三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

猫を殺す 仔牛を殺す そして・・・

2006年08月25日 | 政治・社会・会社

 作家の吉村昭さんが亡くなりました。点滴の管やカテーテルをご自分で外して、それで亡くなったとのことです。奥さんは「自分の死を自分で決めることができたのは、彼にとってよかったことではないかと思う」と言い、そして「私は目の前で『自決』するのを見てしまったので、彼がまだ書斎にいるとか、取材旅行に出かけているとは思えない。身勝手な人です」とも言ったそうです。
 人間の死に方として、最後まで威厳を保ったままの、最高の死に方ではないかと敬服しました。奥さんの津村節子さんも作家で、「身勝手な人」という発言は、作家らしい愛情表現であったと思います。日本尊厳死協会の人が「尊厳死とは呼べない」と言っていますが、大きなお世話ですね。第一、日本尊厳死協会なんてものがあるのを知らなかったし、その存在意義も理解困難なものです。亡くなった吉村さんにとって、その死が尊厳死であるかどうかなんて無意味なことですし、私たちにとっても同じく無意味です。ただ多くの人が思うのは、このように威厳のある死に方を自分もしたいと、そういうことではないかと思います。

 正反対に、なんという無念な死に方であったろうと同情してしまったのは、埼玉県吉川市で焼死した小学六年生の男の子です。火をつけたのは1歳上のお兄さんで、その原因となったのはお兄さんを殴り続けたお父さんです。家庭崩壊が小学生の無残な死を招きました。
 火をつけた中学1年生の男子が通う中学校の校長は「担任をはじめとして学校側が悩みを聞くことができていれば」と発言していますが、どこまで本気でどこまで世間体のための発言なのか、わかりません。仮に悩みを聞くことができたとしても、学校に何ができたか疑問です。何よりも、子供が悩みを相談できる環境が、学校にしても家庭にしても社会全体にしても、まったく整っていないことが問題です。
 家庭については、子供を殴り続けるような父親は論外です。子供からちゃんと話を聞く親は、子供を殴ることはありません。殴られることを恐れて本当のことを言わない子供にしてしまったのは自分自身なんだということに、この親は気がついていません。そして、この子は父親を恐れるのと同じように他の大人たちも恐れていたのでしょう。だから何も相談しなかった。殴られるかもしれないからです。
 もし学校なり地域なりがこの子の恐怖心を取り除くことができるような環境づくりをしていたら、可哀想な弟は死ななくてすんだかもしれません。たとえば児童相談所が警察や学校と密接な協力関係にあって、家庭内暴力についてきちんとした対処をする組織であれば、教師は子供の悩みを自分で背負うことがないので、子供たちに「もし家庭でお父さんやお母さんから暴力を受けるようなことがあったら、必ず児童相談所に行って、事実をそのまま話しなさい。黙っていることは君たち自身のためにも、ご両親のためにもならないのだから」と、繰り返し教えることができるでしょうし、子供たちもどこかで社会を信用してくれるかもしれません。法律の整備も必要でしょう。
 実は人間はいつかどこかで自制心を発揮して、子供を殴らないようになるのではないかと、かなわぬ夢を思い描いていたのですが、どうも無理な話のようです。だからどうしても社会の仕組みや手続きで子供を守らないといけません。児童相談所の権限を強化して、継続的に暴力を受けている子供を速やかに非難させ、加害者を警察に引き渡すことができるくらいにするとか、そういった対応が大事なのではないでしょうか。子供が相談できる場所、昔の駆け込み寺のようなものがあれば、それが最後の砦になってくれるかもしれません。
 同じくらいの比重で、暴力をふるう親や教師の相談に乗る必要があります。彼らは精神的に問題を抱えているから子供を殴るのであって、場合によっては治療を受けさせなければならないでしょう。もちろん、厳重な処分も欠かせません。
 教師は、生徒に暴力をふるったことが明らかになった段階で教師の免許を取り上げるのがいいでしょう。日本ではまだ儒教的な感性が残っていて、教師というものは「先生」と呼ばれ尊敬されるものだと勘違いしている教師がたくさんいて、そういう勘違い教師が生徒を殴ります。こういった感性はなかなか治しようがないので、暴力教師には職業訓練を受けさせて、別の職業についてもらうしかありません。塾教師や家庭教師を行なうことも禁じる必要があるでしょう。子供を殴る教師は、必ず繰り返し子供を殴ります。死ぬまで治りません。
 親は、どうすればいいでしょうか。子供を殴る親は普通に考えれば親の資格はなく、暴行や傷害の罪で刑に服してもらうのは当然として、その後二度と子供を作らないように避妊手術を受けさせるという厳しい法律を作るのもいいかもしれません。子供を殴る親は、教師と同じく再び子供を殴ります。やっぱり死ぬまで治りません。
 問題は暴力をふるう親から救出された子供をどうするかで、親の元に戻すのは、谷底から這い上がってきた子供をまた突き落とすのと同じことですから、子供を殴らない人に里親になってもらうとか、または国家予算で育てるのがいいと思います。
 厳しすぎるような印象を受けますが、これくらいの厳しい対応をしないと、学校や家庭の暴力をなあなあで済ませているうちに、子供たちがみんな不良少年や暴走族になってしまいます。社会が親や教師に甘いから子供がそこにつけいるわけで、暴力を許さない空気に満ち満ちていれば、子供も暴力に走ることはありません。
 ちなみに、「愛のムチ」という言葉は暴力主義者たちが考え出した欺瞞で、愛情と暴力は対極にあるものです。暴力は常に怒りの発露であり、恐喝や脅迫の道具であり、暴力団や独裁国家が使うものです。「殴る愛情」なんか存在しえません。変態性欲の持ち主たち以外には(笑)。

