『三鷹逍遥』①、三鷹市(当時は都下北多摩郡三鷹町)は太宰治が結婚後すぐの昭和14年から戦災で焼け出されるまでの6年間を過ごした地である。また、玉川上水で心中した山崎富栄と知り合ったのも富栄の知り合いが太宰と三鷹のうどん屋で出会ったからである。その家を再現した展示が三鷹駅近くで行われているのを知り、足を運んだ。
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場所は三鷹駅南口を出て、ペデストリアンデッキで繋がる正面のビル5階にある三鷹市美術ギャラリー内に『太宰治展示室〜三鷹の小さな家』が設営されている。(入場無料)
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中に入るとあたかも家の玄関のように設えてあり、6畳・4畳半・3畳の3間12坪ほどの借家が再現されている。
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中に入ると右手の部屋には師匠である井伏鱒二と付き合いのあった林芙美子との交流に関する資料が並べられていて他の文学館と協調しながらのものとなっている。その中には井伏が林芙美子に送った『さよならだけが人生さ』という名言のもとになった交流についても残されている。これは『勧酒』という漢詩の最後の部分『人生足別離』を井伏が訳したものだが、因島を去るときのエピソードである。
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また、太宰治の『葉』という小説の冒頭『死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の生地は麻であった。これは夏の着物であろう。夏まで生きてやろうと思った。』の部分が書かれた掛け軸がかけられていた。
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靴を脱いではいることができる真ん中の6畳は畳敷になっていて書斎を持たなかった太宰が座っていただろう文机(本物ではない)が置いてあり、横には本棚がわりのリンゴの木箱。故郷から送られてきた箱なのかなと勝手に想像する。
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壁には写真に何回も登場する黒の外套、太宰治のファンでなくとも思わず机に座ってしまいたくなる。床の間には井伏の書いた書を掛け軸にしてかざられていた。
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ぐるり回るのに2分と掛からない小さな家の模型だが、飾られていた表札や林芙美子の色紙、手紙など丁寧に見ているうちに40分ほど滞在してしまった。