hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

中目黒駅〜目黒駅の坂巡り①

2024-07-06 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その214。今回は東京メトロ日比谷線の終点である中目黒駅から山手線目黒駅までを坂を巡りながら歩くことにした。

中目黒駅から目黒駅まで普通に歩くならば駒沢通りを行き、大鳥神社を左に曲がり、真っ直ぐ行くルートとなる。地図アプリでは2.31km、28分程度で到着する。

しかし、今回は中目黒駅を出て向かい側(蔦屋書店側)に渡り、左に曲がる。2本目の道を右に曲がり、目黒川に架かる別所橋を渡る。



突き当たる西郷山通りを左へ。すると右にうねうねと曲がりながら上る坂があらわれるがこれが『目切坂』。





青葉台と上目黒の境を上っていくのだが、右側は東京音楽大学の近代的なキャンパスが広がる。この辺りは丸旦山と呼ばれていて、切通を作ったのだが、斜めに切ったようになったため、ひき臼の目切りに似ていたことから取られた名前である。





かなり急で長い坂はかつては深い林の中にあったため、『くらやみ坂』『しめきり坂』などとも呼ばれていた。



富士山信仰が流行した江戸後期には坂を登り切ったところに12mほどの築山を作り、ミニ富士と見立てて手軽に富士登山をできるようにしていた。





また、お地蔵さんの乗った道しるべがあり、よく見ると『右、大山道、南無阿弥陀、左、祐天寺』と彫られている。当時は寂しいところで旅人はこうした道標を頼りに歩いたのであろう。



坂を登り切った左側に『旧朝倉家住宅』がある。以前に訪問したことがあるので前回の写メを流用したが、東京府会議長などを歴任した朝倉虎治郎氏により大正8年に作られた邸宅でその後経済安定本部なども置かれたことがある。





今は文科省所有で敷地は5419㎡ある。余談だが、代官山ビルサイドテラスも元は朝倉家保有の土地で建築家槇文彦により1969年に作られた。



目の前の旧山手通りを右に曲がると槍が崎の交差点、これを右に曲がる下り坂(駒沢通り)となる。これが『新道坂(しんどうさか)』である。名前の由来は別所坂と目切坂の間に新たに作られた坂道のためである。因みに旧道は線路沿いに下る坂道となる。(以下、次回)


成城学園前駅から仙川沿いの坂と橋を巡る②

2024-06-09 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その213。仙川を遡りながら坂道を散策の続き。祖師谷の神明社にお参りした後、道なりに右の方に歩く。

細い道ではあるが、コミニュティバスが走っていて『つりがね池公園』バス停を通過する。



バス停の先を右に回り込むと『つりがね池公園』にたどり着く。住宅地に細長い池が突然現れる。池には太鼓橋がかかっていて周囲を周ることもできる。かつてこの池は多くの水が池底から湧くことで知られており、つりがね池の由来は昔日照りに農民が困っていた時にこれを救おうと釣鐘を錘として抱いて身を沈めたことからといわれている。ただ、今はわずかに湧く程度に過ぎない。



曲がり角まで少し戻り、池とほぼ並行している道が上り坂となっているが、これが『地福寺坂』である。地福寺は明治以前に廃寺となってしまったようである。



再び鞍橋に戻り、仙川沿いの道を歩く。両側が祖師谷公園で遊具やテニスコート、植物園など様々な施設も揃っている。



『せきれい橋』を越えると『宮下橋』、ここは成城学園駅〜千歳烏山駅のバス路線がある。ちょうど細くなっているため、渋滞になりやすい区間。



その先右側には駒沢大学の野球グラウンドがある。もちろん、人工芝であり、あまりの立派さに驚く。

ここで坂道を通り越したことに気づき、宮下橋まで戻る。左に曲がり、Y字路を右に曲がって行くと地蔵堂、その前に石仏が5つ並んでいる。このうち左3つは馬頭観音、右の2つは庚申塔である。



この道は滝坂道と言われた古道、緩やかな坂になっていて『安穏寺坂』である。坂の名前通り坂を上がると左側に安穏寺がある。

本当は再び仙川に沿って歩き、京王線仙川駅まで行く予定であったが、日が沈んできたこともあり、榎バス停から千歳烏山駅までバスで帰ることにした。






成城学園前駅から仙川沿いに橋と坂を巡る①

2024-06-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その212。今回は坂道と川歩きのコラボ企画である。小田急線成城学園前駅から仙川を遡りながら、坂道も歩くことにした。

