CCCがヴァージン・メガストアーズを買収。

クラシックとは直接関係ありませんが、こんな記事を見つけました。

CCC、ヴァージン・メガストアーズを丸井から買収(NIKKEI NET)
AV(音楽・映像)ソフトレンタル最大手のカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)がソフト販売のヴァージン・メガストアーズ・ジャパン(東京・豊島、根本高志社長)を買収する。31日付で丸井から全株式などを約12億円で取得する。CCCは全22店舗を引き継ぎ、ソフト販売事業でのシェア拡大を狙う。

CDチェーンのヴァージンCCC(TSUTAYAの親会社)に買収されました。記事にもある通り、CCCはこの買収を弾みとして、今後はソフト販売面の強化に取り組んでいくとのことです。また既存の店舗は引き続き運営されるともあります。

ところで、ヴァージンと言うと、数年前に呆気なく閉店してしまった新宿店(新宿四丁目。現在は丸井のインザルームです。)を思い出します。クラシックのCDが大変に豊富で、他では取り扱っていないようなライブ盤なども揃っていました。また、店内にはゆったりとしたソファもあって、新宿の雑踏に疲れた時には良く休憩したのを覚えています。さらに併設のカフェ(しばらくしてからネットカフェになりました。)で、夜遅くまで甲州街道を流れる車のライトを見ながらボーッとしていた懐かしい記憶もよみがえります。(何年前のことやら…。)

CDの値段が全般的に高かったのと、ポイントカードのお得度がイマイチだったせいもあったのか、この店は次第に新宿南口のタワーレコードに押され気味となって、結局あえなく潰れてしまいました。今ヴァージンは他の店でも殆どクラシックを扱っていません。当時の新宿店に見られたような、クラシックへの力の入れようは一体何だったのでしょう…。

CCCは以前タワーの買収にも動いたことがあったと思います。(記憶が定かではないので、もしかしたら勘違いかもしれません。)ということでこれからCCCが、相当なスピードで縮小しつつある音楽CD業界をどう引っぱっていくのかに注目したいところです。(もちろん、クラシックCDの取り扱いへの過剰な期待は禁物ですが。)ちなみに、「ヴァージン」ブランドの使用については今後英国ヴァージンと協議していくそうです。場合によっては「ヴァージン」の名前が消えることがあるやもしれません…。
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世田谷美術館 「瀧口修造:夢の漂流物」 3/27

世田谷美術館(世田谷区砧公園)
「滝口修造:夢の漂流物 -同時代・前衛美術家たちの贈物1950~1970- 」
2/5~4/10

こんにちは。

日曜日に世田谷美術館で、詩人、美術評論家、そしてシュルレアリスムの紹介者として知られる瀧口修造のコレクション展を見てきました。サブタイトルに様々な物語をイメージさせるような「夢の漂流物」という名前が付けられていますが、会場にはかつて瀧口が交差したと思われる世界の美しい「残像」が並んでいました。

彼のコレクションは膨大です。その片鱗は、上にアップしたパンフレットにある彼の書斎の写真を見ても窺えると思います。山積みの蔵書に埋もれるかのように置かれる美術品やオブジェは、現在、多くが富山県立近代美術館に所蔵されているそうです。世田谷美術館では「これでもか!」と言わんばかりにコレクションを陳列して、瀧口の世界観を見事に構築していました。

以前、うらわ美術館でのフルクサス展で出会ったような、ガラクタとも受け取れる石や貝殻が並びます。また、芸術の枠に入るとされるものには、先日見たデュシャン展での「大ガラス」をモチーフにしたような作品もありました。どれも瀧口の創造の源泉となっていたのでしょうか。さらには、彼と親交のあった芸術家のインスピレーションを見出るような品も展示されています。コレクションとは、ある意味で私的な範疇に属するものだと思いますが、瀧口のそれも同様でして、時には謎めいた記号のような、彼の内面の奥底でしか捉えられないような「作品」が置かれていました。

瀧口の内面は、詩人でもある彼の言霊と、造形作家でもあったというその作品群で探ることができます。特に一番初めのセクションにあった一連の平面作品(「私の心臓は時を刻む」など。)は、心象と具象が交錯したような夢うつつの不思議な世界観があって、特に素晴らしいと思いました。鮮烈な色が印象的な大胆な構図は、例えばオーロラのように、またある時には、深々と雪が降り積もる大森林の静寂の光景のように、自然の様々な風景となって心に迫ります。これらを見ていると、ふと、ザオ・ウーキーの世界を思い出しました。どれも大変に小さな作品ですが、自由度が高いようでいて堅牢な構成感が感じられます。自然以外も、人間の影として動き出すような不気味な作品もあって、たくさんのイマジネーションを働かせることができました。

