hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

消費税増税

2014-05-21 06:40:49 | 日記

消費税増税から1ヶ月半が過ぎて、このところのデフレの中でなかなか値上げをする機会がなかった街の食堂も流石に値上げする店が増えた。

チェーン店は律儀に税率に近い分だけ引き上げている店が多いが、街の食堂はなかなかそうはいかないようである。
例えば昼飯をよく食べに行く中華料理店のS、消費税と同時では値上げのインパクトが強いと思ったのか、導入前の3月20日に値上げをした。従来800円のマーボー定食が850円に、厳密に考えると税前で761円が787円と3%の値上げをしたことになる。ただ、思惑通りには行かなかったようで繁盛店なのにランチタイムも3月は閑古鳥が鳴いていた。

別の食堂は4月に入り、定食が1000円から1050円に値上がりした。しかし、この間後ろに座った人の会話を聞いて驚いた。『この店は良心的だな。税率が上がっても1050円のままだ。』なるほどそういうやり方もあるのか。明らかに税率以上引き上げても良くわからない人には維持しているように見えるし、しばらく経ったら常連客だって同じように考えるかもしれない。色々な知恵があるものである。

ただ、日本人の国民性は面白い。我々の仕事でも消費税分だけの値引きは昨年度まではよくある話で、単に5%値引くだけだったが、今は逆に消費税分だけの値引きは困るのでそのままでいいと言われることが増えた。政府のキャンペーンは功を奏しているようだ。しかし、交通費の精算の計算が面倒になったのと昼飯の会計の際にやたら五円玉や一円玉が増えたのには閉口している。

日本橋中洲

2014-05-20 06:35:07 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その5。前回予告の日本橋富沢町ではなく、急遽、日本橋中洲に行ってみた。これは単に隅田川がみたくなっただけである。

中州は全国にあり、博多などは最大の歓楽地だが、この中洲もそんな時代があったようだ。この町は北に浜町、南西が箱崎町、他は隅田川に面している日本橋の外れに位置する。

町の名前の由来は単純に隅田川の中洲であったことから。その昔は川が三方にあるため『みつまた』と呼ばれていた。江戸時代は月見の名所で舟遊びで賑わい、1695年には吉原の高尾太夫が中洲の舟中で切り殺されたことでも有名。



その後1773年に浜町と地続きになるように埋め立てられた。始めは中洲新地、1775年には冨永町となり、一大歓楽地となったが、寛政の改革で取り壊され、元の葦原となった。再度、1886年に埋め立てられ、中洲新地が成立、真砂座ができるなど栄えたが、大正には寂れた。

1971年には浜町との境、1972年には箱崎町との境も埋め立てられ、完全な地続きとなり、中洲の面影はない。

今は高い隅田川の堤防があり、川に面するのはマンション、倉庫、中にあるのは中小のオフィスビルばかりで古い建物は金比羅神社が,ある程度。


児童公園も高速道路の下にあるばかりで、岸辺からの清洲橋や隅田川大橋などの風景は確かにいいが、昔の粋な面影や古い建物は全くなくなってしまっており、残念ながら高速道路のジャンクションが無粋にそそり立つ町になってしまっている。


