2011.3.11からまる6年となった。 あの日はニセコで次女の結婚式だった。揺れたその時、教会の地下にいた私は地震にまったく気がつかなかった。 結婚式が終わり披露宴が始まり、何か回りが結婚式のざわめきと違うものは感じていたが、新婦の父親としては、自分の近辺ごと以外にはまったく気が回らずにいた。 震災についての何の情報も話もまったくないままに、夜の11時すぎ、親族同士の懇親の席も終え、ホテルの自室に戻ってテレビのスイッチを入れた。 全チャンネルは被災情報を流していた。「いったい何が起こったのか、しばらく把握できないでいた」 混乱する頭がちょっと冷静になり、事態が飲み込めた。三陸全体を襲った大津波があったのだ!!!! とっさに釜石が地元のスタッフKJのことが頭に浮かんだ。 彼女は、地元に「自然体験関係の就職先」があるから帰って来いと実家から声がかかったものの、もう一年はぶなの森自然学校で修行してからと決めていた矢先であった。
翌12日朝、早々に黒松内の自然学校に帰った。 自然学校のスタッフはTVをつけてKJを囲んでいた。私も朝から報道を見続けていたが、釜石の状況はさっぱり流されなかった。大槌湾という大きな湾がある地形だから津波の影響がなかったのではないかなどと楽観もよぎった。しかし、昼前に遂に、釜石市街のアーケードに津波が商店街の1階を潰す高さで流れ込んでいる様子がTV画面に流れた。彼女の実家は市街地の北側の片岸という地区であった。郷里がどのようになっているか心配する彼女。携帯電話もつながらない。彼女ばかりでなく、誰もがもう仕事どころではない。
「現地に行くべきか、行かざるべきか」その日、原発・放射能に詳しい客人が自然学校に滞在しており、福島原発での事故を同時に伝えるニュースに「今は行くべきではない」と忠告を受けた。
しばし、逡巡した・・・。が、「行くしかない」と誰に相談することなく、決めた。
「自然学校にあるありったけの毛布と食料、携帯コンロとテントなどの野外道具をワゴン車に積み込むこと」を指示して、自らも出立の準備を始めた。青函連絡船や本州にゆくフェリーは動いていないことが判明したが、函館の仲間にともかくも乗船券確保することを指示して、函館埠頭まですっ飛んでいくことにした。函館フェリーターミナルもターミナルビルの床上浸水の被害にあっていたが、ことの他早く再開となった。滞留していた貨物トラックばかりであったが、乗用車として、最期から2番目にギリギリ、再開第一便深夜零時頃に青森へ向かうフェリーに潜り込むことができた。
そして、13日。陸路はあちらこちらで道路規制が引かれていた。特に遠野から沿岸への国道は完全に一般車両は通行止めであった。土砂崩れの心配もあったが、海側から来ている車もあるということで、舗装されていない笛吹峠の林道から沿岸を目指した。
覚悟して、峠を越え釜石側に入ったものの、いったい大地震があったのかと思える拍子抜けするような春を待つ東北ののどかな中山間集落が現れた。
しかし、ある一線から風景がまったく変わった。津波の最終到達点だった。瓦礫が押し寄せていた。それから先の道路は車を進められる状態ではなく、一台のブルトーザーが懸命に瓦礫を押しのけ道を切り開こうと唸りを上げていた。 KJの家は海に近く、到底近寄ることはできなかった。
幸い、KJの実家身内と連絡が取れ、少し内陸地にある当縁の親戚の家に集結する段取りとなり、我々も向かい、その農家の庭先にテントを張らせてもらうことにした。
当たりは煙っていた。隣町の大槌町の市街地で火災が起こり、その飛び火で山火事が起こっていたのであった。 その夜は気温が下がり、夜半には湿った雪が降った。テントが押しつぶされそうになり深夜に起きて除雪するほどだった。 (命からがら山に逃げて瓦礫のために移動ができずに濡れた衣服のまま山中でふた夜目を過ごす人々もいて、そのために亡くなった人達もいたと聞く)
その翌日から、ねおすの救援活動はスタートした。 行方不明のまま未だ発見されない人々もいる、仮設住宅暮らしも6回目の冬を越えようとしている・・・。 支援を続けた片岸・鵜住居地区は少しずつ活気をとりもどしているようだが、震災前の街並みと賑やかさは戻らない・・・。 重点的にサポートしてきた集落・根浜では来月に開村イベントをするそうだ。あいにく参加することはできないが、あれだけの甚大な被害にあった人々、それも私と同年配の方々が漁業や自動車整備業、宿泊業などで力強く再開してゆく姿をまじかに見させて頂いているので、「人間の底力」、逆に勇気をいただいている。 大災害に合いこそはしていないが、見てきた者としては、その後を見続けて、できることで応援してゆくことが引き続き責務であると考えている。