2012.12.11(火) 曇
都市部や住宅地での探訪が如何に困難か思い知らされた。新しく居住した人がその地の過去のことを知っている人はまず居ない。今まで田舎の田圃や山ばかり廻っていたので、人気が無いという苦労はしたが、とにかく人が居ればなにがしかの情報は得られるのである。例えば本人が他所から嫁いだ人であって知らないことであっても、知っている誰かを紹介してくれたりする。
そんなわけで今回の近江膳所訪問は目的地に辿り着くこと無く終わったが、その後の調査でいろんなことが判った。
富士見台の別所山はこの付近かと見当を付けていたが、まるで違っていた。新興住宅地では遺跡など探すのが難しい。
柴田弘武氏は、「別所は蝦夷俘囚の移配地で、その理由は産鉄など金属生産に従事させるため」という説を立てられ、「別所地名事典」で621ヶ所の別所を調査され、その説が実証されたとしている。十数年にわたりこれだけの別所を悉皆調査され、膨大な事典にまとめ上げられたことは驚異的なことと思う。その内容は多岐にわたっているので総てを見ることは不可能だが、一部を見て、また近隣の別所を調べて、その地が金属関連地であることは間違いないように思える。ただ、俘囚の移配地であるという証拠は一向に出てこないのである。
これだけの偉業を成し遂げられた氏に対して異論を唱えるというものでも無いし、その根拠も立場も無いわけだが、わたしは「別所」というのは金属に関連する、金属を産出する土地という意味なのではないかと考えている。つまり”ベツ”にそういう意味があって、別所は本所に対するものでもないし、別府、別保、その他のベツ地名も金属に関係するものではないかと思っている。ただし、アイヌ語の別、ペッ、pet=川は別ものである。
別府、別保などの地名に対しては「別符をもって指定された保で、社寺の封米を担当したもの」(地名の語源)、追加開墾地(柳田国男)などが定説となっている。しかしそれらの地をみると、定説の根拠は見えてこないばかりか、金属関連地の事実が出てくるのである。
今回富士見台の別所山、別所谷を訪ねようとしたのはそれらの地が金属関連地でないかという想いと別保という地名である。
奇しくも「別所地名事典」で本来の別所以外の別所地名、石山寺別所、上田上牧町の別所橋そして今回の富士見台別所山と示された三ヶ所が金属関連地ではないかという思いがするのである。
近江の別所は大変興味深いのだが、大津市民病院に来ることは無くなった。次に近江に足を運べるのは何時になるだろう。今回近江-5まで書いたがその続きは何年先になるか判らないので、ひとまづ終わりにしておこう。
帰り道、古書店で見つけた大津絵。
【晴徨雨読】133日目(2006.12.11)古里~熊野
2012年のこの日は白い雪に埋もれていると言うのに、熊野路を走ったこの日はバイクパンツに半袖ジャージだ。日本で最も雨の多い地帯なのにスカ天で、ラッキーといえばラッキーなのだが、またしてもガス欠走行をしてしまった。とにかく地方には店が無い。地元の人は一体どこで食糧を買っているのだろう。まさか自給自足ではあるまいに。そんな日に限って景色もよく、天気も良い。だからこそお菓子の行動食ではつまらないと油断してしまったのだ。
海沿いの道は距離は出るが景色は最高。
沖縄のところでまた書くだろうが、沖縄の共同店というのは各村に必ずあって何でも揃う、最高のシステムだと思う。
【作業日誌 12/11】
土器、岩石、鉄滓標本箱作製
雪かき
【今日のじょん】:じょんの上林雪情報(睦合町念道周辺、8:30現)
積雪はこんな感じ。 救急車出動も増加気味、え~声してるとこ。
天気はこんな感じ。道はこんな感じ。