 教師が生徒を殴っている映像のサイト(たぶん日本ではないと思います)
 http://www.bofunk.com/video/1365/hit_student.html

 ワイドショーで、坂東眞砂子という作家が猫を殺しているのを報じていました。人間は身勝手な存在であって、猫でも犬でも牛でも豚でも鶏でもアヒルでもウサギでも鹿でも馬でも、自分の都合で殺すものですから、こういうことで騒ぐほうがどうかしています。ただ傑作だったのが、この作家が猫の避妊手術について「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」と、センチメンタルなことを書いているところです。言うまでもなく猫は避妊手術について何も思わないし、子を産みたいとも産みたくないとも思わないでしょう。猫を擬人化することによってこの人が何を言いたいのか、まったくわかりません。たとえば仔牛について同じように言うなら、「もし仔牛が言葉を話せるならば、殺されたくない、牛肉になんかなりたくないというだろう」となるんでしょうかね。
 猫を飼うのは猫に対する愛情ではなくて、猫を飼うことで自分の生が充実すると思うから飼うのです。牛肉料理が食卓を充実させるのと大差ありません。人間は必要に応じて猫も仔牛も飼うし、殺しもします。猫と仔牛は違うと考える人もいるかもしれませんが、では、猫を殺す行為と仔牛を殺す行為のどちらが残虐でしょうか。おそらく多くの人にとって猫は身近な動物であり、愛玩動物であり、殺して食用にする動物ではない点で、猫を殺すほうが残虐な気がすると思います。しかし、殺す、命を奪うという行為自体はどちらも同じで、共同体を不安にし、不安定にするという点で長い歴史の間に禁忌の感情が生まれました。その証拠に、ほとんどの日本人が、仔牛を殺す場面を実際に見たことがないと思います。もし公開されたら、誰もがそれを残虐な行為だと感じるでしょう。仔牛を殺すことが許されているのは、それが食肉としてその流通を必要としているからに過ぎません。猫を殺すのは必要性がないのに共同体に不安と不安定をもたらす行為であるが故に、より残虐なものとして認識してしまうのです。感情的な錯覚を起こしているだけの話です。
 
 どうしてこの作家のことを書いたかと言いますと、もしも子供を殴った親が強制的に避妊手術されるとしたら、その心境をどのように想像するのか、この作家に聞いてみたいと思ったからなんです。少なくとも「避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」なんて単純な心境ではないのは間違いないでしょう。
 猫や仔牛を殺す行為はそれが表立ったものになると共同体に不安と不安定をもたらしますが、人間を殺したり殴ったりするのが一般的になってしまうと、共同体が崩壊してしまいます。ところが、猫よりもずっとずっと多く、人間が殺されているのが現実で、世界各地の脆弱な共同体は、いまや崩壊の危機に瀕しています。いまの状態が続けば、日本もそのうち例外でなくなるかもしれません。できればその前に、吉村昭さんのように威厳のある死を迎えたいと、ひそかに願ってしまいますね。