晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(46) 奥武は葬地か-7 4/21

2014-04-21 | 地名・山名考

2014.4.21(月)雨
 「奥武島」考を読む④
 
 「島々清しゃ」には奄美沖縄の63の島についてコラムが掲載されている。わたしはこのうち12島を訪れているが奥武島は南城市の奥武島のみである。というのは沖縄諸島には11の「奥武」の名のついた島があるということだし、本書の中にも4ヶ所の奥武島が掲載されている。南城市、名護市、久米島の奥武島と奥武端島(オーハジマ)である。「奥武島」考は南城市の奥武島について仲松氏が書かれているのだが、それ以外は別の人が別の立場で奥武島を語っているので、奥武を知るひとつの手がかりになるかも知れない。
 名護市奥武島 
 名護市の真喜屋から奥武島、屋我地島、古宇利島へは立派な橋が架かり、観光名所となっている。
Img_2572


古宇利大橋(2007.2.20)
 一番手前の奥武島を通過する人は県道脇につづくお墓に驚くだろう。航空写真で見ても軒並みのように見えているのが全て墓地である。県道脇のものは比較的新しい墓だが、森の中や海岸端には古い墓が沢山存在しているそうだ。比較的大きな島なのに無人島の奥武島は実に墓だらけの後生(ぐそー)島なのだ。コラム筆者の橘薫氏は「知らぬが仏」というタイトルで、後生の島で大騒ぎする最近のキャンプ客などを「一晩中ご先祖様たちと語らうのだろうか。無事にこの世に帰ってこれるといいが。」と皮肉っている。
 そのことより気になる記事は、仲尾次(真喜屋の西の集落)では畦払(アブシバレー 虫送りのこと)の日、害虫を送る場所が奥武島だったことだ。このことは「沖縄地名考」宮城真治氏の説を裏付けるものでもあるからだ。

 島尻郡久米島町西奥武、東奥武(奥武島、奥武端島)
 久米島の東に列ぶ二つの島だが、奥武島には現在橋が架かっている。東奥武には橋どころか定期船も無く、船をチャーターするか干潮時に歩いて行くしかないそうだ。どちらの島も明治までは無人島であった。糸満漁夫などが定住し始めて、有人島となった。奥武端島は渡名喜島からの移住者がほとんどということだ。
 奥武島には天然記念物の畳石が有名である。
 さてこの奥武島は、セジ(霊力)高い、崇高な島とされ、人が住むようになってからも墓地は島内には造らず、必ず対岸に行って造ったという。これは現在でもそうだということだ。
 畦払(アブシバレー)については記述がないので何とも言えないが、葬地、墓地に関しては前述の奥武とはまるで逆の現象で、面食らっている。
つづく
 【今日のじょん】昨日はワンズゲームが降られずに済んで良かったと思っているのだが、今日は待望の雨が降った。おニューのレインコートがデビューするわけ。P1020778
 
おしゃれで着せるのも簡単、でもその分だけおしりや足が濡れるけれど、あれもこれもグッドというわけにはいかないよーだ。 

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穴虫考(45) 奥武は葬地かー7 4/20

2014-04-21 | 地名・山名考

2014.4.20(日)曇り
 「奥武島」考を読む③

 仲松説を端的に表すと、奥武島(おうじま)のオウは青、青は神の世界の色ということである。
 現代では神の世界と葬地、墓地は異質のものと考えられるようだが、かつては同一のものであった。例えば古墳などは確実に墓地なのであるが、神域でもあるわけだ。ましてや沖縄ではニライカナイの信仰と相まって、死者は神という観念が息づいているのだろう。特に洗骨(シーコツ)をして白骨になった場合、人間から神になったと考えるのではないだろうか。
 という風に考えると、奥武は葬地、墓地、後生(グソー)である場合が多いが必ずしもそうであるとは限らない。
 「奥武島」考を精読すると、南城市の奥武島が対岸の陸地から死者を運んだ葬地だとは書いてなくて、以下のように表現されている。
 
これらの例に基づきもちろん玉城奥武も古代には人の住む島では無く、ただ対岸の陸地から死人が運び込まれて葬された「青ノ島」であったと言うことができるはずである。
 ここでいう”これらの例”とは与論島では古代風葬の場を「青山(あうやま)後生」ということ、羽地の奥武島(名護市)は確実に古代からの葬地であり、安部オールー島にも古代墓があり、古代の葬地島であったということである。
 
ところがアフ(奥武)は、必ずしも死人の往っている場処だけに限ってはいない。として大宜味村喜如嘉にはニライカナイの神を送る神歌に「アウの神送りやびら・・・」とあること、久米島や慶良間の奥武島はニライカナイの神の滞留されている聖地であろうと考えておられる。つづく
Img_2979


 
那覇港の南、国道331号線付近にガンジャビラ(蚊坂)という旧跡がある。この坂を下って行くと奥武山(オウノヤマ)に至るが、ここは元々島であった。明治の地図では半島状になっているが、現在では完全に陸地化している。(蚊坂から那覇港方面、奥武山は右手下方となる。2007.3.4)

【作業日誌 4/20】
 薪割り
P1020773

少し片付いたかと思えばまたドンと来た

【今日のじょん】昨日は久々のゲンタが来じょんして思い切り遊んだので、ぐっすり寝たようだ。P1020769 P1020772

 ゲンタは若くて元気だねえ。

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穴虫考(44) 奥武は葬地か-6 4/19

2014-04-21 | 地名・山名考

2014.4.19(土)曇り
「奥武島」考を読む②

 「奥武島」考は玉城村(現在南城市)の奥武島について書かれたものである。半分は島の地形や住民に関すること、産業や交通について書かれている。その中に最西にワラベ墓地があったと書かれている。ワラベというのが単に地名なのか、子供を表すものか定かではないが、ウチナーグチではこどもはワラバーと言うそうで子供の墓であるように思う。最西端には半島状に突き出た干瀬のようなところがあり、ここのことを言っているのだろうか。
 そして奥武の語源については次のように述べている。
 
ところで、そもそも奥武なる地名や御嶽(うたき)は、「琉球国由来」(1713年)にはアホ、アフ、アウと表記され、「琉球国旧記」(1731年)には、そのほとんどが「青」とされている。かの安部奥武島は安部オールー島とも言われている。「オールー」とはシルー(白)、クルー(黒)のごとく、色彩の青を指す言葉である。これらのことからして現在奥武と表記されている島や聖地は、その根源を探せば青であったことが考えられる。
 しからば青とは一体何を表現色彩(ママ)かというと、赤(明)るい現世でもなく、といって暗黒や無の世界でもない、その中間的なウスボンヤリした世界、青空、青海、青葉や青い山脈といった世界で、その青の世界こそが「神の世界」と観じていた。それが我々の祖先の世界観であったということになる。我々の祖先は信じてきた。「人は死んだら神と成る」と。したがって死人を葬した処は神の国、すなわち「青の世」に成った。

 多分に観念的な論とも思えるが、仲松氏の奥武に対する説の核心である。つづく
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この海の色に「神の世界」を観じたという。斎場御嶽(セイファーウタキ 2007.3.1)


【作業日誌 4/19】
草刈り、薪割り
薪運び(武吉町)

【今日のじょん】夜中に唸ってるなと思っていたら、朝起きてびっくり。ゴミ箱のゴミを出している。どーもストレスのあるとき、例えば留守番とか、、に出しているみたいだが、夕べはナンだろう?思い当たる節があるとすれば最近で始めたゲジゲジなんだが、さて。P1020766 P1020764

なんじゃこりゃ

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