晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

綱さん天気予報 11/15

2012-11-16 | 日記・エッセイ・コラム

2012.11.15(木)雨

 月曜日に綾部温泉で綱さんに会ったら、「週末ごろは鳥垣の奥の方の山に白いものが見えるかもしれんで」ということだった。
 「金曜日に鳥垣の奥の山に行くんですけど、、、」と会話をしていた。
 火曜水曜木曜と日がすすむ毎に寒くなり、その上今日などすっかり雨模様になった。菅坂の峠ではみぞれが降ったという。いやあ、綱さん天気予報はよく当たるのだ。
 極めつけが昨冬の雪だった。昨年の夏頃だったろうか、「今年の冬は大雪やで」という話にはまるで耳を貸さなかった。その前の年が大雪でえらい目にあっていたから、「大雪が二年続いて起きるとは思えへんのやけど」と期待もこめて応えていたら、前年以上の大雪となった。
 以来綱さん天気予報は信じることにしている。一体何を根拠に言っておられるのか解らないのだけど、上林に生まれて、上林の山で働いて何十年と上林の自然を体験してこられたのだから、それなりの状況判断が出来、また勘も働くのだろう。
 さてこの冬の綱さん予報は、雪、寒さは昨年ほどではないということだった。やれやれという気持だが、雪や寒さが無いわけでは無いので念のため。
 
 カメムシの出現が冬の寒さや大雪に関係すると世間では言われているが、上林に来てからの4年余りの冬を見ているとあまり関係ないようだ。
例年作製しているカメムシ指数を公表しておこう。Img_3216

カメムシバスターⅠ号、Ⅱ号開発(2009年)



Img_3280



そしてカメムシバスターⅢ号が完成し、一日捕獲数373匹の不倒の記録を出す。(2009.10)


 カメムシの出現は春は無視して、秋の出現を対象にしている。夏の暑さ、積雪は具体的なデータではなく、個人的な感覚のものである。

年  カメムシ出現 夏の暑さ   積雪  綱さん予報       

2008 100     100      100
2009  80      50       70
2010  20     100      200    
2011  50      60      250   大雪
2012  20     100            平年


さてこの冬はどうなるでしょう。

【晴徨雨読】107日目(2006.11.15)古河~桐生
この日のブログを読んでいると、とてもつまらない日だったようだ。自転車旅をしていると風の強い日はただ走るだけで印象が薄い。その上道路が狭くて交通量が多かったりするとなおさらのことである。どこかに寄っていこうとか、何かを見つけようとかいう余裕が湧いてこないのだ。でもあとから調べていると、興味深いものがあったりして、しまったと後悔するのである。Img_1750





途中で立ち寄った子神社(ねじんじゃ)祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)とあるが、通称子の権現とあり、足腰にご利益があると言う。奉納されているわらじは金のわらじで、かつては鍛冶屋が作ったという。関東には子の権現がいくつか祀られているが、興味深い信仰ではある。
【今日のじょん】:最近ぽんぽこぽんのボールキャッチテクニックが上達してきた。阪神の某外野手よりましなくらい、、、。P1030270

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続々 土器・鉄滓 11/14

2012-11-15 | 歴史・民俗

2012.11.14(水)曇、雨  (続・土器、鉄滓は2012.10.17)

 土器と鉄滓の発見については既に述べたところであるが、最近奇妙なものを発見したので報告しておく。
 土師器が出る所で見つかった、土器とも岩石とも見分けのつかない赤っぽい欠片である。一個はゲートボール場附近、一個は我が家の北の端あたりで、いずれも土師器が出土している所である。
 最初、もう数年前になるかわたしの自所で土師器の破片が数個見つかったときに一緒に見つかったものは、どう見ても土器の様では無いけれど平面といい、曲面といい、どうも人の手の加わった感がする。一部分を欠いてみると上等のレンガの様に細かな粒子が均一に散らばっている。それでもただの岩石かと思い放っておいたものである。P1030267
 




左上が我が家の敷地内で、右上がゲートボール場手前で見つけたもの。
下は上林川堤防で見つけた鉄滓の一部分と思われる石ころ。


 それが最近、土師器の破片が見つかっているゲートボール場附近でも見つかった。材質は同じように見えるが、色はやや薄く、粒子は少し大きいのも含まれている。何となく人工的に見える面もあり、先程のものと同一のもののようだ。
 上林には似た様な赤い岩石は多くある。(2010.3.19)(2011.9.29)に紹介しているものもよく似ている。しかしこれ等は明らかに岩石で、形状、切断面など今回紹介のものとは違うものの様だ。Img_4046 Img_3838
 



左:上部の赤い大きな石は八津合町の山で見つけたもの、いくらでもある。
右:左の二つは老富町の丸山のもの。どちらも軟らかく、ラテライトと言われるものか?



もし今回のものが岩石で無かったら、炉材ではないかと思うのだが、どうだろう。焦げあとは着いていないので念のため。従前に収集した岩石を含め、小滝先生に鑑定をお願いしようかと思っている。

 もうひとつが上林川左岸堤防南側、念道橋下流30m地点で発見した黒っぽい小さな穴の開いた軽い石である。採取した当初は単なる石ころかと思ったのだが、よく見ると従来採取した多くの鉄滓の表面部分と同一で、鉄滓の一部と思って間違いない。ネオジウム磁石で極かすかに反応するので、鉄の鋳物滓の一部と思われる。P1030268
 



右が上林川で見つかる一般的な鉄滓、左が今回のもの、同一のものだと解る。他だし左の鉄滓はセメント状の部分ばかりで、溶岩の溶けた様な滑らかな部分が無い。



さてこの鉄滓なのだが、収集することは容易なのだが、それから先の探究というのが進まない。
 上林川念道地域で発見されるものが総て清水の鋳物師の作り出したものだろうか。
 一つだけ、他のものと違う大きな鉄滓は果たして鋳物滓なのか。
 製鉄滓、鍛冶滓とはいかなるものか。
 非鉄金属のスラグとはどのようなものか。
 現在収集している鋳物滓と思われる鉄滓についてもプラスチック状部分とセメント状部分、気泡、鉄片、炭の部分は構造上どのように出来るのか。
 など、解らないことばかりである。簡単に質問できる人も居ないし、鉄滓に関するまとまった書物も無ければ、インターネットで調べても要領を得ない。
 根気よく謎を解決して行くことと、上林川以外の地での発見を目指してやるしかない様だ。

【晴徨雨読】106日目(2006.11.14)松戸~古河
出発前に明大の岳友富山君の家にゆき、山下清氏の絵を見せてもらう。この絵の謂われについては本文を見て貰えば良いが、この旅行中に見ておかなければ一生お目にかかることは無かったと思う。Img_1727
 

絵の裏に「百合とあじさい 出来上がった日昭和三十年七月十七日 山下 清」とある。


 松戸から古河までほとんど自転車道を走る。都会の一般道にうんざりしていたところなのでもってこいなのだが、各地の風物に出合うことが無いのは欠点である。Img_1728


