2014.7.6(日)曇り、雨
赤星直忠氏は明治35年生まれで、大方を小学校の教職に就きながら”穴”一筋の研究を続けてこられた。穴とは「やぐら」、「横穴」、「洞穴」と呼ばれる穴であるが、基本的に墓地、葬地である。中学生の頃から近所で発見させる布目瓦や土師器、須恵器、銅環や小玉に興味を持ち、貝塚や横穴を歩き回る様子は、「僕は考古学に鍛えられた」の森浩一氏と重なって見える。特に開発のために消えゆく遺跡の調査は、今日のように発掘に対する理解と保証が無い時代なので困難を極めたことと思われる。
横穴とは丘の斜面などに横穴を掘り、埋葬した施設のことで5~8世紀に造られ、群をなしており横穴墓群と呼ばれる例が多い。また、鎌倉周辺に多く、鎌倉時代から室町時代頃のものをやぐらと呼ぶ。
赤星氏は横穴と横穴式石室は基本的に同一のものであって、墳墓を造る財力であったり資材などの条件の差異によって墳丘墓になったり横穴墓になったりいたものと解いている。これはどうも一般的な学説とは異なるように思うのだが、薄葬令(646年)の後に横穴墓が増加しているなどと聞くと氏の説も納得出来る部分もある。例えば形状をみれば横穴も古いものは羨道や玄室があり、中には壁画のあるものも発見されている。出土物も鉄鏃、刀子、曲玉、土器など古墳と変わりないが、質的量的に劣る感はする。これはやはり墳丘墓を造る事の出来る豪族より下層の者達の墳墓なのだろう。また決定的に違う点は、横穴の場合時代を超えて墳墓として利用されているため各時代の遺骨や遺物が層をなしていることが多いことも特徴である。また盗掘されやすい環境なので、荒らされているのも多い。
やぐらというのは前述の通り、中世の鎌倉に限っての納骨穴で、横穴と同様山の斜面などにきられた穴であるが、鎌倉の特長である凝灰岩や泥岩の岩穴である。殆どが火葬骨の安置場所となっていて、普通一坪くらいの方形の穴である。供養塔が盛んになっており、五輪塔、宝篋印塔、板碑などが数多く発掘されている。
氏は三浦半島周辺の海蝕洞穴を初めとした自然洞穴も数多く発掘されている。もともと弥生期の生活空間であった洞穴に埋葬をするようになり、生活に使わなくなった後も葬穴として使用されていることが証明されている。横穴の発生もこれら自然洞穴に由来する可能性は高いと思う。おわり
離水海蝕洞、縄文海進で海岸に出来た蝕洞が海退によって海岸から離れたところに残ったもの。(鳥取市)
【作業日誌 7/6】下仁田ネギ植え替え、歩留まり2/3
植え替えをすることによって丈夫に育つんだって、手前の育ちの悪いのは北側の畑のもの。
【今日のじょん】今日は雨模様でワンちゃんの来じょんは無いものと思っていたら、西田さん家族とじょん、すもも、さすけが来じょん、かわいいこと。
みんなとっても人なつっこくてよいこなのだ。ドッグランどが良い季節にまた来てよネ。