hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

『関東三十六不動尊巡り』⑮〜第7番平間寺

2024-09-12 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑮、今回は第7番札所川崎大師不動堂を訪問した。川崎大師の正式名称は『金剛山金乗院平間寺』という。

縁起は1128年に平間兼乗(ひらまかねのり)という元武士が生まれた尾張国を追われて川崎で漁師をしていた。兼乗は仏法に帰依し、弘法大師を崇拝していた。42歳の厄年の時に夢枕に唐の高僧が立ち、我が像を海に放ったと告げた。兼乗は言葉に従い、網を入れると厄除弘法大師の木像が海の中から引き上げられた、というもの。古くから川崎大師は厄除に霊験新たかと言われ、皇室や11代将軍家斉などの厄除祈願によりその名が全国に知れ渡った。



現在の京浜急行もその起源は川崎〜川崎大師に開通した路面電車であり、参拝客を運ぶニーズが高かったことを表している。




川崎大師駅を降りると左側に参道が続き、仏具屋・達磨などお土産を扱う店・名物の咳止め飴や葛餅を扱う店などが並ぶ。参道は右に曲がり、さらに右に回り込んで山門の前にようやく到着する。参道が栄えるように工夫がされた門前町である。





実は孫の七五三など川崎大師には何回もお参りしているが、正直言ってここに不動尊が祀られていることは知らなかった。



まずは本堂に行き、弘法大師に手を合わせ(もちろん秘仏のため、厨子の外から)、新たに作られた五重塔などをみて回る。

そのお隣に位置するのが不動堂。実は他のお堂と比べて新しく(戦災で燃えた建物を除く)、1890年に造られたもので、今の建物は1964年に改築されたもの。また、ご本尊の不動明王像は成田山新勝寺のご本尊をご分躰して勧請したものである。



本堂に比べて参詣の人も少なく、私もゆっくりとご本尊の前で手を合わせた。さらにお寺の人に由来などを聴きながら、御朱印を頂くことができた。



帰りは京浜急行大師線東門前駅まで歩き、帰路についた。






『昭和レトロカレー』⑩〜サヨナラ日乃屋カレー人形町店

2024-09-11 05:00:00 | グルメ
『昭和レトロカレー』⑩、今回お邪魔したのは『日乃屋カレー人形町店』。東京のカレー好きならば大抵知っている店で第3回神田カレーフェスタのグランプリに輝いている店である。人形町にも店があり、何回かは行ったことがあるのだが、9月13日をもって閉店(公式には九段下店への移転)となってしまうのである。



日乃屋カレーの特徴は一口目は甘く、食べ進めていくうちに辛くなる不思議なルーである。もちろんこのブログの趣旨にあったレトロなトロッとしたルーである。

カレーの種類は多いが値段差が少なく、カツカレーもエビフライカレーもメンチカツカレーも全て950円。ということもあり、店内の券売機でカツカレーの食券を購入、店内の女性に渡して席に座って待つ。



店は背中合わせのカウンター席、基本は1〜2名の来店が90%。皆、携帯電話や本を読んで静かに待っている。5分ほどでカツカレー到着、銀の大皿に端から端までご飯、カツ、カレーで綺麗に埋められている。端にテーブルにある福神漬をたっぷり乗せ、一味を振って食べ始める。



カツはたぶん10切れほどに切られていて一口食べるのにちょうど良い。一味で辛くなっただけでなく、なぜか食べ進めるうちにルーを辛く感じるようになる。



机の上に『にんにくチップ入り揚げ玉』があることを発見。試しに使ってみるが、食感が変わって美味い。ただ、大きめなカツがご飯の上にあり、あまり掛けるところがなかった。



店を出る時な知ったのだが、日乃屋カレーの店の中で人形町のみ『牛すじカレー』をメニューに乗せている。



もし、もう一度行く機会があれば食べてみたいものである。ご馳走さまでした。

日乃屋カレー人形町店
中央区日本橋堀留町1ー8ー9
0366616839

『夏旅2024』⑰〜琵琶湖大橋と琵琶湖博物館

2024-09-10 05:00:00 | 旅行
『夏旅2024』⑰終、安曇川の道の駅を出て再び湖西道路を走る。真野ICで降りて琵琶湖大橋方向に走るが、快適な4車線道路で渋滞もない。

