2013.4.8(月)
再度自転車旅行に行けたらいってみたいところはいくつかあるが、ベスト5に入るのが秋山郷である。国道117号線を北上し、大雪で有名な津南町を通りながら、秋山郷には行くことが無かった。秋山郷について知ることも無かったし、知っていたとしてもあの高い山々に向かっていく気はしなかった。
この次の交差点を右に行けば秋山郷に行けたわけだ。(2006.8.25)
秋山郷について知ったのは30年以上にも前に買った「北越雪譜」を引っ張り出して読んでからだ。北越雪譜の中の秋山郷は何とも強烈だった。江戸時代の牧之でさえ驚く原始的な生活が書かれている。もちろん現在はどこの山村とも変わらない生活なのだろうが、そこにいたるまでは随分格差があったのだろうと思う。
生活水準とか文化というものは今では各地が同時進行なのだが、過去にはそうはいかなかったのだろう。わたしの住む綾部市でも戦後になって電気の通じたところがあるときく。
しかしひとはなぜそういった辺鄙な村、寒村に心惹かれるのだろう。それは決してノスタルジアとかセンチメンタリズムというようなものではなさそうだ。憧れながらも行くことのできない今、「新北越雪譜」や「秋山物語」などの本を買って読んでいる。そんなとき同じく秋山郷に思いを寄せる中尾さんが3冊の本を持ってきてくれた。その中の一つが「山の女」である。
「山の女 焼畑の谷に生きた女の一生」(山田ハルエ著)白日社1992年発行
3冊貸していただいたので結構プレッシャー
「山と猟師と焼畑の谷」という本は山田亀太郎という秋山郷の猟師の生涯と生き様を綴ったものだが、亀太郎氏の奥さんハルエさんのことを書いたのが本書である。
ハルエさんは大正七年の生まれとあるから、わたしの母親と近い年代である。どうしても母の過ごした寒村との比較をしてしまうのだが、そこには決定的な違いがある。
わたしのふるさとも結構な山村である。(川合)
それは米作ができるか否か、冬は雪に閉ざされるか否か、街からの距離、通信網や交通機関の有無などによる生活水準の違いであろう。わたしは戦後の生まれだが麦飯を食べたことはあったが粟、稗を食べたことは無い。常に稲作をしていて、焼畑なんてのは昔のことだと思っていた。バスも通えば診療所もあった。寒村といえども秋山郷よりはずっと進んだ生活をしていたと思う。それでも貧乏であったという感は持っている。みんなが貧乏であったのだ。
牧之がのぞいた秋山郷とハルエさんが生きてきた秋山郷とは随分違っているのだが、農作業や食べ物、灯りや暖房など基本的なところはそう変わっていないのかもしれない。つづく
【晴徨雨読】194日目(2007.4.8)神湊~小倉
この日はサイクリングを楽しむ。前半は最高の走行で後半は町中のイライラ走行である。今から思えば遠賀川河口の芦屋、八幡の穴生あたりを通ればよかったと思っている。芦屋はかつての芦屋釜で有名なところで穴生、別所あたりは古代産鉄のにおいのするところである。もっとも当時は何の興味も無かったことであるが、、、。
芦屋はこの右手の山のあたりか?(遠賀川)
【今日のじょん】昨日は一日中うっとうしい天気で、朝散では雨宿りしていたのに、今日は打って変わってスカ天で、じょんの走りも素晴らしい。素晴らしければ素晴らしいほどワンワン運動会を思い出す。
昨日雨宿り、今日スカ天