2013.12.18(水)雨
わたしの残りの人生を左右する一冊と言ったら大袈裟だろうか。
悟りというのは煩悩を無くすことであるという風に考え、煩悩に関わるものから自らを遠ざけることによって悟りの境地に至れるだろうというのが私の従来の考えであった。ところがどうもそれほど柔な代物では無くて、煩悩というものは大脳のなせる技であるから、大脳を切り取らなければ無くならないように思う。
人間死んでしまえばもちろん大脳の機能も無くなるわけで、「死ねばみんな仏になる」という言葉はそのことを表しているのかも知れない。仏教などで求められる悟りとは、生きながらにして煩悩を無くすることのようだ。
これはどだい無理な話なんだが、精進することによって悟りの境地に近づこうとすることが人間にとって一番大切なことなのではと思う。
荒行を積んだり、托鉢をしたり、瞑想をしたりと様々な精進があるわけだが、人間の根源的な食にそれを求めた禅の教えは崇高である。
「土を喰ふ日々 わが精進十二ヶ月」水上勉著 文化出版局 古書
一月の章、二月の章、、と十二月まで続くわけだが、いわゆるレシピ本ではない。あとがきの中に、
「約一ヶ年、軽井沢の山荘にこもって、畑をつくり、そこで穫れたものを中心に、私が少年時代から、禅寺でおぼえた精進料理をつくってみて、それでいわでものことを云いまぶして、料理読本というには不調法で、文化論というにしては非文化的で、人間論というにしては、いかにも浅底の、とにかく体をなさない妙な文章になりつつあるのを承知しながら、おだてるままに書きつないできたものである。」とあり、まさにそういった本である。
本書の中から紹介したいことはいくらでもあるのだが、連載中の「上林土喰庵」で順次紹介していきたい。
若狭での貧乏な子供時代の話の中で、父親の弁当には飯と味噌と塩しか入っていなかったことが出てくる。山でタラの芽などを採って焼いて食うのである。他の職人はへしこなどの馳走が入っているのに、恥ずかしい思いがした、と書いている。
「ぼくら貧乏人の子らには、土の幸山菜を蔑んで、都会化された人工的な喰いものへの憧憬が芽生えていたとみる。」
貧しい父親が実は一番美味いものを喰っていたのだろう。
最近の食材偽装にぴったりの文がある。
「近ごろは、野菜も魚も、?み物も、誰もが頭で喰い、頭で?みしているところが見えるのでわざわざ口で喰えと、いってみたにすぎない。」
座右の銘となる一冊だ。
【今日のじょん】じょんはおでんが好きなんだナ。特に今年のおとーの大根は逸品である。なーんてぱくぱく喰ってたら、いきなり吐いてしまった。
吐くまで喰うなよなあ。