晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(94) 香芝市穴虫ー16 7/14

2014-07-15 | 地名・山名考

2014.7.14(月)曇り

 威奈大村蔵骨器が埋葬されたのは慶雲4年、707年で、発見されたのは明和年間(1770年以前)のことである。出土地は「穴虫山」とされており、発見時には穴虫の地名が存在する。この穴虫山というのは僧義端(1732-1803)らの考証により、当時の狛井山であり、狛井山は村人も知るところがなくて、道場山だと推測した。道場山とは現在のゴボ山(御坊山)のことなので、ここが発見地とされる説が有力である。
 墓誌銘には、大倭国木下群山君里狛井山崗に帰葬されたとある。つまり発見時には穴虫地名があるのだが、埋葬時には穴虫地名は無かったと言える。
 この火葬墓こそが穴虫地名の由来であると考え、香芝市の穴虫を訪ねたのだが、この時代の火葬墓が穴虫地名とは関連しないことが解った。
 では穴虫という地名はいつの時点に発生したのだろう。8世紀以降17世紀以前ということになる。資料を探ればある程度近づけるかも知れないが、発生の時期を見つけるより、なぜ穴虫という地名がついたかを考える事が重要である。
P1030206
 

大坂山口神社の参道鳥居の右(東)が穴虫東、左が穴虫西のようだ。
 そして本来の穴虫の位置を探すことも必要だ。現在の穴虫の範囲は広すぎる。大和国条理復元図には小字が網羅されているが、大字穴虫の中に小字穴虫を見つける事は出来なかった。しかし時間の都合で大字穴虫のすべてをチェックし切れていないのが悔やまれる。複写も制限されているのですべてを見ることは出来なかった。次回訪問時の課題としておこう。
 やむなく本来の穴虫の位置を想像するのだが、すでに述べたように穴虫東、穴虫西のあたりと考えている。東西を付ける地名は昨今の流行だが、地名辞典の近世穴虫村の項に「枝郷の馬場は穴虫東と通称」とある。昨日今日についた東西ではないようだ。
 東西の穴虫は別所ヶ谷あるいはゴボ山で東西に分かれているようで、安遊寺、真善寺とそれぞれ寺院もあり、共同墓地もそれぞれにあるようだ。墓山と言うのが穴虫東にあり、八日山というのが穴虫西にある。八日山とはハカヤマと読めるではないか。穴虫山が現在のゴボ山であろうという考証と東西穴虫の存在から、東西の穴虫こそ本来の穴虫ではないだろうか。つづく

【作業日誌 7/14】草刈り(畑、東側南側ガーデン)

 【今日のじょん】夕べも思い切り吠えまくった。2時頃はじょんのび谷でミシミシバキバキと何者かがのし歩く音がする。ライトを当てると音は止まり、消すとまた動き出す。鹿は強引な歩きはしない、猪は今年は出現が少ない。となると、、、、、てなことで必死で姿を追うが木々が茂っているため姿を現さない。本の一瞬ライトの光に目が光り、影が映る。う~む形は鹿なんだが、、、。
 次は4時頃、ベランダのセンサーライトが点灯する。何も姿は見えない。朝じょんと確認に廻るが、トマトが2個食い荒らされていた。防鳥ネット張ってるノニだぜ。P1030379 P1030382



じょんの朝は獣確認で始まる、右の写真は散歩中にイタチだかテンだかがいて大騒ぎ。

コメント
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