シュルレアリスムとしての彼と関係のあった芸術家の作品と、瀧口と同時代に生きたそれらの作品も多く並んでいます。1950年代の草間さんの作品や、サム・フランシス、フォンタナ、アルプ、それにミロやダリなどのあまり見たことのない作品群は、どれも興味深いものばかりです。これらを鑑賞するだけでも十分に魅力的な展覧会です。

デュシャンやフルクサス展はかなり手強く感じられましたが、この瀧口展は僅かでもそれらと共通する土壌がありそうなのに、小難しく構える必要のない内容でした。瀧口のコレクションを見せられることが、ある意味でとても幸福感を誘います。不思議です。彼の人となりに興味が湧きました。これは良い企画だと思います。
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東京都交響楽団への「リストラ」。

都が前々から計画していた都響のリストラ策が決定したようです。

オーケストラにもリストラの波、都響が能力主義導入(YOMIURI-ON-LINE)
国内屈指の名門オーケストラ、東京都交響楽団が、演奏者に有期雇用制や業績評価に基づく年俸制を適用するリストラ策を導入する。27日、楽員組合と事務局の交渉で決まった。国内の楽団で、演奏者に民間企業並みの能力主義を課す例は初めて。自治体や支援企業の動向で台所事情の厳しい楽団も多く、他団体にも影響を与えそうだ。

以前に、都響の演奏会会場でこの問題について書かれたビラをいただいたことがあります。その際に私も、少しだけ「リストラ」について見聞きしました。賛否両論と議論もなされていたようですが、例えば、最近の都現代美術館の経費削減を見ても分かるように、都による既存の文化的活動へリストラ策は、知事の強いイニシアチブを持って打ち出されています。私のような一ファンとしては、一千万都市が一つのオーケストラも満足に運営できないのかとも単純に思ってしまいますが、そんなことを嘆いても何もはじまりません…。この「リストラ」によって、都響がこの先どんな方向へ進むのかは確かに不安に思います。ただ、市場も決して大きくはないクラシックコンサートの世界では、巨大なオーケストラを色々な意味で支えていくのが何かと大変であるのも事実でしょう。(もちろんだからこそ「公」が支えるべきとも主張できます。ただ、その辺は議会や知事の判断、それに都民の判断を仰ぐしかありません。)しかし何とか都響には、今までのような水準を維持して欲しいものです。私もなるべく都響の演奏会へ足を運んで、今まで幾度も堪能させていただいた素晴らしい演奏に接することができればと、無責任ながらも思います。

ところで、報道にもあるオーケストラの契約雇用形態や、ある一定の年棒水準などは、諸外国や国内の他のオーケストラと比べるとどのように捉えられるのでしょうか。その辺を分析した記事が載るとありがたいです。
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SCAI THE BATHHOUSE 「遠藤利克展 空洞説」

SCAI THE BATHHOUSE(台東区谷中)
「遠藤利克展 空洞説」
2/25~3/26(会期終了)

こんにちは。

SCAIで開催されていた遠藤利克氏の個展を見てきました。会期最終日の駆け込みです。

ギャラリーに入ってすぐ、一瞬我が目を疑いました…。何故なら、直径5メートルはあろうかと思われる巨大な焦げ付いたような円筒形の構造物が、展示室いっぱいに圧倒的な存在感をもって置かれていたからです。「これは一体なんだろうか。」素直にそう思いました。

円筒形の作品の内部は、視界に捉えることができません。何かが入っているかもしれないし、そうでないかもしれない。タイトルの「空洞説」のみが、それの解答を与えてくれるようです。ぐるぐると何周か円筒の廻りを歩いていると、年代物の巨木の周囲を徘徊しているような、そんな気分にさせられます。美術館では今まで味わったことがない感覚です。都会のギャラリーに居るとは思えないような、寡黙で、半ば自然を思わせるような空間が支配していました。

私が一番面白いと思ったのは、ギャラリーに入ってすぐ右側にあった「虚空的死」です。壁に掛けられた四角形の白い扉のようなものが、大きな鏡と向き合うようにしてくっ付いています。僅かな隙間からは、扉の内側に置かれた鏡を通して、鏡と鏡に挟まれた無限の空間を感じとることができます。ギャラリーの一番奥に、この作品のミニチュアか設計図のような作品がありましたが、そちらには、内側の鏡が砕かれて作られているものもあり、それはまた、初めの作品とはひと味異なった質感をもたらしています。私はこの砕かれた方の作品に惹かれました。

受付には、遠藤氏のこれまでの作品が掲載されている冊子が置かれています。私は大変失礼ながら、彼の作品について全く無知だったのですが、一つ一つの素材感を丁寧に生かして、そこに何らかの物語性を注入するかのような作品群は、また拝見してみたいと思いました。不思議な世界観でした。

*毎日新聞の美術面に批評記事が載っていました。
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新国立劇場 2004/2005シーズン 「コジ・ファン・トゥッテ」 3/23

