映画「52ヘルツのクジラたち」を観た。
タイトルは「52ヘルツのクジラたち」だが、作品中に出てくる台詞は「52ヘルツのクジラ」である。タイトルだけ、語尾に「たち」がつくところに、本作品を読み取るポイントがあると思う。
成島出監督の作品は、割と鑑賞している。新しい順で列記すると、こんな感じだ。
「銀河鉄道の父」
「ファミリア」
「いのちの停車場」
「グッドバイ嘘からはじまる人生喜劇」
「ちょっと今から仕事やめてくる」
「ソロモンの偽証」(前編、後編)
「ふしぎな岬の物語」
「八日目の蝉」
「山本五十六」
こうして並べてみると、テーマは様々だが、一貫して人生の本当の姿を描こうとしていることがわかる。
本作品のテーマは盛り沢山で、ジェンダー、DV、ネグレクト、介護、閉鎖的コミュニティなど、多岐にわたる。登場人物の誰もが、言葉をオブラートに包むことなく、直接的な言葉選びと言い方をする。そのせいで人を傷つけることもあれば、救うこともある。
日常生活では、人は悪意を隠したり、善意を遠慮したりするから、本当のことは見えにくいが、そこは映画だ。わかりやすくストレートに表現する。真飛聖も西野七瀬も宮沢氷魚も、演じにくい役柄を懸命に演じていた。
受け止める側はもっと大変で、日常では滅多に受けることがない暴力や暴言を受けた人間の、本当の気持ちを表現しなければならない。杉咲花は苦労したと思うが、見事な演技に昇華させている。
主人公が復讐しないのがいい。復讐するのではなくて、逃げる。逃げていいのだ。逃げるのは恥だという考え方は全体主義で、他人を特定の価値観で束縛する。組織のため、家族のために尽くさなければならないという全体主義そのものの価値観が、未だに大手を振ってまかり通っている。しかしブラックな状況からは、逃げていいし、逃げる権利がある。
江戸時代の百姓一揆は日本史で習ったが、逃散(ちょうさん)も行なわれていた。地域の百姓が示し合わせて一斉に逃げることである。ブラック企業の社員が一斉に退職するのも逃散の一種と考えていい。ブラック企業が倒産すると、一定の教訓になる。
被害者が加害者を恨むのは当然の心理だ。被害者の遺族が加害者に極刑を望むのは、同じ加害を繰り返させないのと、自分たちが同じ被害に遭わないようにという、言ってみれば恐怖心が原因のところもある。死んでほしいのではなくて、いなくなってほしいのだ。そういう心理も、ある意味で逃げることに通じるが、他人を自分の望むとおりにしようというところに無理がある。
それよりは、加害者から逃げるほうがスマートだ。逃げるよりも捨てるという言い方のほうが現実に即しているかもしれない。家を捨て、家族を捨て、故郷を捨てる。昭和の歌謡曲の歌詞みたいだ。昭和の歌謡曲には、過去を捨てるという意味の「重いコートを脱いで」という歌詞も散見される。いまよりもずっと社会や組織の束縛が強かった昭和でも、何もかも捨てて逃げ出したい気持ちが社会に充満していたわけだ。永六輔が作詞した「遠くへ行きたい」という歌もあった。
誰も、暗い過去を背負い続ける義理はない。本作品は、過去を捨てて未来に生きる物語だとも言える。家族を捨て、愛人を捨てたキナコ、故郷の自分を捨てたアンさん、DVの母親を捨てた子供。
逃げたと非難する全体主義者など無視して、自分に合った未来を選択することは、少しも恥ずかしいことではない。逃げて、遠くへ行って、そして優しさに出逢う。過去を捨てて、優しさと寛容を獲得した人同士にしか聞こえない音がある。互いの音が聞こえれば、過去を捨てた人「たち」になる。「52ヘルツのクジラ」は「52ヘルツのクジラたち」になるのだ。