映画「首」を観た。
戦国時代は全国が戦場で、誰にとっても死が身近だったのだろうと思わせる作品だ。権力闘争がそのまま殺し合いの時代だから、殺すことに抵抗がない。逆に言えば、自分も簡単に殺される訳だ。そうなると、権力闘争と並行して、殺されないための算段が最重要になる。誰の側につくか、誰を家来にするかの選択だが、その本質は、自分を殺そうとしないのは誰かの見極めである。
身も蓋もない話だが、そこは上辺を飾るのが得意な日本人だ。信義という大義名分を浸透させる。精神性には儒教の下地もあるから、信義という概念は受け入れやすい面もあっただろう。権力者は大義名分によって家来の忠誠を推し量る。脅しすかしは当たり前で、ホモセクシャルという裏技も使う。家来は、自分が殺されない範囲で最大の利益を得るべく、忠実な上辺を装いつつ、チャンスを伺う。
権力者同士は信義など信じていない。嘘をつき、相手を陥れようと謀(はかりごと)をする。プロレスのバトルロイヤルと同じで、2位3位連合で1位を倒したり、1位は何もせず、下位の者たちが協力して2位や3位を倒すのを待っていたりする。誰が生き残るかがはっきりしたら、互いに戦って相手を滅ぼそうとする。
戦国時代で敵を滅ぼすというのは、つまり主君の首を取ることだ。家来たちは主君がいなくなったら、もう敵ではない。家来ごと、自分の支配下に置くのだ。家来は自分が弱いことを知っているから、強いものに従うしかない。権力者は家来を選別する。武術に優れているか、あるいは軍師の才能があるか、または芸で自分を楽しませてくれるか。
家来に向かないものは、無頼となってギャングの生き方をする。その場その場で何が自分の得になるかを考えて、徒党を組んだり離れたりする。
要するに、誰も彼もが自分が得をするためだけに生きている。信義というパラダイムを広めて、主君に仕えて成果を上げ、評価されるために生きることがよしとされる。それが武士道だ。武士道は重々しく語られることがあるけれども、なんのことはない、権力者が自分を守るために産んだ言葉に過ぎないのだ。実にえげつない話だが、それが本作品の世界観である。
戦国時代の武将たちが本音ばかりを言ったら、こんな話になるのだろうと想像はできるが、それを映画にしてしまうところが凄い。そして人間が本音ばかりを言うと、喜劇になるのだと思い知らされる。権力者が喜劇を繰り広げている外側では、庶民が米を作り魚をとって全員の食を支えている。重労働と粗食に耐えて、何もいいことがなく死んでいく庶民にとっては、人生は悲劇だ。悲劇の海にぽっかり浮かんだお笑い島で、馬鹿と阿呆が殺し合う。なんだか現代の日本に似ている気がする。
やたらに人が殺され、血飛沫が飛ぶシーンが多い作品だが、不思議に生々しさがない。それは臭いの描写がないからだろう。全体にあっさりした印象である。喜劇に生々しさは不要なのだ。