三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

核兵器廃絶

2006年08月22日 | 政治・社会・会社

 8月20日に書いた「ニッポンチャチャチャ」と題したブログの中で知人の話をしました。仮にAさんとします。Aさんは実は広島県出身で、幼い頃から被爆体験の話や原水爆に反対する教育を受けてきたのですが、国防と核兵器廃絶とは、実は相反するものであるという教育は受けていないようです。
 20日の夜に、テレビ朝日の日曜洋画劇場で「スーパーマン」が放送されていました。そこで、このシリーズの4作目ではスーパーマンが世界中の核兵器を廃絶するシーンがあった話をすると、Aさんはこう言いました。
「各国が莫大な予算をかけて開発した核兵器を、ひとりよがりの理屈で勝手に排除するとは何事か。核兵器は必要だから存在しているわけで、決して使ってはならないものだけれども、持っていることに意味がある」
 これが広島の反戦反核教育の成果なのでしょうか。子供の頃から原爆の恐ろしさだとか被爆体験の悲惨さだとかを、実際に被爆したおじいちゃんおばあちゃん、そして被爆二世の人たちから聞いている、と言っていましたから、原水爆にはアレルギー反応を起こすくらいであるはずなのに、「持っていることに意味がある」という発言には驚きました。もちろんAさんは抑止力ということについて主張したかったのでしょうけれども、核を所持した国同士が、互いに発射できないことを前提として脅迫しあうという図式が、どれほど醜悪なものであるかについては理解が及んでいないようです。
 これがAさんだけであればいいと願いつつ、もはやヒロシマと書かれなくなった広島県の反戦教育が迷走しているのではないかという不安は拭いきれません。そしてその最たる原因は、アメリカが核を所持していることにあります。どういうことかといいますと、まず、広島県での反核教育の教条は次のようなものでしょう。
 ・核兵器は人類史上もっとも非人間的な大量破壊兵器である
 ・日本は史上唯一の核兵器の被爆国である
 ・非核三原則はノーベル平和賞を受賞した
 ・日本は何があってもこの原則を守らねばならない
 ・世界にも非核、反核を発信してゆく義務がある
 そしてこれらの立派な教条と現実との乖離は、核を所持しているアメリカとの軍事同盟にあって、誰もそこのところを説明できません。
 子供たちから次のように聞かれて答えられますか?
「どうしてアメリカは核を持っているの?」
「アメリカの核兵器は非人間的な大量破壊兵器じゃないの?」
「どうして日本は反対しないの? どうしてアメリカと仲良しなの?」
「もし核攻撃をされたら、核兵器を撃ち返すの?」
「核兵器を撃たれた国の人が悲惨な死に方をしてもいいの?」
 タカ派の人々は、国民を守れないような国は国家の態をなしていない、と言います。百歩譲ってその通りだとしても、だからと言ってそこからアメリカとの軍事同盟や核兵器を所持するとか、そういったことに結びつけるのは論理が飛躍しすぎています。アメリカの軍事力がなければ日本は自国を守ることができない、そういう論理です。もっと言えば、アメリカが核兵器を持っているからこそ、日本は朝鮮や支那からの軍事攻撃を受けずに済んでいるのだ、とそういうわけです。こういう考え方の人たちが社会と政治の中枢にいるから、反戦反核教育が現実との整合性を保てません。だから被爆地であるヒロシマにおいてさえ、子供たちにどのように説明していいか、わからなくなっています。教育の迷走です。そしてAさんのように、核兵器には反対だけれども、持っていないといけない、という矛盾をそのまま主張してしまうような考え方になってしまうのです。
 核兵器を持って核兵器に対抗するような考え方を、「国民を人質に取る」という言い方で表現することがあります。たとえばある国の過激派がハイジャックをして、乗客を人質に無理難題を要求してきたときに、それに対抗して、もし乗客を一人でも殺したらおまえの国に核兵器を山ほどぶち込んで皆殺しにするぞ、国に残してきた仲間も家族もみんな死ぬぞ、それでもいいのか? と脅しますか? もしそんなことをしたらハイジャック犯人以上に国際的な非難を浴びるでしょう。しかしそれを行なうのがハイジャック犯ではなく国家対国家の場合には、こんな無茶な論理が当たり前のように受け入れられているのが現状なのです。
 反戦、非核教育で大事なのは、もし核攻撃を受けても決して攻撃してきた国の国民に対して反撃しない、感情的に宣戦布告したりしない、という態度を、極限状況にあってもなお、とることができるかという覚悟です。そしてまず教える側がその覚悟をしなければならない。その上で、子供たちの質問に次のように答えることができるでしょう。
「アメリカは史上唯一の核兵器攻撃国である。その後も核実験を続けており、廃絶する意思は微塵もないと考えられる」
「アメリカの核兵器ももちろん非人間的な大量破壊兵器であり、開発の歴史が長いことから、他の国のものよりもずっと非人間的で、ずっと大量の人間を正確に殺せる最悪の兵器である」
「日本はアメリカに反対しなければならないが、経済的にアメリカに依存している割合が高いので、反対できないのが現状である」
「もし核攻撃をされても、決して核兵器を撃ち返すことはない」
「核兵器による悲惨な死を経験している以上、他国民を同じ目に合わせることはない」
 スーパーマンは暴力に対して暴力で応じないし、人も殺しませんが、もしあのような力を持っていない場合は非暴力では人を守れないことを暗喩してもいます。すると安易にやっぱり軍事力は必要だという結論に結び付けがちです。うがった見方をすればそういう狙いがこの映画にあるのかもしれないし、あるいはアメリカ人の精神構造がこの映画に現れているのかもしれません。
 暴力を抑止するのは暴力ではなく、非暴力がいつか暴力を駆逐する日が来るのだと、そう信じていなければ、反戦反核教育はできません。ヒロシマ出身のAさんの自己撞着はそのまま広島県の反核教育の自己撞着でもあるのです。
 さて、核兵器を撃たれても決して撃ち返さない、相手国の国民をただの一人も殺さない、私たちはそのような覚悟ができるでしょうか? そして、核兵器廃絶が夢まぼろしでない日が、本当に来るのでしょうか?