昨日の敗戦玉音放送の日は日本全国各地で反戦の行事がいろいろと行なわれました。私が高校生の頃は、教師、生徒、父兄の有志が学校に集まって、反戦の話し合いを行ないました。そのときの印象はずっと心に残っていて、戦争の史実の不透明性について問題意識を抱き続けることになりました。昨日行なわれた個々の行事についても、それぞれに参加した人たちの心に残り、反戦の決意を新たにした方もいらっしゃるでしょう。
ところが今日8月16日はその翌日ですが、一日過ぎただけでもう、そういった行事がはるか過去の出来事のように感じてしまうのは、私だけではないと思います。小泉首相の靖国参拝について侃々諤々たる議論をするのをテレビで見たのもずいぶん前のことのような気がしています。私の勝手な印象に過ぎませんが、日本人は世界でもっとも忘れっぽい民族なのではないでしょうか。
昨日は全国各地で戦争反対を訴えるスピーチがたくさん行なわれたことと思います。ブログもたくさんありました。反戦を訴える言葉はどれも聞こえのいい言葉ですが、例外なく紋切り型です。たとえば、
史上唯一の被爆国として反戦を訴え続ける義務があります
あの悲惨な体験を忘れてはなりません
いつまでも語り継ぐ必要があります
この不幸な歴史を繰り返さないようにしなければなりません
二度と戦争はごめんです
戦争反対、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ
平和憲法を守ろう
未来の子供たちのために争いのない平和な世界を作ろう
戦後は決して終わっていないのです
上に挙げた以外にも山ほどの反戦の言葉がありまして、どれをとっても誰もが頷かざるを得ない、まっとうな言葉ばかりです。まっとうな言葉は決して悪いものではないけれども、心に残るものではありません。終戦記念日の翌日にはもう、早くも忘れ去られているかもしれない。思い出すのはまた一年後。これでは反戦もなにもあったものではなく、8月15日は日本人が感傷にひたる日となってしまいます。
では、反戦とはなんなのでしょうか。
それについて述べる前に、日本人にとっての〝戦争〟というと、61年前に負けた太平洋戦争、第二次世界大戦のことです。だから日本人が戦争を考えるのは太平洋戦争のことを考えるわけで他の戦争についてではない、ということをまず知っておかねばなりません。だから、戦争というと過去の出来事であり、おじいちゃんやおばあちゃんの話の中であり、亡くなった人々のことなんですね。そういう日本人の心理の中で反戦を言うのは、これからの日本人のありようとしての反戦を考えているものなのです。過去の歴史としての戦争があり、これからの問題としての反戦がある、そういったところが日本人にとっての〝戦争〟の現実ではないかと思います。
お気づきと思いますが、問題なのは日本人にとっては他国同士が争っていることについて、それを太平洋戦争と同じ意味と重みを持って〝戦争〟として認識していないことなんです。もっとも悪い言葉で言うと、〝対岸の火事〟となります。〝対岸の火事〟でない人は、主に戦争当事国に係わる利権があったりする人です。あとはその戦争のためにトイレットペーパーが値上がりしてしまうと知らされた主婦とか。笑いごとではなく、日本人にとって現在ただいま世界各地で戦われ、実際に死者を大量生産している戦争よりも、61年前に負けたあの戦争のほうが現実なんですね。日本人の反戦と、他国の人にとっての反戦には、かなりのギャップがあるわけです。
というのも、実は他国の人にとっての〝戦争〟も、日本人と同様、自分の国が戦場になった戦争、近しい人が亡くなった戦争が〝戦争〟なんです。だから世界各国の人々の反戦にはさまざまな特色があり温度差があります。たいていの場合は当事国のどちらに理があるかを考え、より理不尽なほうを悪いほうと決めて非難します。〝先に手を出したほうが悪い〟という論理に代表される考え方ですね。ベトナム戦争のときはアメリカを利権のための侵略戦争と位置づけ、非難する人が多かったし、同じように考える人が世界中にも多かったと思います。ベトナム頑張れ、アメリカを撃退しろ、そういう応援の声でした。それは反戦というより、シンパサイザーというべきものでした。
