2013.4.16(火) 飯盛山(1)は2013,4,14
岩田女史がイモリガ嶽を見に上林に来られて、飯盛山に関して熱く語っていただいた。そして女史が出された論文の掲載されている磐座学会編著の「古代巨石文明の謎に迫る」という本をいただいた。その中に女史の書かれた「「飯の山」の秘密」という論文があるのだが、一度や二度読んだだけで理解できる内容ではない。ただし、古代において「飯の山」が測量の基点となっていたことについては理解できる。老富町のイモリガ嶽についてもこの線で調べていこうという新たな希望がわいてきた。
女史に初めてお目にかかったのが4月7日である。その際に見せていただいた近畿地方の飯山ネットの地図を見て驚いたことがある。四條畷市の飯盛山(314m)がハブ空港のようにラインが集中しているのだ。女史に聞くと、「関西の中心は伊勢なんですよ」と言っておられたが、四條畷もそれに次ぐ集中度だった。
もう一つは車の中で聞いたことだけれど、城崎温泉の近くに「飯」に関連するところがあるようで調査してみたいという旨を聞いたのだ。
この二カ所にドキリとすることがあったのだが、それはわたし自身が4月9日に四條畷、4月16日に城崎温泉に行く予定をしていたからだ。昨年1年間の間に中丹を出たのは大津市1回だけだったから、今回立て続けに両地を訪れるのは偶然には違いないのだけれど、不思議な縁を感じずにはいられない。
もちろん他に用事があって出かけるわけだから、飯盛山の調査に行くわけでは無いのだが、なにかわくわくさせるものがあった。一つの記念でもあるので報告しておこう。
四條畷市飯盛山(314m)2013.4.9(火)
かみさんの主治医が移動したので四條畷市に行く。後にも先にも訪れたことのない街だ。事前に調べると病院から2Km弱のところに飯盛山があり、途中遮るものもないのでよく見えるだろうと期待する。道が解らないので第二京阪の寝屋川北で降りて、寝屋川南あたりから国道163号線を東進する。この街道は大阪から奈良を経由し木津川沿いから津に至る古い街道のようである。清滝街道、伊賀街道、木津街道などとも言われるそうである。
その国道が寝屋川を渡るあたりに猪鼻橋という地名を見つける。とにかく交差点の名前を必死に見ながら運転していたので判ったのだが、その看板を見つけたときはドキリとした。上林のイモリガ嶽の隣にも猪鼻峠、猪鼻岳があるのだ。これは単なる偶然かもしれないが、今後の調査によっては新たな発見があるかもしれないので、ここで明記しておこう。
さて無事に病院に到着し、受付などを済まし飯盛山を見に外に出る。地図では南東にしっかり望めるはずなんだが、ビルや住宅に阻まれて一部しか望めない。病院に帰って屋上に上がれないか交渉するが、屋上は閉鎖されていて入れず断念、再度外に出て山の見える場所を探しに行く。
建物の間からはよく望めない
清滝川沿いから忍ヶ丘駅のあたりまで歩くが、いまいち全体が見えない。一部田んぼが残っているところがあり、古い地蔵様も残っている。おそらくこういった田園地帯だったのだろう。
手前は広い田んぼ
病院に帰る途中で病院の建物を見ると南側中央部分が各階ガラスの開かれた部屋になっている。エレベータで上がると、入院患者さんが食事をとったりしている。お構いなしに窓際に行き心置きなく写真を撮る。今回はこれだけしかできないが、秋に再度四條畷に行くのでそのときは登ってみたいと思っている。調査すべき事項もいくつか出てくるだろう。つづく
病院の5階から飯盛山
【晴徨雨読】202日目(2007.4.16)津和野滞在
長崎で知った乙女峠に行く。乙女峠はキリシタン弾圧の舞台であるが、長崎の原爆被災者の治療に献身された永井隆博士の遺作でもある。内容については本文を見ていただければいいが、井出孫六氏の「峠を歩く」にこの乙女峠が登場し、森鴎外が故郷津和野を語ることも帰ることもなかったのは、この乙女峠の事件が影を落としているのはないかと大胆な予想をされている。(2011.11.22参照)
キリシタンが真冬に拷問を受けた池
【今日のじょん】今日は一日お留守番、しかも大好きないくみちゃんも帰ってしまったので大いにショックを受けたみたい。帰ったらゴミ箱掘り出していた。
ゴミ掘り出しも可愛いもんだけど、、、。朝はこんなに遊んでいたのに。