成城学園前駅に到着したのが平日午後3時半、ここから仙川沿いを歩き、途中にある坂道を巡る。駅北口を右の方に向かうと学生、特に女子学生がどんどん増えていく。当たり前、というのは成城学園があるからで、その横を川に突き当たるまで歩く。

下り坂となり、小田急線の陸橋と交差しているのが『成城橋』、さらに川上に行くとすぐの所に『東原橋』がある。



この辺りまで来ると学生の姿もぽつりぽつりとなる。左側には成城大学の校舎、対岸は高級住宅地となっていて庭のバラが綺麗に咲いている。





少し行くとトラス橋が見えてくるが、橋脚はそれぞれ大学の敷地の中にあり、一般の人は通行不可となっている。川を挟んで校舎などがあるために作られた橋なのだろう。

この辺りの仙川は幅も狭く、透明で川底も見ることができる。また、川の真ん中にできた地面からは草が茂り、葉の色もかなり濃くなってきた。



『さくら橋』を渡ると大学のグラウンド、広々としている。この辺りから川幅が広くなり、また水面からの高さが高くなる。





『稲荷山橋』の先では白鷺が魚を探している姿を偶然発見した。





『大石橋』まで到着、この辺りは凡そ400m毎に橋が作られていて、その間隔にかなり距離を感じる。ようやく『鞍橋』に到着、右前方は都立祖師谷公園となる。



変形4叉路の最も左道を歩くと上りの緩い坂道。これが『金兵衞坂』、由来は付近にある加々美家が坂下に隠居所建てたからとWebには書いてあった。しかし、金兵衞のどのように繋がるのかはわからない。



再び鞍橋まで戻り、祖師谷公園を横切り歩く。道は突き当たるのでこれを右に曲がり、3本目を左に行くと上り坂がでてくる。





これが『弔い坂』、細い路地のような道だが、東側が祖師谷、西側が上祖師谷に分割されていて1695年の検地の際に作られた。
この道をまっすぐ行くと安穏寺に至るのだが、死者を載せた輿を若者が担いで歩く弔い道であったためである。



畑もあるのんびりした風景。坂を降りて左に行くと何もない所に鳥居があり、草も刈られていない中に小さな祠がある。今は看板も壊れていてわからないが、神明社とあったようだ。



明治時代初年まではこの地に熊野神社と稲荷森稲荷社があったが、この二つは明治7年に合祀、さらに明治43年に神明社と合祀。現在は小さな祠と庚申塔のみが残されているのである。(以下、次回)


トキワ台駅〜小竹向原駅付近の坂道①

2024-05-12 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その210。今回は東武東上線ときわ台駅から東京メトロ有楽町線小竹向原駅までの坂道を散策する。



ときわ台駅は1935年に武蔵常盤駅として開業、1926年に今の駅名に変更された。名前の由来は天祖神社の境内にある『常盤松』から名付けられた。





常盤台は東急の田園調布や日吉、阪急の千里山のように駅開業時から住宅分譲地開発を東武電鉄が行ったもの。環状道路やプロムナード、クルドサックなどを備えた設計となっている。





排水は全て暗渠、専用水道を備えていて一戸の広さが80坪までとなっていた。駅舎は2018年のリニューアル工事の際に開業当時の大谷石造りの瀟洒な洋風建築にしたものである。



駅の歴史や常盤台住宅の移り変わりなどの写真をパネルにして『武蔵常盤小径』と名付けて駅舎側面に展示している。



北口から踏切を渡り、商店街を行く。2本目を左に下る緩い坂道が『暗闇坂』。昔は木が茂って暗かったためついた名前のようだが、いまは両側にマンションが立つ、緩い坂道。



坂下は環七、他の人のブログによると常盤台の名前の元になった常盤松の生えている天祖神社に向かう古道のようである。



坂下まで降りて環七を向かいに渡り、右に曲がる。目の前には板橋中央陸橋、そのまま川越街道との交差点迄行く。交差点のところを左斜めに進む細い道が出てくるが、これを戻るように行く。



