映画「コットンテール」を観た。
認知症という言葉にずっと違和感がある。かといって痴呆症という言葉を使いたい訳ではない。認知症という言葉が独り歩きしているのが、少し変だと思うのだ。
以前は認知症ではなくて、ボケるという言葉が使われていたと思う。「うちのおばあちゃん、最近ちょっとボケてきていてね」みたいな言い方を日常的にしていた。漫才では、素っ頓狂なことを言うのをボケると表現する。
ボケるのは年寄りだけとは限らない。「大ボケをかました」という言葉は、どちらかというとまだ若い人に使われる。寝ぼけるという言葉があるように、ボケるのは現実離れした言動をすることだ。つまり、誰でもボケる。ボケるのは病気ではなく症状なのだ。
しかし認知症と言ってしまうと、24時間365日、何も認知できない病気にかかったみたいな印象だ。「おばあちゃんが最近ボケてきた」という言葉にはまだ愛情があるが、「おばあちゃんが認知症になった」というと、そこには愛情がなくて、困ったもんだという否定的な気持ちだけが感じられる。
認知症と診断されたら、危険だから、間違えるから、といった理由で何もさせなくなったりする。認知症という言葉と決めつけが、当人の症状を加速させるのではないかと、当方は疑っている。
素人考えではあるが、人間はボケたりボケなかったりするものだ。歳を取って、ちょっとボケが増えてきた、程度の認識にとどめておいて、自分でできることをやらせたほうが、ボケの症状が進みにくいのではないかと、そんなふうにも考えたりする。
本作品の悲劇は、認知症という言葉から生まれている気がしてならない。物忘れがひどくなったとしても、トイレと食事と入浴がひとりでできているうちは大丈夫だ。子育てと同じく、構い過ぎはよろしくない。
役所広司主演の「PERFECT DAYS」もそうだが、最近は外国人監督が別の国の話を、その国の言葉で表現するという作品もしばしば見かけるようになった。是枝裕和監督はフランス語や韓国語の映画を撮っている。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」もそうだ。
いずれも人の命や死に向き合う人間を描いている。人間は地球時間という条件の下、生死を繰り返す。生まれて、そして死ぬ。理由はない。人類共通のテーマの作品であれば、言語の違いは障害にならないのだろう。
本作品では、明子の夫と息子が、妻の死、母の死をそれぞれの立場から受け止める。受け止め方の違いはもちろんある。同じ思い出でも、受け止め方によって異なるから、夫の中の妻の記憶と、息子の中の母の記憶は、必ず異なっている。違っていていい。それぞれの記憶を抱えて、生きていく。
明子はウサギが好きだった。どうやら息子の嫁も孫も、ウサギが好きらしい。よかった。夫の中では、そんな肯定的な感情が湧く。嫌いよりも好きを大事にするのだ。