映画「隣人X 疑惑の彼女」を観た。
アメリカ合衆国のレイシズム、人種差別は南部を中心に連綿と続いている。アメリカ人らしく、見た目ですぐに判断できる部分で差別する訳だ。コロナ禍が世界に蔓延したときは、アメリカで東洋人がいきなり暴力を振るわれるシーンがいくつか報道された。殴る側には黒人もいた。Black is matter なら、Yellow is also matter のはずだが、差別の本質を敷衍できないのだろう。想像力の欠如である。
ユダヤ人は見た目ではユダヤ人と判断できないことが多い。ユダヤ教原理主義みたいな格好をしていれば別だが、そうでなければ習慣や言語などを観察して、ユダヤ教徒であることを確認しなければ、ユダヤ人とは断定できない。顔で分かるという話もあるが、人の顔は千差万別で、日本人の当方には区別のしようがない。本人がユダヤ人だと公表すれば、ああそうなんだとは思うが、それ以上の感情は湧かないし、好き嫌いも何もない。
見た目で判断できない、言語も習慣も同じであれば、どうやって差別するのか。人間は差別の天才で、僅かな違いを見つけては、蔑み、貶める。家柄や経済状態や体型や容貌や成績や運動神経やらで、とにかく差別するのだ。
人間がカテゴライズされると、いいと悪いという言葉で区別される。いい方は問題ないが、悪い方は、家柄が悪い、経済状態が悪い、体型が悪い、容貌が悪い、成績が悪い、運動神経が悪いとなって、善悪の悪みたいに責められる。差別されたら間違いなく不幸になるし、生きづらくなる。
人の不幸を紹介することで売上を上げる雑誌が売れるということは、多くの人が、他人の不幸を喜んでいる証である。もっと言えば、他人の不幸を願うのだ。あたかも他人が不幸になれば、その分自分が幸福になるかのようである。しかし諺にある通り、人を呪わば穴二つである。他人が不幸になれば、巡り巡って自分も不幸になる。情けは人の為ならずという諺の裏の面だ。
そんな世の中は間違っていると分かっているのに、その世の中で生きなければならない。主人公の笹憲太郎は、そういう人間である。自分が綱渡りをしていることも、渡り切っても途中で落ちても、どう転んでも悪い結果になることが分かっている。全部放り出して逃げ出せば楽になる。しかし背負っているものがあるから、簡単には逃げられない。憲太郎の苦しい日々がそのままストーリーとなっている。観ているこちらも苦しい。
しかし救いもないことはない。差別しない人たちの存在だ。そもそも悪意を抱いたことがない。上野樹里の柏木良子、それにファン・ペイチャのリンだ。嘘を吐かないし、怒りもしない。どこまでも寛容で他人を許す。世の中と正反対の人たちである。そういう人は、他人を押しのけたり、陥れたり、自分の利益だけを優先したりしない。結果として、脱落していく。そして差別される。
悲しいかな、それが今の世の中だ。清く貧しく美しく、最後は野垂れ死にをしたゴータマ・ブッダのような生き方をよしとしない限り、利己主義、拝金主義の世の中が続くだろう。その中で美しい生き方を選択した憲太郎と良子のラブロマンスに、崇高な感動を覚えた。いい作品だと思う。