三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

未成年禁と18禁

2006年08月21日 | 政治・社会・会社

 長崎県の市立中学校で2年前に校舎の4階から当時中学2年生の生徒が飛び降り自殺したという事件がありました。ご両親が市を相手取って損害賠償の訴訟を起こすと、昨日報じられました。いろいろな報道を調べましたが、どれにも担任教師の住所氏名年齢電話番号などは掲載されていません。事件のあった長崎まで調べに行ければいいのですが、なかなか個人では物理的時間的経済的に無理で、この場で報告できないことを残念に思います。というのも、この担任教師は人格的に最低の人間で、よく生徒に暴力を振るっていたということですので、自殺の原因に関係があるなしに係わらず、暴力教師というだけで全国的に報道されてしかるべきだと思うからです。

 以前から思っていたことなんですが、犯罪があってそれが報道されるとき、被害者の名前や住所、果ては家族関係から子供の頃の様子まで報道されるのに、加害者については往々にして匿名にされます。それは、事件の真相が明らかになるまでは冤罪を恐れて報道しないという慎重な姿勢の現れでしょうし、容疑者の人権についても配慮しているのかもしれません。しかし報道としては記者が自分の足とか人脈とか経験とか知識とかを駆使して真相に迫る報道をしてくれるのを、私たち情報の受け手は期待しているわけで、ただ警察が発表したら報道するというのでは職務怠慢の誹りを免れないでしょう。

 以前にも、下着泥棒の教師の名前を千葉市の教育委員会が実名では発表しなかったことに対して、マスコミは自分ではなんの調査も行なわずに、教育委員会の言うとおり「被害者の希望で公表しない」と報道しましたが、それを見た被害者から「そんな事実はない」という抗議があって、教育委員会の嘘が発覚しました。それでも千葉市教育委員会は、
 ・匿名発表のほうが被害者の人権が守られる
 ・匿名発表は決定事項だ
 と、霞ヶ関の官僚みたいな強弁をして、とうとう発表しなかった。マスコミはこんな強弁にとらわれずに、下着泥棒の教師の実名を報道してもよかったのではなかったかと思います。といいますか、それ以前に、「加害者の実名を公表しないでほしい」と希望する被害者がいるとは普通考えられないのに、確認もしないでそのまま報道してしまったこと自体、かなりひどい話です。マスコミとしては次のように書いたらいかがだったでしょうか。
 ・○○中学校の教師○○××(むろん実名)は○月○日、下着泥棒を行なっていた
 ・千葉市の教育委員会は「被害者の希望があった」として匿名発表を行なった
 ・嘘が発覚した後も、千葉市教育委員会は匿名発表にすると強弁した
 これだと情報の受けてとしての私たちは、事実関係が全部わかって、自分なりの判断ができます。万が一、千葉市教育委員会から「実名報道をするなよ」といった恫喝があったとしたら、それも報道すればよろしいと思います。

 さて、長崎県の中学2年生飛び降り自殺の話に戻りますが、きっかけはタバコの所持が担任に見つかったことのようです。
 ここで注意しなければならないのは、タバコ→不良という図式を持ち出さないことです。タバコを所持したり喫煙したりする大人が不良扱いされるのであれば、タバコを所持する子供も不良扱いされるのは当然のことです。しかし実際はそうではなく、喫煙は大人には許されて子供には許されていません。その理由はどういったことなのでしょうか。健康被害を言うなら大人についても同じことが言えるわけで、子供だけに禁ずるちゃんとした理由がないでしょう。大人に許されて子供に許されないことは他にもたくさんありますが、そのいちいちについてちゃんとした理由を説明しようとすると、ハタと困ってしまいます。
 そしてもう一点、注意しなければならないのは、子供が不良行為を行なうのは、大人が行なっている不良行為を手本にしているということです。大人が人を殺すから、子供も人を殺します。大人が強盗するから子供も強盗する。大人が人を殴り、恐喝を行い、人を騙し、酒を飲み、タバコを吸い、人の悪口をいうから、子供も同じようにするのです。子供たちの行いは大人の行いを投影していると、その反省もなしにいきなり子供に暴力を振るうのは、怒りを理性で抑制できないヒステリックな行動です。独裁を非難され経済制裁を受けたことに反発してミサイルを発射する国と、精神構造は同じです。

 暴力はいかなる場合でも許されるべきではありません。たとえ相手が殴りかかってきても、殴り返すことは暴力なんだと、そう肝に銘じておく必要があります。殴りかかられたときは別だとか、そういう例外を設けてしまうと、例外の名を借りた暴力が許されることになってしまいます。ましてや、立場の強い者が立場の弱い無抵抗の者を殴るのは、卑劣極まりないことだと非難されるべきです。子供を殴る大人、生徒を殴る教師、社員を殴る社長、そういう人間たちは社会的に制裁を受けてしかるべきなのに、なぜか野放しにされています。社員を殴る社長は、まさに社長であるが故に許され、暴行罪や傷害罪になりません。しかし逆に社長を殴った社員は直ちにクビになり、暴行罪や傷害罪で引っ張られ、社会的にも立ち直れなくなります。この状態がおかしいことなのだと気づかないと、人によって暴力が許されるという歪みの中で自殺してゆく子供たち、大人たちが後を絶たない社会がいつまでも続くことになります。

 大人に許されることは子供にも許される、大人に許されないことは子供にも許されない、子供に許されないことは大人にも許されない、こういったルールにしておけば、理由も説明できないのに子供だけに禁ずるという理不尽がなくなり、大人と子供の間が風通しよくなるでしょう。子供を子供扱いすることから、私たちは脱却しなければなりません。少なくとも、この長崎の暴力教師は実名を公表され、暴行罪、傷害罪が適用されてオツトメを果たす必要があります。このままこの教師が許されるのであれば、子供たちは暴力が許されるものだとタカをくくってしまうでしょう。暴力の連鎖、ひいてはいじめの連鎖がずっと続くのです。暴力教師はまさにその存在そのものがいじめを誘発していることに気づかねばなりません。誰が気づかねばならないかというと、本当は何よりも先に教育委員の方々、そして父兄と教師たち、地域社会、そして子供たち自身です。子供たちはこういう暴力教師を堂々と非難する勇気を持たなければならないでしょうし、そういう優しくておおらかで毅然とした子供を育てていかねばなりませんが、どう考えてもそんなのは理想論で、現実はまったく逆のようです。

 現実は、こういう暴力教師が逮捕もされず、免職にもならず、実名も報道されず、現在でも教師を続けていて生徒を殴り続けているわけです。警察にも教育委員会にもマスコミにも地元の社会にも守られて、のうのうと生きています。浮かばれないのは殴られ続けている生徒たちです。暴力はずっと続き、いじめはなくならず、生徒たちは希望と勇気を奪い去られてますます卑屈になって、文字通り、不良が大量生産されるでしょう。日本の教育に未来はありません。

 事件の詳細を紹介しているサイト
 http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number2/040310.htm