晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の両墓制(5) 志古田-5 8/1 

2014-08-01 | 歴史・民俗

2014.8.1(金)晴れ

 ここでお断りしておきたいが、ここまで書いてきて両墓制における墓の名称をミハカ、ウメバカ、ヒキバカ、詣墓などと乱雑に使っていることである。民俗学に詳しい方には理解できるだろうけど、普通なんだか解らなくなってしまうのではないだろうか。両墓制では遺骸を埋める墓と石塔を立てる墓が分かれており、前者をウメバカ、ミハカ、イケバカ、ステバカ、サンマイ、ムソバ等と呼び、後者をラントウバ、ヒキハカ、アゲハカ、マツリバカ、テラバカ、ウチバカ等と呼んでいる。本稿を書いていくにあたり、その地で呼ばれている呼び方で書いていこうとしていたのだが、調査された人によって書き方がまちまちなので、結果いろいろな名称を使うこととなった。
 その地方での呼び方はともかく統一した普通名詞を使うべきだと思っている。先学によって埋墓、詣墓あるいは第一次墓地、第二次墓地という呼び方があるようだが、民俗学会で統一された呼び方とは成っていないようである。
 「詣り墓」(最上孝敬著)に使われた埋墓、詣墓という使い方が今のところ一般的なようなのでこれを使用することにしたい。
 さて梅原論文の中の不可解なこととは以下の文章である。
 
「約七十年前に個人持ちのあちこちにあった墓を集めて共同墓地を作ったというから、明治二,三十年代のことである。それまでの個人墓地では埋めたところに石塔を立てたという。共同にした時墓石も集めたが、いまでも旧墓地に五輪や石地蔵が残っているところがある。墓地の合理化をしたもので、両墓にしたのは埋める場所がないからだと古老は語っていた。」
 不可解というより意外な一文である。 つまり両墓制の前は単墓制であったと言うことである。(単墓制というのは遺骸を埋葬したその上に石塔を立てるもの)磯貝論文でも明治期における墓地の変遷のことは書いているが、現在地の前の状況については、「各自墓地を持っていた」とのみ記されている。このことを早とちりして、埋墓は丸山にあり、詣墓は各家の所有地にあったものと考えていたのだ。
P1030267


現在の墓地にあがる道沿いにある自然石の塔、一石五輪塔は明治の時にうつされたものか、それともそれ以前からあったものか。
 意外だと感じたのは、両単の墓制は歴史的に確固たるもので、簡単に変わるものではなく、変わるとしても両墓制から単墓制に変遷するのではと言うわたしの独りよがりの思い込みの結果である。
 「埋める場所が無いから両墓にしたと」いう言からは、両墓制と単墓制の間にはわたしたちが一般的に考えるほど深い歴史的、民俗的な意味は無いのではないかと思わせるのであった。
 また、忠町を訪ねた時、同じように個別の墓をまとめたという話を聞いた。それがいつの時期なのか聞かなかったが、明治期に行政的に墓地制度の見直しの動きがあったのではないかという気がしてきた。
 これらのことは現地を眺めていても何も解らない。文献の中から探ることにした。つづく


【今日のじょん】おとーもおかーも桜井さん主催のシデ山BQでお出かけとなった。昨日みたいな夕立だったらどーすると思ったが、さいわい曇りがちで夕立も来なかった。ヤレヤレ。P1030512

 シデ山教の集会、年に一度の楽しみデス。

コメント
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