新国立劇場 2004/2005シーズン
モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」

指揮 ダン・エッティンガー
演出 コルネリア・レプシュレーガー
キャスト
 フィオルディリージ ヴェロニク・ジャンス
 ドラベッラ ナンシー・ファビオラ・エッレラ
 デスピーナ 中嶋 彰子
 フェルランド グレゴリー・トゥレイ
 グリエルモ ルドルフ・ローゼン
 ドン・アルフォンソ ベルント・ヴァイクル
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京交響楽団

2005/3/23 18:30 新国立劇場オペラ劇場 4階

こんにちは。

先日は新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を聴いてきました。期待以上の良い公演でした。

歌手では、アルフォンソのヴァイクルと、フィオルディリージのジャンスが貫禄十分です。ヴァイクルは、歌は当然ながらも演技が極めて巧みで、彼が舞台にのると全体が生き生きとしてくるようです。彼のどことなく諧謔的な歌い回しは、「コジ」の痛快で皮肉めいた劇の面白さを引き出します。また、重唱での音の下支えもさすがで、私としては前回のファルスタッフのタイトルロール役よりもハマっているとさえ思いました。一方のジャンスは、何と言っても第二幕の大アリアでしょうか。微妙な感情変化を落ち着いてこなしていたのが印象的でした。会場の拍手も彼女に一番かかっていたと思います。

ヌッツォの代役として登場したフェルナンドのトゥレイは、大変失礼ではありますが、ヌッツォさんよりも役回りが上手いと思わせるぐらいの素晴らしい歌唱で、声質もフェルナンドという甘い優男の役柄にピッタリと合っていたと思います。柔らかくて伸びやかな彼の歌声は、私の座ったホール四階までしっかり届きます。これからも聴いてみたいと思わせるような方です。

このオペラで一番「美味しい部分」を持っている役のデスピーナは中嶋さんでした。彼女はいつも通りの器用な立ち回りで、期待通りの演技を見せてくれます。あともう少しだけ声量があればと思う箇所もありましたが、医師と公証人の変装も巧くこなし、二つのカップルに挟まれながらも十分に存在感を示していました。また、ドラベッラのエッレラ、それにグリエルモのローゼンもよく役をこなしていたと思います。デコボコの少ない、このオペラには最適なそつのないキャストだったと思います。

指揮のエッティンガーは、モーツァルトの音楽にさらなる表情を付加するのが上手いようです。全体のテンポは極めて「中庸」で、丁寧に確実に音楽を聴かせていきます。また、それぞれの役の聴き所のアリアは、音楽にためをつくるかのようにぐっとテンポを落として、なかなか好調のような東響(金管があともう少しだったかもしれません…。)から情感豊かな響きを引き出していたのも印象的でした。ただ、特に第一幕で、歌手と微妙にズレる部分があったように聴こえました。今後公演を重ねることで改善されるとは思いますが、その点は少し残念です。

レプシュレーガーの演出は、基本的には簡素で、ごちゃごちゃと「コジ」を引っ掻き回すようなことはしません。それぞれの役の心情変化を確実に捉え、そこへ若干のジェンダー的な対立項を持ち込みます。また、合唱に登場人物の「心」を投影させるような行動をさせるのも面白く見ることができました。これからご覧になる方に申し訳ないので詳しくは書きませんが、私はモーツァルトの音楽を邪魔することのない良い演出だったと思います。支持します。

しかし「コジ」は、音楽的な素晴らしさは置いておくとしても、その劇の荒唐無稽さは、ある意味で人間の様々な感情を深くあぶりような、何から何まで「意味深」なオペラです。これまでの上演史で、多種多様な演出がなされきたのも何となく頷けます。私は「コジ」が大好きですが、上演の機会になかなか接することができずに今回初めて劇場で聴きました。ちょっと辛酸を舐めさせられるような奇妙で後味の悪い劇に、神業なようなアンサンブルがひたすら続く美しい音楽…。やはり生で聴いても魅せられました。CDでもしばらく「コジ」ばかり聴いていそうです…。
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「ソン・フレール -兄との約束- 」 ユーロスペース 3/22

ユーロスペース(渋谷区桜丘町)
「ソン・フレール -兄との約束- 」
(2003年/フランス/パトリス・シェロー監督)

こんにちは。

ユーロスペースで「ソン・フレール」を見てきました。「ニーベルングの指環」の演出でも有名なシェロー監督による、兄弟の深い関係を描いた話題作です。

構成は大変にシンプルです。二人の兄弟-トマとリュック-の関係が軸となって、愛や生き様、それに死生観などが描かれていきます。兄トマは、ある日突然血液の難病に冒されます。それまで彼と殆ど関係を築いてこなかった弟リュックは、「死」と否応無しに戦わなくてはいけないトマの闘病生活を通して、初めて兄と深い心の関係を持ちます。彼はそんな過程の中で自己の生活を見つめ直しながら、「死」や「生」の匂いを嗅ぎ、またそれへ立ち向かいます。トマとリュックの他には、二人に反目しつつも支え合う両親や恋人、それに、「病」を通して彼らと関係する医師が登場してくるだけです。

