映画「春の画 SHUNGA」を観た。
有名な春画である通称「蛸と海女」は鉄棒ぬらぬらという人が描いたことになっている。なんとも人を食った画号は、実は葛飾北斎が春画を描くときに使ったものだ。
本作品で一番お金をかけたシーンは「蛸と海女」を微妙なアニメーションにしつつ、余白に書かれた台詞を男女が情感たっぷりに読み上げる場面に違いない。蛸の声を森山未來、海女の声を吉田羊が担当している。
蛸の親方は、女陰(ほと)を吸いながら、柔らかくて弾力のある、吸盤付きの足を膣の中に入れる。グラーフェンベルグスポットあたりを刺激すると、経験豊富な熟女は喜悦の声を上げて、淫水を吹き出す。蛸は喜々としてそれを飲みながら、更に女陰を攻める。子蛸は熟女の口を吸いながら、次は自分の番だと待っている。淫猥なまぐわいは、終わることがない。快楽に酔いしれる熟女は、いくところまでいくから連れて行ってと願う。
ということで、吉田羊の評価が当方の中で急上昇したのは確かである。
ちなみに、どうでもいい知識だが、通常、クリトリスだと認識している器官は、正式には「陰核亀頭」と言われている。陰茎の亀頭と同じだ。つまりクリトリスの大部分は体内にある。医学的にはまだ謎の多い器官らしい。グラーフェンベルグスポットはちょうど陰核亀頭の裏側に当たる。ここが敏感なのは当然だ。経験豊富な諸兄や、賢明な諸姉の方々は既にご存知だろう。
さて、西洋文化を取り入れた明治政府は、春画を猥褻物として取り締まった。現在でも刑法には猥褻物陳列罪や公然猥褻罪がある。本作品では、江戸時代でも春画は大っぴらには売ることが出来ず、一部の金持ちに裏で売られていたと紹介される。金のかかる多色の絵の具を使ったり、高級な絹の素地に描いたりしていたらしい。買い手が金持ちだから高く売れる。製作にも金もかけられるという訳だ。多分だが、西洋でも事情は同じだっただろう。
日本と西洋で異なる点があるとすれば、と西洋の春画コレクターは言う。超一流の絵師が描いている点だ。西洋でクロード・モネやセザンヌがポルノまがいの絵を描くことはない。しかし日本では、葛飾北斎をはじめ、名だたる絵師が描いている。
だから春画は芸術なのだというが、芸術だったらエラいのかと反駁したい気にもなる。春画もポルノも人間の想像であり、創造だ。営みのひとつである。他人に迷惑をかけたり傷つけたりする訳ではない。理屈をつけずに肯定してはどうか。
江戸時代は大らかだったという声がある。春画を「笑い絵」として、みんなで楽しんでいたというのだ。10月に公開された映画「春画先生」でも同じことを言っていた。しかしそれでも、性行為は秘事(ひめごと)である。フリーセックスが許されているヌーディストの街があったら、誰も春画やポルノを見ないだろう。いや、それでも見るか。
原始時代の人間は、多分動物と一緒で、性欲が生じたら誰彼構わずやっていたに違いない。時も場所も、老若男女さえも選ばなかったはずだ。そこに羞恥心はない。アダムとイブもりんごを食べる前は裸で暮らしていた。
羞恥心は、人間にとっての性行為の地位を上げるはたらきがある。秘事にしていたほうが盛り上がるのだ。それに困ることもある。誰も彼もがその辺でセックスをしていたら、生まれた子供の管理が困難になる。性を大っぴらにしないのは、共同体の都合なのかもしれない。
春画の変遷や作られ方、扱われ方を淡々と紹介した作品だが、いろいろ考えてしまった。なんだか楽しい映画だった。