三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ナポレオン」

2023年12月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナポレオン」を観た。
映画『ナポレオン』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

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映画『ナポレオン』2023年12月全国の映画館で公開!<軍人ナポレオンの真の姿>を壮大なスケールで描いた超大作

映画『ナポレオン』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

 秀吉と似ていると思った。フランス革命の混乱に乗じてのし上がって行ったところは、信長がほとんど統一仕掛けた支配を横からかっさらったのに似ているし、類まれなる戦略家でありながら、普段の生活は俗物根性丸出しのところ、無慈悲なくせに特定の女性にはからっきし弱いところなどがよく似ている。ついでに言えば。秀吉は正室ねねとの間に子供ができなかった。

 しかし考えてみれば、権力者の実像が俗物なのは、古今東西、ありがちな話である。というよりも、ほとんどの権力者がクズみたいな精神性の持ち主だと言っても過言ではない。世界史を俯瞰しても、聖人みたいな人間が権力者になったことは殆どない。イエスは権力者によって磔にされたし、ゴータマ・ブッダは野垂れ死にした。聖職者で権力に近づく者がいれば、それは無私寛容の精神性をゴミ箱に捨てた、俗物根性丸出しの生臭坊主に違いない。近頃亡くなったカルト教団のボスもその例外ではないだろう。

 大抵の宗教は、初期の段階から、代を重ねるに連れて変異し、俗物化していく。人間が都合のいいように変えているからだ。典型的な例がキリスト教の「主の祈り」で、聖書には記載されていない「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」という言葉が追加されている。イエスは人間をパラダイムから解放して、自由な精神性を与えようとした訳で、国とか力とか栄華といった、現世における俗物の価値観で神を礼賛するはずがない。イエスが与えた精神は既に地に落ちて、権威主義だけが残る。
 本作品では、ナポレオンも宗教の権威主義を嫌っていたことが分かる。戴冠のシーンだ。司祭だか牧師だかが皇帝就任を宣言するが、ナポレオンは、私は自ら戴冠すると宣言し、冠を自分で自分の頭に載せ、ジョセフィーヌの頭に載せる。
 皇帝になったところは、秀吉が天皇の権威を利用して関白の称号を得たのと似ているが、微妙に異なる部分もある。それは市民革命をベースにしているナポレオンは市民からの評価を気にせざるを得なかったところだ。宗教の権威よりも民衆の評判が大事なのである。

 ナポレオンは持って生まれたカリスマ性で人心を掌握することで、権力の頂点に登りつめた。だから民衆の評判が大事なのだ。しかしフランスらしく、当時からマスコミは権力者をおちょくるのが好きだったようだ。現代の日本の忖度マスコミとは大違いである。
 ナポレオンの生涯は必ずしも幸福とは言い難かったし、周囲の人間を少しでも幸福にしたかと言うと、そうでもない。少しの気の迷いで、何万人もの兵士が死ぬ。実際に多くの兵士を殺してきた。敵方も数に入れれば一千万人近くになるだろう。それでも自分の戦略と戦術に対する自信は微塵も揺るがない。自尊感情の塊、自己肯定感の権化みたいな男だ。
 歴史上の権力者を思えば、ことごとくそういう人間ばかりである。射殺されたアベシンゾーもそうだった。フランス人がナポレオンに熱狂したように、アベシンゾーに熱狂した人々もいる。アベの国葬には何万人もが列をなした。愚かな権力者は、愚かな民衆が生み出すのだ。

 ナポレオンは戦争しか能力のない皇帝で、勝利によって権力を手にし、敗北によって権力から追われた。その背景に、民衆の欲望や虚栄心、羨望や依存心が見える。ナポレオンは祭り上げられ、貶められた。しかし本人にはそんな意識はない。ただ得意の戦争を指揮するだけだ。
 だから本作品には戦場のシーンが盛り沢山である。それが彼の人生であり、ひとりの歴史上の人物の栄枯盛衰を淡々と描いてみせた訳だ。リドリー・スコットが描きたかったところは、すべて表現されていると思う。受け止めるべきところは、非常に多い。長尺だが、退屈はしなかった。