トマとリュックがブリュターニュの浜辺で、かつて船乗りだったというある老人と語る冒頭のシーンが印象的です。銀色になびく美しい波を眺めながら、ベンチに腰掛けて何気ない会話を交わします。「遭難した死体が揚がる場所は、大抵同じ浜辺だ。」老人のこの一言は、映画全体を支配する死の気配を予感させるものとして深く心に残ります。衝撃的で諦念的なラストシーンも、この冒頭のワンシーンがなければ深い意味を感じとることができません…。

余計な挿話を殆ど使わずに、ひたすら心の内面と死の気配を探っていく映画です。ですから、やや単調に感じられてしまう部分もあります。ただ、病身のトマの肉体へ至近距離で迫るカメラワークや、彼らを取り巻く生活の日常を映し出した生々しい光景は、この映画が持つ不思議な美しさを醸し出しているようにも思えます。手術の準備として、トマの全身の体毛を剃るシーンがありますが、それはとても執拗に体毛と肉体を捉えています。そこには、まるでトマの悲痛な叫びを想起させるような、極めて重々しい一コマが成り立っているようにも感じました。ここは、ある意味でこの映画の白眉とも言えるでしょう。

挿入歌が全編中に一曲しか出てきません。静寂と、それを打ち破るかのような人間の息づかいと生活の雑音が、全編に強く耳へ響きます。トマとリュックの心の中にはどんな音楽が流れているのでしょうか。彼らの内面はとても抑制的に描かれますが、極力音楽を使わないところにも、それと関係を持たせた何かがありそうです。

観賞後の余韻は強烈です。結末はここには書けませんが、大変な脱力感に襲われます。しかし、しばらくその余韻の中で映画を振り返れば、彼らの関係が決して絶望と無力によって終わってしまったのではないことが感じられます。トマとリュック。彼らは「病」の関係をある意味で乗り越えた後、一体どこへ向かうのでしょう…。観る者一人一人の心に突きつけられるようなこのような問いが、結末から生み出されているようにも思いました。
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新日本フィル 第383回定期演奏会 「レオノーレ」 3/19

新日本フィルハーモニー交響楽団 第383回定期演奏会/トリフォニーシリーズ第2夜

ベートーヴェン「レオノーレ」(1806年版/コンサートオペラ形式)

指揮 クリスティアン・アルミンク
演出 三浦安浩
キャスト
 ドン・フェルナンド 塩入功司
 ドン・ピツァロ ハルトムート・ヴェルカー
 フロレスタン ヴォルフガング・シュヴァニンガー
 レオノーレ マヌュエラ・ウール
 ロッコ ヨルグ・シモン
 マルツェリーネ 三宅理恵
 ヤキーノ 吉田浩之
合唱 東京オペラシンガーズ
管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団

2005/3/19 15:00 すみだトリフォニーホール 3階

こんにちは。

感想が遅くなりましたが、先週の土曜日に錦糸町で「レオノーレ」を聴いてきました。

私は「フィデリオ」を生で聴いたことがない上に、「レオノーレ」はCDすら接したことがありません。ですから、その違いが明確に分かるわけではありませんが、「フィデリオ」でカットされたといういくつかの曲は、時にはモーツァルトを思わるような風情があり、とても興味深く聴くことができます。また、第二幕のフィナーレは、「フィデリオ」よりもある意味で劇的である上、話の筋も工夫されているので、こちらの形態の方が楽しめるような気もしました。今回の上演は、残念ながら台詞をほぼカットしていたので、所々でストーリーを追うのに困ったのも事実ですが、それを鑑みても、「日本初演」という快挙に相応しい、音楽的に充実したなかなかの好演であったように思います。

歌手は、甘い歌声が魅力的なフロレスタンのシュヴァニンガーと、スピントが心地よいレオノーレのウール、それに凄みのある貫禄の歌唱を聴かせてくれたピツァロのヴェルカーが特に素晴らしかったと思います。フロレスタンは、第二幕からしか出番がなくて、その歌声を十分に味わえないのが勿体ないぐらい…。牢につながれながら悲痛な叫びを歌う第二幕冒頭のアリアから一気に惹き込まれました。また、レオノーレ再会後のウールとの二重唱もとても艶やかで、官能的とも感じさせるような再会の喜びを味わうことができました。ヴェルガーも、「復讐のアリア」での声量豊かな凄みのある歌声には圧倒されましたし、さすがの演技力も素晴らしく、抜群の存在感を発揮していたと思います。

アルミンクは、序曲の「レオノーレ第三番」こそやや冴えない気もしましたが、後半へ向かってくるにつれて、曲の輪郭を明快に示しながらも歌手のペースに合わせた丁寧な指揮で、好調な新日本フィルをリードしていたと思います。鋭角的とも言える彼の曲作りは、ベートーヴェンとの相性も良さそうです。私はまだ、二、三回しかアルミンクを聴いていませんが、曲の構造を丁寧に示しながらも、オーケストラをぐいぐいとドライブしていく力にはいつも感服させられます。新日本フィルは本当に素晴らしい指揮者をシェフに迎えたものです。