この細い道が旧川越街道であり、交差点を越えた斜め前にある長命寺に到達する道であった。この緩い上り坂が『長命寺坂』である。今は太い通りに阻まれているため、名前の由来が分かりづらい。



坂を上って真っ直ぐ行くと石神井川にかかる下頭橋(げとうばし)の所に出る。この橋は近隣の村人が協力して1798年に石橋を架けたものであり、その際に六地蔵を置いた。



橋の名前の由来は六蔵という者が金を出したなど諸説あるが、よくわからない。橋を渡った先からが上板橋宿となっていた。



そのまま大山の方に歩いて行くが商店街となり、ちらほら店が出てくる。寿堂紙製品工業という会社のところで右に弧を描き曲がっていく。この辺りは旧街道のためか、かなり古い民家もところどころにある。



旧川越街道は緩い上り坂となっているが、この坂道が『海老山の坂』、かつて周辺が海老山と呼ばれていたことに由来するのだが、ネットで調べると『かつて飢饉に備えた稗(ひえ)蔵があり、ヒエが訛ってエビとなった』とあるが、ヒエがどう訛ればエビになるのだろうかと疑問に思った。



街道沿いには豊敬稲荷神社がある。(以下次回)

北品川〜五反田駅辺りの坂② まぼろしの坂探訪

2024-05-05 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その209。御殿山からまっすぐ歩くと『八ツ山の坂』に突き当たる。右手から左手に下って行く坂道はそれほど勾配は厳しくない。



説明板によると『武蔵野台地の突端にあたる丘陵で湾岸に突き出す砂州が8つあったことから八ツ山と呼ばれた。そのため、八ツ山の坂と名付けられた。』とのことである。

この先は坂は右に曲がっていて、そのオフィスビルが続くが、その真ん中あたりの右に上る坂を見るとここに崖線があることに気づく。(この坂には名前がない。)

第一興商ビルの右に入る道を行くと道はクネクネと曲がり、その先を右に折れると坂道が現れる。1段階目の坂自体も急坂だが、上り切ると左に折れて少し先にある2段階目の階段坂が続く。



上り切るとようやく勾配がなくなるが、この坂が『まぼろしの坂の隣にある坂』の先まで歩くと車道があり、その先にはセルビア大使館となる。



少し戻り、車道を右に少し行くと『この先車両の通り抜けはできません』の看板、この先にあるのが『まぼろしの坂』である。



その先の車止めから急に下り始め、少し平らになるが、再び急坂となる。左側の壁面は南欧風、端の部分は階段となる。ほぼ直角に左に曲がり、ようやく坂はおしまい。



ただ、さっき上った坂もほぼ同じくらいの傾斜があるような気がした。

(隣の坂)

私も以前に東京都東大和市にある傾斜37度の坂道に行ったこともあるが、こちらは29度だとか。23区内では最も急勾配である。

(傾斜37度の坂道)

坂下まで下りて元の広い道に出て、右の方に向かう。細い通りから右手を見るとかなり高いところが森のようになっていて島津山の高さを改めて知る。

さらに行くと五反田駅が見えてくる。駅前交差点から国道1号線で高輪台方向に上る坂が『相生坂』。説明板は坂の真ん中あたり、高輪台に向かい左側にようやく発見。



由来は『江戸時代から呼ばれていて、御殿山から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道と中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことによるとされている。道路が改修されて急坂はなだらかな坂になった』とのこと。

城南五山(つまり八ツ山、御殿山、花房山、池田山、島津山の5ヶ所にある高台)のうち花房山を除く4山に沿ってある坂を歩く散歩となった。山手線の内側とは思えない自然が残り、とにかく閑静な住宅地でとにかく眺めはいい、しかし歩いて回るとなると大変な地区である。






北品川〜五反田辺りの坂道①

2024-04-27 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その208。東京のソメイヨシノも終わりに近づいてきたが、今回は花も見ながら京急北品川駅からJR五反田駅まで坂道を巡ることにした。北品川駅は第一京浜(国道15号線)に面している。



