三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Mass 対峙」

2023年02月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Mass 対峙」を観た。
映画「対峙」公式サイト

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映画「対峙」高校銃乱射事件で共に息子を失った家族。

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 どちらが加害者の両親で、どちらが被害者の両親なのか、最初は分からなかった。先に登場する母親が、言いたいけど言えそうにないと吐露していた言葉が何なのかも分からない。しかしそれらは物語が進むと、自然に明らかになる。
 
 徹底した会話劇である。言葉がとても重要だ。だから耳をそばだてて鑑賞することをおすすめする。二組の夫婦は、理解し合うには立場が違いすぎるが、互いに相手の気持ちに寄り添うことはできる。どこまで状況を受け入れ、どこまで寛容になれるかを、話し合いの中でそれぞれが自省していく。
 
 アメリカのハイスクールの銃撃事件の報に接すると、またかという感想になる。大抵は、いじめの被害者が恨み骨髄に徹した挙げ句に極端な行動に出たという構図だ。同じ構図は世界中で発生していると思うが、銃社会のアメリカでは、殊更に悲惨な結果になる。銃や爆弾があれば子供でも簡単に人を殺すことができるからだ。銃刀法で武器の所有が厳しく制限されている日本では、学校で銃乱射事件が起きることはない。
 同じことは国家間でも言える。核兵器がなければ核戦争が起きることはない。バラク・オバマが核廃絶を訴えたと同時に銃規制の強化を主張したことは、思想としての整合性がある。
 
 恨みや怒りの一番大きな原因は被害者意識だ。一旦被害者意識を持つと容易なことでは捨てられない。加害者を恨み、怒りに任せて殺すことまで妄想する。それでは駄目だと説いたのが仏教でありキリスト教である。仏教は悟りの境地に入ることで寛容を身につける思想だが、キリスト教は神が天から見ているから、人を許しなさいという教えである。人を許すのは自分が許されるためだという考え方は、日本の「情けは人の為ならず」という諺に似ている。「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と聖書に書かれてあるのに、アメリカで銃乱射事件が多発するのは皮肉な話だ。
 
 しかしそもそも他人に危害を加えなければいいのではないかという考え方がある。いじめっ子がいなければいじめ問題は発生しない。むしろいじめられた子供の怒りの抑制よりも、いじめっ子の精神性の改善に力を入れるのが根本的な解決に近い。
 
 いじめは差別と不寛容から起こる。容姿や成績や運動能力や親の職業や収入など、子供たちは様々な理由で差別をする。子供たちだけではない。大人も、他人を職業や収入で差別する。高収入、高身長、高学歴を自慢する人間は、いまだに多い。高収入の人間が低収入の人間を顎で使い、呼び捨てして、ときには怒鳴り散らす。そういう差別的な精神性を子供たちは受け継いでいるのだ。
「服を汚すのがいい選手だ」という被害者の子供の頃の発言は、世の中にはいい選手と悪い選手がいるという善と悪の二元論であり、差別に直結する精神性であることがわかる。成績を上げるために「勉強しなさい」と息子に強制したリンダの精神性は、実は差別の精神性そのものだ。互いに歩み寄って、相手を傷つけまいとする二組の両親だが、実はその奥底には格差と差別を無意識に肯定する不自由な精神性が宿っているのだ。
 
 本作品は、加害者の少年がどのようにして実行に至ったのか、どのような環境が彼をそういう精神性に追いやったのかが主眼となっていて、いじめっ子の精神性がどのように育ったのかという構造までには至らない。だから鑑賞後は、どこか中途半端な印象が残った。