江戸川サイクリングロード、竹馬で千葉県一周を目指すおじさんに会った。




【作業日誌 11/14】
ウッドデッキ予定地除草、整地

【今日のじょん】:二日間の鹿の襲来の後食害は無いのだが、どうも夜な夜な通り道となっているらしい。毎朝じょんと確認してゆくのだが、何かじりじりと侵食する中国の様な気がして、やがて畑も庭木もやられてしまうんじゃないかと不安になる。ここでなんとかしなくちゃ。P1030251 P1030252
 

 
 
 

 

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じょんのびアラカルト’12.11  11/13

2012-11-15 | 日記・エッセイ・コラム

2012.11.13(火)曇、雨

 ☆11.16じょんのびハイキングについて
   週間予報を見ると、どういうわけかこの日だけ傘の中のお天気マークとなっている。予報が当たってくれれば良いのだけど、、、。
 初めての方の参加もあったので、安全のため下山ルートを変更して弓削道ルートを取ることにしました。P1000091

 
今年はこのあたりの紅葉が楽しみ(2011.11.21弓削道)


 ☆中尾種苗から玉ネギ苗が届いた。
  昨年はコメリで買ったが、あまり大きくならなかった。苗のせいでは無いと思うが、さすがに中尾さんの苗はしっかりしている。元肥もしっかり入れて美味いタマネギ作るぜ。赤タマネギも楽しみ。
P1030264
タマネギ植えつけ、その向こうはブロッコリー、結局畑は休む暇なくフル稼働。 



 ☆椎茸が出て来たぞ。
  椎茸は二夏を越すと出てくるそうだ。なにしろ原木が薪のあまりという頼りないものだから不安になっていたのだが、とりあえず出てきた。椎茸小屋が崩壊状態なので、猿対策をなんとかしなくてはいけない。
P1030265
 
とりあえず出てきた原木は避難しているのだが、、、


 ☆万願寺唐辛子の醤油漬け
  今年の新メニュー万唐の醤油漬けをかみさんが作る。ごはんがごはんがすすむ君であっという間に無くなってしまった。つづいてUFOピーマンの醤油漬けをしたがこれは辛くて食べられない。調味料として使う分には問題なし。

 ☆ウッドデッキに取り組む
  ウッドデッキの補正予算が5万円通った。3m×3,6mで普通の家庭だと超でかいのだが、我が社の庭ではなんともこぢんまりしている。増築も可能な様にしておきたいが、まあとにかく工夫するのは楽しい。犬連れのお客さま、お楽しみに。P1030248

 
ビフォア。


☆今秋もキヌガサダケ
  先日照会済みだが、秋のキヌガサダケがドンドンできてきた。レースが無い上に細くて小さいのであまり面白くない。卵(壺という)の部分などは一緒なので、夏のものと同じだと思うのだが、、。P1030250

 



 ☆ブロッコリーとは如何なるものか
  中尾さんに頂いたブロッコリーが育って来たが、収穫時期が解らない。とにかく一本花を取って食する。うーむまずまず、しかし毎日虫を捕って苦労して育てたのがこれでお終いかなと思うと情けない。ところがよく見ると枝から順に花が出てきている。よかった~。

 ☆鹿対策
 東側の岸が鹿の通路になっている。遂にゆすら梅と木イチゴがやられた。とりあえず使い古しの防鳥ネット掛けているが、それだけでは図に乗りそうなので通路をなんとか遮断しなくては。

【晴徨雨読】105日目(2006.11.13)筑波山~松戸
筑波リンリンロードは廃線を利用したサイクリング道で、とてもユニークで楽しい。駅がそのまま残っており、休憩所になっている。土浦から先は都会の道で走りづらいことこの上ない。これから関東を抜けるまで走行は大変だ。いかに空いた道、走りやすい道を探すかがポイントだが、ルートファインディングも難しくなる。
松戸では大学の山岳部の同輩に会う。Img_1717


つくばりんりんロードから筑波山をふりかえる。


【今日のじょん】【作業日誌】は本文中にありお休み。
  

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別所探訪(40) 菟原中-39 11/12

2012-11-14 | 歴史・民俗

2012.11.12(月)曇

 (4)別所~馬船口~宿
 別所の中をどのように通過したか確定できていない今、別所の尾根のどこから下ってくるのか解らない。
 別所には龍源寺の前身ともいえる寺院があっただろうと考えている。それは龍源寺の寺領が別所にあること、別所にあった毘沙門堂が嘉永六年に龍源寺の二十一世住職によってゴウドの森で建て替えられたという棟札の発見によるものである。
菟原村史には真言か天台かという風に書かれていたが、天台宗の福林寺がすぐ隣にあるわけで、おそらく真言密教の寺院だと思っているのだが、いずれにしても禅宗が生まれる前の古い時代のことであろうと思っている。
 別所の古代寺院、あるいは毘沙門堂の位置が街道のルートと大きく関わっていると予想されるので、これ等の位置を確定するのが先決かと思うのだが、この地の困難性は住人がいないこと、養鶏場があるためにむやみに立入が出来ないことである。
 候補となるルートは二つある。養鶏場の駐車場辺り、つまり尾根が台状になっている辺りを横断して、友渕川側、春日田という辺りに下り山裾を回り込んで馬船口に到るものが一つ。そしてもうひとつは義経谷を遡り、尾根を越えて馬船谷を下るものである。もちろんこれらは単に予想しているだけのもので、確証があるわけでは無い。なんとかして別所の中を歩いてみたいものだ。思えば別所の友渕川辺りもまだ入っていない。歩き、そして聞き取りを進めることによって確定できるだろう。
 P1020960 P1030180




別所から降りてくるのは、一段緩くなった辺り(左)か馬船谷(右)ではないか。

 友渕川の渡渉地点は馬船口であろうと思う。現在とは地形も違うだろうが、左岸馬船側は岸になっており、水も深そうである。街道としてはネックとなる地点だ。馬船(まぶね)というのが渡しの舟の意味かもしれないという説を書いたところである。
 別所から宿へ向かう道としてはこの地点で渡渉する道が一番合理的だからだ。
 実は最初に菟原中を訪れて、街道を探ったとき細野峠方面から辿ってみた。街道筋に対する予備知識など何も無いときに、単に道の傾斜や合流角度など合理的なものを選んで進んで行くとこのルートを辿ったのである。しかしその道が友渕川に突き当たった瞬間に間違いだと思い、他のルートを探すことにしたのだ。
 京街道に旧道があることなど知らない者が、感性のままに辿った道が本来の街道であったとしたら、これって感動ものである。P1030182 P1030183
 



馬船口徒渉点と思われるところ(左)
徒渉点から宿に向かう一本道、段丘を上がると大きく右にカーブする。(右)


 ただ、段丘を登ってから現在の府道との交差点までのルートは違和感がある。ここは田園地帯で、いわゆる圃場整理的なことが過去に行われたのだろう。もし野原の間を街道が走っていたとしたら今の様に直角的な交差は無いのではと考える。P1030153
 



段丘に上がってきたところ、右の道が候補なんだが、往時には野原だったとしたら右に斜めに進んでいるだろう。

宿垣内辺りの街道については既に述べたところなので省略する。
  つづく

【晴徨雨読】104日目筑波山に登る。
関東のハイカーに人気の筑波山に登っておこうと一日を登山にあてる。ところが秋のシーズンと日曜日が重なり、とんでもない混雑であった。行場だけに鎖場や胎内くぐりの様なところがいくつもあり、そのたびに行列となるのはなんとも興ざめであった。独立峰的な山なので山頂からの景色は抜群で、好天とともによい一日だった。ただし、関東に入った途端温泉の入湯料が高くて入る気がしない。東北が羨ましい。Img_1697Img_1704 
 



