晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の両墓制(7) 志古田-7 8/3 

2014-08-03 | 歴史・民俗

2014.8.3(日)曇り、雨

 墓地に対する管理統制は法律等で決められても現実に執行するのは県などの地方行政である。この後各県から上申された伺いが数多く紹介される。
 その中で顕著なものは「両墓制」習俗の否定である。もちろん両墓制という言葉は無いので、「埋葬の地と石碑のある地と二つの墓がある場合はいかがいたしましょう」というものだが、前述規則の条文から言っても当然否定されるべきものとなり、「両墓制」習俗は国家から完全に否定されるのである。
 そして墓地の新設や拡大には許可が必要になり、みだりに墓地を新設することは禁止された。そして新設する祭は一村あるいは二三村の永世
共有墓地、供葬墓地(「宗旨若クハ種族ニヨリ之ヲ別設」しない墓地)などを容認した。
 こういった明治政府の墓埋行政の影響が各地の墓地の統合に現れているのではないだろうか。志古田の場合明治二、三十年頃と言われているので将にその通りだと思われるが、他の地域に関しては統合移転の時期について確認していないのではっきりとは言えないのだが。
 明治政府の意向によって志古田の墓地が統廃合されたと仮定すると、いくつかの矛盾や疑問が湧いてくる。
 政府は「両墓制」習俗を否定したのに、志古田の新しい墓地は両墓制になっているということである。
 これは以前に少し書いたが、住民の感覚としては単墓制であろうが両墓制であろうがあまり重要視しない、つまり遺骸の埋葬場所条件だけの問題であって気にする必要は無いということではなかろうか。
 また、行政機関としては無秩序にあちこちにあった墓地が村落唯一の墓地としてまとまるならそれだけで充分で、其の墓地の区域内でどのような埋葬が為されようと良かったのではないだろうか。むしろ、府なり国に対する墓地新設の申請はその住所や面積と地目だけで、埋葬方法まで報告の必要は無かったのかも知れない。
 今一つの疑問は、もし志古田の墓地が国の意向で統合新設されたとしたら、他の両墓制が厳然と残った地域は一体どういうことだったのかという問題である。
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念道ではこの南向き斜面に各家毎の詣墓が存在する。
 何鹿郡、綾部市、上林三村の郷土史などをみても、墓制葬制についての記述は殆ど無い。従って想像するしかないのだが、明治期の各県からの伺いにヒントがあるように思う。
 「両墓制」習俗についてのみ見てみると、「こういう墓が存在するのだがいかがしましょう」という問いに対しては、「現状のものはいたしかたないが、新設はならぬ」というものが多い。
P1030274


志古田の共同墓地も新設の際は必ず申請しているはずだ。
 「両墓制」習俗に基づく墓を新設したいという伺いにははっきりと拒否しているのである。つまり問い合わせてきたものには原則通りの応えになるが、問い合わせや新設の伺いを出してこないものについては何も指導のしようがないというのが実情だったのではあるまいか。そもそも無数にある全国の墓地を政府が掌握のしようがなく、墓地新設の伺いの無いところでは従来のままの墓地の形態が残ったのではないかと考える。つづく

【今日のじょん】
暑い夏にはドッグランどの利用もないだろうと、ベランダの準備もしていないし、芝も伸び放題になっている。ところが昨日は二組、今日は三組の利用客が来じょん、ともかくいつでも利用できるよう整備しときゃなきゃ。
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昨日はモモちゃんも来たぞ、明日は芝かろっと
 

コメント
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