三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「英国総督 最後の家」

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「英国総督 最後の家」を観た。
 http://eikokusotoku.jp/

 19世紀以来のヨーロッパの帝国主義は世界各地を破壊し、大量の人間を虐殺することで繁栄を得ようとするものであった。インドからインドネシアにかけてはイギリスが他国に先んじて武力制圧し、一時的にイギリスは世界最大の帝国となった。その強欲さとプライドの高さには華僑もお代官様も顔負けで、取れるものはなんでも根こそぎいただこうとするブルドーザー強盗に等しい。スペインと戦争をしたマーガレット・サッチャーの残忍な顔には、イギリス人のそういった負の特徴が色濃く表れていた。
 さて本作品の登場人物はかつての帝国主義者たちほど強欲ではなく、むしろ帝国主義者たちが残した負の遺産の処理に頭を痛めている。イギリスの最後の総督は人柄も思想も素晴らしいが、複雑怪奇なインドの情勢にたいしてはすべてが丸く収まるような施策はなく、人々が受ける犠牲に心を傷めるしかない。
 宗教的対立と経済的産業的な損得関係という国内的な問題に加えて、イギリス本国のインドの資源に対する既得権益を持ち続けようとする確執もあって、政治的、経済的、社会的な解決は到底難しい状況ではあるが、それでも解決に向かって人々が様々な話し合いを続ける。議論はなかなか合致を見ず、その間にも民衆は対立のための抗争や、あるいは貧困や病気で死んでいく。
 そんな政治的な極限状況と並行して、ロミオとジュリエットを想起させるような恋物語が進むのだから、観客は片時も目を離せない。チャーチルにもガンディーにもネールにもジンナーにも肩入れしないニュートラルな立ち位置の映画で、これを監督したのがインドの分離独立時の民衆のひとりの孫のインド人であるというところが素晴らしい。そしてこれはイギリス映画だ。イギリスの映画人の矜持が垣間見られる傑作である。


映画「スターリンの葬送狂想曲」

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「スターリンの葬送狂想曲」を観た。
 http://gaga.ne.jp/stalin/

 スターリンと言えば、独裁者ということと、ポツダム会談で米英の首脳と並んで写る写真のイメージであった。彼の独裁が実際にどのようであったのか、この映画を観て、制作者の意図と共に理解した。
 その制作者の意図というのは、ソビエト社会主義共和国連邦という国が、腐った土台の上に成り立った腐った国家であるという風に描こうとするものである。そしてそれはソ連だけにとどまらない。映画がロシア語ではなく全編英語の台詞になっていることがその証である。つまり権力闘争というものは醜いものである、それはソ連だけでなく英語を話す国においても決して例外ではないということを表現しようとしたのではないかと思う。そしてその意図はかなり成功していると言っていい。
 フルシチョフは英雄視されていた大統領JFKのキューバ危機のときの交渉相手であり、強面で強かな政治家だ。キューバ危機を回避できたのは、若さで突っ走るJFKよりも、フルシチョフの老獪さによることが大きい。その老獪さはソ連の政治局内での権力闘争で身に着けたものだ。思えばキューバ危機は全体主義者同士の争いでもあった。
 権力は必ず腐敗する。そして内政を安定させるために国外に敵を想定する。国家と国民の敵を他国に決めつければ、国家存亡の危機を煽り、一丸となって戦う全体主義の雰囲気を醸し出すことができ、そして権力者としての地位を維持できる。どこの権力者もやることは同じだ。アベシンゾウももちろん例外ではない。
 本作品は権力闘争に勝とうとする人間たちのおぞましさ、浅ましさを描いた映画で、時には暴力も厭わない彼らの姿に身の毛がよだつほどだ。そんなソ連でも良識と良心の持ち主はいて、そのひとりである勇気あるピアニストをオルガ・キュリレンコが美しく演じていた。掃き溜めに鶴のたとえがふさわしい、場違いな美しさが男たちの醜さを際立たせる。相変わらず見事な演技であった。


映画「La Melodie」(邦題「オーケストラ・クラス」)

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「La Melodie」(邦題「オーケストラ・クラス」)を観た。
 http://www.orchestra-class.com/

 教師と子供の関係性は、社会のありように強く影響される。軍国主義の世の中ではお国のためにという大義名分の下、どんな理不尽も罷り通る。暴力も暴言も正当化されるのだ。
 同じ図式は企業や学校の部活動などにも当てはまる。利益のため、または大会で勝つためといった大義名分の下、従業員や学生、生徒、児童の人権は蹂躙される。
 最近の国内ニュースで噴出しているパワハラやセクハラの事例は、それらの共同体で軍国主義のパラダイムがいまだに生き続けていることの証左である。
 フランスでは最近になってネオナチみたいな極右の人々が勢力を強めつつあるようだが、一般社会ではトリコロールの示す自由と平等と博愛の精神が当然のように重んじられている。

 さてこの映画では、教師と子供の関係性は、自由と平等を重んじ、互いの人格を尊重する民主的なものである。教師が生徒を怒鳴りつけたり暴力や暴言で恐怖支配するものではない。だから同一目的でまとめるのはとても困難だ。音楽教師シモンも当然その壁に突き当たる。そして最も和を乱す生徒を排除しようとするが、担任教師はそういう生徒こそ、一番大事にしなければならないと言う。その生徒が状況に適合して生きていけるようになるために、音楽を通じて人間関係を学ばせるのが目的だという意味である。
 みんなで苦労した結果、生徒同士または親と教師の、傷つけ合うか合わないかのハラハラする会話も、それを笑い飛ばすおおらかな精神性を獲得したことによって救われる。成長するのは子供だけではない。

 映画ではシモンの演奏が効果的に使われていて、前半で弾くメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲で先ず子供たちの心を掴み、中盤では厄介な父親の気持ちを解きほぐす。
 リムスキー・コルサコフのシエラザードは40分以上の大作である。バイオリンを触ったこともない子供がこの曲を弾くのは、逆上がりもやったことのない子供に難易度の高い鉄棒の離れ業をやらせるくらい難しい。
 そういう意味ではファンタジー映画とも言えるが、この作品のテーマは人の寛容である。そして寛容を維持するための精神力である。偶々のファンタジーを喜ぶのではなく、どこまでも他人の人格を尊重し、そのために寛容であり続けようとする彼らの生き方にこそ、深い意味がある。