東京オペラシンガーズは、当然ながらいつも通りの貫禄の合唱でした。彼らの厚みのある歌声がホールいっぱいに響き渡ると、舞台が引き締まるかのように冴えてきます。迫力あるこのオペラの音楽を引き出したオペラシンガーズの合唱は、この公演の影の主人公でもありましょう。素晴らしかったです。

「レオノーレ」が今後も日本で舞台にかかるかは分かりませんが、「フィデリオ」は新国立劇場で五月に上演されます。今まであまり注目してこなかった曲なので、出来ればそちらの公演も接してみたいです。
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Breakステーションギャラリー「東京芸大 ストリート!2005」展 Part2

JR上野駅Breakステーションギャラリー(台東区上野)
「東京芸大 ストリート!2005」展 Part2
3/2~3/31

先月にPart1を拝見したところですが、Part2の方も見てきました。

まず、パッと一目見て最も美しく感じられたのは、会場に向かって一番左にあった高橋典子さんの「kaleidoscope」という作品です。大きな白いカンヴァス(?)に、まるで万華鏡を覗き込んだかのような形で、色とりどりの花が浮かんでいます。大きさも様々で、シャボン玉を散らしたような自然な感じも好印象でした。また、それらが、背景の白と美しく反射するように映えているのも奇麗です。目を引かれました。

前回の感想にも少し書いた、山口実加さんと谷上周史さんのお二方も、今回出品されています。谷上さんのタイトルは「0」。展示スペースを赤い風船で埋め尽くす作品でした。かなり目立つ表現ではありますが、私としては、前回のインスタレーションに比べるとかなりスケールダウンしたように感じました…。どうでしょうか。また、山口さんの「ふと死ぬと思う。(一部省略)あたしにとって生命は鮮命である。」は、前回と同様に、身体性を強く喚起させた、やや病的とも受け取れる作品です。生命線で繋がれた手のひらが宙に舞い、それを花びらのようなたくさんの手のひらが受けています。こちらも、結構なインパクトがありますが、Part1の時のセロテープを超えていたかは定かではありません…。もう一捻り欲しかったようにも思いました。

場所が場所なので、相変わらずの閑古鳥状態でしたが、折角の機会です。今後とも続けて欲しい企画だと思います。

*Part1の感想はこちらへ
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ベルティーニさん、死去。

信じられない訃報が飛び込んできました。

指揮者のベルティーニさん死去 都交響楽団の音楽監督(asahi.com)
東京都交響楽団に入った連絡によると、世界的なマーラー指揮者で、同楽団音楽監督のガリー・ベルティーニさんが17日、テルアビブで死去した。77歳。

今日の夕刊の紙面にこの訃報が掲載されていました。あまりにも突然なことで、大変不謹慎ではありますが、悲しみよりも驚きの気持ちでいっぱいです…。本当に信じられません…。

私が一番最後に彼の演奏会と接したのは昨年の5月です。それは確か、上野の文化会館で行なわれた都響の演奏会で、彼が音楽監督として登場するのが最後となる定期公演でした。プログラムは、ドビュッシーやラヴェルに、モーツァルトの「ジュピター」だったかと思います。メインの「ジュピター」の爽快なテンポは今でも深く印象に残っていて、全身をリズミカルに動かしながら、本当に楽しそうに指揮をなさっていたその姿は、実にお元気そうでした…。まさかそれから数ヶ月でこんなことになってしまうなんて、あまりにも惨すぎます…。

記事には、お亡くなりになった原因などについては一切記載がありません。一体どうなさってしまったのでしょう。また昨年には、ナポリのサン・カルロ歌劇場の音楽監督に就任されました。その辺も含め、今後の新たな方向性にも大いに注目されていたところなので、本当に残念でなりません。私は、クラシックを聴いてからまだそんなに長い時間が経っているわけではありませんが、彼はいつも実演で高い水準の演奏を聴かせてくれた素晴らしい指揮者でした。ご冥福をお祈りします…。

都響HPにも訃報が掲載されています。
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東京オペラシティアートギャラリー  「森山新宿荒木展」 3/12

東京オペラシティーアートギャラリー(新宿区西新宿)
「森山新宿荒木展」
1/15~3/21

こんにちは。

先週の土曜日はオペラシティーで「森山新宿荒木展」を観てきました。

お二人ともこれまでに新宿をたくさんカメラで追っかけておられたようです。80年代前後の作品からは、高度経済成長終焉期からバブル期にかけての、東京の膨張と共に凄まじい勢いで拡大していったこの街の多様な表情が、有り体に捉えられています。まだ建設中の都庁の、空へ向かって太い鉄骨が幾重にも組み合わさっていく様を写した作品からは、その逞しさと、一種の未来への憧れのようなものを感じます。また、再開発によって大きく変化した南口界隈の、場末のようなかつての風景は、無秩序に発生してはまた消えていったこの街の賑わいを垣間見ることができそうです。さらに、かつて都電が走っていたことを示す軌道の跡を撮影した作品からは、失われたものへの哀愁を誘う雰囲気がありました。