桐の花

2014-05-19 05:42:57 | 日記

キリ(桐)の花はなかなか見事である。かつては駒場東大前のそばにあったが、伐採され、近所で見ることができるのは高井戸駅前、神田川よりに3本あるくらいだ。

花は薄紫でちょうどぶどうの房をひっくり返したように円錐形に筒状に咲く。また、葉も特色があり、豊臣秀吉の紋のような大きく広い葉が茂る。


昔から鳳凰が止まる樹とされ、天皇の衣類の刺繍に使われるなど神聖な樹である。勲章の桐花章などとして使われている。また、内閣総理大臣の紋章も桐がモチーフである。

結構高い樹だが、ちょうどホームの横にあるので観察できるが、立派な花で毎年咲くのを楽しみにしている。


一畑薬師~島根県出雲市

2014-05-18 05:27:35 | 日記
古刹を巡る その12。本日は一畑薬師、正式には醫王山一畑寺。今は島根県出雲市だが、平成の大合併までは平田市にあった。このお寺に行くには一畑電鉄の一畑口駅からバスで行くのが最も便利で、一畑口駅には一畑薬師に行くバスが止まっていた。しかし、松江からこの一畑薬師に行く鉄道として作られた割には最後がやや不便である。また、一畑口駅は松江しんじ温泉から来ても、出雲大社駅から来ても一旦方向転換しなければならない構造になっている。その答えは簡単だ、この鉄道の建設が検討された明治後期当初は出雲今市(現、出雲市)~松江の鉄道の建設を予定したが、国鉄が大社線の建設を計画していることが分かり、許可が降りず、急遽経路を変え、一畑を通ることにした。そして1915年に出雲今市~一畑が開通した。その後、小境畑(現、一畑口)~北松江(現、松江しんじ温泉)、1930年には川跡~大社神門(現、出雲大社前)が開通した。しかし、1944年には小境畑~一畑が不要不急路線に指定され、休止のやむなきにいたり、線路を名鉄に供出した。そのため、肝心の一畑薬師の門前まで行く部分は廃止、そのあとが有料道路化して(現在は無料開放されている)偏在に至っている。戦前までは一畑薬師には動物園や遊園地もあり、リゾートランドであったらしい。


この寺を訪れたのは2011年8月、寺の駐車場車を止めるが、ほとんど車はいない。そういえば元有料道路も対向車は全くいない状況であった。駐車場から寺に向かうと途中に売店が10件程度あるが、平日だからか半分も開いていない。その後階段を上り、本堂に向かうがその途中から宍道湖がよく見える。なお、麓から石段を上がると1300だんあるらしいのだが、車で行くとそれほどでもない。

この寺は894年に漁師が海中から引き上げた薬師如来を本尊として医王寺を創建。1653年に一畑寺に改名している。ご利益は『目の薬師様』として有名で、寺では目に効くお茶などを飲むことができる。


もちろんお守りも身体のものと目のものもあり、眺めも素晴らしいが、嘗て栄えた面影がないのが残念なところ。行った日には風が流れ素晴らしいおてらであった。

ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)

2014-05-17 07:59:06 | 日記

今の季節に咲くニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)はふしぎな花である。最初は青紫の花が咲くが、これが真白に変化する。このため、咲き始めは全て紫の花、次いで白と紫の両方が咲いて、最後には真白な花の咲く樹になる。

元々は南米原産のナス科の常緑樹で生命力が強い。ジャスミンとは違いモクセイ科ではない。自宅の庭にも鉢植えであるが、とにかく大きくなる。しかも鉢の下の穴から根が伸びてきて、その下の土の中に入っていく。いつの間にか鉢が動かなくなる位である。

匂蕃茉莉とは『匂』は匂い、『蕃』は外国、『茉莉』はジャスミンを表し『匂いが強い、外国産のジャスミンのような植物』と言う意味である。別名がアメリカジャスミン、正式名称はブルンフェルシアという。

香りはいいが、やや強すぎる感もあり、あまり大きく繁られても困る樹木である。まあ、花の色が2色楽しめるので好きな花ではあるが。さらに一回花が終わってもまた花が咲く。そのため、花言葉は『浮気な人』なんとなくわかる気がする。

日本橋久松町

2014-05-16 06:20:35 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その4。今回は日本橋久松町。都営地下鉄浅草線人形町と東日本橋の間、地名で言うと南と東に浜町、西に富沢町、北に東日本橋という位置関係にある。特に西側には縦に細長い区画があり、今は久松公園などになっているが、元は浜町川の跡である。そのため、⚪️⚪️橋という地名が多く、久松警察署の隣にあるのも小川橋という。

この小川橋の起源は1886年に久松署の小川侘吉郎巡査が日本初のピストル強盗犯、清水定吉を格闘の上に逮捕したが、小川巡査はその時の傷が元で殉職する。そのため、その功績忘れないようにと小川橋にされたらしい。

まず、町の名前の起源だが、分からないというのが、真相。旧町名は村松町だが、この名は元の名主、村松源六からとったのだが、その一部が独立した久松町は旧町名の一部を取り、久しくあるようにと『久』を付けたのではと想像されているが、真実は分からない。

また、元々この辺りは刀鍛冶、特に安物の刀を作り、売るものが多かったらしく、村松町のなまくら刀として有名で子供の節句に使う刀なども手掛けていた。
この町は先程の久松署に加え、久松小学校など公的な建物が多く、明治の初期には品川県の役所も置かれていた。