(八ツ山橋方向)
すぐのところにある歩道橋を反対側に渡り、川崎方面に歩き出す。品川女学院は新校舎を建設中、その先を右に曲がる。


御殿山通りに入り、緩い坂道を上る。少し歩くとJRの跨線橋がある。下には新幹線、東海道本線、山手線、京浜東北線がひっきりなしに通過している。



その先右手にあるのが御殿山庭園。東京マリオットホテルの中にあり、人工的に作られた滝や池、散り始めたソメイヨシノが美しい。花びらが地面を敷き詰めている。





ミャンマー大使館の横を通り、その先を左に曲がる。この辺りは桜並木となっていて美しい景色が広がる。次の角を左に曲がると緩い下り坂となって行く。



これが『御殿山の坂』、江戸時代に将軍が鷹狩りに来た際に休むために設けられていた品川御殿があったため御殿山と呼ばれていた。『この坂道は以前は急坂だったが、改修を経て今は緩やかな坂となった』と案内板にはあるが、だんだんと勾配はキツくなり、それなりの坂道である。



一旦、坂道を降りた後、再び上り、まっすぐ進む。先程曲がった角には『翡翠原石館』がある。入場料700円は払うほど興味なく周りを歩いたのみである。



この辺りにはさすが御殿山という大豪邸が並んでいる。一つずつ丁寧に見たが、昔風の古いお屋敷、なかなか洒落た洋館、色々とある。ただ、この道はフラットで助かった。(以下、次回)



(訪問、4月12日)



曙橋付近の坂道③

2024-04-15 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その205。今回は曙橋付近の坂道を歩く。私が前回曙橋周辺の坂道を歩いたのが2015年1月、それから9年経ち、当時行かなかった坂道も含めて再度歩いてみることにした。

都営新宿線曙橋駅を出ると目の前に靖国通り、陸橋があるがこれが曙橋で上を走るのが外苑東通りである。まずは曙橋の下を通り、右に曲がり、『合羽坂』交差点まで歩く。



これを右に曲がると『津の守坂』という大きな標識がある。ここから長い坂が新宿通りまで続いている。



名前の由来は案内板にもある通り『昔、坂上の西脇に松平摂津守の屋敷があったため、その名前を略して津の守坂と称した』である。坂の途中には新宿歴史博物館がある。



坂を降りて靖国通りを渡り、左に登っていく坂道が『合羽坂』である。標識にあるのは『昔、この坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜などかわうそがしばしば出たりしを里人誤りて河童と思いしより坂の呼び名とした。転じて合羽を用い』とある。



合羽坂を上り、外苑東通りを右に上がっていく広い坂が『新五段坂』。市ヶ谷本村町の防衛省の敷地は江戸時代には尾張藩の屋敷があり、その中に武士たちが居住する五段長屋があった。その前の坂道は五段坂と言われていたが、明治になり陸軍士官学校の敷地となったため、坂道は失われた。戦後、自衛隊敷地の西側に作られた坂道に新五段坂と付けたものである。



外苑東通りを反対側に渡り、歯科医院の横、仲之町公園との間の道を行く。途中二又に分かれて、左の道は階段となる。この階段が『念仏坂』、石段は直角に曲がり降りていくが、踊り場には黒い御影石の標識がある。



さらに坂を降りると案内板があって坂の名前の由来は『昔、坂近くに老僧がいて、昼夜念仏を唱えていたから、或いは屈曲で危険な石段だったから通行人は念仏を唱えて通ったなど乃説がある』と書いてあった。



階段下に降りると商店街がある。この奥にはかつてフジテレビがあった。今は『あけぼのばしどおり』とあるが、かつては『フジテレビ通り』となっていたが、フジテレビ移転も1997年だからもう26年も前のことである。(以下、次回)


(今の看板)

(かつての看板)




麻布十番付近の坂道⑥〜きみちゃん像

2024-04-11 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その204。麻布十番付近の坂⑥、一本松坂の麓に立って気がついた。今まで上ってきたのが大黒坂、この頂上にたち振り返ると五叉路となっていて今まで登ったのが『大黒坂』(青方向)、隣が『暗闇坂』(緑方向)、『狸坂』(黄色方向)、『一本松坂』(赤方向)と全て名前のついた坂道となっている。