弁慶七戻りと山頂俯瞰、霞ヶ浦方面

夕方には赤富士が見えた。富士山は見る山である。白富士、赤富士Img_1694 Img_1716_2





【作業日誌 11/12】
ウッドデッキ材料買い付け、塗装

【今日のじょん】:その手は桑名の・・・
 散歩から帰ってくると玄関の坂で放してやるのだが、いつも植木の蔭からおかーが「ワッ」と驚かす。そのうちに学習して植木の手前で立ち止まって様子をうかがう様になった。カシコイネー。

</object>
YouTube: その手は桑名の


 

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別所探訪(39) 菟原中-38 11/11

2012-11-14 | 歴史・民俗

2012.11.11(日)雨、風強

(3)淵脇~清水坂~別所
別所周辺概念図 破線が旧京街道予想路

「ubara-1.JPG」をダウンロード

 細見さんの言だと、淵脇から福林寺の尾根を越えて谷(薬師谷)に降りて、義経から別所に行くということだった。
 淵脇(ふちわけ)から馬船口に到る道は街道のあり方ということを考えさせられる。つまり現在と往時の地形の差がそう無いとしたら福林寺と別所の尾根を越える意味は何だろうかと不思議に思うのである。淵脇から福林寺の下を通り、馬場から別所の尾根を回り込めば上り下りのアルバイトは随分少なくて済む様に思う。
 もちろん現在の様に堤防など無くて川沿いは湿地帯となっていて通行困難だったと思われるが、尾根の末端のトラバース道なら通行は可能だろう。
 当初は福林寺と龍源寺の前身の二つの古い寺院があるために、その地を巡る街道が出来たのかという風に考えた。
P1020935
 



尾根を越えるより山裾を回り込む方が楽そうだけど。(淵脇から福林寺下)

 道が先かお寺が先かという問題になるが、やはり道が古いのだろうと思う。道は人間が生活を始めればすぐに出来たものだろうから。そして街道が出来たところに寺院が出来たと考えるのが順当だろう。
 それではなぜ川沿いの安易なルートを取らなかったかというと、山腹のトラバース道は例え作ることが出来ても、保守が出来なかったのではないだろうか。
なるべく川を渡らない様にしてきた道であるが、同じように壊れにくいということも大切なことだったのだろう。壊れやすくて補修が大変な道よりも、少々上り下りの苦労があっても確実なルートが選ばれたのだと思う。
 さてこのルートだが、聞けば簡単なルートなんだが実際にはほとんどが解らない。再度聞き取りをし、実際に歩いてみないといけない。とりあえず予想されるルートを覗いてみた。
 淵脇から福林寺の尾根に登るルートは、淵脇から見上げると林との境となった斜めの道が尾根に向かっている。この道は福林寺歴代住職の墓地となっているところに登り着く。そして右に行くと神社、左に行くと福林寺に行く三叉路になる。そこから先が解らない。獣道らしきものはあるが、街道らしき道は見当たらない。
ひょっとしたら福林寺の山門前を通って薬師谷の道に降りていたのではないだろうか。
P1030131_2 P1030149 P1030152 P1030133 P1030134 P1030136 





左:炭焼き小屋手前に降りてくる道?
中:養鶏場駐車場辺りに向かう坂?
右:義経谷は炭焼き小屋からもう一尾根回り込んだところ。


 養鶏場の駐車場下辺りに小さな谷がある。また駐車場からは切り開きらしきものが確認できる。これが清水坂なら大きく前進するのだが、、、。
つづく

【晴徨雨読】103日目(2006.11.11)石岡~筑波山
11月11日は雨が多い様だ。今年も、昨年もそして2006年も厳しい雨だった。タイトルのとおり雨の日は行動しないことにしているが、そうも行かないときがある。そしてどういうわけか雨の日は峠越えとなる。ずぶ濡れの旅人を温かく迎えてくれる宿がとても嬉しい。
Img_1687




雨の峠越えは超憂鬱(不動峠)

【今日のじょん】:いやー今日もやられた。この春買ったユスラウメと木イチゴが鹿にやられた。くやぴー。いっぱい周りに木があるのになんで買ってきたのばっかし食うんだろうね。なんとかしなくちゃ。
P1030244 


 

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別所探訪(38) 菟原中-37 11/10

2012-11-11 | 歴史・民俗

2012.11.10(土)曇

 菟原村史にある旧の京街道が如何なる根拠に基づいて書かれたのかと考えるが、どこの古文書だどこの古地図だということで無く、この土地のだれもが知っていることだったのではないだろうか。京街道といったって京に向かう道というだけのことで、現在の国道のようにどこからどこまでどこを通って何Kmというものでは無いだろう。
 元の京街道が、増水時の迂回路として使われていたという文言は土木技術の進んでいない時代に如何に合理的にルートを作ったか、まさに道路の神髄として値打ちがあるのではないだろうか。
 そんな先人の残した知恵の結晶とも言うべき街道を発掘してみたいという気持もあるし、別所が閉塞された地というイメージを払拭するという目的もある。

 菟原村史にあるルートは、柏田ー猪ノ倉ー淵脇ー清水坂ー別所ー馬船口ー宿である。清水坂を除いて総ての地点が確認できているが、その詳細なルートは模糊としている。少しずつ聞き取りなどしながら確認しているところだが、現在予想しているルートを紹介してみよう。
(1)柏田~猪ノ倉
 柏田には有名な道分け地蔵がある、「右さ々山道 左り京」と書かれており、明らかに柳瀬で土師川を渡る新京街道ができた後の道標だろう。P1020716




  もちろん猪ノ倉に行くには右に道をとる。三和タオルの工場の前で府道710号線と右の谷沿いの道との三叉路となるのだが、自転車で走っているとどうしても右に行ってしまう。それは府道が田園地帯の真ん中を一直線に走っている新しい道で、なんとなく古い道の雰囲気が無いからだ。山裾の道を街道跡の遺跡など無いか注意して進むがそれらしいものは無い。この土師川の支流は上部に牛谷と書かれているが、何という谷なのだろう。いくつもこの谷を渡る道があり、防獣柵の無いところを渡る。山裾から田圃に出ると府道が近づいてくる。このあたりが猪ノ倉らしい。かつての屯倉とも伝えられているがどうだろうか。
 山沿いの道は雰囲気はよいが合理性を考えれば府道710号線沿いが短距離で理想的だ。ただし、新しい広い道となっているので昔の様子を探ることは出来ない。このあたりは民家も少なく、古地図でも無い限り結論は出せない。P1020926




山沿いの道と府道、どちらが古道か?

