今日は、ひさしぶりに 「じいやの本棚」です。
母の直筆による日記の一部 (昭和19年8月9日、次女出産の2日目)
3年前に亡くなった母(享年91歳)の日記を読んでみた。(当時、長男の私は6才)
昭和19年3月頃、戦時下日本の敗色が濃くなっているのが
敵機襲来の頻度が増していることで読み取れる。
前年に父が出征、その時、母は26歳で私を頭に子供が3人、お腹には4人目がいた。
母の実家が小作農であり手伝って生計を立てていた。
作物は主に蓮根、毎日の様に蓮根掘りと記されている。
女ながらに馬で田を耕し、また月に何日かは軍事工場にて義務的に働かなければならなかった。
6才のわたしも、少しでも母が楽になればと子ども心に、冷たいレンコン掘りに入り、
もくもくと手伝いをした。
農作物の米、唐芋は強制的に国に供出させられ、農家といえども配給を受けていた。
特に驚いたのは、戦地に送る家族の写真を撮り、出来上がるまでに1ヶ月半もかかったと。
近所の男達は、次々に出征して行く。仕事の手をやめて見送りに駅の近くまで行き、旗を振ったとある。
雨の日は、子供の縫い物。夜になると敵機襲来防空壕に避難している。
よくもこんなに、毎日日記がつけられたと思う。
必ず帰ってくるであろう夫に、見せようと思ったのかもしれない。
しかし、とうとう父は帰ってこなかった・・・
出征前に父が働いていた”万田山”を今日も二階の窓から一人みつめている。
上の冊子は、じいやの弟が簡単な製本にして兄姉妹に配ってくれたもの
セピアいろに変色してしまった、切ないほどの日記帳の表紙。
上の写真は、戦地の父に送ろうと思って撮った写真の一枚
☆ 読後感想 (杏子)
わたしの父は幸か不幸か、病弱と目の病気のために、通信兵の仕事ができなくなり
短期間で復員してきたが、おそらくは周囲の悲国民扱いの気配を痛烈に感じながらの
苦しい毎日を送ったのだではなかろうか・・・(当時の私は4才)