映画「正欲」を観た。
2016年公開の映画「何者」と同じ、朝井リョウの原作である。本作品でも同じように既存の価値観と自分のそれとの乖離に悩む人間たちがテーマだ。
対極にある世間の代表として、稲垣吾郎の検事を登場させる。自分の想像力の及ばない範囲は、理解しようとせずに頭から否定する。スクエアという表現がピッタリの人間だが、ラストシーンに向けて、若干のナイーブな面を持たなければいけない。その演出にかなり苦労した様子が窺われる。ただ、こんなにブレるようなら、ラストシーンを変えて、最初から最後までゴリゴリのスクエアな人間で通してもよかった。
価値観の乖離にも幾つか種類があって、学校に行くことに抵抗があって、自宅で学ぼうとする子どもたち、既にユーチューバーとしてアフィリエイトで割と稼いでいる小学生がお手本だ。それにLGBTQの権利を求めてデモ行進する人々。謂わば、世間とは乖離してはいるが、肯定的な価値観の人々だ。
しかし本作品の主眼は、別の価値観である。それは否定の価値観だ。人生に意味はない。世界に意味はない。しかしそれを主張したくもないし、他の人々を否定したくもない。なにより他人と争いたくない。世間とは価値観が異なるとはいっても、自分を肯定する価値観の人々とは、一線を画している。
子供は可愛くない。どうせすぐに嫌な大人になる。結婚は幸せの形ではない。3組に1組は離婚するのだ。誕生日はめでたくない。死に一歩近づいただけでなく、頭や体が不自由になる日に近づいている道標なのだ。どうして世間は何でもかんでも肯定するのを是とするのだろう。
子供に、人生に意味はない、世の中に絶対はなく、すべてが相対的だと教える人は滅多にいない。未来のある子どもたちに否定的なことを教えるのはよくないという世間の価値観がある。しかし、みずから悟る子供もいる。若いニヒリストの誕生だ。
世間はニヒリズムに対して寛容ではない。肯定は肯定されるが、否定は肯定されないのだ。肯定的な人々が肯定的に作り上げた文明世界である。世界を否定するのは人間を否定し、歴史を否定し、人類を否定することだ。断じて認められない。自殺も認めない。それが世間である。
世の中に絶対がないことに気づく聡明な子供は、世間の価値観には大人しく従う態度を見せるしかないことを知っている。世の中はすべて馬鹿と阿呆の絡み合いだと思っていても、それは口にも顔にも出さない。大人になってもその姿勢は崩さない。生活にも仕事にも支障があるからだ。
そういう人は、実は多いのではないかと思っている。しかし誰も表に出さないから、数えようがない。本作品で磯村勇斗と新垣結衣が演じた役柄の精神性に共感できる人は、隠れニヒリストと言えるだろう。その意味で、センセーショナルな作品となるかもしれない。
磯村勇斗は凄くよかった。この人の役柄の掴み方と演じ方には、天性のものがある。新垣結衣は元気で肯定的な役が多い印象だが、今回は三白眼で睨みつける。ニヒリストとして人生をやり過ごす生き方に、やや迷いがあるところもいい。カメラワークも演出も見事で、かなり心を揺さぶられるものがあった。