また、久松町というと切っても切り離せないのは『明治座』である。今は隣の浜町にあるが、かつては久松町にあり、久松座と言った時代もある。芝居小屋と茶屋で賑やかだったらしい。ただ、明治座は5度も火災に会い、その度に立て直された。


久松町は小さな町であまり目立つ建物はなく、久松警察署、久松小学校、日本橋休日診療所など公的な施設が多い。会社は商工リサーチ、哺乳瓶のピジョンがあるくらい。


ただ、古い飲食店も少し残っている。今でこそ目立たない町で昔とはかなり雰囲気が変わっているが、町にあった写真で警察署・小学校以外は全て焼失したことが原因かもしれない。



ジャスミン

2014-05-15 05:40:00 | 日記

花は一般に昼間目を楽しませてくろれるものだが、夜、仕事からの帰りにいつも癒してくれる植物がある。もちろん、暗くその花はよく見えず、視覚的な美しさが癒すのではなく、その香りである。

植物の名はジャスミン、アジアからアフリカにかけての亜熱帯原産のモクセイ科の蔓植物である。今の時期に白い花を沢山付けて楽しませてくれる。香料やジャスミン茶の原料にもつかわれるが、うちの近所のジャスミンは塀のそばの日当たりの良い場所に直植えされている。種類はかなり多く、黄色の花をつけるオウバイやソケイ、ハゴロモジャスミンなど色々ネットで調べてもこの植物の名前は特定出来ないが、たぶんハゴロモジャスミンだと思われる。(花の中心が黄色い)

また、ジャスミンは夜になると開花することが多いことを知った。だから、会社帰りの方がよく気がつくのかもしれない。

なお、毎年、白い沢山の花が競うように咲くが、一度盛りが過ぎてももう一度開花するので、もう少しこの香りがたのしめそうである。

東武亀戸線

2014-05-14 06:35:11 | 日記

鉄道シリーズ その62。今日は東武亀戸線を訪ねて亀戸駅に。JR亀戸駅北口からアトレ寄りに歩くと東武線亀戸駅に到着。島式2ホームだけの駅には8000系が2両連結で停まっている。(今は大師線と共用している。)

日中は10分間隔でワンマン運転をしているローカルな支線。亀戸~曳舟の路線距離は3.4km、間に亀戸水神、東あずま、小村井(おむらい)の中間駅がある。なぜ、こんな中途半端な支線があるのか不思議になる位だが、その歴史は古い。

元々、東武鉄道は東京と北関東を結ぶ鉄道として計画され、当初、業平橋としていた起点を1897年に越中島に延長する計画を役所に提出、しかし、すぐに免許が降りず、1899年にまず、北千住~久喜間開業した。その後、当初の計画を曳舟~吾妻橋と亀戸~業平橋の支線に変更したが、北千住~吾妻橋のみ許可され、1902年に開業。その後、1904年に現・亀戸線の亀戸~曳舟が開業、開業と同時に総武鉄道(現、JR総武線)亀戸~両国橋への直通運転を開始し、吾妻橋~曳舟は廃止、亀戸線は本線扱いになり、両国橋が東武鉄道の始発ターミナル駅となった。

しかし、総武鉄道が国有化されるとターミナルを吾妻橋駅に戻すことになり、1910年3月に吾妻橋駅を浅草駅に改称し、ターミナル駅とした。(その後隅田川を渡り、今の浅草駅までたどりつくのに京成と激しい戦いを演じるのだが、今回は長くなるので省略する。)

ただ、その後も貨物は常磐線~北千住~亀戸~両国橋の運行は継続していたが、1926年に国鉄が新小岩~金町の貨物専用短絡線(新金線)を開通させたため、貨物も通らなくなり、今のローカル支線となった。つまり、わずか6年ではあったが、東武鉄道の本線として機能した時期、貨物線として脚光を浴びた時期があったのである。


さて、亀戸線に乗ると、亀戸駅を出てすぐに左にカーブし、瞬く間に亀戸水神駅に到着。亀戸水神駅にはご丁寧に『亀戸天神の最寄駅は亀戸駅です。』『亀戸天神と亀戸水神は別の神社です』という表示がある。よく間違える人がいるのだろう。