展示のメインは、昨年に二人が新宿を撮りおろした作品群です。これらは、まさに新宿の「今」を感じとることができます。ただ、その新宿は、「欲望の街」というこの街の性格の一片を、思いっきり全面に押し出したものです。ですから、そこには最近整備された地区のような、新宿の新しい表情はあまり見られません。荒木の、風俗的でまた、猥雑ともとれる作品からは、新宿が昭和の頃から今も変わることなく、様々な人間ドラマとその欲望を巻き込んで成長していったことを感じさせます。二人の写真とも、靖国通りの付近、つまり歌舞伎町エリア近辺を撮影したものが多くて、いくら西新宿の高層ビルが建ち並ぼうとも、南口が再開発によってきれいになろうとも、「新宿の魅力はここにあり!」と言わんばかりの視点の強さを感じました。

全体的には、森山さんの作品に多く惹かれました。「猫」(2004)に出てくる、突っ張った感じの猫の表情は、モノクロの持つ独特の味わいと重なり合って、その奇妙な目つきに、不思議なドラマを感じさせます。また、これもモノクロの特性なのか、彼の作品からは、微妙な陰影を感じさせるものが多くて、何気ない光景を写しているのにも関わらず、瞬間をそのままその場の空気と一緒に切り取ってしまったような美しさを感じます。撮影当日の二人の模様をビデオに撮った映像からは、荒木が目をギラギラさせるような感じで、対象を半ば無造作に直感的に引き込むようパシャパシャと撮りまくるのに対して、森山は対象から少し一歩退いたような形で、黙々とゆっくりと新宿をおさめていく姿が見られます。そんな撮影の方法の違いが、森山の作品から感じさせる寡黙な美しさと、その一方での、荒木の作品の爽快なスピード感と、その中にあるドロドロした生々しさを生み出すのかなとも思いました。

長い間新宿から縁の遠い場所で育った私には、大人になってから(何時大人になったのかという問題はさて置き…。)初めてこの街を訪れた時、「なんて汚くて狭くて人の多い街なのだろう。」と思いました。当時は「日本一の繁華街」という固定観念が強すぎたのか、あるいは高層ビルのイメージが強すぎたのか、広大で美しい巨大な繁華街があるのだと勘違いしていたようです。今でこそ、まるで都市の中にある密林のような奥深さを持つこの街が、いかに様々な表情を持って人々を惹きつけているのかを感じさせますが、森山さんと荒木さんの作品を観ると、そこに新たな強い妖気が加わったかのようです。無尽蔵な多面性を持つ新宿の凄まじさを改めて感じた展覧会でした。
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カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」 国立西洋美術館にて

国立西洋美術館(台東区上野公園)
常設展 本館2階
「カルロ・ドルチ -悲しみの聖母- 」

ラ・トゥール展を観た後には、少々足早ではありましたが常設展も鑑賞しました。その際に非常に惹かれたのが、このカルロ・ドルチの「悲しみの聖母」(1650年頃)です。

これは、17世紀にフィレンツェで活躍したドルチが、自身の妻を聖母とみなして描いた作品だそうですが、まず素晴らしいと思うのは、彼女の身をまとうローブの美しい色です。一口に「青」とも表現できますが、藍色と紺が入り交じったような深みのある色で、どっしりと体にのしかかるような重厚感を感じさせます。また、その「青」は、背景の「金」と美しく重なり合っていて、その絶妙なハーモニーもまた、この気品を高めます。さらに、青いローブからのぞく柔らかそうな両手は、彼女の祈りのひた向きさを表現していて、強く心を打たれます。それに、両手へ向けて視線を落とす哀しげな顔の表情と、その優しそうな瞳の見開きも、彼女を神性の高い聖母として、俗的な一切を排除したかような存在へと高めているようです。気品ある金を従えた深淵の青と、柔らかい手に載る美しい肌色。素晴らしい作品です。

いつまでも西洋美術館のあの場所にあってほしいと思わせるような、常に接していたい美しい祈りの作品でした。

*この作品については、Takさんのページ「BLUE HEAVEN」の「マリア」の箇所に詳しい解説が出ています。
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国立西洋美術館 「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」 3/13

国立西洋美術館(台東区上野公園)
「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」
3/8~5/29

