映画「落下の解剖学」を観た。
刑事裁判は、有罪か無罪か、量刑はどれくらいにすべきかという争いであると同時に、権力との駆け引きでもある。検察の行政権力、裁判官の司法権力が相手だ。三権分立の考え方では、それぞれの権力が互いに牽制しあって、権力の暴走を防ぐというのが基本の構図だが、現実はそうはなっていない。
国会の多数派が行政を司るという仕組みは、行政と立法が必然的に同じ勢力になる。司法が行政に忖度したら、三権分立は崩壊し、独裁政権になる。それを防ぐのは、政権交代と政治家の矜持だが、いまの政治家に矜持を求めるのは、馬の耳に念仏だ。そういえば「私は立法府の長だ」と言い放った暗愚の総理大臣がいた。日本の政治家のレベルが恐ろしく低下していることの象徴みたいな話だった。
本作品に登場するフランスの法廷は、日本のそれよりはマシのようだったが、検事の人間的なレベルがやや低いのが気になった。本作品で唯一、悪役的な立場がいるとしたら、行政権力の代表である検事だ。フランス人らしい反骨精神の現われかもしれない。
ひとりの男が落下して死んだ。単純に見えるその事実が、登場人物の立場によって様々な真実に変化していく。静かに進むその展開は、しかし劇的でもある。刮目し、耳を澄ませて鑑賞することをおすすめする。
世の中はおしなべて相対的だ。真実というのも例外ではない。我々は日頃から、自分に都合よく事実を捻じ曲げて解釈している。そしてそれを真実と言い張る。しかし本当は常に別の見方があり、別の真実が存在する。そのことを自覚しなければならない。でなければ独善に陥ることになる。
そうでなくても、世の中は独善に満ちている。本作品で言えば夫のサミュエルの発言がその典型だが、他の登場人物の台詞も、多かれ少なかれ、独善的である。そして自分の独善で人を裁いてしまう。イエスは「人を裁くな」と言った(マタイによる福音書第7章、ルカによる福音書第6章)が、人は昔から、他人を裁いてばかりいる。
法治国家の裁判官なら、権力者に対する忖度や自分の偏見によらず、法によって裁かねばならない。しかし裁判官も人間だ。疑わしきは罰せずの原則に反して、証拠が自白しかない場合でも有罪にすることもあるだろうし、物的証拠が揃っても、無罪にすることもあるだろう。
本作品は裁判そのものの正当性に対しても、疑念を投げかける。あの裁判官ならこちらに有利だという意味の台詞がある。世の中が法治ではなく、人間によって恣意的に統治されている証拠だ。法治は法解釈の問題はあるが、原則的には平等だ。しかし人治は不平等である。人間に完璧な公平性は望めない。とても哲学的な問題提起を受け止めた気がする。