次の東あずま駅、小村井駅もすぐに到着、というのはここまでの3駅はいずれも0.6~0.7kmしか駅間がないからである。

小村井駅を出ると曳舟駅までは少し距離があるが、これには種明かしが、つまりかつては3駅の途中駅(天神、十間橋通、虎橋通)があったが今は廃止されたからである。


曳舟駅は5番線に到着、向かいには東京スカイツリー線の駅もあるが、とにかくホームの長さが短い。ホームに立つと前にはスカイツリー。

蛇足ながら次の押上駅は東京スカイツリーの最寄り駅であり、すっかり観光地化されている。降りるとソラマチに直結しており、そのままスカイツリーの下まで行くことができる。

いまは2両のワンマンカーがわずか3.4kmを往復するローカル支線となりさがった亀戸線にも栄光の時代があったことは今では全く想像さえできない。

魚そうめん

2014-05-13 00:00:15 | グルメ


ちまきもそうだが、ある季節になると食べたくなる、また、季節を感じさせる食べ物は数多い。例えば、春先だとフキノトウやタラの芽、タケノコなどがそうである。まあ、これら農産物は日本全国で手に入れようとすれば、できるのだが。

また、小生は、転勤で福岡に4年半、大阪に5年半いたが、こうした地方に行くと東京にあるものが、急に手に入れたくなる。例えば、崎陽軒のシウマイ、これは当時九州では売っていないものだった。


逆に東京に戻ってからは九州のあの甘い醤油や長崎のチョーコー醤油が出している皿うどん用の金蝶ソース。しかし、今は地方の物品が東京でも簡単に手に入るようになった。大阪から帰ってきた時になかなかなかった551の肉まんや点天の餃子、伊勢の赤福も同様である。

そんな中、先日、京都市のアンテナショップのブログに書いた『魚そうめん』、これは大阪の蒲鉾店『大寅』が東京から撤退したあと、物産展を除き、殆どお目にかかれなくなった。一部のデパートで茨木屋の魚そうめんもたまに見つけることがあったのだが、今は全く見ない。

ご存知ない方に、魚そうめんはそうめんに魚を入れた鯛そうめんのようなものではない。これは夏限定の練り物で緑と白の素麺状にした蒲鉾(中にはピンクもある。)をそうめんつゆでツルツルと食べる物。割烹料理の店のように澄まし汁の実にしてももちろんよいが、やはり冷たくして食べるのがいい。京都名産とは聞いていたが、2年ぶりの対面となった。ひさびさにありがたみを感じつつ、味わえることは小さなことだが、実にいい気分である。

黒石寺~岩手県奥州市

2014-05-12 05:00:00 | 日記
古刹を巡る その11。会津の話をしたのでさらに北に上って今日は岩手県奥州市といってもわかりにくいが旧水沢市の黒石寺の話。この寺は蘇民祭という旧正月7日に行われる奇祭で有名だが、ちょうど小生がこの寺を訪れた2008年直前までは下帯もつけず全裸で行っていた(2007年まで)。しかし、ストリーキング等の問題が起こり、下帯をつけることとなった。さらにポスターをセクシャルハラスメントではないかということでJRともめるなど変な風評がたったが、純粋な宗教行事である。そうしたことはあまり知らずに2008年8月に当寺を訪れた。

写真のとおり、旧水沢市の市内からやや離れた森の中に寺配置する。開山は729年行基が東北初の寺院を開いたものとされ、その後一度兵火で消失したものの、807年に坂上田村麻呂により再興され、さらに慈覚大師が中興していまの寺院になったものである。修験の寺で今の住職は女性である。

また、本尊は木造薬師如来坐像で像内には862年の銘がある。この像は蝦夷の勇者アテルイがなくなった菩提を弔おうと坂上田村麻呂がつくらせたともいる。訪れた時は激しい雨の中、本堂のとなりのお堂にあり、住職直々に見せていただき、その立派な姿に失礼だが最果ての地にこれだけの仏像があるとはと感動したのをよく覚えている。なにしろ北には平泉の中尊寺を除き、古い象は毘沙門天ばかりしかなかったものであるから。また、この像は重要文化財だが、他にも四天王像や伝慈覚大師像も指定されている。


その後茅葺きの本道に入ったが、立派な建物で周囲から尊敬を集めているお寺だということがよくわかった。雪の中のお寺もさぞかし素晴らしいと思った次第。どうしても蘇民祭ばかりが騒がれる寺だが、ぜひ静かな中お参りしていただきたいものである。