2014.7.10(木)雨
「二上山」(田中比左夫)昭和47年重刷(昭和42年初版)学生社刊 古書
著者の田中氏は立命館大学院で日本史を専攻され、発刊当時は大学講師など勤めながら歴史の研究をされている。
二上山の西方に飛鳥時代の天皇の陵墓が列んでいることに驚きを感じられ、本書を書かれた。葬送儀礼の変遷、葬送の道そして當麻寺(たいまでら)に関する考察が本書の内容である。そして二上山はいつの世も人の生死を見つめてきたのだと思う。二上山の最大の事件はその山頂に大津皇子の墓が造られたことだろう。大津皇子の事件も山上の墓所も衝撃的ではあるが、それが二上山の本質ではない。二上山の本質は第一章のタイトルである「山越えの墓どころ」だと思う。生の世界である飛鳥の地を真西に向かい、二上山を越えた地が死の世界、黄泉の国であるということだ。
なぜこういう構図になるのか、本書の中にも随所にヒントは出てくるのだが、もちろん真相は分からない。
わたしはその時代時代の他界観が根底にあるのでは無いかと思う。沖縄におけるニライカナイは生まれ来るのも死に行くのも海の彼方である。内陸である大和では西方の山の向こうと考えるのは自然なのではないだろうか。二上山は飛鳥の真西にあり、その特徴的な山容に夕日が沈む光景を見たら、そのむこうにあの世があると考えるのもまた自然だと思う。
檜原神社から見ると、春分秋分の落日はこの穴虫峠に落ち、磯城瑞籬宮からは二上山雄岳雌岳の間のコルに落ちるという。(大和の原像)
二上山をめぐる穴虫越、竹内越は大和川をめぐる竜田越などとともに河内から大和に文化の波が流入してくる道でもあるのだ。ニライカナイに似た古代人の他界観が感じられる。ただこれらの墳墓が造られた時代は仏教が入ってきて定着する時代でもある。西方浄土などの仏教的な考え方も影響があったかも知れない。墳墓の地は二上山西方だけでなく、泊瀬の山、檜隅の地、佐保の地など時代より変遷する。そこにはその時代の他界観が根底にあるのだろうが、墓陵を造営する政権に最も近い豪族の動向など現実的な要因も多分にあるのではないかと思うのである。
ちなみに二上山の西にある著名な陵は推古天皇陵、孝徳天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵などであり、聖徳太子墓、小野妹子墓の他に蘇我馬子の墓と伝えられるものもある。つづく
【作業日誌 7/10】薪割り
【今日のじょん】蒸し暑いが続いているので、窓はあけがちだ。ところが外の物音や臭いが入ってくるのでじょんが吠えまくり。本当に出てくる猪や鹿ならいいのだけど、虫でも鳥でも近所の物音でも何でもありだから困る。
先におとーが気がついて懐中電灯を照らしてみたら、ネットのむこうに鹿の親子連れが三頭こちらを窺っている。なんとか追い返したが、その時はじょんはずっと寝ている。ここ一番にヒットの出ないF留みたいなやつだ。 まあそれでも本人、いや本犬は一所懸命頑張っているのだろう。忍々。
ここに三頭居たんだぜ。