某夕刊紙に「サラリーマン相談室」と題して矢島正雄という人が相談に答えています。おそらくその第一弾ではないかと思われますが、8月5日号に掲載された記事の内容が、暴力を肯定するという、大胆なものでした。
「ネチネチ上司」という類の上司がいて、それを殴りたい、というなんとも子供じみた相談なんですが、これに対してこの矢島正雄なる人物は、自分にも経験があった、銀行勤めのときで、当時の上司を銀行の裏に呼び出してボコボコにやっちゃった、嫌な上司にははっきりとやめろといって聞かないときは殴っても仕方ない、というすごい回答をしています。この後もすごくて、「なぜか日本の組織って、こんな嫌なヤツがソコソコ出世する」と書いた直後に「大事なのは〝自分の将来は明るいはず〟と信じること」と書いていまして、そういう嫌なヤツがソコソコ出世するような日本で、どうして自分の将来が明るいと信じられるのか。このあたりの自己撞着もなんのその、上司を殴ったとしても道は開ける、殴らずに後悔したヤツはいっぱいいる、などと殴ることを奨励しているとしか思えない結論で結んでいます。
人類の歴史は暴力と殺し合いの歴史でしたから、人を殴る人間がたくさんいて、そういう人間は子供も殴り、殴られた子供は人を殴る人間に育ち、ときには人を殺します。そうして殺し合いの歴史が連綿と続いていくのです。矢島正雄なる人物は、自分がその歴史も奨励していることに気がついていません。こういう人がいる限り、暴力と殺し合いの歴史はジャイアンツよりもずっと永遠に続きそうです。いったい誰が歯止めをかけうるのでしょうか。
歯止めをかけようとする人は当然ながら、人を殴らない人ですから、殴る人に負けてしまう可能性が高い。そして、殴っている人と殴られている人を見たとき、自分に被害が及ぶことをまず人間は恐れます。自分が殴られることがないようにしたい、それが普通の心理です。これが道端で見知らぬ他人同士が殴ったり殴られたりしていたら、警察に通報すればいいだけの話ですが、たとえば自分の所属する組織や共同体の中で行なわれていたときはどうでしょう。会社で同僚が理不尽な理由で社長に殴られている。では警察に通報するかというと、まずしません。
「人はパンのみにて生きるにあらず」と聖書には書かれていますが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には「人はパンのために喜んで自由を投げ出す」と書かれています。定期的に支給される給料や被雇用者であることによるさまざまな安定した利益、現代人にもっとも必要な利益ですね、その利益のために人格を投げ出しているのが現代の被雇用者の実態です。そこでなかなか上司には逆らえない。この構造を知っていて、なおそれを利用して社員を殴る社長、部下をいじめる上司は、人間的には最低のランクですが、そういった最低のランクの人間が社会の上部構造にいる、というのが現実です。ソコソコ出世する、どころではなくて、会社のトップ、役所のトップ、政治のトップまで出世します。
人格的に最低ランクの人間が最も高い地位にいる国が北朝鮮で、日本はそれとは違うと思っている日本人がたくさんいると思いますが、実は構造的には日本も北朝鮮も同じなんですね。基本的に、殴る人が殴られる人の上に立つ社会です。社会自体が暴力団と同じ構造と言っていい。いや、違法行為を命令されてもそれには従わないから、暴力団と一般社会の構造は違う、と言いたいところですが、岐阜県庁の裏金作りや各保険会社の保険金不払いなどの事件を持ち出すまでもなく、命令されれば、人間は違法行為も含めて、たいていのことをやってしまうものです。その構造は会社も役所も暴力団も同じです。
だから社長が理不尽に社員を殴っていても、誰も逆らわないし、警察に通報もしません。警察に通報する行為が非常識と思われかねない雰囲気さえあります。これは実は異常な事態なんですが、この異常事態がずっと続いていると、異常でなくなってしまいます。この感覚の麻痺が恐ろしい。
非暴力を説いて支持された有名な人物はイエスやブッダ、ガンジーなどですが、非暴力が歴史の主流になることはついになく、逆に暴力の極みである核兵器を所持する国が増加する傾向にさえあります。これは非暴力主義が現実的でない、という考えに基づくもので、「平和憲法」を頂く日本でも軍隊の存在はやむを得ない、とされています。文化人の中にはガンジー的な非暴力を説く人もいますが、議論や座談会の現場では一笑に付されて終わっています。