琵琶湖大橋は未だに有料だが、その手前側には『道の駅 びわ湖大橋米プラザ』がある。橋を渡るすぐ手前だが、割にわかりやすい。

駐車場に車を停めて建物の中に入るが、冷房が効いていて快適、名前の通り大橋のすぐ横にある。バルコニーに出ると橋の橋脚や全貌がよく見える。周りではモーターボートでスキーを履いた人を引っ張ったり、ヨットに乗ったりと真夏の琵琶湖を楽しんでいる姿が見える。道の駅にも船着場も備えていた。

米が名前に入っているだけあって地元産米の販売やお酒など多くの地元物品が販売されていた。

道の駅を出て左折するとすぐに橋の取り付け道路に合流する。琵琶湖には『大津市と守山市を結ぶ』琵琶湖大橋と『大津市と草津市を結ぶ』近江大橋があるが、琵琶湖大橋は1400m(上り、下りは1350m)に対し、近江大橋は1190mとわずかに琵琶湖大橋の方が長い。快適な4車線道路であり、橋の横に遮るものがないため、ドライブには快適である。

橋を渡り、湖岸道路を経由して琵琶湖博物館に行く。道の駅草津と反対側に曲がると長い取付道路を走り、広大な有料駐車場(博物館利用者は無料)に到着。外はドンピカのため、少しでも博物館に近い方に停めようとはするが、どちらがベストなのかはよく分からなかった。

ほぼ正午、帽子を被り、日陰を探しながら博物館に行くが、途中木に琵琶湖に関するクイズがぶら下げてあり、ついついこれを考えたりするから遅くなる。

入口まで行き、入場券800円を支払い入る。規模は予想よりかなり大きい。まずはエスカレーターに乗り2階の展示からみる。展示は3つに分かれているが、A展示室は『湖の400万年と私たち』と題して今までの琵琶湖の歴史と棲んでいた生物を学ぶ。驚いたのは琵琶湖が440万年前にできた頃には三重県伊賀市あたりにあり、これが断層活動で何回も動き、湿地を中心とした小さな湖が多くあったが100万年前には南湖の堅田湖とよばれる小さな湖となる。その後山地の隆起などもあり、43万年前に今の琵琶湖に近い形となったらしい。

また、180万年前にはアケボノゾウがセコイヤの林の中で生きていた、証拠としてたくさんの象の化石が発掘されていた。




B展示室は『湖の2万年と私たち』というテーマで縄文時代の船や漁の道具、木器など沢山の展示。例えば海老を捕まえるエビタツベなど珍しい道具などもある。



C展示室は『湖の今と私たち』がテーマで世界の湖と比較した琵琶湖の規模や内湖の移り変わりなど知らないことだらけである。因みに琵琶湖の広さはもちろん日本一、でも世界では168番目と意外に小さい。



最後に水族展示室、トンネル水槽など淡水の魚や生物がたくさん展示されていて子供たちに大変な人気。ビワコオオナマズは大きかった。

(オオサンショウウオ)

その中で最初に訪れた赤目水族館では顔が見れなかったオオサンショウウオに対面、展示がわかりにくいところにあるため、我々だけが盛り上がっていた。

結構な時間をかけて博物館を右へ左へ行きながら堪能、これだけ真剣に見たのは昨年のウポポイ以来であった。外に出ると琵琶湖の湖岸が美しい。

車に乗り、イオンに停めてランチ、夕方ののぞみで帰途にはついたが、宮崎県で発生した震度6弱により、名古屋駅を出たところで停電。一時は冷房も止まったが20分後に復帰、無事東京に戻りました。長い旅行記、ご愛読ありがとうございます。(了)


