三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「BLUE GIANT」

2023年03月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「BLUE GIANT」を観た。
映画『BLUE GIANT』公式サイト

映画『BLUE GIANT』公式サイト

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 聴覚や嗅覚や味覚は直接本能に響いてくる。大きな音や耳障りな音、嫌な臭いなどは、生存の危機に直結する恐れがあるのだ。そんな音や臭いや味に触れると、逃げたり鼻や口を覆ったり、または食べ物を食べなかったりする。危険のない安全な音、匂い、味というものは存在する。その中でレベルが高いものは、いい音、いい匂い、いい味となって、我々の生活を豊かにしてくれる。曲を聞くと曲名を思い出したり、誰が演奏しているのか推測したり、曲の出来を勝手に評価したりするが、一定のレベル以上になると、特殊な感覚の持ち主以外は、区別や優劣がつけられなくなる。
 当方はクラシックやジャズのコンサートに時々行く。サントリーホールで聴いたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏はとても素晴らしかったが、オーチャードホールで聴いた西本智実率いるイルミナートフィルハーモニー管弦楽団の演奏も負けず劣らず素晴らしかった。当方の耳がバカ耳なのかもしれないが、いずれも極上の心地よさを覚えたのだから、お金を払った価値は十分あると思っている。
 何が言いたいかというと、高いレベルに達すると、それ以上は評価が困難になるのである。あとは好みの問題だ。コンサートは世界中でたくさん開催されている。どこに行って何を聞くのかは、個人の選択だ。売れるか売れないかは時代とのマッチング次第であり、死んでから人気が出る音楽家もいるだろう。評価は常に相対的なのである。

 世界一のジャズミュージシャンになるという18歳の主人公の夢が、業界の人々から世界一として評価されるということなら、それはもう好みの問題だから、相対的な評価であり、目標とするにはあまりにも不明確だ。世界一売れるのが目標ということであれば、多数が好む音楽を作る才能があればいいということになる。しかし宮本大の夢は、どうやらそういうことではないようだ。

 映画は、言葉としての答えは示さない。代わりにこれでもかとばかり演奏の様子を描く。それぞれのシーンには、ジャズ喫茶やクラブやコンサートホールでの聴衆を巻き込んだグルーヴ感を自然に感じさせるものがある。つまりそれが答えだ。
 宮本大の言う世界一とは、聴衆と演奏者が一体化した高揚感を味わえる、そのグルーヴ感が世界一ということなのだろう。聴いていて楽しい、気持ちがいい、気分が上がる。そんな音楽が聴けるなら、人はそれなりの対価を惜しまない。それは売れることに繋がっていくが、聴衆に迎合しているのではない。

 人は体内に音楽を持っている。というより、人体は様々な音を発している。歩いたり手を使えば音がするし、咳もくしゃみも欠伸も音が出る。骨がポキっと鳴ったり、お腹から音がすることはしょっちゅうある。音楽は人体の音に呼応して、普遍的なグルーヴ感を生み出す。いい曲は時代が経過しても廃れない。ビバルディが「四季」を作曲したのはいまからちょうど300年前の1723年だが、少しも色褪せていない。色褪せないどころか、たくさんの映画のたくさんのシーンで使われている。

 それにしても音楽を担当した上原ひろみは流石である。演奏のシーンは映画館がライブハウスになったみたいなグルーヴ感があった。自然に高揚し、宮本大の音楽に共感する。観ている間中、ずっと楽しかった。

映画「ロストケア」

2023年03月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ロストケア」を観た。
映画『ロストケア』公式サイト

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松山ケンイチ×長澤まさみが贈る、魂を揺さぶる衝撃の社会派エンターテインメント。

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 介護の現場は時として悲惨である。本作品より前に、介護の現実を扱った邦画をいくつか鑑賞した。昨年(2022年)12月に公開された「光復」や2017年5月に公開された映画「八重子のハミング」などである。いずれも、介護をする主人公の受難が赤裸々に描かれていた。
 
 介護が必要かどうかの基準は、法律ではどうなっているのか知らないが、常識的に言えば、食事と排泄と入浴の3つがひとりで出来れば、介護の必要はないと思う。そう考えるのが分かりやすいし、現実的だ。3つのうち、どれかひとつでも出来なくなると、日常生活に支障を来たす。要介護の仲間入りという訳だ。
 痴呆症になってしまうと、要介護に加えて、暴力や暴言、暴飲暴食、所構わずの排泄、徘徊などの異常行動も現われる。そうなると介護者は辛い。経済的に余裕があれば、24時間のフルタイム介護の施設に入れることが出来るが、貧乏人にはままならない。ひたすら介護をして、空いた時間に働いて生活を支えなければならない。生活保護を受けようにも、働ける親族がひとりでもいれば、そいつが養えばいいと門前払いされる。「生活保護なめんな」というジャンパーを着て、受給者を恫喝していた小田原市の職員たちの行動は、今でも記憶に新しい。
 
 主演の松山ケンイチは素晴らしい。主人公斯波宗典(しばむねのり)の苦難が手にとるように分かる。「大切な家族との絆」を勝手に壊したと非難する検事に対して、家族の絆は、介護の当事者にとっては絆ではなく呪縛になってしまっていると、斯波は反論する。この主張は真実を突いている。介護殺人事件は年間45件起きている。無理心中を含めればもっと数字は多くなるだろう。絆は大切にしたいものだが、呪縛は断ち切りたいものだ。多くの介護者は、絆と呪縛の間で引き裂かれそうになっているのだ。辛い立場の介護者を演じた坂井真紀と戸田菜穂の演技が秀逸だった。
 正論をぶつけることしか出来ない大友秀美検事を演じた長澤まさみも悪くなかった。斯波から、自分は安全地帯にいて穴に落ちた人間を正論で非難する人間には、介護の当事者の気持ちは理解できないと言われて、言葉を失ってしまう。この場面が本作品の白眉だろう。
 
 斯波は穴に落ちるという表現をしたが、言い換えれば棄民政策のことだ。困窮している人々から目を背け、助けてくれという声を無視し、見殺しにするのが棄民政策である。「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ暗愚の宰相の「あんな人たち」の中には、痴呆症の人とその家族も当然ながら含まれる。見殺しにされているのだ。
 
 日本国憲法第25条には次のように書かれている。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 
 歴代の自民党政権は憲法を蔑ろにして、社会保障の予算を削ってきた。現政権は、あろうことか社会保障の予算を削って軍拡に費やそうとしている。間違いなく、これからも棄民政策を継続していくつもりだ。そういう政権が選挙で勝ち続けているのが現状だ。棄民政策は有権者から支持されているのである。介護殺人事件は増加の一途を辿るだろう。介護殺人事件を生み出しているのは、我々国民なのだということを思い知らされる作品だった。