赤方向に進むと急な下り坂となり、この坂が『狸坂』。由来は説明板によると『人をばかす狸が出没した』とのこと。旭坂の別名もある。



この付近には中々素敵な洋館がある。うち一軒のステンドグラスを思わず眺めてしまった。



再び戻って緑方向に進むと左に弧を描く急坂となるが、これが『暗闇坂』である。坂を下って行くと右側にオーストリア大使館が現れ、この辺りから坂はまっすぐとなる。



樹木が暗いほど生い茂った坂であったためついた名前のようで、別名が宮村坂。これは旧町名の麻布宮村町からきている。



暗闇坂を降りて右手に歩いて行くとパティオが現れる。ここに小さな女の子の像がある。この像には悲しいお話が残されている。誰でも知っている童謡『赤い靴』、野口雨情作詞のものだが、背景には岩崎きみという女の子の実話がある。



きみちゃんは明治35年生まれでお母さんのかよさんに連れられ北海道へ。お母さんは開拓農場に入植するが、あまりに厳しい環境からアメリカ人宣教師の養女とする。この逸話を雨情は夫である鈴木志郎に聴き、この歌詞を作った。



しかし、実際はきみちゃんはアメリカには行かなかった。きみちゃんは不幸にも結核にかかり、宣教師が帰国する際に連れて行けず、麻布にあった孤児院で寂しく9歳で亡くなったのである。このエピソードを知り、1989年にきみちゃん像が作られたのである。

私は思わずこの女の子の像に手を合わせてわずかなお金を募金したのである。

麻布十番付近の坂⑤

2024-04-05 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その203。麻布十番付近の坂⑤、あひる坂を下ると向かい側に再び上り坂が現れる。この坂道が『七面坂』、こちらはかなり急な上り坂である。



名前の由来は説明板によると『かつて東側にあった本善寺(戦後五反田に移転)に七面大明神の木像が安置されていたことからこの名前がついた』とある。



七面坂を上り切ると突き当たり、これを右手に曲がると再び坂になるが、この坂道が『大黒坂』である。大黒坂の由来は坂の北側に大法寺があり、この寺に大黒天が祀られていることからこの名前となった。



もう少し歩くと坂の中腹に塀が黒く塗られてかいる大法寺が現れる。港区七福神の一つでもあり、参詣する人が多い。私の後ろを歩いていた外国人のお母さんが子供を連れて門を潜っていった。



坂の頂上左手に大きな松の木が見えてきたが、そこから緩く上るのが『一本松坂』、坂のふもとに植えてある松に源経基が装束をかけて麻の狩衣を掛けて着替えたという』。



今の松は四代目とのことである。由緒の書いてあるだろう石碑はよく読めなかった。



(以下次回)

麻布十番付近の坂道④

2024-03-26 05:00:00 | 坂道
 『東京の坂、日本の坂』その202。麻布十番付近の坂④。くの字に曲がった潮見坂を降り切り、次の道を左に曲がると目の前に坂道が現れる。



これが『於多福坂』、面白い名前で初めはきつい上り坂、これが一旦緩くなり、再び先に行くときつい上り坂となる。これが於多福のお面のようだからと付けられた名前とのこと。




於多福のお面が急角度の上り、緩斜面、また急角度のの上りがどこを指すのかはあまりうまく想像できないが、参考までに図を描いて考えてみた。

坂の上まで上り右に曲がる。高速道路の並行してある坂が『永坂』。更科そばで有名な永坂更科の工場がある。麻布通りからそのままっすぐに麻布台に向かって坂は伸びる。



名前の由来は案内板によると『麻布台から麻布十番に下る長い坂だったために(この名前が)ついたと言われている。長坂氏がそばに住んでいたとも言われているが、確証は得られていない。』案内板は坂の上と坂の下の2ヶ所にある。



永坂を下り、新一の橋交差点に向かう。向かい側に渡り右に曲がると通りから何本も坂が下っている。

神座というラーメン屋の手前左に行く短い坂が『すべり坂』、今は勾配が緩く、あまりすべりそうもない。

次の道が『あひる坂』、ちょうど鳥居坂の延長線にある。麻布付近には狸坂、狐坂、いたち坂など動物の名前がついた坂道が多い。この坂もその一つだが、由来はよくわからない。(以下、次回)