『神護寺展』をギリギリで見に行く

2024-09-09 05:00:00 | 日記
毎日暑い日が続いているが、いつの間にか9月に入っている。東京上野にある国立博物館平成館では9月8日まで『神護寺〜空海と真言密教のはじまり』と題した展覧会が行われていた。行こうとは思っていたが、旅行などもあり、ようやく都合を付けて9月7日に行くことができた。



先輩が、最近行ったと話していてそれによるとかなり混んでいたよと言われて、ネットでチケットを購入(初めてではなく、2回目)した。これが功を奏し、チケット売り場の長蛇の列を尻目に入場できたのが午後3時。入口には幸い列もない。



今回の展覧会は神護寺創建1200年、空海生誕1250年を記念したものでこの資金を使い、梵鐘を守る鐘楼堂柿葺屋根の修繕を行うとのこと。とにかく本尊の薬師如来立像(国宝、平安時代)が寺外公開されるのは初めてのことである。神護寺は和気清麻呂が781年国家安泰を祈念して神願寺を造営。山城に同時期に私寺として高雄山寺を建立した。これが824年に合併して作られたのが神護寺(神護国祚真言寺)である。空海が809年に日本に戻り、中々京の都にはいれなかった。許され、招かれたのが高雄山寺である。
神護寺は平安末期には2度の火災などにより荒れ果てたが、12世紀に文覚上人がこれを再興した。

会場に入るとまずは空海の像(鎌倉時代)が迎えてくれる。さらに奥に行くと数々の経典や公文書があるが、人も多く、読めないのですこしみるだけ。他の人は熱心に見ていたが、こうした書面をわかる人が何人いるのだろう。

ただ、真ん中に置かれた空海が唐より持ち帰った3種の法具(金剛板、五鈷杵、五鈷鈴)はかなり興味深く見る。その後この法具が基礎となり全国の寺に置かれたのであるから。

また、空海の手による金剛般若経や性霊集など興味深いものもあったが、人が多すぎてゆっくりと見るには至らない。赤い衣服をした弘法大師像は素晴らしかった。
前半の目玉は両界曼荼羅図(後期は金剛界)、もちろんかなり大きい。元は紫色で書かれていたらしいが、ほぼ真っ黒。ようやく単眼鏡で目を凝らし、見える程度。やはり古い字は當麻寺同様よく見えない。

教科書でお馴染みの伝源頼朝像を始めとする肖像画が並ぶが、本物は前半だけの展示で昭和の作家が作った写しの絵を鑑賞する。しかし、頭にこの顔が源頼朝と刷り込まれてる私はこれで十分、もっと言うとこの絵以外の顔を想像できない。

蓮華虚空蔵菩薩

法界虚空蔵菩薩

五大虚空蔵菩薩(金剛、業用、法界、蓮華、宝光)が円形に並べられ、これを見比べながら回る。特に蓮華虚空蔵菩薩像は顔が美しく見えたような気がした。

いよいよ、薬師如来立像(本尊、国宝)とのご対面。脇侍が日光・月光菩薩、こちらはわずかに赤く着色されている。薬師如来さまの顔は前から見ると厳しい口元や目をされているが、側によると実に優しげな表情に変わる。昨年、土門拳の写真展で見たが、土門が最も好きだった仏様と書いていた気持ちがわかる気がした。

(土門拳の写真)

他にも黒字に金色で書かれた大般若経(重文)や山水屏風などもあったが、私は薬師如来様を見ることができ、大満足であった。

なお、2つの仏像(持国天、増長天)のみ写メを撮ることができた。


『久我山歳時記』㊽〜白露の街を歩く

2024-09-08 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』㊽。9月7日は二十四節気の一つ、『白露』である。白露は音、字だけでも美しく、秋になるイメージがわく。まだまだ残暑は続くが、流石に朝夕には涼しい日が出てくる時期である。

