晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 二上山-1 7/9

2014-07-09 | 雨読

2014.7.9(水)曇り

 二上山はもともとは「ふたがみやま」とよんだのだろうが、山名や地名は「にじょうさん」となっている。わたしはなぜか「ふたがみやま」と呼びたい。二上山は「大和の原像」(小川光三)「知られざる古代」(水谷慶一)などですっかりおなじみの山であり、古代の葬送という意味では最も著名な山である。雄岳、雌岳のなす特徴的ならくだの瘤のような容姿は大和側からも河内側からも望めるようだ。実は大和側近鉄沿線には1年半通勤したし、河内側だってあらゆる機会に行ったことがある。しかし二上山のあの特異な曲線は記憶に残っていないのだ。網膜には必ず映っているはずなんだけど、大脳のセンサーは感知していないし、メモリーに残ることもない。人間の感知機能なんてそういうものなのだろう。
 それが30余年ぶりに乗った近鉄特急の窓から、西の山稜に見つけたあのラクダ瘤のカーブは初恋の人に巡り会ったような、懐かしくも嬉しい景色に映るのだ。一番いいアングルで写真に収めたいと思いつつ、麓まで来てしまうとあのカーブは消えて普通の山に変わってしまう。
P1030188


大和高田バイパス穴虫交差点近くで二上山方面を撮ったのだが、一体なんだか解らない。
 帰りの電車に乗ってから写真のことを思い出す。走る電車の中でいいアングルが得られるはずもない。大和高田の辺りだろうか、車窓の中から街並みの合間に少し顔を出した二上山をとらえる。

P1030227 P1030228



いい形が見えたと思ってもシャッターを切った時には片方だけになっていた。結局二上山のシルエットが映っているのは右の写真だけである。
 何とも情けない映像だが、二上山のシルエットにこだわるのは、飛鳥の地で権勢をふるった人びとがあの山を眺めながら感慨にふけっていただろうと思うからである。つづく

【作業日誌 7/9】草刈り(ドッグランど、薪置き場付近)
 薪割り

【今日のじょん】台風の影響でやたら蒸し暑い。じょんにとって温度が高いのは応えるだろうけど湿度が高いってのはどうなんだろう。やっぱりしんどそうで、ぽんぽこぽんも動作が緩慢である。P1030348

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雨読 日本史の謎・石宝殿-2 7/8

2014-07-09 | 雨読

2014.7.8(火)曇り

 石宝殿とは刳り貫いて制作中の石造物と言ってよいのだろうか。岩盤の上から周囲を掘って彫りだしたという表現が良いのだろうか、巨大な家形を横倒しにしたような形である。巨大な上に周囲が狭い空間なので全体像がわかりにくいといわれる。実測値は最も長い背面下辺で649cmというから大体の大きさが想像できよう。
 そしてこの石造物が未完成のまま残されているということが余計謎を呼んでいる。なぜ未完成かというと、大地に接する部分が小さな一点で取り残されているからである。
 この謎の石造物が文献に出てくるのは、播磨国風土記である。

 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈。広さ一丈五尺、高さもかくの如し、名号を大石といふ。伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
 弓削の大連(ゆげのおおむらじ)は物部守屋(もののべもりや)のことで、聖徳太子とは時代も異なるわけだが、いわゆる伝承として石宝殿のことを書いていることには違いない。
 これほどまでに古くから書物に現れ絵画に現れ、あらゆる学者達が謎解きをしてきたようだが、近現代には誰も語らなくなった。それは謎が解明されたからでなく、謎が解けなくなったからではないだろうか。それよりも対象にする多くの遺跡や遺物が次から次へと発掘されて、石宝殿などかまってられないという状況になったのだろう。間壁氏がここに目をつけられたのはとてもユニークな事だと思うが、この石造物を眺めていても永久に謎は解けないものを、竜山石という古墳の石棺に用いられた石材を研究することによって石宝殿の真実に近づこうとされたことは素晴らしい着想だと思う。
 石宝殿のすぐ南にある播磨の竜山とは二上山と列んで古墳の石材の大産地なのである。大和や河内の古墳石材も時代によって二上山産、竜山産と変わっている。巨大な石造物を輸送するのには大変な労力と経費がかかるだろうに、すぐそこにあるものを使わないで遠くのものを使っているのには何か重大な理由がある。
 わたしは二上山博物館を訪れた時、その玄関先にある巨大な石棺の蓋が竜山石だと知って驚いた。
P1030226
二上山博物館前

 乙訓周辺の古墳にも竜山石が多く使われていると知り、娘に写真を撮ってきてもらった。これらの石造物が単に輸送の問題だけでなく、古墳を造営する豪族の力関係で左右するというのは納得のいく理論である。
Dsc_0482 Dsc_0483
 



長岡京市奥海印寺の寂照院境内にあったという石棺の蓋。現在は埋文調査センターに保存されている。竜山石である。

 こうして石宝殿はいつの時代に、何のために、誰によって造られようとしたものかの謎解きが始まる。結果を紹介するのは本記事の本意ではない。
 わたしは一刻も早く石宝殿を見たいと思う。そして不思議なことは別々に調べてきた穴虫、別所、飯盛山、盃状穴がこの地にはまとまって存在していることである。おわり

【今日のじょん】夕べもじょんが吠えまくった。ところが物音もしないしセンサライトも点かない。朝になって点検しても異常は無い。夕方野菜の収穫をしていて気がつく。トマト、カボチャが何者かに盗られていた。なぜセンサライトが点かないのか点検したらランプが切れていた。じょんの方が確かだということだ。P1030363 P1030364

 


トマトは皮が残っているので解ったが、カボチャは座布団をしいたところなので解った。

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