(2)猪ノ倉~淵脇
猪ノ倉から最初の左下に下る道に古い地蔵さまが祀ってある。街道沿いにあったものを集めて祀ってあるとしたらこの道が街道かもしれない。この道は先程の山沿いの道から府道を横断して道なりに進入するもので、道なりに進んで行くと鹿倉大橋に出る。この大橋は新しいもので、橋の手前を右に急坂を下ると岼ヶ鼻川を渡り、土師川にぶつかる。P1020929 P1020928 P1030126
 



左:土師川を渡る小久保橋、古道は土師川を渡れなくて右手の尾根を行く。
中:尾根に取り付くのは岼ヶ鼻川を少し遡って取り付くのか。
右:はたまた尾根の末端から取り付くのか。



 ここから淵脇に到る土師川左岸の尾根を登るのだが、取り付きが解らない。岼ヶ鼻川の右岸に道らしきものが見え、手前の家で聞くと高杉に行く道だといわれた。この谷沿いに遡っても高杉には行けず、桑原(篠山市)方面である。そうするとその途中から尾根に取り付き、淵脇から別所、馬船を通って高杉に行くと言うことかもしれない。
 土師川沿いは崖になっており通行は難しそうで、やはり尾根の上を行くのだろうが、尾根の末端から行くのが最も容易いと思われる。
 尾根末端は木が生え込んでおり、獣道らしき空間が続いている。ここの部分は両方歩いてみないと解らないが、淵脇の細見さんが知っておられるかも知れないので再度聞いてみたい。つづくP1030130




この尾根の中を通り淵脇に着く。

【晴徨雨読】102日目(2006.11.10)水戸~石岡
早朝、偕楽園など見て歩くが庭や建物にはあまり興味が沸かない。150mはあろうかという南崖の洞窟(神崎岩という石の砕石址)など変なものに興味が沸く。Img_1668




道中旧知の新田穂高君がこの辺で田舎暮らし始めたというのを思いだし、電話して訪ねることにした。いやあ、凄い家で驚いた。Img_1679Img_1680   






【作業日誌 11/10】
薪保管箱作製、制作費無料P1030246






【今日のじょん】:深夜にガタンという音がして、じょんがえらく吠えた。起きて様子を見るが何も無い、じょんも静かになったので再度寝てしまった。そして朝、じょん桜を見てびっくり、鹿がやってきたのだ。今までつる草や龍のひげなどは食べられたが、樹木は初めてで、ショックを隠せない。P1030237

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別所探訪(37) 菟原中-36 11/9

2012-11-11 | 歴史・民俗

2012.11.9(金)雨

 文章だけでは理解できないので、宿周辺概念図を作成する。P1030242

「syuku.jpg」をダウンロード

 A:石垣の残る畑、番屋跡か?
 B:不寝の森
 C:不寝の森下の平坦地、田圃か住居の跡?
 D:住居跡、棕櫚などの庭木、井戸跡あり。
 E:道のついた平坦地、住居跡か?

 道の順に辿ればよかったのだが、Dの住居跡からあたらし屋さんまで辿り、道を引き返してB,Aしゅうず交差点まで行ったので、その順に説明する。

 Dは間違いなく住居跡であり、これが三軒あったと言われる旅籠の跡だと確定できることとなった場合はなんらかの形で保存して頂きたいと思う。Dから下は造成地となっており過去のものを発見するのは難しい。残りの旅籠のあった可能性もあり残念だ。なおDの上にも段状になって平な部分があるのだが、これが街道跡かもしれない。また山中にも平な箇所がいくつかあるが、住居跡という証拠は何も無い。P1030160

 


庭木、棕櫚の元に井戸がある。山側に帯状の段があるが街道跡かもしれない。

Dからヴェルディみわ方面に向かって竹藪の中に道が続いている。作業道としても使われていないようで、倒木ならぬ倒竹に苦労する。右手に細い道らしきものがあり、小さな平坦地がある。Eであるが、居住地跡という証拠は無い。やがてヴェルディみわの造成によって道は崖の上で消滅する。あたらし屋さんの言によるとその後街道はヴェルディみわの取り付け道を横切り、あたらし屋さんの横の小道から宿垣内に入るということだ。P1030159 P1030158 P1030155

 



左:造成地の南側にぽっかりと空いた街道跡
中:竹藪の中は意外とすっきり
右:分譲地の道路で途切れている

P1020968 P1020967

P1030157



左:街道は分譲地道路を横切っていたらしい
中:そしてあたらし屋さん横手から宿の街に入る。
右:E地点、竹藪の道から派生した小道、住居跡かどうかは不明


Dに戻り、しゅうず交差点に向かって歩き始める。杉丸太で橋が作ってあり、少し登ると尾根の周囲を廻る、いわゆるユリ道となる。陶器やガラスが散乱している所があり、古いものかと思いきや最近のものであった。この右上が不寝の森Bでこのことは地元の方に聞いたものである。その左下は石垣で組まれた平坦部に植林されており、住居跡の可能性は高い。C

P1020972 P1030164 P1030166

 


左:谷には丸太橋がかかっている。小さな坂を登る。
中:やがてユリ道となり、右上あたりが不寝の森。B 左下には平坦地がある。C
右:やがて林を飛び出し、民家の裏手に出る。



やがて林がとぎれ明るくなる。道の両脇は草地となっているが、かつては畑であったのだろう。その上は栗などが植わっており、山につづく。
 やがて石垣で囲まれた部分が出てくる。A
 これこそ番屋の跡ではないかと予想しているのだが、もしそうだとしたらかなり広いものとなる。P1030175 P1030172
 



石垣に囲まれた草地がある、番屋跡か?A
道なりに行くと自動的に府道に降りる。


 府道への降り口だが、民家の脇の道と交差点よりもう少し国道9号線寄りの所に斜めに降りる道がある。
 後者の方が道としては素直であり、この道をとりたいがそうすると現在の交差点よりすこし国道よりのところを通過するのかも知れない。

つづく

【晴徨雨読】101日目(2006.11.9)袋田~水戸
 日本三大名瀑袋田の滝は美しさに於いてはわたしの見た中では一番である。美しさの根源は水流の成す模様である。早朝に行ったので、観光客も少なく一人で落ち口まで登ることも出来た。
 山の中でよい滝を見ることはよくあるが、観光地でこんな素晴らしい滝を見るとは思ってもいなかった。また袋田の滝自体を知らなかったというのも不思議なことである。Img_1636_2 Img_1630 Img_1640








【今日のじょん】:じょんじょん秋を発見。
 じょんがどうしても行きたいというのでじょんのび谷方面に入ってみる。秋のキヌガサダケ発見、しかも六本も。夏に一本しか出なかったので大満足。柚子も黄色く色づいてきたぞ。P1030230 P1030232

 

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別所探訪(36) 菟原中-35 11/8

2012-11-10 | 歴史・民俗

2012.11.8(木)曇

 別所周辺の地名考証がずいぶん手間取って、継続中の街道探索の記事がなかなか書けなかった。まず肝心の不寝の森の探索から紹介してみよう。
 不寝大明神は現在ゴウドの森に影清稲荷などと共に祀られているが、もともとは京街道沿い、宿の手前の山腹にあったそうだ。
 京街道は案内板や「京街道を行く」(三和町郷土資料館)にある図や写真と少し異なり、バンド坂から来た道が府道を渡るやや左手から山の斜面を横切って、ヴェルディ三和の分譲地に入るあたりから宿に出ていたそうである。P1020966

 