ちなみに七十二侯では『草露白(くさのつゆしろし、〜9月11日)』『鶺鴒鳴(せきれいなく、〜9月16日)』『玄鳥去(つばめさる、〜9月21日)』とされている。

ただ、朝や夕方の気温が下がったとはいえ、東京ではまだ草に露が降りるほど寒くはなっていないが。
 
(この撫子は浄瑠璃寺を訪れた際のもの)

さだまさしの『追伸』(1974年)の歌詞に『撫子の花は咲きました、芙蓉の花は枯れたけど、あなたが無口になった秋に…』というのがあるが、秋の気配を感じると50年も前の歌だが、思い出す。ただ、今年はやはりまだ暑さが残っているので芙蓉の花も綺麗に咲いている。

やはり夏の暑さからすぐに解放されることは嬉しいが、秋となり、涼しさを感じるということは寂しさを感じる。例えば、朝の暑さの中で鳴くミンミンゼミやアブラゼミはいつのまにかいなくなった。代わりにエンマコオロギ(ピピピン)やカンタン(ルルル)、ミツカドコオロギ(チチチ、チチチチ)、オカメコオロギ(ジジジ、ジジジジ)、キリギリス(ギーチョン、ギーチョン)など色々な虫が鳴く。もちろん姿は見えない。



ただ、草花はまだ百日紅やムクゲ(木槿)、ゴーヤなどは花をつけていて夏の花も元気に咲いている。


我が家のモミジアオイも花の数は減ってきたものの、大きな赤い花を咲かせており、ポーチュラカも色とりどりの花を咲かせている。



また、例年秋になると咲き始める我が家のアサガオは9月4日に初めて花を咲かせた。よく見ると沢山の蕾がついていて秋を楽しませてくれるだろう。

さすがにひまわりの花は種がなりつつあり、街路に植えられたアオギリの葉が黄色くなってきている。

葡萄の房は大きくなってきた。次の『秋分』までには一気に花のラインナップも変わるだろう。

空を眺めるとモコモコ大きくなっていた入道雲より、高いスジ雲やウロコ雲を見ることが増え、空が高くなって来たような気がする。

永遠に続くかと思っていた35℃ももう過去のもの、日本は四季の国であることを実感。ただ。夏の暑さはこりごりだが、一気に寒くなってしまいそうな今年の天気は『秋』という季節を探すのが難しいのかもしれない。


『首の皮1枚』から『アレンパ』を目指せ〜阪神ファンの戯言

2024-09-07 05:00:00 | 阪神タイガース
9月に入るとプロ野球のペナントレースも終盤にかかり、残り試合数が気になってくる。私の阪神タイガースブログは7月中旬に書いてから久しぶりなのだが、これはパリオリンピックや高校野球ばかりに目が行っていた訳ではない。

8月の阪神タイガースは11勝13敗1分と負け越してしまい、正直私はかなり諦めムード。7月21日〜8月2日の8連勝は良かったが、その後ヤクルト、広島、巨人、中日のカードは所謂『死のロード』で全て負け越し、大阪ドームのヤクルト戦は2勝1敗だったが、その後もなかなか波に乗れず、イライラの募る毎日であった。

何が悪かったかというと、岡田監督が最近よく話す通り、①投手、特に村上・大竹は昨年通りの投球で力勝負に行きすぎて打たれる、②中継ぎに持ってきた伊藤将の不調、③打線もあまりに打てなすぎ、特にクリンナップで肝心なところで点が取れなかった、あたりだろうか。9月2日の時点では首位広島に5.5ゲーム、もう22試合しかない状態では首の皮一枚だった。 

しかし、どん底からの3連勝。特に嬉しかったのが9月2日の中日戦。先発は中日が高橋宏斗、阪神は長期離脱から復活した高橋遥人の高橋対決。11勝を挙げている中日の高橋を木浪のタイムリーで崩して勝利したのが、大きな1勝であった。



ここから3連勝して首の皮1枚で繋がったのである。残りの試合は19試合(うち甲子園10試合、5日現在)なのだが、6日からの下位ヤクルトとの3連戦、18日からのDeNA・広島・ヤクルトと続く甲子園7連戦でどこまで頑張れるかが決め手となる。