反戦というのはそういった安易な応援の気持ではなく、それは戦争そのものに反対するという、かなり覚悟の要る思いであり姿勢であるわけなんです。どうして覚悟が要るかというと、たとえば夜道で強盗に襲われて、なおかつ無抵抗でやられるままになっていることができるかの問題と、ほぼ等しいからです。暴力に暴力で応えることをやめない限り、戦争はなくならないことを理解する必要があります。〝先に手を出したほうが悪い〟という論理は、反戦に不向きなのです。
ユダヤ人の問題についても同じことで、パレスチナに住んでいたところに、はるか昔にいなくなったはずのユダヤ人が帰ってきて、ここはもともと俺たちの土地だから返せ、といって強引に住まいを奪われたわけですから、パレスチナ難民にとってはユダヤ人がいけないと思いますが、ユダヤ人にしてみればもともとは自分たちが住んでいて、はるか昔とはいえとにかく住まいを奪われたわけだから、取り返してなにが悪い、という理屈になります。ちょうど車を盗まれたときに似ていて、盗まれた自分の車に他人が乗っているのを発見して取り返そうとすると、その人は実は中古屋から普通に正規に購入していて、泥棒と中古屋がつるんで犯した窃盗事件だったわけですが、乗っている人は法律上は〝善意の第三者〟となるので、自分の車であることがわかっていても取り返すことはできません。ただしこれは日本の法律で、ユダヤ人には別の理屈があるでしょうから、その理屈に基づいて取り返した。その結果パレスチナ難民というものが生まれてしまったが、そんなことはユダヤ人の知ったことではないのですね。パレスチナ難民にとってははるか昔にユダヤ人が住まいを奪われたことなど知ったこっちゃないのと同じです。どちらにも理屈はあり、〝先に手を出したほうが悪い〟という論理ではなんの解決もできません。だからずっと戦争が続いています。
「左の頬を打つ者には右も打たせよ、上着を取る者には下着も与えよ、汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と聖書には書かれています。
「色即是空 空即是色 ・・・・心無罣礙・・・・無有恐怖」と般若心経には書かれています。般若心経の言葉はかなり難解ですが、簡単に言うと「物質的なものにこだわってはいけません、それらは存在しないものなのです、また、見えるもの聞こえるもの感じるもの思うものにもこだわってはいけません、それらもやはり、存在しないものなのです、こだわりをなくし、心を自由に解き放てば、恐怖から解き放たれ、あらゆる不安や怒りやその他もろもろの不自由な心の動きがなくなり、真の悟りを得ることができるでしょう」といった意味のことが書かれています。『スッタニパータ』の中には「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのものがない人は、憂うることがない」と書かれています。
これらは実は、強烈な反戦のメッセージでもあります。強烈というのは、普通の人にはとてもできないことが書かれているからです。キリスト教でよく勘違いされているのは、汝の隣人を愛しなさい、と聖書に書かれていると思っていることで、実際はそうではなくて、隣人を愛するなんて誰にでもできる、だからあなた方は自分の敵を愛しなさいと、そう書かれています。ブッダは、子供や妻を愛したりしないで、それらを捨て去りなさい、と言っています。普通の人にはとてもできないことを、宗教は説いているのです。そしてこれらがたとえ話かというと、実は決してそうではなくて、実際にそうしなさいと熱心に言っているのです。
人間はパンのために喜んで自由と人格を投げ出します。そしてパンのために戦争をします。戦争がなくなるためにはまず、パンを放棄しなければなりませんが、それはとんでもない困難と苦しみを伴います。反戦の道は遠く、かなり険しそうです。
少なくとも、子供を襲う暴漢を見事に撃退して「パパ、かっこいい」というスタイルのアメリカ映画のような心理構造が幅を利かせている間は、戦争がなくなることはありません。