バンド坂からの道が府道97号線渡る地点、清水(しゅうず)バス停がある。
一応しゅうずの交差点と呼んでおこう。

 この山沿いの道の取り付きあたりが大門垣内といわれ、番屋があったと伝えられている。
 不寝の森は山沿いの道が尾根を回り込む突端あたりの道の山側にあったといわれるが、杉林となっており、その跡ははっきりしていない。いずれにしても不寝大明神が寝ずの番ということで関所や番所の神様として存在することは普通に考えられることで、番屋とセットで存在したのだろう。
 不寝の森のことは菟原中の年配の方なら誰でも知っておられて、詳しい位置や移転した理由や時期を聞き取ることは容易であった。
 移転した理由は「辺鄙なところで誰もお参り出来ないので」と言うことだったが、住居や道路からすぐのところで決して辺鄙ではない。おそらく通常通らないところだから、ゴウドの森に祀った方がお参りする機会もあろうかということだろう。移転時期については昭和の年代には違いないが、話を統合すると5,60年前ということである。P1030164
 



宿からしゅうず交差点に向かう街道の途中、この右上に不寝の森はあったそうだ。左下は平らな地形が続いており、住居があったのかも知れない。

 これ等のことから、柴田氏の不寝大明神は別所にあって、不眠不休で働くタタラ師に係わる神だと言う説は完全に見当違いだといえる。
 
 さて宿のあたらし屋のご主人の言によると、但馬屋、油屋、さかもと屋という三軒の旅籠がこの山沿いの部分にあったという。これだけ具体的なことを一体何で知っておられたか確認していないのだが、おそらく口伝では無いかと思う。特に但馬屋については、但馬国豊岡町の町名主由利六左衛門の「参宮道中記」に、昼弁当をとり、出された茶が宇治茶にも劣らぬ絶品と賞している様子が三和町史(上巻)に記されている。ただし宿垣内の中の一軒だろうと書かれているのみで、詳細な位置は不明なようだ。
 この道の間に一軒だけは確実な住居跡を見つけたが、おそらく三軒の内のいずれかであろう。P1020974 P1020975
 



確実な住居跡はこの一軒、正面の棕櫚の木の附近に井戸跡も発見。

この山沿いの道を順に紹介していこう。つづく

【晴徨雨読】100日目(2006.11.8)白河~久慈~袋田
 やっと本格的なサイクリングに戻る。天気も回復したが、猛烈に寒い。遠くの山が白くて、蔵王や吾妻は雪だろうなと感激する。
100日目にして関東に突入、袋田の滝の上方に日帰り温泉が有り、宿もあるが満杯で泊まれなかった。
Img_1626 Img_1628




関東に入る、何となく感激。袋田の温泉に泊まりたかったなあ。


【作業日誌 11/8】
薪入れ作製
P1030221




先日古城山でもらってきた桜の根元、難物だぜ。

【今日のじょん】:これは何を見てるのでショーか?
答え、川向こうをどんべーが散歩しておるのです。
なんじゃいそれだけのもんか。
P1030233

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別所探訪(35) 菟原中ー34 11/7

2012-11-09 | 歴史・民俗

2012.11.7(水)曇

 馬船は単純な地名だが、重要な地名だと思われる。一応、鉱峰説、渡し船説と怪しげなマ舟説(砂鉄、鉱石の溜まっているところ)を提唱しておこう。
 さて、馬船谷の反対側に義経谷という谷がある。義経谷と薬師谷が出合う辺りが義経というところで、小字名となっている。P1020957
 
義経と義経谷


 柳田国男氏が、荘園の盛時に貴族や大寺院のもとで開墾を担当した身分の低い武士が自らの名と好字を組み合わせて名付けたものだろう、という風に述べておられる類かなと思っていた。それにしても義経とは大仰な名を付けたものだと感じていたのだが、「金属と地名」の中の「金売り吉次の」伝承という太宰幸子氏の論文の中に気になる文章を見つけた。金売り吉次は金属関連の伝承で、特に東北地方で平泉の藤原氏や義経に関連のあるものとなっている。
 金売り吉次の実体についての文中、源義経と関わっていたという項目で、吉次は多聞天を信仰し、さらに源義経は多聞天(毘沙門天)の生まれ変わりとの伝承もある、というものだ。
 別所に毘沙門堂があり、それが現在の影清稲荷つまりゴードの森にあることは既に述べたところである。かつて別所に住まいした人物が、あるいは別所に毘沙門堂を建立した人物が毘沙門天と義経とが関わる伝承を知る人物であったら、義経谷、義経の名を付けたと考えられる。
 別所の毘沙門堂がどの辺りにあったのか解らないが、京街道の旧道が毘沙門谷から登って行くという聞き取りからすると、毘沙門谷の奥、街道沿いに存在したのではないかと想像する。
 もうひとつ別所の北、土師川に向かった平坦地である馬場についてであるが、単に馬の調教場と考えて良いものかと気になっていた。
馬場という地名は全国に数多くあり、そのほとんどが馬の調教場という風に伝わっている。「地名の語源」(鏡味完二)で見ると、(1)崖(ハマ・ハバ・ママと同様)、(2)馬の調練場、(3)広場、(4)山上の平坦地という風に載っている。概して(1)と(2)~(4)グループに分かれるのだが(1)の崖という意味には土手、傾斜地、畦なども含まれるようである。(全国方言辞典)P1020958
 



馬場、この尾根の上が別所、もし地形がそう変わらなかったとしたら、旧京街道は渕脇から馬船口まで別所の尾根を回り込む方が楽なのだけど、二つの尾根を越えているのは、福林寺、元龍源寺の存在があるからだろうか。

全国方言辞典には、通り、街道(長崎、鹿児島)、前庭(長崎)という意味が載っている。
 「白山信仰の源流」(本郷真紹)に白山社についての文中、次のように記されている。
 越前・加賀・美濃の三国で白山への登山口(馬場)が開かれるが、加賀の馬場すなわち白山本宮を除けば、越前と美濃の馬場には式内社は所在しなかったのである。

 この馬場の場合街道、参道という風にもとれるが、山岳信仰のための登山口、つまり山への登り口の門前町的な広場、前庭というような意味があるのだろう。
 別所毘沙門堂の棟札(むなふだ)に、「往古大伽藍有之霊地而遠近男女群成集、、」とあり、常套的な文章と雖も、常々参拝者のおとずれるお堂であったと思われる。地形的に見ると馬場は別所の正面にあり、そこに参道があるとしたら、登山口、前庭という意味がぴったり当てはまるのだが、アクセスの状態を見ると、毘沙門堂の参道は尾根の両脇の旧京街道ではないかと思われる。
 そういう意味で別所の下の馬場の意味は(1)馬の調教地(2)土手、畔(3)広場を候補として挙げたい。つづく

【晴徨雨読】99日目(2006.11.7)那須~白河
やっと自転車の旅に戻る、同時に長かった東北も明日去ることになる。冷たい雨が降る中、どこかへ行こうという気も起こらず、白河の街中を散策する。
「朝によし昼になおよし晩によし、飯前飯後その間もよし」小原庄助の辞世の句だと。Img_1617