各チームとの対戦成績は中日が14勝7敗2分、ヤクルトが11勝8敗とかなり有利。他の3チームはほぼ互角のため、ホームの有利さを使って早いところで優位に立つしかない。

先発ローテーションはビーズリー・才木・西勇輝、高橋・村上・大竹のパターンになるだろう。先発投手はもちろん、中継ぎの桐敷、石井、ゲラ、岩崎がどこまで踏ん張れるかがカギとなる。これに続く島本や漆原、二軍で調整中の加冶屋あたりが帰って来て欲しいところである。



打線は1番近本〜5番佐藤までは今シーズンの中では最も良い状態。6番は前川は井上、7番は梅野か坂本、8番は木浪とハマっている。当たり前の話だが、とにかく先取点を取ることが大切である。



泣いても笑ってもあと1ヶ月を切った中、最低でも16日までの試合で今の調子を維持し、有利に戦うかが連覇に向けた決め手であろう。がんばれ、阪神タイガース!

竹園(ちくえん)〜日本橋ランチグルメ

2024-09-06 05:00:00 | グルメ
美味い餃子、美味いラーメン、美味い焼そばなどの専門店はたくさんあるが、あまり『春巻』や『雲呑』で有名な店は多くない。それでも『春巻』はテイクアウト専門ながら人形町に『東京春巻』が出店した。では『雲呑』は?というとワンタンメンの有名店はあるが、雲呑のみを名物にしている店は見かけない。ところが、最近『上海ワンタン』が名物という店を発見。早速行ってみた。

場所は人形町のお隣の蠣殻町、『竹園』という。お邪魔すると『上海雲呑』(800円)という雲呑が8個入ったメニューもあるが、サービスランチで『チャーハン+雲呑3個』(1000円)があり、こちらを選択。



まだ、時間が早かったからだが、次々とお客さんがやってくる。人気があるのは私と同じセット、ユウリンチーのセット(1000円)が人気がある。



注文を受けてからチャーハンの調理に入り、7、8分で到着、チャーハン+雲呑に加え小さな杏仁豆腐がついてくる。

雲呑はカフェオレを入れるような大きめなカップで提供される。おそるおそるスープを飲むが、予想通り舌が焼けるように熱く、後回しにする。
チャーハンはパラパラ系、具は卵・ネギ・豚バラ肉・コーンが入っているが、味付けがちょうどよく、あまり脂っこくない。食べ進めるうちに味変を狙って自家製ラー油を掛けるが、唐辛子に枸杞の実などが入っていて香り高く、また辛い。





少し時間も経ち、雲呑のスープを頂くが、こちらも美味い。チャーハンと共に食べるのにちょうど良い。思い切って雲呑を一つ箸で掴み、齧ってみる。皮はもちもち、青菜と豚肉で作った餡もしっかりと味がついていて食べ応えあり。

どうしても雲呑は味が曖昧なものが多いが、さすがに看板に据えているだけのことがあり、満足の行く味である。カフェオレカップは大きく、取手がついていて便利である。

料理を食べ終わり、マンゴーソースの乗った杏仁豆腐で口直し、それにしても久しぶりに美味い雲呑を食べることができた。ご馳走さまでした。




竹園(ちくえん)
中央区日本橋蛎殻町1ー11ー9
0367548447

『明治の災害とMEDIA』と題する企画展を見て

2024-09-05 05:00:00 | 日記
今年も元旦から能登地震、先月は南海トラフ地震の前兆かと言われた宮崎県の地震、台風被害の連続など引き続き災害の多い日が続いている。地震、台風、線状降水帯、計画運休といった言葉を聞かない日がなかった8月。その翌日が防災の日なのだが、その9月1日よりが東京・日本橋のUNPEL GALLERYで『明治の災害とMEDIA』と題した企画展が行われている。

