続く「フォロー・ミー!」の会場には、突如、中国の現代美術によるパワフルな世界が出現します。まさに「千年以上のタイムスリップ」とも言えるでしょうか。ただ、両展覧会の接点はかなり希薄です。(美術館によれば『漢から唐と現代中国には『異文化の流入』という共通の鍵がある。』とのこと。)全く別個の展覧会と考えて良いかと思います。

全体の作品数は多くありません。それこそ「美の十字路展」の三分の一以下の分量でしょうか。ビジュアル的なものや、取っ付き易い体験型の作品が目立ち、入場者の気を惹く工夫が随所になされていましたが、その反面、質感一本で勝負するような作品は殆ど見られません。どれも、現代中国の凄まじい発展ぶりと、それに伴う混沌や矛盾点をストレートに提示してきます。その溢れんばかりのエネルギーは十分に伝わってきました。

しかしながら、様々な意味で「分かり易い」ものが多いので、そこに一定の面白さは見出せるにしろ、全般的に物足りなさが残るのも事実でした。世の「矛盾」や「混沌」などを、美術としての「形」で見せるもの。または、世相をえぐりとった先に指し示すことが出来る方向性。このような期待を抱いて鑑賞すると、どうしても「もう一歩。」という印象が付きまといます。半ば無造作に並べられたこれらの作品を見ていると、不思議と「美の十字路展」で惹かれたガラスの器や、美しい棺の装飾が目に浮かんできました。これは非常に残念なことです。

現代中国の激動から新たな価値を生み出すという、この展覧会の明確なコンセプトは良いと思います。ただ、同じく中国の現代美術の作品では、以前この美術館で開催された「秘すれば花 東アジアの現代美術」と比べても、かなり見劣りしていたのではないでしょうか。(個人的には「秘すれば花」もイマイチでしたが…。中国の現代美術でなかなか面白いものに出会えません。)消化不良気味の展覧会だったかもしれません。
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「中国 美の十字路展」 森美術館 8/10

森美術館(港区六本木)
「中国 美の十字路展 -後漢から盛唐へ- 」
7/2~9/4

悠久の歴史を誇る中国から出品された「至宝」の数々。後漢から唐にかけての多様な文物を一挙に公開する博物展的な企画です。初期仏教美術や、シルクロード以降の東西交流、それにインドなどの影響を受けて制作された品々など、かなりボリュームのある展覧会でした。

この辺りの中国史に詳しければ、それだけで大変に面白い展覧会になるのかと思いますが、歴史への前提知識が少なくとも、美術品自体の凝った装飾などに目を奪われて、実に興味深く拝見することが出来ます。展示品には、中国各地で出土されたという様々な「俑」が多く並んでいましたが、その中でも、人々のユーモラスな表情が楽しい「雑技俑」(北魏386~534年)は、これぞ「中国雑技団の元祖」(?)とも言えそうな雰囲気で、とっても可愛らしい品です。また、隋の時代の見事な棺や、後漢のものとされる楼閣なども、その大きさや装飾の美しさなどには目を見張らせれます。その他にも、鮮やかな色が配された刺繍や、透き通るガラス製の器、それに艶やかな首飾りなど、ともかく見所の多い品物ばかりが並んでいました。

展示は、単純に時系列に沿っているのではなく、各文化や地域によったまとまりを見せる工夫がなされています。(全体的な展示も、照明や配置等などへの細かい配慮が感じられて、とても見やすく構成されています。)私としては特に、仏教の影響を受けたものや、シルクロード開通後による、ギリシャやペルシャ美術の技法を取り入れた作品、または、古代ソグト族(西方に居住していた民族のようです。)の美術品などが深く印象に残りました。

唐などの特定の時代や、初期仏教美術など、一定の時期や文化に限定された中国美術の展覧会は、さほど珍しくはないと思います。ただ、今回の試みのように、中国の美術品を、縦軸(時間の流れ)と横軸(東西交流など)に交錯させて見せる企画(まさに「美の十字路」です。)とは、見せ方の難しさがつきまとうにしろ、大変に意欲的な展覧会として評価出来るのではないでしょうか。「ハピネス展」などで見せた、森美術館ならではの「複眼的なアプローチ」が光る展覧会とも言えそうです。(ただ、同時開催の「フォロー・ミー!:新しい世紀の中国現代美術」展との関連付けには無理がありましたが…。)
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「絵のなかのふたり」 ブリヂストン美術館 8/6

ブリヂストン美術館(中央区京橋)
「絵のなかのふたり -シャガールから靉嘔まで- 」
7/16~9/11

主にブリヂストン美術館の所蔵品から構成された、とてもコンパクトな展覧会です。展示のコンセプトは極めて明快で、美術作品の人物表現に見られる「ふたり」、つまり男と女や母と子、または性差にとらわれない関係を持った「二人の人間」を概観しながら、その間の物語を読み取っていくという内容でした。肩の力を抜いて楽しむことができます。

セクションは、「恋人たち」や「アトリエ作家とモデル」など、全部で5つに分かれていました。作品そのものよりも、総じて美術館による「見せ方」の面白さが優位に立つ展覧会とも言えるでしょう。靉嘔(Ay-O)による鮮やかな「虹のグラデーション」が目に飛び込む「アダムとイヴ」(1963~67年)と、エッチングによって聖書の原罪のシーンが描かれたマーチンの「楽園追放」(19世紀)、または、ピカソと藤田嗣治の「二人の裸婦」(同じタイトルです。)などを並べて展示させることで見えてくるもの。意外な場所に不思議な接点を感じさせます。

作品には「小品」と言えるものが多く、深く印象に残るものが少なかったのも事実ですが、タイトルにもあったシャガールの作品にはやはり強く惹かれます。パンフレットにも載せられている「ヴァンスの新月」(1955~56年)は、シャガールならではの鮮やかな美しい赤色をベースにしながら、夢見心地の安らぎの境地にあるような男女が、大空を寄り添いながら流れるように駆けています。また、底抜けの青が詩情を思わせながらも、どことなく不気味さを匂わす「枝」(1956~62年)と、華やかな黄色が輝かしい「恋人たちとマーガレットの花」(1949~50年)は、それぞれ「赤・青・黄」の世界に住む二人の男女の幸福感を思わせる作品で、並べて鑑賞できる嬉しさと相まって、大変に魅了されるものを感じました。シャガールは私が美術を見始めた頃から好きになった作家です。改めてこういう形で見せられると、彼の作品の素晴らしさを再認識できます。

この企画展に続く常設展の、各々重厚な作品群に押されてしまいそうな展覧会ではありましたが、コレクションを、一定の視点から切り込んで再構成しながら見せる企画は大歓迎です。9月11日までの開催です。
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