晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(89) 香芝市穴虫-11 7/2

2014-07-02 | 地名・山名考

2014.7.2(水)快晴

 日本で初めての火葬は700年僧道昭、初めての天皇の火葬は702年持統天皇ということである。もちろん記録に表れない火葬というのはそれ以前からもあったようだが、歴史の表舞台ではこのようになっている。
 威奈大村が穴虫に埋葬されたのは707年なので、火葬というのがまだ一般的でない頃と思われる。
 火葬というのが仏教の影響を受けていると言われているが、仏教そのものも天皇を頂点とした国の施策として普及されたものである。同様に火葬も天皇、僧、官僚、豪族貴族といった風に国家の頂点から順次普及されたものだろう。二上山麓に古代官人の火葬墓が公に設置されたとしたら、それは国家の仏教普及施策の一環と見られる。威奈大村が本拠地の「為奈郷」でなく穴虫に埋葬されたのはそういう伏線があるのではないかと考える。
 二上山博物館で係の方に穴虫の地名由来について尋ねてみた。
「穴虫とはどういう由来でついた地名なんでしょうねえ」
「穴虫は古くは穴蒸と書かれていました。穴の中で蒸してたのでしょう」
「一体何を蒸してたのですか」
「それは食べ物とか、、、、」
確かに寛文郷帳、元禄郷帳、天保郷帳では穴蒸村と記載されているが、上記地名由来は文字にこだわった単なるこじつけにしか思えない。
 穴居生活というのは縄文時代はもちろんのこと中世にも及んでいる。穴で煮炊きをすることはどこにでも見られることで、それは地名に残るほど特徴的なことではない。ということで穴蒸し説はあり得ないと思っていた。
 ところが威奈大村の火葬墓のことを調べていると、大きな疑問が湧いてきた。一つは707年の4月24日越後城で病没、同年11月21日穴虫に帰葬とあるのだが、彼はいったいどこで火葬されたのだろうかということである。
 墓誌銘には帰葬と書かれている。帰葬というのは国語辞典で調べると、異境の地で死んだ人を故郷に戻して葬ること、異境の地で死んだ人を火葬または仮埋めして骨化したものを故郷に持ち帰って葬ることという風にある。この言葉からは遺体のまま運ばれたのか、骨化したものを運んだのか解らない。大和では普及していた火葬が越後では未知のものであったかも知れない。そう考えると威奈大村は遺体のまま穴虫に運ばれ、穴虫で火葬されたと想像できる。
 では遺体はどこで火葬されたのだろうということになる。穴虫周辺には数多くの火葬墓があったと想定されており、現在でも威奈大村骨蔵器(ゴボ山か?)穴虫古墓(穴虫シロヤマか?)高山火葬墓(高山台)などが発見されており、集中した一ヶ所の火葬場があるとしたら、大坂山口神社の辺りが中心的位置関係にあり可能性が大であると想像を膨らませているところである。P1030204
 


 
穴虫交差点の北東、向こうに見える丘陵地帯に穴虫古墓が有り、その下方が大坂関の推定地の一つである。

 それというのも二上山博物館で聞いた穴蒸由来説の蒸す対象が食物でなく、遺体であったらどうなのだろうと大胆な想像をしてみたのである。
つづく

【作業日誌 7/2】
南京ハゼ6本植え付け、府道側のり面
夏野菜の収穫が始まった。最後のジャガイモと三度豆が新規。写真はこれでもか胡瓜(これでもかというほどなる)とアストロトマト(明日採ろと思ったら採らないと、誰かに盗られてしまう)P1030312



完熟していないのでマズイ
【今日のじょん】
P1030315P1030316


 新たな何者かが夜な夜な侵入している。畑の同じところを掘り返されている。連れて行ってもじょんは知らん顔している。やつの遺留品はこれだ。 
P1030309
くそったれ 
 

 

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穴虫考(88) 香芝市穴虫-10 7/1

2014-07-02 | 地名・山名考

2014.7.1(火)晴

 威奈大村骨蔵器が国宝となっているのはそこに書かれている墓誌銘がはっきりと残されており大村の出自、人物像、官暦、卒時、年齢、葬地など具体的に書かれ、誄詞ともとれる文言が書かれている。歴史的に重要な墓誌銘なので国宝となっているのだろうが、発見の経緯がはっきりしていることも大きな要素になっているのではないだろうか。如何に重要な文言が書かれていようと、そのものがいつどこからどのようにして発見されたか定かでないならその価値は半減するのではないか。
 前にも書いたとおり、この骨蔵器は明和年間(1770年以前)に和州馬場村の農夫が穴虫山で開墾中に大甕を伏せた下から発見したというものである。そのことが解るのは、摂津住吉霊松寺の僧義端(1732-1803)による「威奈卿銅槃墓誌銘考」と木村蒹葭堂(けんかどう 1736-1802)の「威奈大村墓誌銅器来由私記」に詳しく載っている。それらが書かれた経緯については省略するが、その中から骨蔵器が発見された場所を探索してみたい。
 上記文書は現存しているが、読み解く機会も能力も無いので、以下の解説は「二上山博物館 展示解説シート威奈真人」によるものである。念のため。
 骨蔵器には「慶雲4年(707年)4月24日病のため越後城で没した。享年46歳。同年11月21日、大倭国葛木下郡山君里狛井山崗(香芝市穴虫)に帰葬されたとある。
P1030313
 

墓誌銘は10字詰39行の格調高い漢文である。
ところが骨蔵器発見の顛末と考証に関する記述では詳しい出土地は特定できないようだ。
 解説シートには、次のように書かれている。
 
出土地についても「穴虫山」、「帰葬ノ地名大和志ニ所見ナシ、今ノ穴虫山ハ其時ノ狛井山、馬場村ハ所謂山君里カ」とみえるだけで、その当時すでにはっきりしていなかった。義端は考証の中で、村人で知る者はなく、道場山が穴虫山ではないかと推測した。そのため、現在のゴボ山(御坊山)が道場山であり発見地とされている。なお、狛井の地名考証により、大坂山口神社の南に位置する上山(うやま)とする説もある。
 
 いずれにしても大坂山口神社の裏手の山間ということは違いなさそうである。御坊山、ハス池、弁才池と仏教由来の地名ばかりで、往生地ともいわれる別所地名があればこの地域の可能性は高そうだが、「穴虫山で開墾中」とあれば、弁才池の上部、別所ヶ谷は恰好の地と思われる。
 それではなぜ越後で死亡した威奈大村がこの地に葬られたのだろうか。彼の本拠地は兵庫県尼崎の東北部だということで、縁もゆかりもないこの地に葬られるのは不自然である。
 展示解説シートではこの問題に明解な解答を出しておられる。全国で墓誌が発見されているのは16例でそのうち4例が二上山麓ということで、この地域が古代官人の公葬地として強く意識されていたというものだ。
 わたしは火葬が大きく影響していると考える。つづく
P1030209


ゴボ山北端、個人のお墓のようだが柵があったので確かめられなかった。

【作業日誌 7/1】
煙突掃除、ストーブ掃除
P1030311


塗装もし直して一日仕事となった。
【今日のじょん】
井堰が完成したので河原に降りてみる。山椒魚は帰ってこないかと覗いてみたが、やっぱり姿は見えないようだ。雨が降って水量が増えたら流れてくるかも知れない。P1030304 P1030303

 


かつては7,8匹いたんだが、、、

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