UNPEL GALLERYは大手損保のあいおい ニッセイ同和損保が創業10周年の記念事業として2020年に開設したギャラリーで毎年この時期に保有している『災害資料コレクション』の中からテーマを決めて展示・開催している。昨年は関東大震災100周年のため、大震災による『火災旋風』を描いた錦絵・写真などが出されていた。



今年は江戸時代から明治期に移り、災害の有様を木版刷りから石板や銅板に代わり、さらに写真入りのものがマスコミに登場する過程を展示している。







中身は1891年の濃尾地震の状況が報道によりその重大さを国民が知ることになり、それまではあくまで天災である地震はなすすべがないとしていた地震対策が必要と感じ、震災予防調査会といった機関の設置が始まった。



また、1896年の明治三陸地震津波を日清戦争に従軍した報道画家が被害状況のみならず、現場の悲惨さ、美談などまで絵にし、国民が強く関心を持ったことがわかる。



私は明治三陸地震津波のことはあまり知らなかったが、三陸沖でM8.2の地震が起こったが、各地の震度は2〜3程度であったが、長期にわたる振動のため、不意打ちを食らったような大津波の被害が発生、三陸沿岸を中心に2万人以上が亡くなった。例えば、教師が御影(天皇の肖像画)を津波から守るためにその身を掛けた、を美談として描いている。



他にも1910年8月に発生した東京水害(梅雨前線と台風が重なり死者1357人、家屋全壊2765戸、流失家屋3832戸となった)の両国国技館での避難所の風景などもある。力士が手伝いをしている様子なども描かれていた。



また、12月1日、2日に行われていた防火デーのポスターでも標語に『火の用心のビラは壁より胸に貼れ』などいかにもという文句や懐かしいポスターのデザインも面白かった。





写真が一般的でなかった時代に慘状をいかにうまく伝えようとしたのか、興味深い。

特に細密な鳥瞰図は状況を模写するに留まらず、ついつい丁寧にみたくなるような作品で面白かった。この展示は入館無料、29日まで開催されている。

そばよしのカレーライス〜昭和レトロカレー⑨

2024-09-04 05:00:00 | グルメ
『昭和レトロカレー』⑨、日本橋界隈で最も有名な立喰蕎麦店は?と聞かれた時に迷わず『そばよし』と答えてきた。

かつてNHK放送のブラタモリでタモリ氏がこの店を訪れ、絶賛した(2012年4月3日O.A.)ので火がついたのだが、その後も数々のグルメ番組で取り上げられている。



あまり、その中で語られていないのだが、働いている5人は全て東南アジアや中国の人たち。しかもいつ見てもよく働いている。
この店は鰹節問屋が経営しているらしく、味は濃くないが、確かにそば出汁が濃い。いつもはこれを楽しみにしていて私は夏でもかけそばを食べている。店の入口には丁寧に注文の仕方も書いてあり、店内は狭いながらうまくオペレーションが為されている。


しかし、この店の隠れた名物がカレー丼セット(760円)のカレー。カレーライス単品(600円)もメニューにある。鰹節の出汁をたっぷり使ったカレーらしい。テレビのお料理番組でも出汁メーカーのレシピでも鰹節出汁を使ったカレーが話題になっている。南インドやスリランカではモルジブ・フィッシュという鰹節に似た乾物で出汁を取ることが多いが、この2つは相性がいい。



券売機で食券を購入、カウンターに出す。この段階ではまだお客さんは5人程度。食券の番号順に出されていて私の番号は00、99番の人が呼ばれ、次は私と思っていたら、割にすぐ呼ばれた。多分カレーライスはご飯を盛るだけだからすぐにできるのである。

カレーライスを受け取り、カウンターに置いてある福神漬を乗せて、席に戻る。まず驚いたのはご飯の量、いわゆるカレー皿の左端に山のように盛られている。カレールーは今まで食べ歩いた8軒と比べて明らかに黄色いのである。

まずはルーから、辛味はあまり感じないが、出汁が効いているのがよく分かる。具は玉ねぎ、ニンジン、鶏肉など意外に具沢山。他の店は最後はご飯が足りなくなっていたが、こちらはちょうど良かった。