お銚子と杯のお墓には参った。小原庄助さんのお墓。


【作業日誌 11/7】
古城山薪拾い最終P1030220




今日は大物の桜の根元もやっつけた。最終日の記念写真、バックは蓮ヶ峯。

【今日のじょん】:超難関コース
ぽんぽこぽんのボールが草むらとか木の下に入ると怖くて取れないのだ。「出た手足に目鼻をつけて、、、」とやるんだが、なんともかんとも。
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YouTube: 超難関コース

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別所探訪(34) 菟原中-33 11/6

2012-11-09 | インポート

2012.11.6(火)晴れ

 もしマ=砂鉄、鉱物といった突拍子も無い説が当たっていたとしたら馬船はまた違った意味を持ってくる。舟、池というのはものを溜めておくところという意味がある。
川の流れが緩くなったところに鉄分の高い砂鉄が沈殿して積もったらそれはマブネ(馬船)といえるだろうし、山に鉱脈があり、鉱物が溜まっていたらそれもマブネ(馬船)といえるだろう。もしこれが当を得ているとしたら、別所が産鉄の地である事は明白となる。ただし残念なことに確実に産鉄の地であるところに馬船地名が無いということである。
 金属関連地にあるのは馬船ではなくて湯舟である。大江山の鉄滓が出土している北原遺跡の東方、内宮を中心として対照的な位置に湯舟山(368m)がある。
 また「猪鼻のこと」で金属関連地帯として紹介した和束町の和束川沿いにも湯船がある。
 このように湯舟(ゆふね)は金属地名として認知されており、ほとんどの説が「金属の溶けた様子を湯という」という根拠を上げている。これは当然のことで当を得ているのだが、湯舟となるとどうなるのだろう。鉄をはじめとした金属の溶けたものが溜まっているところが湯舟なのだろう。
 たたら製鉄の絵巻物として有名な隅屋鉄山絵巻で鉄の溶けたものが溜まっている様子を見ると、それは鉄池であったりユツボという名称で書かれている。つまり炉から取り出した溶融した鉄を溜めるところは湯舟ではないのだ。
 湯舟というとたたら製鉄の炉そのものを考えがちだが、文献で見る限り炉が湯舟とは書いてないのである。
 たたら製鉄で舟が出てくるのは、炉を作る際に湿気を嫌い、炉内を高温に保つために床という地下構造を作る、その床を作る際(床釣りという)に大舟、小舟という構造が出てくるのである。これは炉そのものではなく、湯を溜める構造のものではない。
 「青森県の地名」(松田弘州)では次のように書いている。
タタラ製鉄では、「炉床となる築造部分を大舟といい、この大舟の両脇にあって防湿保熱の役をする空気溝を小舟と称した」(和鋼風土記・山内登貴夫氏)から、タタラ炉は”ふね”でもあった。また、鰺ヶ沢の湯舟神社の御神体は”鉄塊”だそうである。従って、湯船地名の場合、タタラ製鉄をした所と推定できる。

 
誠にごもっともな話なのだが、何か腑に落ちない。湯が溶けた鉄を表すのでは無くて、砂鉄や鉱石を表すとしたらどうだろうか。確たる根拠が見つからないので辛いところなのだが、そうすると各地の金属関連地の湯地名の解明ができるというものだ。
 大江山の北側、古代製鉄地帯温江(あつえ)の南に湯の谷という谷がある。和束町には湯谷山(381m)がある。上林にも湯の付く谷がいくつかあり、温泉伝説も付随している。たたら候補地の浅原(あずら)には夕船(ゆふね)という小字もあImg_3226る。



浅原の谷、夕船は林地の小字だがこの谷のどこにあるのだろう。




  武吉町にも湯舟という所が有り、その山側が笹尾という林地である。Img_3341




今年の金比羅大祭は武吉町である。3年前の写真であるが湯舟はこの手前の所である。


 湯舟とは砂鉄や鉱石の溜まっている場所と考えてみたいのだ。湯舟について長々と書いたが、わたしの想像が当たっていたら、湯舟と馬船は同義語ということになる。つづく

 【晴徨雨読】98日目(2006.11.6)那須湯元温泉鹿の湯
 【作業日誌】古城山の薪拾い
 【今日のじょん】:キョート銀行
 
 
 

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YouTube: キョート銀行

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別所探訪(33) 菟原中-32  11/5

2012-11-07 | 歴史・民俗

2012.11.5(月)曇、雨

 間歩(まぶ)、とは坑道のことであり、真砂(まさ)とは花崗岩の風化した良質の砂鉄である。「真金(まかね)吹く 吉備の中山」とうたわれた真金は鉄のことである。
 マというのが金属、鉱石を表すのではないかと思うのだが、それらしい説は無いようである。語源辞典を見てもマが鉱を表すなんてことは載っていない。
  大江山の内宮の奥に北原というところがある。奥北原から鬼嶽稲荷に向かう道の右手の谷を魔谷(またに)といい、タタラ跡らしきものがあり、鉄滓が出たという。この鉄滓を分析するとチタン分が多く品位の低いもので、砂鉄ではなく鉄鉱が原料ということである。(大江山鬼神幻景)
Img_3790



内宮の西に聳える城山(427m)この向こうが口北原でさらに奥が奥北原となる。

 魔谷と書くのでやれ鬼だの魔物だという話になるのだが、それは真谷でも間谷でもよくてマ谷なのではないだろうか。
 全国各地の製鉄遺跡や鉄滓出土地を見ていると間谷、真谷という地名が目に付く。どうも”マ”に金属に関係する意味があるのではないかと勘ぐっているのだが、鉱谷と書いて”まぶだに”と読む地名があることを知った。またマブを鉱生と書くこともあるらしい。
 鉱生といえばおおい町川上の鉱生谷を思いだす。廃村宝尾に到る尾根の東隣の谷が鉱生谷(こびだん)である。稜線を越えて高浜に下ると子生(こび)であり、子生川(こびがわ)となる。これは偶然なのか必然なのか興味あるところだが、鉱生とはなんとも意味深な地名である。”こび”というのは様々な意味があるが、地名の語源と考えられるのは「小さいもの」(全国方言辞典)ぐらいである。この二つの谷を見たとき、何と比べてそうなるかは別として、決して小さいものとは思えない。南北に野尻、犬見の鉱山をひかえ、東に福谷、西に宝尾という金属地名らしき地をもつこの鉱生谷、子生川が鉱物に関係ある地と考えてもおかしくは無いと思うのである。P1020414
 
 


おおい町川上県道1号線から宝尾の尾根、鉱生谷はさらに右手か。

岡山県の方言で「まいし」というのは花崗岩のことだそうだ。(全国方言辞典)
丹波でも、わたしたちが子供の頃言わなかったかなあと思うのだが、真石が花崗岩で真砂が砂鉄の意味なら理屈はあっている。それではマは何かというと、鉱と考えてもよいのではないだろうか。
 
 さて上林周辺では真野以外にマ地名があるかというと、なかなか見つからない。ただ小字とならないところや山、谷の名前となるとあるかも知れない。そのひとつが奥上林のとある谷である。
 その谷は従前から採鉱や製鉄の遺跡があるのではないかと考えていた。もちろんその確率はゼロに近いとは思うが、怪しげな根拠と旺盛な想像力で以てそう思っているわけだ。地元の方と一緒に本谷をつめているとき、その谷の名前を聞いた。「ま谷(たん)」というその名を聞いたときに絶句してしまった。Img_2719
 

