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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の両墓制(1) 志古田-1 7/28 

2014-07-28 | 歴史・民俗

2014.7.28(月)晴

 両墓制については既に6回にわたって書いてきたが(2009.8.11~2011.11.24)今になっても釈然としない思いがある。特に民俗学会で定説となっていると思われる「両墓制は石塔の発生に伴った現象で、近世以降の発生である」(こういう説が一般的であるかどうかも不安なのであるが)ということに対し訝しく感じている。祖霊に対する畏敬の念と死穢に対する畏れ、そして古代人の他界観を想像した時、両墓制の原点的な意識というのは、もっと時代を遡るのじゃないだろうか、形状的な墓制としても存在しているのではないかと想像するのである。ただ、読んだ文献もしれているし、真剣に取り組んだ事も無いのであくまで想像の範囲である。今一度研究してみようと思っているところである。
 それにしても両墓制のはっきりした上林の地においても、それは過去のこととして住民の意識から消え去ろうとしている。いやもう既に消え去っているのかもしれない。数少ない研究資料を収集し、現地の様子を記録し、住民の方々の聞きおぼえでも残っておれば記録して保存することが喫緊の課題であると思う。少なくとも全てが火葬となっている現在、両墓制は過去のこととなっているのだから。
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丸山の麓、大乗院の石碑から大栗峠を望む
 志古田(しこだ)は睦寄町の大字で、近世の志古田村である。角川日本地名辞典にも「両墓制が存在した」と記されている。
 大栗峠(おぐりとうげ)をめぐる幾多のルート、弓削道、(瀬尾谷道含む)、山田道(竹原道含む)、志古田道などの中で、志古田道が元祖京道だろうという説を大栗峠考の中で書いた。現在は上林川に沿った府道1号線が上林の交通の動脈だが、古代、中世は日本海と京を結ぶ山越えの道が主要であったと考えられる。大町、長野、志古田、草壁辺りは交通の要衝と言える。そういった観点で志古田を見ると新たな発見があるような気がする。
つづく

【今日のじょん】昨日からおかーが留守でおとーとふたり暮らしになっていた。おとーだけになるとなぜか殊勝な態度になる。はしゃいだり騒いだりは無くなる。でも、帰ってきたら大喜びしているので、やっぱりさびしかったのだろうか。P1030498 P1030501
 



おっ帰ってきよったと大騒ぎ。

コメント
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