ことほどさように、暴力を肯定する勢力が世の中の支配層であるにもかかわらず、たとえばジダンの頭突きが問題になってしまうのはどうしてかというと、これは簡単な話で、権力者ではないからですね。権力者による暴力は大体許されてしまいます。ブッシュがイラクで何千人殺そうと、「人殺し」と呼ばれることはあっても「殺人犯」にはなりません。しかし一般人が暴力を振るったらそれを罰しないと、暴力が権力者の特権でなくなってしまうので、だから取り締まるわけです。
ところが、これがたとえば家庭内の問題になると、家庭で暴力を振るう父親を取り締まることはあまりありません。「ときには殴ることも必要だ」という無茶な論理がまかり通ってしまう世の中です。幼児が殺されたり病院に運び込まれ、不審に思った医者が警察に通報してからやっと、家庭内の暴力が問題になります。児童相談所にはなんの力もなく、家庭内で「教育」の大義名分を振りかざしたりまたはなんの脈絡もなく子供に暴力を振るう親が、のうのうとのさばっているのが現状です。
殴られて育った子供は、必ず人を殴る人間になります。殴ることに抵抗がないからです。良心の呵責もない。殴られずに育った子供は人を殴ることに抵抗を感じますし、良心の呵責を覚えます。だから人を殴れません。愛情を持って子供に接する親に育てられた子供は、そうでない子供に比べて他人に愛情を持って接する度合いが強くなるのと同じで「子は親の背中を見て育つ」というのは真実なのです。
「最近の子供はけんかの仕方を知らない」という意見があります。これはどのくらい殴ると相手が怪我をするかを知らないから手加減が利かない、といった意味で使われており、「だからときにはけんかも必要」となって、暴力を擁護する理由に使われたりしますが、これは論理のすり替えに過ぎません。そもそも互いに暴力を用いてけんかをする、という事態が起きなければ暴力によって大怪我をさせたり、場合によっては殺してしまったりすることもないわけです。「殴られたことのない子供は殴り返すことができず、その分怒りが深くなって、相手の家に火をつけるとか殺してしまうとかいった極端な行動に出てしまう」という議論もあります。これもなんか変です。だったら、殴られたり殴り返したりという野蛮な行動をする子供が理想的な子供なのか、ということになって、「理想の子供は暴走族」ということになります。それでいいのでしょうか。
ハンムラビ法典ではありませんが、たいてい「先に殴ったほうが悪い」という論理があって、「だから殴り返すのは当然」となりますが、これが強く殴りすぎたりすると「先に殴ったほう」の人間が死んでしまったりして、殺人事件になったりします。こうなると「先に殴ったほう」が被害者扱いで、いい人、真面目な人、思いやりのある人、誠実な人、と褒め言葉のオンパレードになって、そして「真面目で誠実のあまり殴ってしまった」ということになって、「その真意も理解できないノータリンが殴り返して殺してしまった」のが真相だった、なんてことになりかねません。マスコミは大衆迎合権力者迎合だから、どんな報道でもします。
人を殴って、強く殴り返されたから、もっと強く殴って、するともっともっと強く殴り返されたから、さらに・・・・なんて馬鹿な繰り返しになってしまったとき、先に殴ったほうが悪いのか強く殴り返しすぎたほうが悪いのかは不毛な議論です。繰り返される暴力の連鎖をどこで断ち切ることができるか、それを考えなければなりません。
ミサイルを発射された国が相手国に核ミサイルを撃ち込めば、それは国際的に非難されるでしょう。しかし核ミサイルに反応した自動反撃装置が水爆を何十発も撃ち返していたら、どうでしょうか。先に撃ったほうが悪いのか、先に核を使ったほうが悪いのか、それとも何十発も水爆を撃つ反撃装置を設置していたほうが悪いのか、そんな議論よりも、当事国の国民はみな死んでしまって、議論自体、する必要がなくなってしまいます。これは悲劇です。やはり暴力の連鎖をどこかで断ち切らなければなりません。
日本は専守防衛といって「先に殴る」ことはしませんよ、というスタンスです。絶対に殴らない、とは言っていません。最近の傾向はむしろ逆で、殴られたら殴り返しますよ、から、殴られそうになったら殴りますよ、という方向に進みつつあるようです。しかしもしここで、憲法の条文どおりに、戦車やミサイル、戦闘機に至るまで武器という武器を廃棄してしまったら、世界中の笑いものになるのか、尊敬される国になるのか、どっちなんでしょう。原爆記念日の今日、少し考えてみたい問題ではあります。
少なくとも、上司を殴っていいかどうかの相談には、決して人を殴ってはいけませんと、常識のある人間としてまっとうに答えたいと思っています。