ま谷出合、右が本谷。


 もうひとつ、舞鶴の行永で鍛冶職をしておられた方が岩石を収集されており、拝見させて頂いたが丁寧に分類されており「輝緑凝灰岩」などの名前を憶えている。鉱物は無かったようだが、採取地の多くが真の谷とあった。「真の谷ってどこですか」と聞くと、それはどうやら菅坂のようだ。P1020571


与保呂から菅坂をのぞむ、かつての道はこの谷であった。


 菅坂峠は上林から舞鶴に越える峠で、字のとおり鉄に関係する地であると考える。舞鶴側は行永、金屋などかつて鋳物師、鍛冶師の街である。
 丹後国加佐郡の鋳物師国松家はもともと引土にあり、やがて行永に移転したか、分家したかという風なことを読んだ憶えがある。そして菅坂峠の上林側は清水で何鹿郡の鋳物師井関家が操業していた。
 菅坂が鉄に無関係なはずが無いと思っていたところに、真の谷がどうやらその周辺にあるようで、これはいつか確認の上訪れてみたいと思っている。つづく

【晴徨雨読】97日目(2006.11.5)福島~会津若松~那須
面白いものが何にも無い日というのが今日。会津若松の県立博物館に行ったけど面白くも何ともない。決して展示物が貧弱とかそう言うことでは無くて、むしろどこよりも立派なんだけど印象に残っていない。永い旅の間で写真を撮っていないのはこの日だけみたいだ。

【今日のじょん】:フードを替えて吐かなくなっていたんだけど、遂に吐いてしまった。ちょっと調子に乗って鍋もん食わしすぎたかな。反省。
 さてじょんのび村は秋深しという感じ、柚子風呂の前にマコモ風呂をし、ストーブにも火が入った。P1030205P1030214 



   

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別所探訪(32) 菟原中-31 11/4

2012-11-06 | 歴史・民俗

2012.11.4(日)晴れ

  地名、特に金属関連地名について研究を続けていると金属関連地域、それは鉱山の所在地であったり、鋳物師や鍛冶師の居住地であったり、古代の製鉄や鍛冶遺跡であったりするのだが、妙に共通する地名が出てくる。既に金属地名として認知されている、金山、金堀、金屋、鍛冶、鋳物師、タタラ、釜など誰でも納得する地名と、認知はされているがそう誰でもが知っているとは思えない、芋、糠、ホド、吹き、菅、穴、アサ、藤、椿、サビ(寒、淋)、菱、黒、赤、ササ(笹、佐々)、湯、湧など多くの地名がある。
 そして認知はされていないが金属関連地に共通して出てくる地名がいくつかある。
例えばユリ地名などは鉱石を選鉱する淘汰からくる地名だとして2009年だろうか「遊里のこと」のなかで提唱した。何とも稚拙な発想で、恥ずかしいから撤回しようかと思っていたところで、柴田弘武氏の「別所地名事典」に同じ様な発想でユリ地名が出てきたので驚いた。しかもそれはわたしの発想より先に出されているのだ。
 そのユリのように認知されていないが金属関連地名では無いかと思われるものがいくつかある。根拠が無くて、発表できなかったのだが公表して多くの方の意見を聞いた方が良いかと思うので、列挙してみたい。
マ(間、馬、真など)地名、草地名、清水、引地、杉、桜、芝、虫、シズ(志津、静)、平、生、江などである。思いつくままに書いたので他にもあろうかと思うが、おいおい各語について記事を書いてゆきたい。
 今回は”マ”についてであるが、それは佐渡の金山を訪ねて逗留していた宿が、真野湾に面していたことが発端である。もちろんその時には何も感じていなかったのだが、産鉄の地を調べていて真野の地名が出てくるのである。Img_0413


真野湾はトライアスロンの準備で大わらわだった。(2006.8)


 その時佐渡も真野湾だったなあと思いだし、他の真野地名を調べる。南相馬市や石巻市の真野川は文献や周囲の地名からも金属関連地であることが解る。
 大津市の真野、真野川にしても産鉄の地である。真野氏という氏族が居て、やがて各地の真野郷に広まったという説がある。いずれにしても知る限りの真野地名は産鉄あるいは金属関連地域なのである。
 そして上林にも真野がある。中上林に入ると念道(ねんどう)、小山そして真野となり、その向かいが浅原(あずら)となる。真野の地は江州真野ノ庄から佐々木季重なる武士が来たという伝説がある。(上林風土記)それで真野というのかも知れないが、その向かいにある浅原に注目したい。「浅原のこと」で述べたようにそこは上林に於ける産鉄の候補地である。その浅原の谷が上林川に合流するところこそが真野なのである。佐々木氏が居住したとして、それ以前から真野だったのではないだろうか。つづくImg_3224




浅原が産鉄の地だと予想するのはその地名と、金山彦神を祀る葛禮本神社の存在だ。

【作業日誌 11/4】
ウッドデッキ作業3日目、ツーバイフォー塗装

【晴徨雨読】96日目(2006.11.4)霊山、飯坂温泉
秋の観光シーズンに三連休と来ているから、どこも大変だ。霊山に登って飯坂温泉鯖湖湯に入る。贅沢なコースだ。原発事故後どうなってるんだろうね。Img_1603 Img_1612_2






【今日のじょん】:朝の散歩時の好きな風景、上林川の朝を御紹介しよう。じょんはいつも居るんだけど、入れるとゲージツ性がそこなわれるので、じょん無しでどーど。P1030209 P1030207


 

 

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別所探訪(31) 菟原中-30 11/3

2012-11-04 | 歴史・民俗

2012.11.3(土・祝)曇

 友渕川は単なる土師川の支流と考えがちであるが、地図を広げるとその奥深さが解る。源流まで土師川とかわらないくらいの距離があり、支流も沢山集めている。水量の少ない時期ではあるが土師川も友渕川もそうかわらない水量である。
 旧京街道は馬船口から宿(しゅく)に至るとある。どこかで友渕川を渡る必要があるのだが、馬船谷の少し上流、宿からの道が友渕川に辿り着く地点が最有力と思える。まだ確認していないのだが、その地点が馬船口と言われ、白蛇伝説の権現様があるところだと考えている。P1030182




この地点が馬船口の渡渉地点ではなかろうか。かつては堤防も無いので葦などが茂っており、流路も広く、水の流れも悪くよどんでいたのではないか。P1030183




渡渉地点と思われるところから、真っ直ぐの道が坂を登り、右に大きくターンして宿に向かっている。

 問題はその地点が徒渉点だとして、結構水量があることだ。もちろん河川改修された今日の流路と多少の違いはあるかも知れない。最も渡りやすいところを渡るのが道づくりの常套だと思うが、水量に関してはこのあたりだとどこでも同じなので、水の流れが一番静かな地点が選ばれたのだろう。当初は橋も無いだろうから渡渉、もしくは渡し船が使われたのだろう。少なくとも物資の移動には舟が使われたと思う。これこそが船底の平な馬船(まぶね)だったのではないだろうか。
 馬船金属地名説でなかったらこれだろうと言うのが、馬船渡し船説である。この二つの説を馬船の語源として提唱したい。
 そんな時、「炭焼長者伝説」全国調査の概要(羽場睦美)という論文に、ある調査報告を見つけた。馬船バス停があるという浜松市和合の南に鴨江寺という真言宗の寺院があり、曳馬拾遺という書に炭焼長者伝説があるという。炭焼長者伝説というのは産金をはじめとする金属関連伝説といえるが、先に指摘した伊場(わたしが指摘したのは東伊場だが、伊場、西伊場、南伊場という地名が存在する)に鉄滓が発見されているという。伊場は漢字で表せば鋳場であったのだろう。
 このように馬船のある地域がアトランダムに選んだごく少数の地域にもかかわらず金属関連地だとすると、もしやという気もするのである。
 実は常々思っていることなのだが、根拠も確信も無いので発表していない一つの説がある。この際に恥を忍んで公表しておきたいと思う。つづく

