三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「52ヘルツのクジラたち」

2024年03月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「52ヘルツのクジラたち」を観た。
映画『52ヘルツのクジラたち』公式サイト

映画『52ヘルツのクジラたち』公式サイト

2021年本屋大賞受賞 圧巻の傑作ベストセラー小説 待望の映画化

映画『52ヘルツのクジラたち』公式サイト

 タイトルは「52ヘルツのクジラたち」だが、作品中に出てくる台詞は「52ヘルツのクジラ」である。タイトルだけ、語尾に「たち」がつくところに、本作品を読み取るポイントがあると思う。
 
 成島出監督の作品は、割と鑑賞している。新しい順で列記すると、こんな感じだ。
「銀河鉄道の父」
「ファミリア」
「いのちの停車場」
「グッドバイ嘘からはじまる人生喜劇」
「ちょっと今から仕事やめてくる」
「ソロモンの偽証」(前編、後編)
「ふしぎな岬の物語」
「八日目の蝉」
「山本五十六」
 
 こうして並べてみると、テーマは様々だが、一貫して人生の本当の姿を描こうとしていることがわかる。
 
 本作品のテーマは盛り沢山で、ジェンダー、DV、ネグレクト、介護、閉鎖的コミュニティなど、多岐にわたる。登場人物の誰もが、言葉をオブラートに包むことなく、直接的な言葉選びと言い方をする。そのせいで人を傷つけることもあれば、救うこともある。
 日常生活では、人は悪意を隠したり、善意を遠慮したりするから、本当のことは見えにくいが、そこは映画だ。わかりやすくストレートに表現する。真飛聖も西野七瀬も宮沢氷魚も、演じにくい役柄を懸命に演じていた。
 受け止める側はもっと大変で、日常では滅多に受けることがない暴力や暴言を受けた人間の、本当の気持ちを表現しなければならない。杉咲花は苦労したと思うが、見事な演技に昇華させている。
 
 主人公が復讐しないのがいい。復讐するのではなくて、逃げる。逃げていいのだ。逃げるのは恥だという考え方は全体主義で、他人を特定の価値観で束縛する。組織のため、家族のために尽くさなければならないという全体主義そのものの価値観が、未だに大手を振ってまかり通っている。しかしブラックな状況からは、逃げていいし、逃げる権利がある。
 江戸時代の百姓一揆は日本史で習ったが、逃散(ちょうさん)も行なわれていた。地域の百姓が示し合わせて一斉に逃げることである。ブラック企業の社員が一斉に退職するのも逃散の一種と考えていい。ブラック企業が倒産すると、一定の教訓になる。
 
 被害者が加害者を恨むのは当然の心理だ。被害者の遺族が加害者に極刑を望むのは、同じ加害を繰り返させないのと、自分たちが同じ被害に遭わないようにという、言ってみれば恐怖心が原因のところもある。死んでほしいのではなくて、いなくなってほしいのだ。そういう心理も、ある意味で逃げることに通じるが、他人を自分の望むとおりにしようというところに無理がある。
 それよりは、加害者から逃げるほうがスマートだ。逃げるよりも捨てるという言い方のほうが現実に即しているかもしれない。家を捨て、家族を捨て、故郷を捨てる。昭和の歌謡曲の歌詞みたいだ。昭和の歌謡曲には、過去を捨てるという意味の「重いコートを脱いで」という歌詞も散見される。いまよりもずっと社会や組織の束縛が強かった昭和でも、何もかも捨てて逃げ出したい気持ちが社会に充満していたわけだ。永六輔が作詞した「遠くへ行きたい」という歌もあった。
 
 誰も、暗い過去を背負い続ける義理はない。本作品は、過去を捨てて未来に生きる物語だとも言える。家族を捨て、愛人を捨てたキナコ、故郷の自分を捨てたアンさん、DVの母親を捨てた子供。
 逃げたと非難する全体主義者など無視して、自分に合った未来を選択することは、少しも恥ずかしいことではない。逃げて、遠くへ行って、そして優しさに出逢う。過去を捨てて、優しさと寛容を獲得した人同士にしか聞こえない音がある。互いの音が聞こえれば、過去を捨てた人「たち」になる。「52ヘルツのクジラ」は「52ヘルツのクジラたち」になるのだ。

映画「ポーカー・フェイス」

2024年03月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ポーカー・フェイス」を観た。
『ポーカー・フェイス 裏切りのカード』公式

『ポーカー・フェイス 裏切りのカード』公式

『ポーカー・フェイス 裏切りのカード』公式

 1豪ドルはだいたい100円だから、500万ドルは5億円だ。5000万ドルは50億円。ちなみにロールスロイスは5000万円、高級ベンツは2000万円。このあたりの数字を頭に入れておけば、戸惑うことなく鑑賞できる。

 ラッセル・クロウは「アオラレ」のあおり運転男みたいに痛みに強くて力に満ちた化け物みたいな役を演じることもあるが、たいていは渋くて落ち着いて貫禄のある役が多い。「ヴァチカンのエクソシスト」のアモルト神父ははまり役だった。
 本作品も同じ路線で、悪友ともいうべき幼馴染たちに対するもやもやした気持ちを、最期にスッキリさせるために舞台を用意するが、真相を知られないために無表情を貫くところに、大人の男の覚悟のようなものがある。タイトルの「ポーカー・フェイス」はそういう意味だと思う。

 ポーカーというと、5枚のカードが配られて、一旦ベット、それから手札を交換して2回目のベットをして、コールが成立すると手札を見せあって役の優劣で勝負が決まるというのが一般的なイメージだが、そのスタイルは今はあまり流行っておらず、本作品で紹介されたような、2枚の手札と3枚のオープン状態の共通カードからベットが始まって、オープンカードを1枚増やして2回目のベット。勝負が成立すると、最後のオープンカードを配って、役の優劣で勝負を決めるというタイプのポーカーが主流になっている。
 駆け引きが面白いので、本作品でももうちょっとポーカーのシーンが長くてよかった気がするが、ルールを知らない人には何のことかわからないというデメリットもあるから、本作品くらいの長さが限界かもしれない。

 ギャンブルの映画化と思って鑑賞したら、蓋を開けてみると、終活を絡めたアクション作品だったのには少し驚いたが、最後まで観ると、ラッセル・クロウ監督の世界観がわかってくる。それは、男の優しさだ。レイモンド・チャンドラーは小説の中で主人公のフィリップ・マーロウに「男はタフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」と言わせた。それと同じ世界観を本作品に感じた。悪くないと思う。