昨日はTakさんご主催のオフ会に参加しながら、西洋美術館の「ラ・トゥール展」を観てきました。

ところで、この展覧会、おそらく今月中にもう一度観に行くと思います。元々そのつもりで予定をしていましたが、今回鑑賞して尚更その思いを強めました。展覧会のボリュームとしては、ラ・トゥールの作品が少ないこともあってか、決して大きいものではありません。しかし、一作一作から感じられる闇の深淵と光の粒、そして人の息づかい…。それらは強く心に迫ってきます。今ここで何度も足を運ぶ価値があると思いました。

ということで、今回の感想は「一回目」として、展覧会の中で特に気になった作品について書くことにします。私が圧倒的に素晴らしいと感じたのは、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」(県立ラ・トゥール美術館蔵)と「聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現われる天使)」(ナント市立美術館蔵)の二点です。

この二つの作品は、ある意味で対照的な要素を持つのかもしれません。というのも、「聖ヨハネ」は、光がヨハネの肩の上からわずかに差し込んでいるだけで、全体としては大きな闇が覆い被さっていますが、「聖ヨセフ」は言うまでもなく、天使の腕に隠されたロウソクの光源が仄かに全体を照らし出し、そこから美しい光と影の対比を生み出します。また、「聖ヨハネ」では、肩を重々しくおろすヨハネが中心に大きく、半ば静的に描かれて、左手に持つ十字架と右手の先に見える羊がそれをさらに高める形で存在していますが、「聖ヨセフ」の方は、ロウソクの明かりに照らされた幼げな天使の表情と、ヨセフに向かってかかげる両手が、やや動作を持つ形で配されています。

この二つの作品は、偶然ながら角を挟む形で隣り合って並んでいました。「光と闇の世界」とは、この展覧会のサブタイトルですが、その意味はこの二点を鑑賞することで感じられるように思います。もちろん、「聖ヨセフ」のロウソクの光源が作中に与える、まるで、光の粒子を天使の顔や服装にサーッと蒔いたかのような輝きと、それらが生み出す衣服や透き通るような手の質感も素晴らしいですし、「聖ヨハネ」全体を支配するような、暗闇の重々しい悲哀感も心に染み入ります。こればかりは甲乙がつきません…。

初めのセクションにあった十二使徒と、あちこちに配される模作や関連作、そして、今回の展示作品の中で最も圧倒的な「ダイヤのエースを持ついかさま師」(ルーブル美術館蔵)については、また今度、二度目を鑑賞した際に色々と書きたいと思います。(二度目の鑑賞の感想はこちらへ。)特に「いかさま師」の緊張感と堅牢感は、並大抵のものではありません…。それに「書物のあるマグダラのマリア」の流れるような髪も素晴らしかった…。本当に見所がたくさんあってきりがありませんが、ラ・トゥールの作品全40点のうち20点を、東京で鑑賞できる最高の機会。これは絶対に見逃せないと思います。
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東京国立博物館 「特別公開 中宮寺 国宝 菩薩半跏像」

東京国立博物館(台東区上野公園)
「特別公開 中宮寺 国宝 菩薩半跏像」
3/8~4/17

こんにちは。

サテュロス展と合わせてこちらの展覧会も鑑賞してきました。奈良の中宮寺に安置されている菩薩半跏像の特別公開です。この仏像は、木材を組み合わせて作った木彫のものとしては世界最古の作品で、また、Takさんのブログに紹介されている記事によれば、「世界の三大微笑像」(?)の一つなのだそうです。わざわざ東京くんだりまでお越しいただいた菩薩様。サテュロス展と同様に一体のみの展示でしたが、仏様の表情から感じられる穏やかな安らぎを堪能することができました。

この仏様は「半跏思惟」という姿を象っています。これは、「頬に右の指先を当てて深い思惟をめぐらす」(パンフレットから。)というスタイルだそうです。指先が軽く頬にあてられているお顔からは、思惟をめぐらすという表情よりも、全ての俗人の迷い事を半ば嘲笑って(失礼な表現でしたら撤回します。)いらっしゃるかのような、超越した境地を感じました。また、そのような境地にいらっしゃるからこそ、「安らぎ」などという、全身を優しく包み込んでくれるような温かい気持ちを与えることができるのではないかとも思います。実に穏やかです。

仏像の体はとてもなめらかに表現されていて、当然ながら無骨的な部分は一切ありません。穏やかなお顔の表情が、そのままストレートに体へ移ったかのような印象さえ与え、それがまたさらに「安らぎ」へと誘います。片足を腿にのせるという「半跏」のポーズも実に自然で、大地に足を下ろす瞬間を捉えた左足も上手くバランスがとれていました。

私はあまり仏像を鑑賞することがありませんが、会場も仏像の姿に集中できるようにゆったりととられています。素晴らしい雰囲気です。とても有り難みを感じました。
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東京国立博物館 「特別展 踊るサテュロス」