さすがに鰹節の出汁を売りにしているお店だけあってカレーライスも味わい深いものであった。ご馳走さまでした。


そばよし
中央区日本橋本町1ー1ー7
0332410884

『夏旅2024』⑯〜白鬚神社・藤樹神社

2024-09-03 05:00:00 | 旅行
『夏旅2024』⑮、琵琶湖プリンスホテルで美味い朝食を食べた後、8時半に出発。東京のアンテナショップで教えてもらった白鬚神社に向かう。



浜大津あたりまでは朝の渋滞もあったが、湖西道路に入るとさすが高規格道路(2005年から無料解放)なので走りやすいが、無料だけあって標識が掠れ、路盤もところどころガタガタ。まあ、ただなんだから文句も言えないが。湖西道路、国道161号線を乗り継いで白鬚神社に到着したのが9時半。なにしろ国道沿いに神社があり、ひっきりなしに車が通るが、信号等はなく歩行者が渡るのは危険である。



駐車場は本殿のお隣、本殿は改修工事中である。有名な鳥居はまさに琵琶湖の湖面、少し離れたところにあり、夕日と共に鳥居を入れた写真が人気がある。



相変わらずの晴天続きで駐車場は埃が舞う状態、まだ朝早いのに結構な圏外ナンバーの車で混んでいる。

白鬚神社と付く神社は多いがここが総本宮で近江国最古の神社と言われる。由緒は垂仁天皇25年(西暦BC2000年頃)に皇女倭姫命(やまとひめみこと)が社殿を造られたのが創始である。また、ご祭神は猿田彦命である。分霊社は292にも上る。





階段を上ると外宮、内宮、3社が並び、さらにその上には右から天満宮、稲荷社、寿老人、弁財天、一つ奥に岩戸社が祀られている。上まで登ると湖面がよく見えてなかなか壮観である。

社務所まで周り、御朱印をもらいながら話を伺う。滋賀県のガイドブックに写メで映えると書かれているため、人気が上がることは嬉しいが、前の道路を無理に渡ろうとして事故が起きないかハラハラするとのこと。



その対策ではないが、少し高いところから湖内大鳥居が眺められるようにと展望台も造られたようだ。

あまり足を踏み入れたことのない湖西に来たので少し車を走らせて安曇川(あどがわ、かつての町、2005年の町村合併でマキノ町、今津町など4町1村と合併して現在は高島市安曇川町)に行くことにした。全国的に名が知られているとも言えないが私としては有名人である江戸時代の儒学者、陽明学者である中江藤樹の故郷である。

私が中江藤樹のことを初めて知ったのは小学生の頃に読んだ絵本に『武士の子として生まれた藤樹は祖父に付いて9歳の時米子へ。さらに10歳の時に藩主の国替により伊予大洲に移り、朱子学を学ぶ。母親は夫を失い、安曇川で一人暮らしていたが、冷たい冬の水を使ううちにひどいアカギレになったことを聞き、薬を持って1人で雪道を歩き、母を訪ねる。懐かしい母の顔を見た時に母に追い返される。その際、母が織っていた布を織り機から外して二つに裂き、学業を中途でやめて帰ってくるのはこれと同じことだと教えた。藤樹は泣く泣く大洲に戻って行った。』この物語には他にも新井白石などのエピソードが載っていたが、なぜかよく覚えている。

さらに明治時代に内村鑑三が外国人向けに書いた『代表的日本人』という本に取り上げた5人の日本人の中に西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮と共に藤樹が入っていて驚いたこともある。



この近江聖人が育った安曇川には中江藤樹記念館、藤樹神社などもある。記念館を訪れたが残念ながら改修中。

しかし、すぐのところに藤樹ゆかりの神社として大正11年に敬慕する人たちにより造られた藤樹神社があり、手を合わせることができた。
すぐそばには『藤樹の里あどがわ』という道の駅もあり、立ち寄った。旅から戻ったら久しぶりに『代表的日本人』を読み返してみることにしたい。(以下、次回)