【晴徨雨読】95日目(2006.11.3)吾妻小富士、阿武隈洞、高湯温泉
 自動車で周遊すると遠いところも、高い所も関係ない。どこへでも簡単に行けるのだが、その道中だとか、目的地そのものも記憶に残っていない。道中のスピードもそうだが、苦労無しで到着するもんだからありがたみが無いのだろうか。今から思うと阿武隈川の右岸地域は魅力のあるところなんだが、福島原発の事故による後遺症は尾を引きそうである。また訪れることはできるのだろうか。Img_1595 Img_1600




吾妻連峰と阿武隈洞の採鉱跡駐車場。


【作業日誌11/3】ウッドデッキ作業2日目、塗装
ちょっとずつ買ってきて防腐の塗装をする。P1030195




安物のSPF材なので、防腐剤、塗料など都合4回は塗らんなんやろな。

【今日のじょん】:遂に爆発、というほどでもないけど破けてきやした。オニフスベ。P1030206

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別所探訪(30) 菟原中-29 11/2

2012-11-03 | 歴史・民俗

2012.11.2(金)曇、雨

 地名からその地の歴史を探るということは大変魅力的なことではあるが、困難且つ実現不可能な事のようである。柳田国男氏が若い研究者に常に言われたことは、「地名にこだわっていてせっかくの青春期をむだにしないように」ということだそうだ。
地名研究の第一人者がそう言われた背景はなんだろう。それは地名を研究すれば解ることである。つまり地名は幾ら研究しても証明できない、探究すればするほどその語源は多岐に拡がって収束しない。永久の迷路に踏み込んだようなものである。
そんなことに青春の大切な時間を費やすよりも、他の方法で歴史を追究する方が、真実に近づく近道だとおっしゃっているのだと思う。
 もちろん氏は逆説的におっしゃっているのであろうし、むしろ若い地名研究者を励ましておられるのかと考える。
 
 さて、課題の馬船も混迷に陥っている。金属に関連する地名という周囲の状況はいくつかあるのだが、実例が無いのだ。
 ただ、アトランダムに検索した馬船地名については以下の四ヶ所である。

(1)宮城県亘理郡山元町浅生から角田市に越える馬船峠
浅生原、雁田、堀込、金田、堂目木、赤坂、菱沼の郷、金津中学校、

Img_1396
阿武隈川、向こう側が亘理郡である。(2006.10.25)




(2)福島県二本松市杉沢馬船
荒町、風呂ノ入、金敷、船引町Img_1508


阿武隈川を渡る。本宮市辺りか、杉沢馬船は東に15Kmほど。
(2006.10.29)



(3)浜松市中区和合町付近の馬船バス停
菅原町、鍛冶町、東伊場、浅田町、金折町、相生町、馬部町、馬込川、曳馬町、早馬町の他、毘沙門天、神明社、大山祇社有り

(4)愛媛県北宇和郡松野町馬船
上足川、浅辺、吹野々、鈴井、須山、堀切川、保土峰、舟木、馬船川、馬船

 詳しい調査をしたわけでもなく、単に地形や周辺の地名を探してみただけなのだが、(1)(3)(4)は金属関連地域のように思えるし、(1)(2)(3)は蝦夷に関係があると考えられないか。また(2)(3)では舟に関する地名もあり、河川に於ける輸送手段としての舟も考えられる。これはわたしの想像だが、馬船という馬を運ぶための舟は船底が平で、大量の物資を水深の浅い河川で運ぶ際に大変有利であったのではないかと思う。

 金属関連地名としての探究をしながらも、渡しの舟という可能性も大きくなってきた。それは友渕川の渡渉地点の問題である。つづく

【晴徨雨読】94日目(2006.11.2)磐梯噴火記念館、宮城蔵王など車で観光
連休中は休養ということで、東北観光を楽しむ。自転車では行こうとは思わない、吾妻連峰や蔵王を訪れる。Img_1576


蔵王のお釜



【今日のじょん】:カメ虫じょんも昼間は無関心?
これは作日の影像だが、カーテンにカメ虫の影が映っている。随分うろうろと這いずり回っているのだが、全然気にしてない様子。これが夜になると大騒ぎで、念道中に聞こえるくらい吠えまくる。一体何が違うのだろうかねえ。P1030200



 

【作業日誌 11/2】
芝生広場芝刈施肥完了。P1030203_2

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秋のじょんのびハイキング 11/1

2012-11-01 | 山・峠

2012.11.1(木)曇

 
ご存じじょんのびハイキングのご案内

 日時:2012.11.16(金)
 
 コース:鳥垣渓谷~シデ山頂~大栗峠~志古田(中級)
 
 集合:9:00 鳥垣小野田橋
 
 持ち物:弁当、雨具、熊除け鈴、水筒など。
 
 雨天時:雨天中止とします。当日7時に決定。
 

 用具:足下が悪いのでできる限り登山靴、トレッキングシューズを用意してください。

 申込み:カフェじょんのび 0773-21-4632

 
 
 その他の催し案内

 
金谷峠・鬼ヶ城登山会
 
 日時:2012.11.11(日) 8:30里山ねっと集合
 
 コース:里山ねっと(鍛治屋町)~バス小畑~金谷峠~観音寺~鬼ヶ城~観音寺
      ~バス里山ねっとImg_3438
 
金谷峠から大江山連峰(2009.11.14) 


参加費:1,000円

 申込み:11月10日まで 里山ネットまで申込用紙をFAX、郵送、電話も可
       申込用紙・開催要項じょんのびにあります。

 問い合わせ:里山ねっと・あやべ TEL.0773-47-0040
                      FAX 0773-47-0084

 

改心の道遊歩

 日時:2012.11.23(金・祝) 8:00~ 弥仙山登山口集合
 
 コース:(1)弥仙山回遊コース(約6Km)
        登山口~弥仙山山頂(664m)~登山口
      (2)日置谷コース(約8Km)
        登山口~山頂~日置谷~観光センターImg_1802
 
日置谷コース尾根道(2010.11.23
) 


参加費:500円

 申込み:11月19日まで あやべ観光案内所

 問い合わせ:あやべ観光案内所 TEL.0773-42-9550

 送迎:綾部市総合運動公園(上杉町)からシャトルバスが運行されます。帰りも同様。観光センターからも無料送迎バスが出ます。

※じょんのび村長も一応参加予定です。



 
  

コメント (2)
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