東京国立博物館(台東区上野公園)
「特別展 踊るサテュロス」
2/19~3/13

こんにちは。

今日は上野の国立博物館へ行ってきました。もちろん目当てはサテュロスです。愛知万博に合わせて来日したこの門外不出の美術品を、今だけ特別に東京で公開する展覧会…。究極ともいえる「一体のみの展示」ですが、「公開はこれが最初で最後となるでしょう。」(パンフレットより。)と宣伝されれば、どうしても観たくなるものです。じっくり鑑賞してきました。

サテュロスは、まるで跳ね動くのを無理矢理引き留められているかのように置かれています。全体としてはふくよかながらも引き締まった筋肉が浮き出る臀部と、その割にはすらっとした足の跳ね上がるような躍動感は、陶酔の頂点にある彼の官能を一挙に解放しているかのようです。上体は、外側から大きな力が加えられたのではないかと思わせるぐらい、グイッと回転するように反り返っています。胸部は極めて肉感的で、無骨な印象さえ受けます。失われた手は、むしろそれが「ある」よりも、彼の動きの自由度を高めて想像させる意味を持っているように感じました。そして頂点には髪を後ろになびかせた頭。少し口が開いているようにも見えて、それがあたかも酩酊の一時を示すようにも感じますが、全体的には意外と端正でやや無表情ではあります。一体何を想うのでしょう…。また、瞳の中央部分にはどのようなものがはまっていたのでしょうか。彼の眼光は、海底で長い間沈んでいたことによる倦怠からようやく解放されて、世紀を幾度も超えた上での新らたな生を享受する喜びを感じ始めているかのようです。

サテュロスは角度を少し変えて見ることで、様々な表情を生み出してくれます。私が一番美しく感じたのは、正面から見てやや左から眺めた時のサテュロスですが、下から舐め回すように見上げて鑑賞するのも、台座から離れて天井へ飛び立ってしまいたいかのような表現が楽しめると思いました。こうすると、「そこまで俺を眺めてどうする!」と言わんばかりの堂々たる彼が、前に立ちはだかって圧倒してきます。思わず仰け反ってしまいそうでした。

この像が造られたのは今から2000年以上も前なのだそうです。もちろん、そのまま残っていればそれもまた素晴らしい傑作として認められたのでしょう。ただ、誕生してから長い間海底で深い眠りにつき、再び人間の手で目覚めさせられたというところに、この像の大きなロマン性を感じます。人間の創造と偉大な自然の偶然、そしてそれがまた再び人間の手に還る。長い歴史を抱える芸術品は、歳月の積み重ねがさらなる威厳と魅力を生みだすようです。素晴らしいものを見せてもらいました。
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初めて買った芸術新潮(3月号)…。


芸術新潮 03月号


新潮社


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今度の日曜日に、Takさんのオフ会に参加させていただいて「ラ・トゥール展」を鑑賞する予定ですが、前もっての「予習」(?)ということで、ラ・トゥールの大々的な特集を組んでいた芸術新潮を購入しました。

この手(趣味系)の雑誌は値段もそれなりですが、ともかく一度買い出すといつの間にやらダンボール一箱分ぐらいに積み上がってしまうので、殆ど購入することがありません。(毎月買ってその都度処分すれば収納にも困りませんが、どうも捨てるのに躊躇してしまいます。)かつてクラシックを聴き始めた頃も毎月のように「レコ芸」を購読して、棚に並べながら自己満足に浸っていたことがありますが、こちらも何年前からかパッタリと購入しなくなりました。芸術新潮は、先月号もあのデュシャンが特集されていまして、そちらもかなり気になっていたのですが、買ったのは今月号が初めてです。カラー写真をふんだんに使ってのラ・トゥール特集、実際の作品へ出会う前の期待感を高めてくれます。謎に満ちた彼の生涯を少しだけ頭に入れておくと、その作品への思いがまた変わってくるかもしれません。

ところで今月号では、ラ・トゥール特集の他にも興味深い記事がいくつか掲載されています。まずは先日、東京都現代美術館のアニュアル展で拝見して印象深かった、写真家のオノデラユキさんのインタビューです。撮影に向かう姿勢において「何を見てどう撮るか」ではなく、「撮るために自分がどう動いたか」を考えること。または新たな表現を求める為に、カメラの中にビー玉を入れて撮影したと言う試み。これらの創作への斬新な視点や創意工夫には、半ば驚かされるものがあります。パリ在住のオノデラさん、今、大阪で回顧展が開催されているとも紹介されていました。そちらも少し拝見してみたくなります。

他には、同じくアニュアル展で好印象だった澤田さんの紹介記事や、「山水の記憶」と題された特集、それに唐招提寺の展覧会の記事が掲載されていました。これからも興味のあるアーティスト、または特集などが載っていたら是非購入してみたいと思います。私のような素人には分かりやすい、とても間口の広い雑誌でした。

(12ページの「今月の発見」という記事の中に、透明な地球儀が紹介されていました。デンマーク製のもので、大変にセンスが良く欲しいと思うのですが、価格が23000円!ちょっと高いかもしれません…。)
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