『東京の坂、日本の坂』その154。団子坂下まで降りて不忍通りを行くと左側に千駄木駅、その先を左に曲がると講談社発祥の地がある。現在はマンションのような立派な社宅となっている。
すぐに須藤公園が出てくるが、南に沿って上る坂道が『アトリエ坂』。以前には『アトリエ千駄木』があったのでこの名前がついた。
須藤公園に入ってみる。真ん中に池があり、こんもりと高くなったところに滝がある。須藤公園は元々加賀大聖寺藩の下屋敷があり、池のある庭園は当時から小ぶりながら美しいと有名であった。
維新後、品川弥二郎の屋敷、さらに1889年に実業家須藤吉右衛門が所有。1933年に公園用地として東京市に寄贈されたもので須藤家の名前を付け須藤公園としたもの。
それほど規模は大きくないが、素晴らしい景観を維持している。ただ、補修工事のため、滝近くまでは行けなかった。
再び不忍通りに戻り3つ目の角を曲がると細長い坂道が現れる。これが『大給坂』(おぎゅうざか)、坂の上にある児童公園がかつて子爵大給家の屋敷があったことからこの名前が付いた。大平元総理大臣も住んだことがあった。
坂の上の道(保健所通り)を右に曲がると『半床庵』という茶室が現れる。この茶室は江戸時代中期に久田流4世の久田宗也が間宮家(名古屋藩士)の依頼により作られた。元は名古屋市中区にあったが、大正10年にこの地に移築された。都指定の茶席としては最も古いもの。
その先を左に下る坂が『狸坂』、昔は千駄木山という雑木林の多い山であった。俗に狸山と呼ばれていてそこに上る坂のため名前がついたもの。
少し坂を降りて左に行く。2つ先の通りも狸坂に平行した坂道だが、これが『きつね坂』、同じように次の坂が『むじな坂』とつけられていて狸・狐・狢が並ぶと面白い。
さらに先に行くと白山通りと交差するが、この広い坂が『動坂』である。江戸名所図絵によると不動坂を略したもの。
江戸時代初期の元和年間に万行上人が伊勢の赤目山で不動明王像を授けられ、諸国を巡ったが駒込村のこの地に庵を結んだ(後の南谷寺)。その後、寺は家光の命で本駒込に移されたが、坂の名前は残されたものである。
それにしても江戸っ子は短く略するのが好きらしい。不動坂→動坂、あんまり変わらないきがするのだが。